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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 歴史は心から生まれる… 『私本太平記』の世界2

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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1  「積極的平和」の実現を
 ――このたびの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の「人道賞」、おめでとうございます。
 池田 どうもありがとうございます。
 土井 「国連平和賞」「国連栄誉表彰」に続いてのことで、すばらしいことと思います。
 池田 平和と人道の問題は、これまで多くの青年たちが、地道なねばり強い運動を続けてきております。その青年たちを代表して、お受けすることにいたしました。
 ――創価学会の青年部が中心となっての難民救援募金は、一九七三年から一九八八年まで十一回実施されましたね。
 そのほかアジア・アフリカへの現地視察や展示会の開催等々、幅広い難民救援活動が高く評価されております。
 池田 恐縮です。
 世界が相互依存を強めつつある現在、国連の使命はますます重要になっています。とくに、人権・人道の問題は、人類の進歩と幸福のための大きな課題である。これは政治体制や法律、また時代を超えた基底となる問題です。
 土井 同感です。
 これは池田先生が、かつて、アガ・カーン氏はじめ国際人道問題独立委員会の方々と論じあわれたことですが、現代はテレビをはじめ情報の伝達技術が進み、遠い地域の悲惨な現実も多くの人が知ることはできます。
 しかし、では、その認識をふまえて、今度はいかなる行動をなしえるのか、また、そのために、いかなる心であるかが根本的な問題となるのではないでしょうか。
 池田 そう思います。
 戦争がないから、平和なのではない。あらゆる人間の生きる権利を脅かすものを、克服していってこそ真に平和といえる。
 この点は、平和研究の世界的権威であるガルトゥング博士との会談でも、意見の一致をみたところです。
 博士はいわゆる「構造的暴力」を含めたすべての暴力をなくし、人権、幸福の保障された「積極的平和」の実現を強調されていた。私は仏法の理念に相通じるものと、全面的に賛同の意を表したい。
 強者がますます強くなり、弱者が弱くなる一方の社会は、野蛮な社会と言わざるを得ないからです。
 土井 これは、まことに古くて新しい問題ですね。
 池田 そう。その永遠の課題に対し、現代こそ本格的な取り組みを始めるべき“時”ではないでしょうか。
 世界大戦というあまりにも大きな犠牲を払ったうえに、ようやく国連という“人類の議会”が誕生したわけですから。
 ――ある海外に長く住んでいる方が、「どうも日本人は人道と人権に弱い」と、その関心の低さと行動の鈍さを嘆いていましたが、そうした意味でも今回の受賞は、画期的なことと思います。
2  『私本太平記』の着眼点
 ――『私本太平記』では、「人道」という表現こそありませんが、“乱世において、いかに人間が人間らしく生きぬいていくか”、また“社会的弱者をどう守っていくべきか”という視点も、一つのテーマになっていると思います。
 そのへんをめぐって、お二人に語り合っていただければと思います。
 土井 そうですね。吉川氏にとって、つねに物語の舞台は現代と重なりあっています。『私本太平記』執筆の当時は、世界的にも米ソの「キューバ危機」など、さまざまな対立が渦巻いていました。
 また連載中、中国の深刻な干ばつや水害のニュースが伝えられると、氏は、「何とか私たちの心の物だけでも、数億の罹災の隣人に届けうる方途はないものだろうか。こんなさい国家と国家のかきねに立って理クツを言っている非情な管理人があるとすれば非情すぎる」(全集43)と読者に語りかけるように記しています。
 池田 吉川氏は、南北朝時代を、“男の権力と殺伐が一切をうごかしていた時代”と書いていますね。これも、現代を意識しての言葉でしょう。
