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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 衆の中に衆和をよんで… 『私本太平記』の世界1

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

前後
4  なぜ『太平記』なのか
 ――前作の『新・平家物語』のラストシーンで、麻鳥の妻・蓬は、「なんで、人はみな、位階や権力とかを、あんなにまで、血を流して争うのでしょう」(全集39)と問いかけています。
 この問いが、『私本太平記』の出発点となっているようですが。
 土井 そうですね。その問いをさらに強める格好の舞台として、吉川氏は、南北朝時代を選ばれたわけです。
 氏は、当時の時代相を「人間社会のけわしさ」という点で「平家の世頃とは比較にならない」と。そして、『太平記』については、「日本国内の兄弟喧嘩の小説」(全集43)であると言われています。(笑い)
 権謀術数が渦巻き、裏切りや、足の引っ張り合いに満ちた乱世を描きながら、吉川氏は、みずからの長年のテーマに一つの決着をつけようとしています。
 池田 原典が「軍記物語」でありながら、よくぞ『太平記』と名づけたものです。(笑い)
 戦乱を描きながら、なぜその名も「太平」か――この点については、古来、いくつかの解釈があります。吉川氏の場合は「乱世」の反語として、「太平」という言葉が用いられたとの説をとっていましたね。
 すなわち、「平和の曙を待つ、庶民の悲願がこの二字に こめられて来た」(全集43)と。
 一人一人の人間を否応なしに巻き込んでいく巨大な「時の流れ」に抗いながら、どうすれば戦争から平和へ、対立から調和へ、また破壊から建設へと、時代の機軸を転じていくことができるか――。
 南北朝以上の激動の“昭和”を生きてきた一人の作家として、その何らかの打開の糸口を見いだしておきたいという執念が、私には感じられてなりません。
 ――なるほど。
 そういう意味からいうと、『私本太平記』は、吉川氏の「昭和史」への遺言とも受け取れますね。
 土井 吉川氏は、有名な『徒然草』の筆者・吉田兼好を、いわば狂言回しの役回りとして、『私本太平記』に登場させていますが、その兼好をして、次のような感慨をいだかせています。
 「世の種々相は、みな運命か。人々の意志もじつは運命の従僕にすぎず、そして戦争なども、季節のごとく、たれが好まないでも、自然におこってくるものなのか。
 そうとは思えぬ。としたら、たれが火つけの下手人だろう。(中略)衆というものらしい。衆愚のなす業らしい。じゃあ衆愚とはなんだ。どんな化け物か。――それもやっぱり一個一個の中に住んでる物の怪ではあるまいか」(全集41)
 この一段なども、たしかに吉川氏自身の昭和史の一つの総括として読むことができますね。
 池田 群衆という存在にひそむ愚かしさと恐ろしさを、吉川氏は一面冷徹に見すえている。しかし、その暗き時代の「曙の兆し」もまた、“たくましき庶民の生活の中に萌えかけている”(全集43)。これが終章における氏の結論です。
 ですから、死をまえにした正成の祈りの言葉のなかに、「衆の中に衆和をよんで」(全集43)とあります。
 つまり、「衆愚」から「衆和」へ――。
 もはや、時代に押し流されるままの弱き群衆であってはならない。いかに民衆自身が確固たる「平和」への信念をもち、連帯していくか。新しき時代への転回を吉川氏は、祈るような思いで模索していたと言えるのではないでしょうか。
 土井 新しき時代への祈りといえば、正成が戦の渦中でこんなことを言いますね。
 「ここの旗、ここの砦、何を失うとも、守りぬかねばならぬ第一は子どもだからな。(中略)戦も、次の生命の芽ぶきに望みをかけていればこそ戦えるようなものだ」と。
 吉川氏が描く正成という人物の奥深さが、躍如としているところです。
 ――その、正成と正行・父子の桜井の別れは、『私本太平記』のなかでも一つのクライマックスですね。
