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日蓮大聖人・池田大作

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第八章 時代と社会と読者がつ…  

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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1  子どもは“時代をうつす鏡”――『神州天馬侠』の世界
 ――これで「吉川英治人と世界」の最終回となります。どうかよろしくお願いします。
 池田 早いものですね(笑い)。どうしても思索の時間の余裕も少ない。また、数多くの吉川氏の作品のなかから、青春時代に心に残った断片的な部分からの焦点のあて方となり、もう一度じっくり読み返せれば、もっと全体観のうえから深めていけると思っておりますが……。
 土井 私自身、この対談のおかげで「人間と文学」を考える新たな視点を勉強させていただき、教鞭をとるうえで、大いに活かしていきたいと思います。
 池田 そうそう、土井先生も教授になられるそうで、おめでとう。
 秋には中国へ研究に赴任されるし、頑張ってください。期待しています。
 土井 ありがとうございます。
 ――それにしても最近は、庶民を愚弄する世の中の動きばかり目に映ります。
 戦後、吉川氏が“乱世の世相現象”と指摘した状況は何も変わっていない……。
 池田 まったくそのとおりです。
 歴史が残した宿題は今なお続いている。否、ますます闇が深くなっている。
 土井 吉川氏は青年期、政治家が「非常に嫌いであった」(爆笑)と書いています。
 ある旅館で頭上に掛かっている政治家の揮毫が、癪にさわって寝つけない。(笑い)そこで思わず足を向けて寝たという思い出話もありましたが。(大笑い)
 池田 それは若さゆえであったとも言っている(笑い)。しかし、それ以上に今は、若い人たちが、現実の社会に対して期待をいだけなくなっている。
 目先の利害のみで、十年先、二十年先を見つめ、長期的視野で行動する指導者があまりにも少ない。
 ――青年たちの心は鋭敏ですからね。
 何だか最近、「大いに健康」派が、若い世代ほど急減しているなどという調査もありました(笑い)。社会のどんよりとした雲が、少年少女たちにも影をおとしている。
 池田 吉川氏は“子どもたちにあの可愛らしいえくぼがなくなってしまった。何か時代の象徴であろう”(全集52)と書いていましたが(笑い)、青少年の心情を大切にした作家でしたね。
 大正から昭和にかけて少年たちを魅了した『神州天馬侠』の誕生の陰にも、一つのエピソードがあります。
 ある少年雑誌の編集長が吉川氏に、必死に原稿の依頼をする。しかし、準備が間に合わないと断ります。そして“筋ができていなくとも書き始められるのは、大人のもので(笑い)、子どものものは、それではいけない。私は子どものものはこわいんだよ”(松本昭『吉川英治人と作品』講談社)と。
 そして慎重に考えた末に、氏は一カ月後、『神州天馬侠』の連載を始めている。
 少年の心には本物の仕事で応えたい、との思いからだったのでしょう。
 土井 吉川氏は新聞記者時代、付録に童話を執筆されていましたし、初期の作品には、この『神州天馬侠』のほか、『左近右近』『天兵童子』など数多くの少年文学作品を手がけています。
 池田 子どもの生命ほど正直なものはない。それはまた無限の可能性を秘めている。
 吉川氏はその感慨を春の“木の芽どき”の情景に寄せてつづっています。“ひと朝ごとに土壌の植物が芽を伸ばし山の色まで変化していく。なかでも目をひくのが、若竹へとぐんぐん育っていくタケノコである”“そのタケノコ以上に伸びていく新鮮な生命群のなかにいると、自分の古びた生命さえ、何か生々たるものを注ぎこまれた心地がする”(全集52)
 これは、お子さんの中学校の入学式に出席された時の言葉です。
 土井 「生涯成長」の作家・吉川氏らしいですね。
 池田 若い人との交流こそ、生命のみずみずしさの源泉となる。