 また、『私本太平記』の楠木正成は、女性が髪の乱れに気をとめる余裕もなく生きねばならない時代の様相に胸を痛め、“里の乙女子たちのきれいな声と平和な姿”(全集43)がいつまでも壊されることのない社会を願っている。そこには、激動の時代を生きた氏自身のさまざまな思いがうかがえます。
 有名人や権門の人々の立場からではない、いちばん苦労している庶民の目から見ると、どんな時代であり、社会であったのか――。これが、歴史を現代に引きつけてとらえ直す、吉川氏の大きな着眼点だったように思います。
 ――そういえば、建武の新政になって、新増税が施行されています。(笑い)
 おまけに悪貨が出まわって、『私本太平記』にも庶民が新政権への失望を語り合う場面があります。
 それで新税などについて、新政権側は、“これは後世の先例となるもので、反対するのは時の流れを知らないからだ”(全集42)と。(大笑い)
 それはそれとして、吉川氏の作品では、そうした時代の濁りのなかにあっても、決して屈しない無名の庶民群像をかならず登場させています。
 まえに話題になった、覚一と、元成・卯木夫婦もそうですね。
 土井 覚一は、目が不自由であったが、だれよりも強く生きぬいていく。彼は、幼くして故郷の母と別れ、京都の叔父のもとに身を寄せて、たった一人で琵琶の修業を始めます。
 京都に来ていた従兄弟の尊氏は、覚一を励まそうとしたところ、反対にその強い意志に自分が励まされる。覚一は、故郷に戻る尊氏に、“このように幸せでおりますと母に伝えて下さい。道に就いた以上、覚一はきっと名人になってみせます。成らいではおきません。そんな望みに、日々、胸をふくらませております”(全集40)と、その燃える希望を語ります。
 池田 大人たちは刺々しい表情で蠢いている。自分もそのなかの一人かもしれない。しかし、眼前にいる少年の顔には、少しの翳もない。自身の胸中の世界を晴ればれと広げている――。
 それは、大志をいだいた尊氏の心にさえ、眩しいばかりの光を放ったのでしょう。
 また、おのが道を黙々と進んでいく覚一の歩みは、かつての武蔵の求道の姿と二重写しになります。
 土井 一方の元成・卯木の二人は、武士をやめ、駈け落ちを余儀なくされた夫婦です。
 いわば社会の既成のワクからはみでた存在となっています。しかし、彼らは時代のうねりに呑みこまれ、もみくちゃにされながらも、自分たちの夢を決して捨てない。
 いとし子の死など襲いかかる試練にも負けず、倒れそうになっては必死で立ち上がるたくましさが描かれていますね。
 池田 吉川氏は、「生きようとすれば、あがきの爪が、何かはつかむ」(全集40)と書いていますが、これは先も見えない時代を生き続けた氏の人生哲学と言えるかもしれません。人生には、絶望も希望もあります。
 死への心は、絶望の闇をますます深めていく。しかし、断じて生きようとする生の心は、闇の彼方にまたたく希望の光源を探しあてる。
 氏は社会の弱い立場の人々へ、少しでも声援を送りたかったのでしょう。
3  “人間らしさ”という大切な宝
 ――『私本太平記』は、じつに千三百二十五回にわたる新聞連載でしたが、吉川氏はつねづね“民衆の血液の中に入っていって、生きていくもの”(全集52)をと考え、さまざまに心を砕いていたようですね。
 池田 魂を打ち込んで描く一回一回に、多くの読者からの反響がある。
 無数の読者を相手にして、その無限に広がる心に響く作品を描きたい――連載小説の“打てば響く”という読者との交流が吉川氏にとって、最大のやりがいだったのでしょう。
 土井 それは登場人物を、あくまで一個の生身の人間として見るという視点に通じますね。楠木正成についても、吉川氏は、「周囲が、彼をしてやむなくさせなければ、河内の一田舎武士として、よい妻やよい子にかこまれ、垣の梅花を楽しんだり、老後は菊の花でも作って、しごく平凡にまた平和に天寿を全うしたろうに」(全集43)と、思いやっています。
 雲の上の“愛国の英雄”も、こうした素朴な「家庭人」の視点からとらえ返すことによって、一気に身近な人物として読者に迫ってきますからね。
 池田 そう。こんなシーンがありました。