 父は敗れるとわかっている湊川の合戦に、あえて挑んでいく。十五歳の正行は、ぜひお供をと申し出るが、父はわが子をさとし、ふるさとへ帰す――。
 「青葉茂れる桜井の」の「大楠公」の歌でよく知られているところですが。
 土井 井上靖氏の散文詩のなかに次のような一節がありました。
 「一人の忠臣が木の下蔭に馬を留めて、己が子に後事を託して別れて行く話は、誰が作ったか知らぬが、木の下蔭の仄暗さと、そこを渡って行く風の爽やかさの故に、私は好きだ。ひと組の父子の青葉に包まれたドラマの悲しさもさることながら、仄暗く爽やかな小さい空間の設定はみごとである」(『井上靖全詩集』新潮社)と。
 池田 戸田先生も、「大楠公」の歌がたいへんお好きでした。私の結婚式に出席してくださった時にも、ささやかな披露宴の折、この歌を歌うように言われた思い出があります。
 桜井の別れにいたった経過についても、戸田先生は、正成の具申を聞こうともせず彼を死へと追いやった公卿たちの姿を、歴史の重要な教訓として、よく語られていました。
5  弱者の側に立つ吉田兼好像
 ――先ほど吉田兼好の話が出ましたが、吉川氏は随筆のなかで、「徒然草の思想と、兼好法師のあの眼は、まさに当時の社会の一隅に在ったものとしてすこぶる興味のあるものだ。太平記の中には兼好の影さえさしていないが、徒然草があたまにあるひとには、いちばい太平記もふかく観照できるはずである」(全集43)と書いていました。
 吉川太平記のなかの兼好の登場の仕方は、一つの暗示を感じますね。
 土井 兼好が生きたのは、一二八三年―一三五三年頃です。ですから、兼好は日蓮大聖人が御入滅された次の年に生まれ、その後の七十年間を生きたことになります。ところで、この間、
 一三三三年鎌倉幕府滅亡(兼好五十一歳)
 一三三六年楠木正成死去(兼好五十四歳)
 一三五八年足利尊氏死去(兼好死後五年)
 また、『徒然草』が執筆されたのは、一三三一年ごろからと言いますから、ちょうど動乱の時期と重なるわけです。
 池田 兼好が“都市的・貴族的”立場からものを見ていたとは、よく指摘されるところですが、『私本太平記』に登場する兼好像は、どちらかと言えば“地域的・庶民的”立場、また、“弱者の側”に立ってものを見る一人の人間として、見事に血を通わせている。
 土井 そうですね。前途に希望を失っていた卯木(正成の妹)と元成の夫婦を励ますところで、兼好は次のように語ります。
 「ひとつ野に生きた生命で、野にいッぱいな楽園の花でも咲かせられては、どんなものか。希望を持つなら、機会は目の先にあろうものを」(全集40)と。そして、この若夫婦は芸能の道に生きようと希望をもって再出発する。
 つねにだましあい、蹴落としあい、人間が人間を信ずることができない時代を描いていくなかで、美しい対話の場面として印象深いところです。
 池田 吉川氏の“私本版・兼好”は“貧乏ぐらしで、住居も、衣服にも頓着しない。『徒然草』も残そうと思って書いたものではなく、壁や襖紙に張った古反古に書かれていたのを、兼好の弟子が寄せ集めてできあがった”(全集43)という設定です。
 言ってみれば、残るはずもなかった『徒然草』が、後世、抜きんでた古典の一つとして読まれ続けていく。それを、吉川氏は次のように書いています。
 「ふしぎな宇宙の識別というしかない。不壊の権力とみえる物も、時の怒涛の一波のあとには、あとかたもなくなり、反古に貼られた一法師の徒然な筆でも、残るいのちのある物は、いつの世までも持ちささえてゆく」(全集43)と。
 土井 いろいろな見方があるでしょうが、『徒然草』からは、名聞名利を追う人生の儚さを達観した、兼好の“眼”を読みとることができます。
 あえて吉川氏が、兼好を市井のなかに配した理由もそのへんにあると思います。
 力で得た権勢も名も滅び去っていくなかで残りゆくものが、ここでは、無名の人間が書いた一書となるわけです。
 池田 それに関連して思い出す古典『太平記』のなかの、一場面があります。
 それは――ふとしたことから陰謀の嫌疑を受け、敵の容赦ない拷問にかけられることになった歌人が、一首の和歌をしたためる。