 子どもは“時代をうつす鏡”であり、何よりも“社会の宝”です。吉川氏の作品には、ワンパクな子たちを笑顔で見守る温かさと大らかさがある。
 先の『神州天馬侠』の序には「少年の日の夢は、痩せさせてはいけない。少年の日の自然な空想は、いわば少年の花園だ。昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである」(全集49)と。こういう言葉を自信をもって言いきれる人は、少なくなってしまった。
 土井 あるレコード会社が、医師の協力を得て、お年寄り向けのボケ予防のテープを作ったそうです。冒頭に通学の途中の子どもたちの声が入っていて、大好評だったと聞きました。(笑い)
 子どもの声が、お年寄りにとっては何よりも力強く、生きる力を与えるものであるということでしょうか。
 ――池田先生も青年時代、少年雑誌の編集をされましたね。
 池田 昭和二十四年(一九四九年)、二十一歳のころです。戸田先生が経営されていた日本正学館で、『冒険少年』『少年日本』の編集長をやりました。暗い時代でしたし、何とか少年少女たちに夢と希望をと必死に働きました。
 ――先生の「若き日の日記」に、当時のことがこうつづられていました。
 「未来に伸びゆく少年。春の如く快活な動作。秋空の如く、澄んだ瞳。曠野の如く限りない希望。純情な少年は尊い。未来の、次代の社会の建設者なれば、日本の宝と思わねばならぬ。(中略)少年よ、日本の少年よ。世界の少年達よ。願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇敢であれ、天使の如くあれ」(本全集第36巻収録)と。
 池田 子どもの“子”という字には、“いつくしむ”という意味もある。ですから、幼子のすこやかな成長を、無償で願う生命本然の発露が“子”という字に託されている気が、私はします。
 文学のもつすばらしさの一つは、こうした生命への微妙にして敬虔な感覚を呼び起こしてくれることです。
2  庶民の生活の場に知恵は生まれる
 ――吉川氏の作品は、“国民文学”と言われるほど、子どもからお年寄りまで幅広い層に愛されてきました。
 それも、平凡のようで、そのなかに読者の琴線に響くものがあるからではないでしょうか。
 土井 たしかに、吉川氏は、身近な生活の中に、人間の輝きを見いだし、小説の場面場面に描きこんでいます。
 たとえば、『宮本武蔵』のなかで、武蔵が弟子の少年・伊織に『源平盛衰記』などの物語を話して聞かせる、ほのぼのとした場面があります。
 ――武蔵は鍬を持つなかにも剣の修行はあるはずだと、広漠な大地を伊織とともに開墾し始める。
 だが来る日も来る日も外は雨。やむなく伊織は、武蔵に『論語』を教えてもらうことになる――いわゆる下総の“法典ヶ原”の開墾の一場面です。
 池田 いい場面ですね。ある日の武蔵は、“あまり書物に囚われて書物の虫になってしまうと、生きた文字も見えなくなり、社会にもかえって暗い人間になる。だから今日は、暢気に遊べ”(全集17)と寝ころびながら語り聞かせる。
 なにげない触れ合いですが、こうした思い出が子ども心には深く刻まれていく。
 教育者としての武蔵の、厳しさだけではないもう一つの側面を、吉川氏は巧みに描いています。
 土井 プラトンの学園であったアカデメイアではありませんが、大自然のもと、その大きな力を感じながらの対話はすばらしい教育となる。そんなふうにもとれますね。
 ――自然の中での教育は吉川氏自身の教育方針でもありました。氏はお子さんたちを「田舎で芋の子のように育てたい」(吉川英明『父吉川英治』文化出版局)と言われていた(笑い)。青梅の吉野村へ移られたのもそうした思いがあったようです。
 池田 戸田先生とまったく同じですね(笑い)。先生も、子どもは「土を踏ませないと生命力がおちる」とよく言われていた。
 また、知識のみではなく、教育は、長い人生を生き生きと生きぬいていく力を育むことが大切であると。
 ところでこの開墾では、武蔵自身も一歩境地を開いていく。みずからの成長なくして、人を育てることはできません。
 防いでも防いでも耕地は濁流に流されてしまう。さすがの武蔵も考えこんでしまう。
 そんな時、武蔵は大きな発見をする。それは、短いが含蓄の深い述懐となっている。
