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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 不滅のものへの祈り 『新・平家物語』の世界

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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2  新しき清盛像を描く
 ――ところで、一般的に「源氏」と「平家」というと、平家のほうは悪者のイメージですが(笑い)、吉川氏は、長い間の先入観から自由になって、人間清盛を公平に描こうとした。そこに一つの特長があります。
 土井 そうですね。清盛といえば「諸行無常」「盛者必衰」の見本のような人物となっています(笑い)。しかし、吉川氏は、とくに青年清盛を、既成の権威を打倒する象徴として見ております。
 池田 たしかに、史書イコール真実の歴史ではない。歴史は多面的な生きた複合体です。史書の文字は、それに対し一つの点から光を当てた投影とも言える。
 それにしても、連載当時は、いまだ敗戦の混乱のなかであり、『新・平家』からは、同じく動乱期に生きた歴史上の人物の実像を探ろうとする情熱が感じられますね。
 また、そうした革新的な清盛像の背景には、一つのエピソードがあります。吉川氏の青年時代、長い病床にあったお父さんが、山田美妙の『平清盛』を読んでいた。
 そこには、お金がないため、病気の父に医者を呼んであげることもできずにくやしがる清盛の姿などが描かれており、「清盛にもそんな時代があったのかなあ。そんな人間だったのかしら」(全集39)とお父さんが言っていたことが、吉川氏の頭に残っていたようです。
 ――なるほど。(笑い)
 池田 当初、吉川氏は、壇ノ浦の合戦に敗れた後の平家を描き、戦後のすさんだ世相と二重写しにさせたいと思った。しかし、それを急にかえて、青年清盛から書き始めていますね。
 古代社会が崩壊していくなかで、古いものは腐り、新しいものは、まだ現れない。清盛は、そうした混沌の時代を切り開き、率先して急ピッチで「破壊」と「建設」に取り組んでいく。それはまったく新しいタイプのリーダーであった――。そこに吉川氏は、歴史という舞台で清盛が演じようとした人生劇の“役”を見ていたと思う。
 また、そうした清盛を描くことは、戦後というかつてない激動期に生きざるをえない青年たちへの、期待と励ましの心がこめられていた。いわば氏自身の、新時代への祈りが、その核にあった。
 土井 清盛のそのような一面を、吉川氏は、“ただ一門の驕児慢臣を作るがための栄花が彼(=清盛)の本志ではなかった”(全集39)とし、福原の都市計画、大輪田の築港、音戸ノ瀬戸の航路の開鑿、日宋貿易による海外の文物の吸収などの夢を、六十二歳の清盛に語らせてもいます。
 池田 鎌倉時代に成立した古典『平家』では、どうしても勝者の側のとらえ方の影響も無視できない。そうしたゆがみを正すことは、作家冥利につきる仕事だったのでしょう。吉川氏は、その成果に自信をもっておられたようだ。
 土井 そのために、氏はたいへんな取材もされています。随筆以外のすべての仕事を断ってしまったともいいます。また、連載満五年を迎えようとしていた新年には、「長途の仕事は苦しいにきまっている。(中略)ぼく自身はこれの終るまで風雪の道を黙ってテクテク歩いていたい。(中略)大方の叱正ときびしい批判の中に吹きさらされて行く方が仕事としては気がしまる」(全集39)と記されています。
 池田 大長編も原稿用紙一枚一枚の積み重ねであり、一行一行、一文字一文字の集積である。何があっても一歩一歩と前に進んだ結実にほかならない。
 青梅の吉川英治記念館には、『新・平家』の、四百字詰めで一万二千枚に及ぶ原稿が、連載を始めた年に生まれた二女・香屋子さんの背を越してしまった写真が展示してありました。
 土井 これほどまでに打ち込まれた『新・平家物語』に取り組む契機の一つが、お父さんの一言であったというのも感動的ですね。
 池田 あの一言の一週間ほど後に、父上が亡くなられている。吉川氏は、『新・平家物語』を、亡父への追慕の思いをこめて書かれていたようだ。
