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日蓮大聖人・池田大作

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友好そして師と弟子 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
2  この折の対話のなかで、殿下が大国の干渉・圧迫と断乎戦い続けてきた体験を語り、「私は闘争には慣れている。どんな困難も私を疲れさせることはできない」と不屈の信念を吐露された時、毅然として迫力に満ちた、優れた一人の指導者を私は見ました。一人の人間の精魂こめた闘いと、その裏に秘められた人の世の悲哀といったものが、瞬間、私の脳裏にはしったのです。民衆は嵐のような歓呼をもって、やがて殿下を迎えるにちがいない。しかし、今、私の胸に去来するのは、あの静寂に満ちた接待室のなかで、ひとリアンコール・ワットの絵に母を想う人の姿であります。
 シアヌーク殿下は、終始、微笑をたたえて話をされていました。民族自立への滔々たる歴史の奔流のなかで、あの神秘のクメールの微笑が、今や自信と衿持とをともなって、蘇ってきたような活々とした微笑です。歳月の変遷にも、歴史の転変にも、ついに消滅することなく、じっと民族の心の奥底で永らえたもの――それが辛苦の時、艱難の季節に、民族の生命に点火され、今、新たなエネルギーとなって噴出し、民族の存在を輝かせたように思われました。
 私はいつの日か来るであろう、殿下との再会に思いを馳せました。その時は、政治の中心地プノンペンではなく、民族の歴史と文化を秘めたアンコール・ワットでの再会でありたいと願いました。私は、世界の一庶民として、殿下もカンボジア生まれの世界の一人物として、友として人生を語り合えたらと思います。これこそ、いずこにあろうと、私のつねに希っている心情であることは言うまでもありません。
3  ところで、今回は、初めて武漢を訪れました。北京から列車で十七時間の旅程でしたが、あらためて中国大陸の広大さが実感されました。窓外の光景は、どこまで行ってもほとんど変化がなく、赤土が地平線の彼方まで拡がっているばかりです。武漢は″落雀らくじゃくの都″――雀も落ちるほど、夏は厳しい暑さに見舞われることから、そう名付けられているそうですが、むろん今はまだ雀が落ちるほどではありませんでした。
 武漢訪問の公式目的は、武漢大学へ贈ったささやかな日本語書籍の贈呈式に出席するためでしたが、実はもう一つ、私にはひそかな愉しみがありました。それは私の中国の友人の一人である、武漢大学の日本語教師をされている呉月娥ごげつが女史との再会です。
 呉女史は昨年四月に来日し、しばらく日本に滞在しておられたのですが、女史と私との出会いには、実は、こんな機縁があったのです。――ちょうど二年前、武漢大学を訪れた日中友好学生訪中団員の中に創価大学の学生がおりました。その折その学生と呉女史は相識り、その縁から、女史はその後、来日して、創価大学を訪問されました。その際、私は三度ほどお目にかかり、ともに食事をしたり、卓球に興じたり、ピアノを弾いたりという、心愉しい一刻を持った友人となりました。
 それからほぼ半歳余を経ての今度の再会です。武漢大学へ到着すると、数多くの学生が私たち一行を迎えてくれました。最前列には、呉女史が、三人のお子さんを連れて立っていました。私たちは、互いに駈け寄って握手しましたが、その瞬間、私は、久闊きゅうかつのなごむ思いを覚えました。
 呉先生は、溌剌として、明るい、そして気さくな女性ですが、呉月娥女史と一人の日本人学生との触れ合いから始まった、このような中国と日本の友情の交流は、現代において、私には非常に貴重なもののように思えてなりません。なぜなら、一人ひとりの人間同士の自然な接触が積み重なり、それがあたかも山頂を支える広い裾野のようになって、はじめて国と国との真実の友好の山頂が確立されるものであると、私は信じているからです。いわば、一人と一人との交流の背後には、それぞれ異なる国の民衆の大海があり、その細い無数の交流が互いの海水を注ぎあって、はじめて友好の海となる。その集流の一滴一滴を、私は尊びたいのです。
4  それにつけても想い出すのは、かつて中国の一留学生であった魯迅と、その師である藤野先生の場合です。――仙台の医学専門学校へ入学した、ただ一人の中国人医学生として、言葉のハンデイキヤツプもあり、また必ずしも温かいとは言えない周囲の環境の中で、魯迅が、どんなに孤独に耐えていたか。そして、ある時、解剖学の藤野先生に呼ばれた魯迅が、それ以降、毎週筆記ノートを持ってくるように言われ、それに一々朱筆の添削をされた時、彼がいかに藤野先生からの励ましを感動をもって受けとめたことか。それは、魯迅の生涯にわたって胸に消えぬ灯でした。
 孤独な一人の留学生と無名の一教師との間に交された、さりげない、温かくまた誠実な人間的触れ合いは、私のねがう交流の原型です。それらのことを、小説「藤野先生」は語ってくれています。そして、革命的作家魯迅の名とともに、日本の藤野先生の名もまた、敬愛の念をもって人々の思い出に残りました。
5  いささか飛躍した話になりますが、革命とか変革とかいうものの根底にも、実は人間としての交流が不可欠の要素になっている、と私は思うのです。それは同志愛と呼んでも、友情と呼んでもいいでしょうが、革命も強靭な人間の意志の実践である以上、人を動かすに足る深い交流がなければなりません。
