Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

″永遠″に触れること 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
2  話は変りますが、北京から武漢へ列車でお向いになったそうですが、私もまた二十年ほど前に、やはり作家代表団の一員として、招かれて中国に渡り、列車で広州から武漢を経て北京に向ったことがあります。池田さんの場合とは逆のコースをとったわけであります。
 その折、私もまた大陸の大きさというものを知り、武漢長江大橋を渡って大揚子江の流れというものを初めて眼に収めました。
 長江の流れは季節、季節で、その大きい流れの表情を変えると言われておりますが、私がその岸に立った時は、黄土の移動というか、エネルギーの移動というか、そのような壮んなものとして眼に映りました。しかし、その大きい流れの岸で、何人かの女の人たちが甕を洗っている姿を発見した時、長江の流れは少しく異ったものとして眼に映って来ました。太古から流れ続けている大河の畔りで、小さい人間の生活は太古から少しも変ることなく、今日もまた営まれている、そんな感慨がありました。こうなると、揚子江の流れは悠久な何かでした。同じ黄土の流れではありますが、単なる黄土の流れとしてだけは見ることができなくなりました。その流れが太古から続いているように、人間の営みもまた、その岸で大古から続いているのであります。
3  ――揚子江の岸で、手を赤くして甕を洗っている女たちを見た。私もまたそのようなところで、そのようにして私の文字を書きたい。
4  これはその時の私の感懐であります。私は一人の文学の徒として、いつでも永遠に触れたところで仕事をしていたい気持でおります。そして永遠を信じ、人間を信じ、人間が造る社会を信じ、中国の女の人たちが手を赤くして甕を洗っていたように、私もまた手を赤くして自分の文章を綴りたい、そんな思いに時に揺られております。
 このお手紙の筆を執っている書斎の窓から庭の一部が見えております。さして広い庭ではありませんが、それでもつつじが咲き、牡丹が咲き、山吹が咲き、小手毬が白い花を着けています。そしてそうしたものを雑木の緑が上から押し包んでいます。風が強いので緑はざわめいています。むんむんした緑のエネルギーが揺れ動いている感じです。
 余談になりますが、私は五月という月が好きです。私は五月六日生れでもありますので、自分の生れ月である五月をいい月だと思っております。幼い時からそう思い込まされて育って来ましたので、いまでもそういう思いを消すことはできません。五月山、五月闇、五月雨、五月晴、――五月の山はむんむんしたエネルギーに溢れ、闇は深々とし、雨は雨でひたむきな降り方で降ります。五月晴はあくまで爽やかで、鯉のぼりが泳ぎます。
 私の子供や孫たちはそれぞれ異った生れ月を持っていますが、私は子供や孫たちに自分の生れ月に他のどの月も持たないいい点を見付け、それを誇りとして持つべきであると言っております。私の生れた五月が特によかろう筈はありません。いかなる月でもいい点を探せば、いくらでも探し出されて来ます。
 私が五月の自慢をしますと、大抵の人が笑いますが、しかし、こういうことは案外大切なことではないかと考えます。自分の生れた国に対する考え方も同じようなものであります。日本に生れた以上、日本という国のいい点を見付け、それを誇りとし、それを守るべきだと思います。最近、時に日本の文化や歴史を否定的に見る言説を新聞や雑誌で見かけます。今朝もそのような文章の一つが眼に触れましたので、ついこのようなことに筆が滑ってしまいました。
 甚だ意をつくさぬお手紙になりましたことをお詫びいたします。近くまたヨーロッパの方にお旅立ちと伺っています。くれぐれも御自愛専一のほど念じつつ、筆をくことに致します。
 一九七五年五月四日

1
2