 土井 吉川氏は、“少年のころから『平家物語』を暗誦するほどに読み返した。母親が病床にあった時などは読んで聞かせてあげたりもしていた”(『折々の記以後』、『吉川英治全集』47所収、講談社)と語っています。ですから、『新・平家』には氏自身の親子の思い出が秘められている……。
 ――『新・平家』の冒頭は、「平太よ。また塩小路などを、うろうろと、道草くうて、帰るでないぞ」(全集32)と、使いの出がけの二十歳の清盛に、父・忠盛が呼びかける場面となっています。
 これは、正月早々、意地の悪い叔父のところに金の無心に出かけるところなんですが、まだ目鼻がつかない息子の将来を案じつつ亡くなった、吉川氏自身の父上の面影が託されているようです。
 池田 清盛が、家庭の悩みや貧困のなかで、それをバネにたくましく成長する姿を、氏は強調している。
 「清盛の青年を書くことは、僕自体が青年になることでしたよ」(全集52)との言葉は、「青年の心」「成長の心」を生涯大切にした心情が、にじみ出ている気が私はします。
 こうした吉川氏の心のフィルターによって、青年清盛も現代に生き生きと甦ったのでしょう。
3  「無常」が観念でなかった時代
 ――ところで「祇園精舎の鐘の声」に始まる『平家物語』の冒頭は、日本の数ある名文のなかでも、もっとも親しまれてきた一節です。
 しかし、ここに説かれた「盛者必衰の理」という古き叡智は、残念ながら、現実の教訓としてはなかなか生かされていない……。昨今の世相を見るにつけても、「おごれる人も久しからず」という悲喜劇が、相変わらず、いたるところで繰り返し演じられているわけです。
 したがって、『平家』の問いかけるテーマは、きわめて、今日的な課題でもあります。
 土井 「世の無常」という点では、じつは、現代は八百年前の平家の時代以上に、めまぐるしい移ろいのなかにあると言えないでしょうか。
 たとえば、あの「久しからず」と言われた清盛の栄華は、それでも二十年近く続いております。現代は、社会の万般にわたって、それとはくらべものにならないほど回転が速い。
 逆にあまりに変化が激しすぎて、「諸行無常の響」に耳を澄ませる心のゆとりさえ持てない……。(笑い)
 ――小林秀雄氏が、「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかってゐない。常なるものを見失ったからである」(『無常といふ事・モオツァルト』、『小林秀雄全集』第八巻所収、新潮社)と指摘したのは、もう五十年近く前のことですが、現代人はますます「無常」を見つめる視座を見失ってしまったようですね。
 池田 琵琶法師たちの語る『平家』の音曲に耳をかたむけた当時の人々にとって、「無常」はたんなる観念ではなかった。『平家』の世界のおびただしい死、それは武将をはじめとする登場人物の行動が、沸騰するほどの激しさをもっているだけに、強烈な印象で迫ってくる。
 生も熱く、死もまた壮烈である。『平家』は生と死の鮮烈なコントラストの世界です。聞き入る人々は、いやが応でも、無常を超えた世界を求めざるを得なかったにちがいない。
 その意味から、『新・平家』が戦後に書かれたことに私は着目したい。
 先の大戦は、源平の合戦とは比較にならない、一般庶民を巻き込んだ民族の「死」の体験です。家を焼かれ、親兄弟を亡くし、すべての価値が転倒した。
 「無常」はまさに眼前にあった。その無数の死であがなった体験から、何を引き出すのか。何が生み出せるのか。
 “戦後”のもつ歴史的意義も、数々の理想もそこにあった。『新・平家』にこめた吉川氏の思いの深さが、このあたりからも私には強く感じられます。
4  源平の戦乱と「平和の仏法」
 土井 戦後のそうした理想も、いつしか日本人全体が、「経済大国」のおごりにどっぷり浸ってしまい、なし崩しに消えつつある気がします。
 池田 時の変化はこわいものです。
 過日(一九八八年十一月八日)、イギリスを代表する童画家ワイルドスミス氏と会談しましたが、氏も「現代の社会と文化の退廃の背景には、人間の“愚かさ”と“傲慢”がある」と指摘され、そうした風潮が子どもたちの豊かな「創造性」の泉をおびやかしていると深い憂慮を示しておられました。