 「きょうまでおれは、土や水へ対して、烏滸がましくも、政治をする気で、自分の経策に依って、水をうごかし、土を拓こうとしていた」(全集17)
 「――間違いだった! 水には水の性格がある。土には土の本則がある。――その物質と性格に、素直に従いて、おれは水の従僕、土の保護者であればいいのだ。――」(全集17)
 そのことに気づいた武蔵は、自然に従った開墾法で、みごと濁流対策に成功する。
 土井 これは、現代への一つの警告にもなってますね。
 ――かつて松下幸之助氏は、みずからの経営学を、「雨が降れば傘をさす」と。つまり、自然体ということでしょうか、決して無理して自分の我をとおさない。
 これも、武蔵の言葉に一脈通じるものがあると思います。
 池田 もう二十年以上前の五月、五千人の方との記念撮影があり、熊本の大津を訪れました。その折、武蔵塚と呼ばれる武蔵の墓の側を通った記憶があります。
 武蔵が死をまえにつづったと伝えられる言葉の一つに、「身をあさく思、世をふかく思ふ」(渡辺一郎校注『五輪書』岩波文庫)とあります。
 農耕ひとつとっても、人々が大自然に学び、調和し合いながら積み重ねてきた英知の結晶です。この言葉には、そうして営まれている社会に対して謙虚に襟を正そうとする生き方が感じられます。
 ともあれ、庶民の生活の場にこそ、知恵は限りなく生まれる。庶民を無視した生き方は、かならず行き詰まるものです。
 土井 自然の猛威だけでなく、強盗団と戦う痛快な場面もありますね。武蔵は、なすがままに蹂躙されていた村人たちに団結の力を教える。
 村人たちは、自分で自分の村を守りぬく気概と強さをもつようになります。
 池田 いつの時代もこういうところがいちばん受ける(大笑い)。しかし悪い人間というのは、こちらが弱いといくらでもおもしろがって攻めてくることも示唆しています。
 ――黒沢明監督の、映画「七人の侍」にも、強盗団と戦う村人と、それを指導する侍を描いていましたが……。
 池田 また、はじめは武蔵の開墾を冷ややかに見ていた村人たちも、武蔵のもとに集まり、ともに心を合わせ、荒地を拓いていきます。
 その結果、翌年の初夏には、みごとに青々とした稲や麻、麦などが、風にそよぐほどになる。
 「鍬も剣なり剣も鍬なり」(全集17)――。
 この武蔵の言葉は、剣だけではない、日々の生活それ自体が、自己完成への道場になるという“開眼”であったわけです。
 一道を徹して究め、自分という人間を深く掘り下げていく。それは、小さなエゴをつきぬけ、わが胸中の世界を限りなく広げていくことである。
 この人生を勝って勝ちぬいて、そして、だれにも侵されない“魂の王国”を築き上げていきたい。ここに人生の達人の真骨頂があった、と私は見たい。
 土井 息子さんは、父の吉川氏のなかに武蔵を見たと記していますね。
 それは、『新・平家物語』を執筆中、氏の背中にヨウ(癰)――おできができた。
 悪くすると命にもかかわると言われたこの病気を、氏はうんうんうなりながらも、まわりの心配をよそに、ついに手術せずに自力で治してしまう。
 その姿がまるで、吉岡清十郎との試合をまえにした武蔵に似ているというのです。
 ふとしたことで武蔵は、釘を踏みぬいて足が膿んでしまい、歩けない。しかし自分にムチ打ち「この敵にすら克てないで、吉岡一門に勝てるか」と、眼前にそびえる鷲ヶ嶽に挑む。激しい闘志で登りきって、足のケガを克服する。この姿を父・吉川英治は地でいった、と。(前掲『父吉川英治』)
 池田 先日、中国話劇(現代劇)を代表する『茶館』の名演技で名高い英若誠文化部副部長とお会いしたさい、悪役を演じる秘訣についてうかがった。(笑い)
 氏は即座に一言、“演じるのではなく、成りきることですよ”と答えられた。(笑い)これは、今のお話にも相通じるものでしょう。
 ――『新書太閤記』で、謀反をまえに悶々とする明智光秀を描いた折には、吉川氏自身、原因不明の動悸や不眠等に悩まされたというエピソードもありましたが。
 土井 吉川氏の作品はおもしろいストーリー運びのなかに、何か身につまされるものを強く感じますね。読者もいつしか、自分が、武蔵や秀吉になった気になります。(笑い)