 それは、楠木家の庭には、土地の風習で、妻・久子が嫁入りの日に、生家から苗を移した一本の柿が育っていた。彼女にとっては、秋ごとのたわわな実りとともに、妻として、また母として人生の年輪を刻んでいく大切な木である。
 出陣にさいして正成は、その妻の記念の木が、戦火を超えて残っていくよう、わざわざ安全な場所に植えかえさせている。
 正成は、たんに勇ましい武将であるだけでなく、無言のうちに、そうした心づかいができるよき夫でもあった。
 そして、正成のこの「平凡な家庭人」としての感性が、彼の発想と行動のうえで、大きな意味をもっていることを、吉川氏は強調している。
 ――たしかに、歴史的に見ても、家庭人として問題のある権力者は、何をしでかすかわからない怖さがありますからね。(大笑い)
 ともあれ、市井の庶民がいちばん尊いことを見失った指導者は、傲慢である――。
 土井 吉川氏の描く正成は、ギリギリまで戦に加わることを回避しようと努力します。たとえば、いきり立って天下の情勢を論じ、決起を促す弟・正季に向かって、正成が、「よい子を抱え、父親の膝の重さや温みを凡身に知ってみることだな」とたしなめる場面もありました。
 池田 「家庭の幸福」を守りぬかんとする彼の心は、そのまま、大勢の人の上に立つ責任感と一体となり、「せめてこの河内の奥の山里だけでも平和に」(全集41)という祈りへと連動している。
 素朴といえば、これほど素朴な心情はない。しかし、複雑な社会のからみ合いのなかで、ともすれば置きざりにされてしまう“人間らしさ”という大切な宝を、吉川氏は言いたかったのでしょう。
4  足利尊氏、晩年の不幸
 土井 『私本太平記』の足利尊氏も、正成とまた違った意味で、背景の家庭をぬきにしては語れません。
 そもそも、足利家には代々秘し伝えられてきた置文があった。そこに記された“北条幕府を倒して天下を”という悲願を、尊氏が二十歳の時に知ったことが、のちの旗揚げの出発点となっています。
 池田 その置文を見せるさいの尊氏の母の言葉は、心を打つ。
 「母はもういちど、あなたを産む気で、男の子を産む陣痛に耐えましょう」(全集40)と。
 動乱の世を舞台とした尊氏の波瀾万丈の生きざまは、みずからの人生のテーマを定めた若き日の一瞬から生まれたと言える。
 土井 また、尊氏と弟の直義との兄弟のドラマも、物語の一つの柱となっています。二人は一歳違いで、幼いころから、仲のよい兄弟として描かれています。
 尊氏は、一連の勝利をおさめた後、自筆の願文に、“今生の果報は弟に与え給え弟を安穏に守り給え”と記しています。自分に執着しない、茫洋とした尊氏の魅力は、読者を引きつけるところです。
 池田 室町幕府開設後も、尊氏・直義兄弟の「両御所」による“二頭体制”は順調であった。一言でいえば“おおらかな兄”と“緻密な弟”が相補って、力を発揮したと言われる。
 だが、やがて、尊氏の執事である高師直と直義との対立を引き金として、いわゆる「観応の擾乱」と呼ばれる、陰惨な葛藤のドロ沼へと入ってしまう。
 それは、尊氏の庶子で、直義の養子となった直冬までが、直義と一緒に尊氏に弓を引くなど、複雑な様相を呈していく。
 そして、直義は、兄・尊氏に毒殺されるという結末を迎える――。
 吉川氏は、この悲劇を、“粘土を以て一つの円い陶壷を仕上げようとしていたものが、真二つとなってしまった”(全集43)と表現している。
 “力をもって力を制す”――それは結局、不幸な悪循環を繰り返すのみである。
 尊氏の後半生は、この矛盾のなかにあります。
 土井 目標の達成から十余年にして、兄弟同士の血みどろの抗争へ――。人の心のこわさというか、測りがたさをあらためて考えさせられますね。
 吉川氏も終章で、尊氏の、「悪と善、鬼と仏、相反する二つのものを一体のうちに交錯して持つふしぎ」(全集43)さに言及していましたが……。
 池田 これは、仏教の思想をふまえた吉川氏の人間観です。
 『新・平家物語』にも、「釈尊にいわせると、人間とは、一日中に、何百遍も、菩薩となり悪魔となり、たえまなく変化している善心悪心両面のあぶなっかしいものだとある」(全集32)というくだりがあったと思います。