 ――ワイルドスミス氏は、池田先生の『少年とさくら』などの童話を、自身のさし絵で、ヨーロッパ各国語で発刊したいと希望されていたようですね。オックスフォード大学出版局から出版の予定とうかがいました。
 イギリスなどは、児童書を本当に大切にする伝統がありますし、すばらしい企画だと思います。
 池田 私の本は別としても、少年の心の世界には、「ロマン」と「希望」の光を贈っていきたいですからね。
 子どもたちは、いわば社会の「明日」です。それがどんな日になるかは、「今日」という大人の生き方にかかっている。
 そのためにも、「昨日」という過去の英知に学ばねばならない。
 土井 吉川氏は、「過去には、決算がついている。古人の業とか、人心の演舞の歴史には、すべてラストの答えがそこに出ている」(全集39)と述べていますね。
 ――そこで清盛ですが(笑い)、やがてこれ以上ないという栄華の坂を、昇りつめていきますね。
 土井 しかし、そこにいたるまではたいへんな道のりがありました。平氏のなかで、初めて昇殿を許されるのは、清盛の父・忠盛ですが、人間社会の常でしょうか、その時の、まわりの公卿たちの嫉妬はたいへんなものだった。忠盛を殿中で暗殺しようとはかったり、悪意に満ちた即興歌を作り笑いものにする。そして、上皇に陰湿な讒言までする。しかし、忠盛は見事な機転で、それらをすべて切りぬけます。
 池田 日蓮大聖人は、あるお手紙(「上野殿御返事」)のなかで、平家が望みを達成するまでの姿を、次のように記されています。
 「いかんがして我等でんじやう殿上の・まじわりをなさんと・ねがいし程に・平氏の中に貞盛と申せし者・将門を打ちてありしかども昇でん殿ゆるされず、其の子正盛又かなわず・其の子忠盛が時・始めて昇でん殿をゆるさる、其の後清盛・重盛等でんじやう殿上あそぶのみならず、月をみ日をいだとなりにき」と。
 ――それにしても、御書には、じつに詳細に論じられていますね。
 池田 そうですね。大聖人御聖誕は、有名な壇ノ浦の戦いから三十七年後になりますが、大聖人は平家の話を種々引用されています。
 ですから、御書を重要な歴史文書として、『平家物語』成立の年代を推定した大正時代の研究もあります。
 土井 それは私も読んだことがあります。大聖人は、叡山へのご遊学をはじめ諸国をめぐられ、じつにさまざまな文化に接しておられます。また幅広い階層の人々へのお手紙からは、広範な社会的広がりが推察されます。こうした点から御書を、当時の『平家』の流伝の状況を探る手がかりにしている学者がいるわけです。
 ――真実の仏法が民衆とともに時代を呼吸している事実の一端が、うかがえますね。
 池田 ともあれ源平の盛衰は、当時の人々にとって、いわば、社会的「原体験」であった。この刻印された体験を掘り下げるなかから、広い意味での仏教の大衆化、内面化という画期的な潮流も生まれてくる。
 無常から常楽へ、戦乱から平和へ――。庶民のそうした願いは、無意識層の深みまで達した切実な“生命の声”であった。大聖人の「平和の仏法」の出現が、こうした時期にあたるのも、決して偶然ではないと私は思っています。
 土井 ところで平家一門の繁栄ぶりがどれほどであったか、古典『平家』は次のようにつづっております。
 「日本秋津嶋は纔に六十六箇国、平家知行の国 卅(=三十)余箇国、既に半国にこえたり。其外庄園田畠いくらといふ数を知ず。綺羅充満して、堂上花の如し。
 軒騎群集して、門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝一として闕たる事なし」(大系32)と。
 そうした絶頂のなかで、かつては、町の横丁で、闘鶏の博打でもやっていたような(笑い)、清盛の義弟・時忠などが、「平家にあらずんば人にあらず」と言いだす始末でした。
 池田 いわゆる“地下”からいきなり“殿上”へという、目もくらむような「出世」によって、一族の人間の心は完全におごり、狂わされてしまったのでしょう。これは決して過去の話ではない。
 哀しいと言えば哀しい、滑稽と言えばこれほど滑稽な姿もない。人間の宿業の劇は、近くから見れば悲劇、遠くから見れば喜劇なのでしょうが、その悲喜劇の実相をぎりぎりまで見つめる目が、文学の眼でしょう。