 池田 というのも吉川氏は、英雄たちのごく身近なエピソードをふんだんに織りこみ、そのなかに、歴史を解くカギを秘め、人生のドラマを浮き彫りにしている。
 だからこそ、読者は物語の世界に入りこんで生きる瞬間をもちながら、社会と人間への新しい目を養う追体験ができるのでしょう。
3  対話は生きた人間学
 ――さて吉川氏の生まれは明治二十五年(一八九二年)ですから今年は、それからじつに、ほぼ百年、亡くなられてからも約三十年になります。
 土井 “昭和の国民文学”たる吉川文学は、平成年間にはどのように読み継がれていくでしょうか。個人としてもたいへんに興味があるところです。
 池田 そうですね。文学に限らず、百年先、二百年先にいかなる精神的遺産を残せるか――恩師も、それこそが一切の勝負である、とつねづね言われておりました。
 土井 そこで、息の長い文学といえば、アフリカ口承文学も、文字どおり、世代を超えて、親から子へ、庶民の口から口へ、と語り継がれた生きた文学ですね。
 私の後輩の教員が今、ケニアのナイロビ大学へ創価大学からの派遣教員として行っていますが、口承文学は、暮らしのなかに深く広く根づいているようです。
 ――池田先生は、「第一回ケニア口承文学賞」を受賞されましたね。小説『人間革命』やトインビー博士との対談などの作品に対する評価であったようですが。
 池田 過日、大喪の礼に出席された、ケニアのモイ大統領(ナイロビ大学総長)にお会いしたさいにも、御礼を申し上げました。アフリカの大地は、口承による文学のすばらしき宝庫です。
 大統領は、ある本のなかで、「アフリカの固有の伝統文学は口承文学にあり、それは世界最古の歴史を伝えるもので、しかも、世界に誇れる文学である」と語っていました。
 ――どういう特長が……。
 池田 私が感銘するのは、アフリカの口承文学は、対話の文学であり、一つの分野というよりは、生活と密着した、人々の心の交流の結晶であるという点です。
 ケニアのルオ人の社会では、だんろの火を囲んで、おばあちゃんが子どもたちに語るそうです。その語りには、歌あり、振り付け(笑い)ありで、まさに、劇を見ているようだと。
 土井 生活の知恵や伝統の生き字引たる老人たちは、相談相手として、とりわけ大切にされてきたといいますね。
 ――そういえば、吉川氏も子どものころ、母親が針仕事をしながら語る物語に、小さな胸をいっぱいにしながら聞きいっていたそうです。
 池田 対話は、生きた人間学を学ぶ方途である。相手を理解する心も、深き愛情も豊かに育んでくれる。
 ナイジェリアのハウサ人の社会では、夕食後のひととき、地域で“ヒーラー”というおしゃべりの場をもって、政治をはじめ、何でも語り合うといいます。
 ともすると、一方通行の情報に甘んじてしまう日本には耳が痛い。(笑い)
 土井 地味なようですが、庶民のなかに開かれた対話・座談の流れが絶えないことは、社会の健康度のバロメーターになるのではないでしょうか。
 ――あるご婦人の読者からの声に、次のようなものがありました。
 その方は、この対談を読み、吉川氏の『三国志』の読了を思い立ち、読みすすめながら、二人のお子さんに、一つ一つの場面を語ってきかせてあげたそうです。お子さんは、お母さんの話に興味をもち、自分も『三国志』を読み始めたということでした。
 池田 うれしいことです。
 文学は、決して難解な文字の世界にのみ閉ざされたものではない。むしろ広々とした“語りの場”でこそ、本来の闊達さが発揮されるのではないでしょうか。
4  理想郷としての“梁山泊”――『新・水滸伝』の世界
 ――“語り”といえば、吉川氏の『新・水滸伝』は、『三国志』とともに、中国の民衆のなかで語り継がれた原典をもとにしたものです。
 池田 そう。ある学者の方が、『新・水滸伝』のよさは“語り口のうまさ”にあると書かれていた。長い年月を超えて人々のなかで語り継がれた古典『水滸伝』の“語り”の魅力をよみがえらせ、その精髄を引き継いでいると。
 土井 吉川氏が『新・水滸伝』を執筆されたのは、『私本太平記』とほぼ同じ時期にあたります。氏が、慶応病院に入院するその日の午前中、『新・水滸伝』の最後となった原稿を書きあげ、それを持って午後、病院に来られたといいます。(全集46)