 革命という歴史の転換のドラマの背後には、古来、同志愛とか友情とかが美しく語られています。同じ目的意識、共通の使命感のもとに集ったという連帯感から生ずる運命的な深い交感が、その奥底に固く結ばれているにちがいない。この交感の極まるところに、歴史の機軸を変える変革へのエネルギーが爆発するのでありましょう。しかし、この交感が破綻した時、一切は荒廃します。変革を成就したあとによくあるように、裏切りという、友情や同志愛の喪失は、世にもあらぬ地獄を現出します。
 交流による交感は、人間のもつ永遠の尊貴さに基礎をおかない限り、永遠の友好は確立されないと信じます。これは仏法者としての私の信念でありますが、人間の存在を現世だけのものとせず、過去、現在、未来と三世に亘る存在ととらえる時、人間として在ることの希有な価値と意義とに、おのずから眼が開かれるのではありますまいか。そのような自己の存在の本然を覚知した時、それはそのまま他人の存在をも同じく畏敬の念をもって見ることにつながるはずです。人間という存在が、現世という河の流れに浮かぶ飛沫のような偶然の産物であるととらえるところには、生命の深層で共鳴し合う触れ合いは生まれ難いと考えるのです。
 私は互いに向ける眼差しのなかに、そうした透明な光がある限り、その人間関係というものは信じ得ると思っています。現在の中国にも、なお動乱の続くアジアの情勢にも、政治的・社会的には今後まだ幾多の曲折があるにちがいありません。しかし、私はこれまでの出会いのなかで確かめ得た多くの人々の視線に、暗い濁りがほとんどないことを見ました。私は楽観的すぎるのでしょうか。
6  さらに、私の信ずるところでは、人間の触れ合いの究極の機軸は、師弟という関係にも求められると思います。今日、師弟と言いますと、直ちに学校における教師と生徒というごく限られた意味にしか考えられていませんが、私はもっと幅広く、人生という人間の営みのすべての場面にわたって考えるべきだと思います。権威で結ばれた師弟は、儒教思想によるたんなる礼節に堕しており、形骸化した過去の遺物となっているのが現実です。人生は、そうした師弟の枠よりはるかに広く豊かなものです。友好という触れ合いも、この広い師弟の関係を意識する時、最も理想的な形になるように思われてなりません。
 つまり、お互いに師であると共に弟子であるといった、深い人間関係への洞察をもって人間の触れ合いがなされる時、友好は最も実り豊かなものになるように思うのです。すべての面で師であるという人はなく、すべての面で弟子として学ばねばならぬという人もないはずです。ここに、相互に師であると同時に弟子である、という人間関係の無意識の姿が、浮かび上がってきます。
 ともあれ私自身、今、イデオロギーや政治体制の相違を超えて、多くの人々に接し、語り、人間としての触れ合いを持つことに、大きな意義と、また深い喜びとを見出しているのは、ただただ、この本来の人間関係にもとづく友情による交流こそが、激動する世界に平和の人を点ずる端緒であると固く信じているからであります。もちろん、それはあくまで端緒であり、ささやかな発火点にすぎないかも知れません。しかし、粘りづよく人間の絆をつくる以外に、行き詰まったこの人間の世界に、何らかの価値あるものを生み出す方途があると考えられないのです。
 この四月、創価大学に中国の留学生六人を迎えました。この六人の学生たちとの若々しい交流が、そうした永続の出会いの一つ一つになることを、私は期待しています。
 今、この手紙を書いている机の傍らに、ちょうど読みさしの杜甫の詩があります。「茅屋 秋風の破る所と為る歌」の個所です。その終わりに、
  自経喪乱少睡眠    (喪乱そうらんを経てより睡眠少なきに)
  長夜沾湿何由徹    (長夜 沾湿しては何に由りてか徹せん)
  安得広厦千万間    (いずくんぞ広厦こうかの千万間なるを得て)
  大庇天下寒士倶歓顔  (大いに天下の寒士をおおいて倶に歓ばしき顔せん)
  風雨不動安如山    (風雨にも動かず 安きことは山の如し)
  鳴呼何時眼前突兀見此屋(鳴呼 何の時か眼前に突兀とつこつとして此の屋を見ば)
  吾慮独破受凍死亦足  (吾がいおりは独り破れて凍死を受くとも亦た足れり)
 とあります。感慨あらたなるを覚える次第です。
7  武漢を訪れる途次、私は長江の流れを見ました。千六百メートルにも及ぶ武漢長江大橋の眺めも壮大でしたが、私にはむしろその下を流れる長江の、悠久というか、渺茫びょうぼうと形容したらいいのか、とにかく巨大な人間の歴史のドラマを秘めた大きさに、打たれずにはいられませんでした。そして、ふと、この杜甫の詩の断片を思い起こしたのです。
 武漢大学では呉先生の教え子である日本語科の学生たちが、「赤とんぼ」を歌ってくれました。別れの時、記念の刺繍を贈られましたが、それは彼女の教え子たちが作ってくれた手作りのものです。それを机の傍らにみて、思いつくままにこの手紙を書きつらねてきました。
 取りとめもない話になってしまって恐縮ですが、帰国後の忽忙そうぼううちに、先生への書信を認めることは、実に心愉しいことでした。乱文乱筆は御海容かいよう下さい。
 五月に訪中されるとのことですが、先生の御健康と、一路の愉しからんことを祈りつつ。
 一九七五年四月二十八日

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