 そこから、どう悲惨を転換していくかは、また次の課題となる。
 土井 指導者の立場にある人の「おごり」の罪は、とくに大きいですね。
 古典『平家』の冒頭にも、「天下のみだれむ事をさとらずして、民間(=民衆)の愁る所をしらざ(ツ)しかば、久しからずして、亡じにし者どもなり」(大系32)と、エゴと傲慢の指導者の責任を鋭く指摘しています。
 池田 仏法の眼はもっと厳しい。
 大聖人は、人間が悪道に堕ちる原因の一つとして、「国主と成つて民衆の歎きを知らざるに依り(中略)結句は炎身より出でてあつちじ熱死にに死ににき」(「守護国家論」)という方程式を記されています。
 民衆を見おろしてどんなにわが身を飾って見せても、自身の生命にはしっかりと「悪因」が刻みつけられて、永劫に消えることはない――。この因果の理法の厳粛なる「裁き」からは、だれ人たりとも逃れえない。
 土井 こうしてみると、現代こそ、いわゆるハウ・ツーものばかりでなくて(笑い)、古典にちりばめられた、人生観、哲学に目を向けていくことが大切ですね。
 池田 かつて徳富蘇峰が雑誌「国民之友」で、『平家』の冒頭をとおし、時の政治の「おごり」を痛烈に批判しました。
 それは、太陽や星をはじめ、森羅万象が、ことごとく、絶妙な調和にのっとり、見事にバランスを保っている。
 それに対し、人間の「おごり」はこの天然の法理に違背するものであり、ゆえに自滅せざるをえない。その「おごり」を許さない制度をいかに確立していくか、といった論調であったと思います。
 土井 あれほど権勢を誇った清盛も、自身の病気には勝てません。吉川氏の『新・平家』では、清盛の病を案じて駆けつけた一族の人々を描きながら、「これほどな人びとが、これほど心をいためても、一個の人間の死を、どうにもならぬ」(全集35)と。
 池田 大聖人は、その死の様相を、当時の清盛観をふまえて、「をごり身あがり結句は神仏をあなづりて」(「盂蘭盆御書」)と記されています。
 ――清盛の最期については、当時もたいへんな関心事であったようです。歌人の藤原定家の『明月記』をはじめ、『玉葉』『吾妻鏡』にも記録されています。
 ただ『平家物語』に「悶絶躄地して、遂にあつち死にぞし給ける」(大系32)という記述については、国文学者の長い研究の歴史があるようです。
 かつて『小説平家』の著者、花田清輝氏が次のように言っていたことがあります。
 「『あつち死』の典拠は、『大智度論』(信謗品第四十一)の『熱血死苦死等者』とある『五逆罪』『破仏法の罪』を踏まえている。それは、『盂蘭盆御書』の清盛の死を記された御文ではじめて解かった」と。
 土井 なるほど。この清盛の死からわずか二年にして、平家一族は「都落ち」を余儀なくされます。
 ――ええ。一一八三年、一門都落ちをした平家は、次の年、一ノ谷で敗走、二年後には、屋島、そして、滅亡する壇ノ浦へと転々と流浪を続けていきます。
 池田 一人の指導者の力は大きい。同時に一人にのみよりかかった世界は、あまりにももろい。清盛の後、彼に匹敵する後継者が出現しなかった。団結もなかった。そこに、歴史のうたかたのごとく消えた平家の悲劇がある。
 私も何回か、香川県の屋島に行ったことがあります。二十年ほど前のことになりますが、春の屋島の山頂から見た、瀬戸内の静かな海は一幅の名画のようであった。
 その夕なぎの海を見つめながら、はるか昔、源平の合戦で死んでいった無名の武士たちを思い唱題しました。
 とともに平治の乱で平氏に敗れて、野に伏し、地にもぐりながら、力を蓄え時を待った源氏の雌伏の姿を青年と語り合ったものです。
 じつは、この屋島の合戦場となった庵治に私どもの研修道場があり、すぐまえの海岸は、平家の水軍一千余隻が隠れていた「船隠し」と言われています。
5  木曽義仲滅亡の教訓
 ――その平家を都から追いやって、颯爽と入京したのが朝日将軍・木曽義仲ですね。
 土井 沿道には、義仲の入洛を一目見ようと、庶民が群れをなして待ちかまえています。『新・平家』には、義仲が、入洛の日の朝、どの鎧にしようか迷ってみたりする、そんな描写もありますね。
 池田 ちょっとした場面ですが、当時の状況と義仲のスター気取り(笑い)がうまく出ているところですね。