  思キヤ 我敷嶋ノ道ナラデ
    浮世ノ事ヲ 問ルベシトハ
 (自分の大切な敷島の道〈和歌の道〉のことではなく、世俗のことを問われるとは思ってもみないことであった)(大系34)
 訊問にあたった武将はこの歌を読み、思わず涙して、歌人を解放した。
 『太平記』の作者は、このエピソードをとおして「人の心」を動かす歌の力に言及しています。
 一首の歌をとおし、敵同士の間にさえ、“人間の発見”があり、心の交流が生まれる――。文学の力を示唆した光景として胸に残っています。
 吉川氏は、はるかな歳月をへだてて、新しい『太平記』を書くにあたって、自分がよりどころとする一点は、「六百年前の人間も、近代人も、ともに人間であったという事と、人間が作る社会であったという事だけだ」(全集43)と記していました。
 そうした意味で、文学は、「人間としての共感」から出発し、タテには悠久なる歴史、ヨコには広大な世界を自在に旅していく“心の翼”と言える。
 ――ところで『私本太平記』では、篭城の千早城の城内で、のちに能を大成した観阿弥、すなわち観世清次が正成の妹夫婦の子として生まれています。
 観阿弥の母が、事実、正成の妹であったかどうかはわからないようですが、ちょうど吉川氏の執筆の少しまえに、ごく近親であったことを示唆する古文書が発見されたのでしたね。
 池田 そう、当時の乱世、戦いにあけくれた武門の家系から、後世にその名を残す文化の担い手が出たというのも“歴史の妙”と言えます。この文書が、吉川氏の想像の翼をさらに大きく広げてくれたといいます。
 千早城での、生と死が紙一重の激闘のなかで、新たな生命が誕生する。吉川氏は、正成にその感慨を次のように語らせている。
 「こんな篭城の中からでさえ、宿ったものは、ついに生ぶ声をあげずにいない。(中略)ああ、やがて次代に、そんな子がどう成人してゆき、またどんな宿業を課せられた人となって行くのか。思えば、おもしろい宇宙だ。いや不思議きわまるものだ」(全集42)と。
 この子が、のちの観世清次という設定です。ここには、どんな暗闇の中でも、希望の光を見つけて生きていくおおらかさがある。
 土井 最後の決戦に向かう正成は、妹の卯木に、「ひとつ腹から出た妹ながら、ひとの数奇のおもしろさよ。武門正成のうちからも、ひと粒の胚子が、あらぬ野の土にこぼれて、行くすえ、どんな花を咲かすことであろうか」(全集43)と言います。このとおり、“ひと粒の胚子”は、文化という花園に大輪の花を咲かせていきます。
 池田 この言葉は、小説のラストへの大きな伏線となっていますね。
 クライマックスでは、成長した青年・清次が正成と生き写しの能面をつけて舞う。敵も味方もなく、皆が幸せに暮らせる社会を祈りながらも、権力のはざまに立ち湊川で散っていった正成。しかし、その祈りは清次に受け継がれていく。舞う清次の姿は、まさに正成の悲願と二重写しとなり、見る者の心を打たずにはおかなかった。
 土井 その場では、清次の父・元成が太鼓を務め、母・卯木が笛を持ちます。
 さらに尊氏の従兄弟にあたる盲目の検校・覚一の一門が、四十余面の琵琶を、「宇宙の響き」のごとくいっせいに奏でだす――。その平和の願いを打ち囃す楽の嵐の中、物語の幕は閉じます。
 「いつか外には外で小鳥のさえずりがしはじめている。小鳥の世界だけでない人間界の夜明けもついそこまでは白みかけている朝かのような今朝であった」(全集43)との末尾の一文は、一代の仕事を締めくくる吉川氏の祈りが凝縮していますね。
 池田 それまで吉川氏は、あくまでも戦乱を表とし、また尊氏・正成らの武人を主役として、物語を展開している。ところが、この最後の場面にいたって一切が反転するわけです。
 物語の陰の存在であった文化の世界が前面に広々と開け、ずっとワキ役であった庶民たちが生き生きと躍りでる。
 この土壇場での逆転劇に、吉川氏は新しき時代の夜明けを託したと私はみたい。

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