 池田 それだけ深い思いがあったのでしょう。氏は敗戦という怒涛をこえ、『新・平家』では、麻鳥の姿に託して、一人の庶民の“人生の勝利”を描き、『私本太平記』では、権力人が滅び去ったあとの舞台に、民衆を“文化の主役”として登場させた。そして、『新・水滸伝』では、悪の権力との戦いの果てに、梁山泊という“民衆の王国”を築いていく。そこには、一貫した思索のあとが読みとれるように思う。
 ――吉川氏は、『新・平家』を書いていたころから、“いつかは自分なりの『水滸伝』を書きたい”(全集45)と語っていたといいますね。
 土井 『水滸伝』が、革命後の中国でも愛読されている話にふれながら、氏は、次のように述べています。
 「これ(=水滸伝)には何か、民衆の心と永遠な人間社会の相をつなぐ示唆が潜んでいるにちがいない。また東洋人の文明の起源や人間性のふるさとなども振返られて、逆に、科学社会の今日から、無限な興趣がおぼえられるのではあるまいか」と。
 池田 『水滸伝』も、戸田先生との勉強会の教材でした。昭和二十七年(一九五二年)から二十八年ごろで、当時はまだ、吉川氏の『新・水滸伝』は書かれていません。
 先生はいつも不幸な庶民の味方であり、何よりも実践の人であった。先生は、『水滸伝』を「革命小説として読みたい」「“革命精神”をどう汲みとっていくかがポイントだ」と語っていました。
 土井 『新・水滸伝』のなかに、戦いから帰る梁山泊の軍を村の人々が道に並んで、香を焚き、花を投げて、歓呼して迎える場面があります。
 新たに梁山泊に加わった一人の武将がそれを見て、次のように感嘆します。
 「かつては自分も、禁軍三万をひきつれて、征途のみちを、こうして行軍したものだが、まだいちども田野の郷民が、こんなに王軍へ歓呼するような景色に出会ったことはない……。これがまことの野の声というものか」(全集45)と。
 池田 ここは、自立の世界を憧憬する民衆の「心」を表しているようにもとれるところです。
 ――もともと盗賊団の逃げ場であった梁山泊が民衆の支持を得、かえって外の社会の“本当の悪”を際立たせていますね。(笑い)
 要するに一人殺せば極悪人、何万人も殺せば英雄なんですよね。
 土井 氏は、次のように語っています。
 「悪を悪と見なすなら、悪の密雲は、上層ほど濃い。上層ほど、大きい。しかも、政治にかくれ、権力にものをいわせ、公然と合理づけた悪を行なって、恥ずるを知らない」(全集44)
 吉川氏は『水滸伝』の舞台を借りながら、執筆当時の政治を衝いてますね。
 池田 言葉を換えれば、かの楽聖ベートーヴェンではないが、つまるところ、「今の時代にとって必要なのは、けちな狡い卑怯な乞食根性を人間の魂から払い落とすような剛毅な精神の人々である」(ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳、岩波文庫)。
 そういうリーダー像を、氏は待望していたのでしょう。
 そこで、『新・水滸伝』では梁山泊を一つの理想郷として描いている。“義をとうとび、世間へは仁愛をむねとし、非道のそしりや恨みを民衆にかわぬよう、そして、仲間の内は、古参新参のへだてなく、和と豪毅の結びで、一家のように生き愉しもう”――(全集45)。これが、水滸の人々の心意気であった。
 ――梁山泊が農耕をはじめとして、酪農、養蚕また、陶物を焼いたりという生活の場であったことも細かく描かれております。
 土井 優れた指導者論も展開されていますね。
 梁山泊の統領・宋江について、戸田先生は“彼は平凡ではあるが、人を知り、人を見抜く力を持っていた。だから、梁山泊の英雄たちから信頼を得ることができたのだ”(小説『人間革命』第七巻、「水滸の誓」)と語っておられたようですが。
 池田 そうです。またその先生も、じつに鋭く人物を見抜かれていた。先生が「気をつけろ」と言われた人物は三十年経った今、皆、そのとおりの軌跡になっています。
 そこで、宋江は梁山泊に新しい人間が加わる時、家族をいかに無事に泊内に連れてくるかにまで気を配っている。たしかに一家に病気の人はいないか、生活は心配ないか等々……。だれも気づかない細かいことにいつも気を配れれば、指導者として一人前である。恩師もそれを、厳しく言われておりました。