 いわゆる“悪人”をもつつみこんでいく吉川氏のふところの深さも、そうした背景があるような気が私はします。
 ――なるほど……。
 池田 とともに、人間の心はますます危うい振幅を激しくしている。否、それに無感覚にさえなりつつある。ここにこそ、人間社会の深い病巣があることを、吉川氏は憂えていたのでしょう。
 日蓮大聖人の御書(「神国王御書」)には、「銅鏡等は人の形をばうかぶれども・いまだ心をばうかべず、法華経は人の形を浮ぶるのみならず・心をも浮べ給へり、心を浮ぶるのみならず・先業をも未来をもかんがみ給う事くもりなし」という一節があります。
 仏法なかんずく法華経は、生命という内なる世界の流転図を、明鏡のごとくうつしだすとの御文です。そのうえで、法華経は万人に真実の幸福への軌道をさし示している――。
 戸田先生は、こうした意味をふまえて、「すぐれた文学は、仏法の一念三千の生命観の一分を説いている。いわば、仏法の序分のようなものである」と言われ、古今東西の文学作品を一つのテキストとしながら、人間観を養い深めてくださったわけです。
 ともあれ、尊氏の晩年は、読者に人間の生きる道、とりわけ人生の総仕上げのむずかしさを語ってあまりある。
 土井 吉川氏は、同じ尊氏直筆の、「この世は夢のごとくに候尊氏にたう(=道)心たはせ給い候て後生たすけさせ」云々という願文をとおしながら、思うがままの権力を掌中にした尊氏の胸奥を察しています。
 すなわち九州を征服し、山陽山陰を掃き、正成、義貞に勝って、身は大御所、大将軍とあがめられる栄位にありながら、尊氏は、少しも満足できなかったというのです。
 「こんなもの、あんなもの、観ずれば、夢ではないか。ほんとの、よろこび、安住の境界、それはどこにもない。真実の光りに浴せる人間らしい“道心”こそ、いまは欲しい」(全集43)と。
 池田 真実の“都”は、わが胸中に築き上げていくしかない――。
 吉川氏は数多くの権力人を描いてきましたが、彼らの一切の虚飾をはぎとった一人の人間としての赤裸々な叫びを、聞きとる思いだったのでしょう。
 パスカルの『パンセ』の「いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであろう」(松浪信三郎訳、『世界の大思想』8所収、河出書房新社)という、たいへん現代的ともいえる(笑い)言葉ではないが、透徹した“文学の眼”は、あらゆる“幻”の虚像に眩惑されることなく、人間の実像、人生の実相を大胆に直視していく――。
 いずれにしても、『私本太平記』では、正成と尊氏という対照的な二人の指導者像をとおして、庶民を守る新しい社会の入口を探求している。
5  「将の将」の真価、新田義貞の場合
 ――権力者の最期という問題について……。「東京裁判」の東条英機以下、A級戦犯(重大戦争犯罪人)が、処刑の直前、吉川氏の『親鸞』を教誨師に頼んで取り寄せ、回し読みしていたというエピソードがありました。
 池田 それは私も聞いたことがある。
 本の表紙の裏に、一枚の紙がはりつけてあり、回覧して読み終わった一人一人のサインがあるということですが。
 ――ええ。そのサインを写した白黒の写真を見たことがあります。陰惨な過去の歴史が刻まれているようで、やりきれない気持ちがしたのを覚えています。
 池田先生は、この裁判については、当時、どのような感想を……。
 池田 そうですね。幾千万の人々の生命を奪った戦争への憤りとともに、何とも言えない暗く重い気持ちでした……。
 当時のニュース映画で、東京裁判の様子を見たことがあります。
 かつては、戦争を鼓舞してきたニュース映画が、今度は、その戦争を裁く法廷の模様を報じている。
 被告席だけが、暗く、くすんだ感じでした。カメラが顔をクローズアップすると、そこには無気力で、無表情な一群の老人が座っている。
 それは、もはや過去の幻影としか感じられませんでした。
 彼らの閉ざされた心を、今さら垣間見ようとしても無駄なことかと、私は心に感慨深いものがありました。
 土井 作家の大佛次郎氏に、東京裁判の傍聴記があります。そのなかに、戦犯の姿について書いてありました。
 「血色なく気力ない一様の老年の表情は、眺めてゐて暗い気持を誘はずにはゐない。小さい哀れな人間の存在!