 土井 もともと、梁山泊の統領は王倫という人物でした。
 彼は嫉妬深い性格で、自分の地位に固執するあまり、少しでも自分より優れた人間が梁山泊に入ることを拒んでいました。
 ですから、梁山泊は無頼の徒のたまり場となってしまった。
 池田 逆に宋江には、優れた人物には統領の地位をかわってくれるよう頼むだけの度量があった。
 『新・水滸伝』のなかで吉川氏が宋江を、次のように書いています。
 “彼は漢を愛し、世を憂い、不遇な人間たちに、ふかく同情はしていたが、賊の仲間入りをしようなどとは、ゆめにも思っていなかった。官に仕えては、善吏と言われ、書を読み、身をおさめ、四隣の友や民衆に、愛情と誠をつくして、おだやかな人生を愉しまん、としていたのが、彼の人生目的であった”(全集44)と。
 平凡と言えば平凡な人生観である。しかし、その無欲さが彼の最大の強みであった。どこに本当の人物がいるか、わからないものです。
 人の心を真に動かすものは、人格の力しかない。
 敵軍のなかに、好人物を見つけると、梁山泊入りを説きにいくのもきまって宋江であった。彼の信念と慈愛の言は、人々の心を揺さぶっていく。
 土井 このような話も描かれています。梁山泊軍に敵将・彭玘(ほうき)が捕虜となる。
 宋江は捕虜であるにもかかわらず縄目を解き、礼をつくす。そして腐敗した、時の権力や悪役人の罪をただし、庶民の味方たらんとする志を切々と訴えます。
 そして、はじめは、“くそおもしろくない、早く斬れ”と聞く耳をもたなかった彭玘も、うわさとはかけ離れた梁山泊内の人々の暮らしや軍の規律を見て、すすんで梁山泊にとどまります。
 池田 しかも、今度は、彭玘が、ともに梁山泊をせめていた凌振、呼延灼等の同僚の将軍たちに、梁山泊の真実を語り、味方にしていく。すばらしい外交戦です。
 真実ほど、相手の心に強く響くものはない。またその真実を、指導者はだれよりも堂々と、言いきっていかなくてはならない。
 土井 残念ながら、吉川『水滸伝』は、百八人の豪傑がそろったところで絶筆となります。このあとは、吉川氏がもとにしたと言われる百二十回本の原典では、梁山泊軍はやがて権力に取りこまれてしまいます。
 池田 宋江は、悪徳の役人などとは戦うが、皇帝にはどこまでも忠義を貫こうとする。しかし、悪というのは底がない。佞臣たちはこうした宋江の心を利用し、たくみに取りこみ、さんざんに酷使する。
 彼の軍は次々に激しい戦にかり出され討ち死にして、百八人から二十七人にまで減ってしまう。そのうえ、残った宋江らも最後は毒殺である。庶民のための蜂起もついに巨大な権力に呑みこまれ、つぶされてしまうわけです。
 この変わらざる悲劇の歴史の教訓を語る時、恩師はまことに厳しい表情でした。
5  “庶民性”と“開明性”
 ――さて今まで、長時間にわたり、吉川氏の人物、作品の魅力を種々語り合っていただきましたが、この大衆文学の巨匠も若き日の出発においては、相当な迷いがあったようです。
 というのも、大衆文学というと、なにかしら文学的に低いと見られる。文学青年的な憧れをいだいていた氏は、ふんぎりがつかなかったといいます。
 土井 たしか、“大衆”ということを深く思索され、何年か経ったあと、“大衆作家”として船出されていますね。
 池田 上京し、本格的に文芸の道を歩むようになったのは、川柳からではないですか。
 川柳は、五・七・五の十七文字で、生活や人情の機微をユーモラスによむ。いわば庶民の文化です。
 このへんも、吉川文学の出発点は“生活の実感”と言われる所以でしょう。
 土井 そのころ下宿していたのは、東京の下町の浅草でしたね。
 そこには、“旧東京の庶民の暮らしがそっくりそのまま、残っていた”(全集46)。
 その生活体験が氏のかけがえのない財産になったのですね。
 池田 それから、開明性と国際性に富んだ町、横浜で少年期を送ったことも大いに意味があった。
 “庶民性”と“開明性”――ここに、吉川文学を育んだ揺籃があったのではないでしょうか。
 ――大衆文学は、浪花節、講談などの、いわば“庶民への語り”の文化を受け継いでいると言われます。