 しかも、あれだけ驕る地位に昇り、全国民に『必勝の信念』を吹込み、日本を今日の悲惨に導き得たのではないか。このひとつかみの老人達が」(随筆集『日附のある文章』創元社)と。
 池田 その述懐は、大多数の国民が等しく懐いていた心情でしょう。
 土井 判決の結果は、死刑七名、終身禁固刑十六名というものでしたが、一般論では、どんな死刑囚も、彼ら自身の行為が、いかに非道であっても、死に値するものではない、と思っているという話もありました。
 ――それは、法曹界にこの人あり、と言われた布施辰治弁護士の『死刑囚十一話』という本ではないですか。
 この人は、三鷹事件の弁護団長もやっていましたね。
 土井 それにしても、彼らが『親鸞』というのも、何とも複雑な気持ちになりますね。
 だいたい親鸞は、鎌倉時代にはあまり広く注目されなかったのではないですか。
 池田 そうですね。
 日蓮大聖人も、親鸞についてはまったくふれられていません。いつも不思議に思っていました。
 東京裁判の当時は、多くの人が食べることに精いっぱいで、三鷹事件にしても、社会の底流の黒々とした闇の深さを物語るものでした。
 「聖教新聞」の創刊第一号(昭和二十六年四月二十日)のトップは、三鷹事件の裁判を取り上げています。
 戸田先生は、よくこうした世の中の動きから、仏法の視点や、物事の本質をとらえる眼を、青年に教えてくれました。
 東京裁判については、小説『人間革命』(第三巻「宣告」)にも書きましたが、「あの裁判判定には二つの間違いがある。第一に死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。人が人を殺す死刑は仏法からみて断じて許されない。もう一つは原子爆弾を落としたものも同罪であるべきだ」と言われていた。
 「人道」という観点の本質から戸田先生は東京裁判を見られていたことを、今も印象深く覚えています。
 ――そこで、『私本太平記』に戻りますが、正成は前回とり上げていただきましたが、読者から、尊氏と新田義貞についても、という声がありまして(笑い)、もう少し語り合っていただければと思います。
 物語の後半は当時の勢力地図、人心の動き、複雑な対立構図を描きながら、尊氏を中心として、以前にもまして、ダイナミックにストーリーが展開されています。
 一三三三年には、尊氏、義貞の共通の目的であった鎌倉幕府の倒幕と北条高時の打倒を成し遂げますが、同時に尊氏は逆臣として義貞に追われるようになります。
 その変転を、反尊氏の首将であった大塔ノ宮の、「なんたることだ。高時を討ったのにまたすぐ次の高時が出来かけている」(全集42)という言葉に吉川氏は象徴させていますが。
 土井 裏切り、寝返りの連続で、一進一退を繰り返す尊氏と義貞の宿命的な戦い――。
 吉川氏は、優れた武将としての尊氏の姿を縷々描いていきます。そのなかに九州での一場面があります。
 義貞の捨て身の奮戦に敗れ、尊氏は兵庫へ、そして命からがら九州へと落ちていく。
 しかし、その九州でも“尊氏に筑紫(九州)を踏ますな”を合言葉に、三万近くの敵軍がひしめき合って待ち受けている。
 尊氏軍は八百余り。どう考えても情勢は厳しい。しかし、さまざまな勝因が今度は尊氏のほうに動き、尊氏は結局、勝利を得ることになります。
 池田 このときの尊氏を吉川氏は、生き生きと描いています。
 苦境に立った尊氏は、「味方は敵の中にいる」(全集43)と、外交戦で大胆に活路を開いていく。尊氏の尊氏らしい非凡なところで、なかなかの名場面ですね。
 戦いはたんなる勢力の計算ではない。果敢な行動に一歩踏み出すことが、思いもよらぬ状況の変化をもたらしていく。
 それもきっかけさえあれば、敵が味方に逆転する場合さえある――。
 次元は違うかもしれませんが、私も恩師から、「味方よりも外にいる人のほうが頼りになる場合がある」と教わったものです。
 敵と味方、セクト対セクトという考えにとらわれていると、真実の人間を見る“眼”をくもらせてしまう。そうなれば、対立の溝は深まるばかりです。セクトを超えて、人間の心と心に橋を架けていくならば、事態、状況は大きく変わっていく。逆に偏狭な閉鎖性は、膠着状態をもたらします。そうした場面は『新書太閤記』のなかにも随所に出てきますが、いわゆる「赤心を推して人の腹中に置く」といった外交戦の妙は、吉川氏の筆のもっとも冴えるところかもしれませんね。