 吉川氏の文学が、そうした伝統を受け継ぎつつ、『平家物語』『太平記』また『三国志』といった古典を、現代に再発見したという功績は大きいですね。
 池田 『新・平家物語』を執筆のころ、小説がなぜ生まれるかについて、吉川氏は、“それは作家だけが生むのではない。編集者が生むのでもない。世間大衆が生んだともいえる”(全集39)と、語っている。小説は時代と社会と読者がつくっていく――これが自分の文学観である、と。
 ところで先ほどの口承文学においては、すべての人が主体者になるという。
 つまり、その語りの場では、語り手は聞き手の民衆から厳しい注文や反応も受ける。それで、内容を高める努力をつねに積み重ねざるを得ない。
 昔からの伝承や伝説だけではなく、今の時代の人々の要求や、社会の動きと深く関わりつつ、庶民との生きた対話の広場をもっているがゆえに、長く受け継がれてきていると見ることもできる。
 アフリカ初のノーベル賞作家ショインカ氏は、聖教新聞のインタビューに答えて「口承文学は文字文学のように固定したものではなく、時代のなかでつねに再生産されていくものである」(「聖教新聞」一九八七年九月三十日付)と語っていますが、これが大切ですね。
 土井 吉川氏はみずからの文学の特長の一つを、“時感”いわば“時代感覚”と言っていました。当然、これは、善にも悪にもつながっていくという点があります。つまり“民衆の支持も得やすいが、体制に流されやすい”側面です。とくに、あの戦時中の苦い教訓は忘れてはならないと思います。
 ただそれはそれとして吉川氏は「大衆文学に現れる社会相は、一般的傾向より、常に一歩ずつ早いといい得る」(全集52)と自負しています。
 池田 庶民感覚ほど、世の矛盾を鋭く感じとるものはない。庶民は、もっとも真実を見抜いている。ゆえに社会の動向を先取りし、人々が何を求め、何を考えているかをつねに察知する眼をもたねば、どんどん時代からとり残されてしまいます。
 戸田先生が大衆小説に注目されていた理由も、民衆の心、また時代にすばやく反応するものの強さを評価しておられたからだと思います。
 吉川氏は、次のように語っています。
 “生活の最前線に立って、実社会に働いている人こそ、本当の文学を体験した本当の時代人である。
 そして、そこからつねに学び、表現の労をとるのが本当の文筆の人である”(全集52)と。
 民衆に根ざし、民衆から学ぼうとするその謙虚な言葉に、冷たきペンの傲りはない。民衆の声を汲みとる熱意とセンスはやはり抜群でしたね。
 民衆とともに生きるとは、もっとも素直に自分を見つめることにほかならない。
 ――自分のことしか考えず、功名心のみで心がくるくる動くのは、一時、時流にのっても最後は自分で自分を壊していくだけである……。
 土井 これは、文学に限らず万般にわたり、もっとも大事なことだと思います。
 池田 平凡に思える人生であっても、それは、その人だけのかけがえのない、ドラマであり、歌であり、詩である。偉大な一編の文学作品とも言える。
 人はだれ人も、そのすばらしき価値をつくりながら、一生を飾りたいものだ。そのたしかな証とは、庶民という大地に根をはりながら、自分らしい花を咲かせ、実を結ぶことにちがいない。私はいよいよ、吉川氏が願った、庶民と庶民の強き連帯がつくる新しい時代が到来していると思っています。
 また、それ以外に道はない――。
 かつて、ソ連の作家ショーロホフ氏とお会いしたさい、氏が、「信念のない人はなにもできない。われわれはみなが“幸福の鍛冶屋”ですよ」と強く語っていたことを思い出します。
 土井 鍛冶屋とはおもしろいことを言いますね。(笑い)
 幸福は自分でたたきぬいてつくっていく、ということなのでしょうね。(大笑い)
 池田 “幸福の鍛冶屋”として、幸せを生みだすドラマを存分に演じるためには、確固たる自分がなければならない。他者が与えてくれるのではない。一人一人が歴史の主人公になって、鍛えあげていくものである。
 またそうであってこそ、真に庶民の時代、庶民の舞台が開かれるのではないでしょうか。
 ――まだまだ、話題はつきないようですが、「吉川英治人と世界」は、これで終わらせていただきます。

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