 土井 まさに「死中生あり」の姿ですが、氏は、出陣する尊氏に、「尊氏は引く地を持たず、勝って生きぬく道のほかに生きてはおらん。(中略)生き抜こう! 死にもの狂い、死中に入っておたがい栄えある生を剋ちとろうぞ」(全集43)と語らせております。
 この叫びに尊氏軍は、小勢ながらも鉄の怒涛となったと。
 池田 みずからが決めた戦いであるならば、多少のことで動じないしぶとさがなければならない。はるかに未来を見すえて、図々しいまでに(笑い)堂々と胸を張っていく――。要は必死の一人がいるかいないかでしょう。
 尊氏が人心を掴みながら築き上げた固き団結の核は、“時の勢い”を生みだし、さまざまな勢力を呑みこみながら、巨大な力となっていった――。
 このような尊氏の進軍に対し、吉川氏は、正成に、「衆の志向の潮ほど恐いものはなく、それには勝つ術もなし」(全集43)と語らせていますね。
 たしかに、時の流れというものはどうしようもない。その先をいかに読み、手を打っていくかが「将の将」の真価でしょう。
 土井 正成は正成で、尊氏を破る最後の策を練り、奏上する。しかし、悲しいかな目先の名誉や体裁を重んじる公家たちには、まったく受け入れられません。
 そこでやむなく死を覚悟して、義貞軍の援けに向かうという英雄の悲劇があったわけです。
 池田 尊氏の強さの一つの要因をうかがわせる、興味深い分析を聞いたことがあります。
 これは、前にも紹介した吉川文学のファンであった中村直勝博士の話ですが、尊氏が「高氏」と書いていた時代から、将軍になるまでの“書き判”をたどってみると、年々寸法が大きくなっており、格好も整っていく。
 これは、尊氏の心の成長によるものである。そして、このように成長していけるのは、尊氏がよほど世の中を苦しんで渡っているからではないか、と。
 人間・尊氏の実像に迫る鋭い見方ではないでしょうか。
 土井 一方、尊氏の躍進に対して、義貞のほうは、大事な時にまったく生彩を欠いています。尊氏を破り、一時は“時の人”となって名誉をほしいままにしますが、勝利の驕りに酔い、尊氏をみくびってしまいます。
 もはや尊氏の再起はないとたかをくくり、息の根を止める追撃もしようとしなかった。
 しかも、公称六万の軍を誇っていながら、尊氏が守りとして残していった白旗城一つさえ、落とすことができませんでした。
 尊氏軍を迎え戦うまでには、いつの間にか兵も逃げ去り、わずか二万騎にも及ばないほどになってしまう。
 吉川氏は、「尊氏がついやしてきた二タ月と、義貞の二タ月とでは、差がありすぎる」(全集43)として、さまざまに考証していますね。
 池田 古典『太平記』(大系35)には、援軍として兵庫に着任した正成に対し、義貞がぼやく場面が描かれています。
 義貞は、前年、関東での合戦で負けて上洛したさいのみじめさを思い出しながら、「今度西國へ下サレテ、数箇所ノ城郭一モ不二落得一シテ、結局敵ノ大勢ナルヲ聞テ、一支モセズ京都マデ遠引シタランハ、余リニ無二云甲斐一存ル間、戦ノ勝負ヲバ見ズシテ、只一戦ニ義ヲ勧バヤト存ル計也」と。
 それに対し正成は、「道ヲ不レ知人ノ譏ヲバ、必シモ御心ニ懸ラルマジキニテ候。只可レ戦所ヲ見テ進ミ、叶フマジキ時ヲ知テ退クヲコソ良将トハ申候ナレ」と語り、それまでの義貞の功を称えながらなぐさめた。
 それで義貞の心もやわらぎ、夜通しの物語りになったといいます。
 義貞は、愚直なまでに懸命に戦いはするが、状況の変化一つで心が動いて、冷静な判断ができなくなってしまう脆さがあったと見ることもできる。
 指導者はその立場にいるのが長くなると、どうしても他者は見えても、自分が見えなくなってしまう。これも歴史の常でしょう。
 いずれにしても、このわずか二カ月という時が、尊氏と義貞の人生、そして永遠に残る歴史を決定した。
6  人間への“愛着心”
 ――ところで、吉川氏は作品ごとに、つねに何らかの新しい挑戦を自身に課していたように感じます。たとえば、あの『宮本武蔵』誕生のきっかけも、じつは友人である作家の直木三十五が、「武蔵非名人説」を振りかざして、吉川氏を挑発したことにあったようです。(笑い)
 氏が、『新・平家』で新しい清盛像に取り組んだことについては、以前に論じていただきましたが、『私本太平記』でも、従来の「正成像」「尊氏像」の転換に挑んでいたのではないでしょうか。
 土井 そうですね。片や正成は「忠臣」として神格化され、片や尊氏は「逆賊」扱い……。この両極端のレッテルを貼られた二人を、それぞれ戦後の日本人の共感を得るよう描き直していく。
 これは、それまでのイメージがあまりにも強烈だっただけに、難題だったろうと思います。
 池田 それは、本質的にいえば権力者たちの心をつき動かす、姿なきものの「正体」への追求でもあったわけですからね。
 一回一回のゲラ刷り(下刷り)ができてくるたびに、真っ黒になるほど直し、しまいには印刷工場のほうが悲鳴をあげてしまったといいます。(笑い)
 「ただ気がすむまでの精進をしているつもり」(全集43)との吉川氏の淡々とした言葉が印象深い。
 土井 吉川氏にはそもそも、その人物に自分がなりきってみようという姿勢がありますね。だから資料を考証しながら自分の納得がいかなければ、“これはおかしい、考えられない”と、否定しながら論じている個所が、いくつかあります。
 池田 時代の隔たりはあっても、同じ人間として考えられないことは吟味し、峻別していく。歴史とは、時の流れとからみ合いつつ、何より人間の「心」から生まれてくるという見方が、吉川氏のなかでは一貫していますね。
 そこが、吉川文学の味わいの一つでしょう。
 また吉川氏の眼は、葛藤し、相争う人間模様のなかでも、人間を“信ずる眼”、つまり人間への“愛着心”をもって見ていることがいたる場面で感じられます。
 よく氏は、「君の小説にはほとんど悪人がないね、憎むべき人間がいないなんていう社会があるかしら」(全集39)と聞かれたという。この言葉も、吉川氏の人間観をよく表していますね。
 ――さて、『私本太平記』の最終章では、「黒白問答」(全集43)と題する、琵琶法師たちの「座談の場」がもうけられています。
 「問答」の形式をとりながら、『私本太平記』、ひいては吉川文学全体を貫く“時代観”“人間観”が語られていくわけです。
 池田 ええ。読者と一体になって書きつづってきた長い歩みを終えるにあたって、吉川氏が、その大切に思う読者とともに、心おきない語らいの場をもとうとしたように、私には感じられます。そして、これが、氏の作家としての生涯のエピローグとなったわけです。
 土井 そこでは、権力欲に憑かれた尊氏らの末路を見つめながら、人間の心を狂わし、社会を乱していく「権力の魔性」をめぐって語り合われています。
 しかも吉川氏は、その問題を「権力のなかに住む人間ども」だけのことにとどめず、さらに一歩、民衆自身の側に引きつけてとらえようとしています。
 すなわち、対話の中心者である覚一は、庶民の“野次馬根性”や“射倖心”が、世の乱れを助長する側面を指摘しながら、次のように語ります。
 「他を言って自分を措いてはいけません。(中略)この座のうちにも潜んでいるものです。恐い。何がといって、権力の魅力ほど恐いものはない」(全集43)と。
 「他を言って自分を措く」――。ある意味で、戸田会長が指摘された「東京裁判」の限界性も、一つはそこにあったと言えるかもしれませんね。なんといっても、その底流にあったのは、「文明」が「野蛮」を裁くという一方的図式でしたから。
 池田 かつて、フランスの作家アンドレ・マルロー氏と対談した折、氏が烈々と語っていた言葉が忘れられない。
 「自分自身のことというのは、もっとも狭く、およそ普遍的でない問題のように思える。しかし、それこそがいちばん大切なことだと、われわれ現代の作家は考えている。
 要は、自分は一個の人間として何ができるか、何事に対して行動できるかではないか」と。
 いずれにしても、文学という精神の対話の場においては、本来、書く側も読む側も、ともに「汝自身への問いかけ」が決して手放せない。
 ここに文学の真摯さと誠実さがあり、また現代の人間復興への力があると私は思っています。

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