 土井 義仲が入洛してからは、日ごとの招宴、殿上人らの美辞や褒め言葉に、その驕慢の心をさらに強めていく。
 また、自分が武士の棟梁だとの気持ちから、叔父・行家や鎌倉の頼朝らへ競争心をいっそう燃やしていきます。
 池田 吉川氏は、入洛してからの義仲の「私生活の急変などに、より多くの興味を覚える」(全集39)と書いていました。私生活にこそ、その人の本質が現れるとも言える。
 義仲は、表面の威勢からは思いもつかないさまざまな気負いや、思うとおりにいかない焦りを持っていた。そんななかで、自身の良心の「光」と「正直さ」が、「不安な蟠り」に変わっていくのを自覚します。
 「よし、おれも悪くなってやる。いつかは、眼にもの見せてくるるぞ」(全集36)という「心の荒び」をどうすることもできなかった、と。
 義仲が、わずか百日余で滅んでしまった一因も、まぶしい都の光に、本来の自分を見失い、“環境の虜”になってしまったことにあったように思われる。
 否、厳しく見れば、調子に乗って舞い上がる、底の浅い自分こそ「本来の自分」であった。「武」と「力」のみあって、ゆかしき「文」、教養と心の“映え”がない哀しさです。
 ともあれ、日本も“国際社会の義仲”になってはなりませんね。
 ――入洛時、六万騎と言われた義仲も、最後は、主従十騎ばかりで命からがら落ちのびるほど、みじめな姿になってしまう。その最期は、深田の中、泥まみれのまま討ちとられてしまいます。
 土井 古典『平家』は平家の滅亡で終わっていますが、吉川氏は、さらに、勝者・頼朝の死まで描いています。
 『新・平家』には、「心と心、物と物、見事に結晶された源氏も、やはり元へ還る一朝の花でしかなかったのか」(全集39)とあります。
 ――「おごる平家は久しからず」と言いますが、「おごらない源氏」もまた久しくなかった。(笑い)
 池田 そう。では、どうしてそうだったのか。そこに重要なホシがある。
 それを見つめているのが、『新・平家』の『新』たるゆえんの一つだね。頼朝が五十三歳で死ぬのは、義経を殺害してから、ちょうど十年後、征夷大将軍となってからわずか七年後です。
 死の四年前、頼朝は、草木もなびく天下の征夷大将軍として入京します。吉川氏はその姿を「頼朝には、あの上洛中の百日余こそ、思えば、かれの生涯中でも、得意の絶頂ではあったろう」(全集39)と。
 昇りつめたあとは、もう落ちるしかない。頼朝の晩年は、複雑で陰鬱なかげりを帯びてきますね。
 土井 吉川氏は次のように述べています。
 「義仲を仆して、都入りした鎌倉の勢力(=頼朝・義経)にも、もうその日から、後の非業や亡兆が約束されていたのである。
 こうして、過去の歴史と人間の生涯を眺めやるとき、ぼくらは、人間の愚を嗤うよりも、まず(中略)惧れずにいられなくなる。現実現実といって暮しているが、いったい何がよろこぶべきことか悲しむべきことかさえなかなか分かり難い」(全集39)
 たしかにその後、頼朝が死ぬと、鎌倉では、“仲間割れ”と“同士討ち”が次から次へと起こってきます。主だったものをあげてみますと、
 一一九九年頼朝没
 一二〇〇年梶原景時(有力御家人)滅亡
 一二〇四年頼家(頼朝の子・二代将軍)暗殺
 一二〇五年畠山重忠(有力御家人)滅亡
 一二一三年和田義盛(有力御家人)滅亡
 一二一九年実朝(頼朝の子・三代将軍)暗殺
 こうして、源氏の将軍は三代で終わり、頼朝とともに戦った御家人たちも滅んでいきます。これは、北条一門が源氏にとってかわって、権力を集中していく過程でもあります。
 池田 恩師は、「歴史を見ると、外部との戦いがやむと、内部に敵が生まれる」と語っていましたが、鎌倉方の歴史は、その典型とも言えます。
 総じて人間は、「勝った時に、負ける因をつくってしまう」ことがあまりにも多い。「常勝」とは、絶えまない自己革新を必要とするのです。それが、どれほど至難であっても。
 ――権力欲の追求とともに、『新・平家』には、あの争乱を利用し、権力にとり入りつつ大もうけをたくらんだ、“金の亡者”のごとき人物も登場しますね。
 土井 ええ。“金売り吉次”と“朱鼻の伴卜”です。吉川氏は、権力を求めて流転やむことのない人間模様のなかに、この二人をからませつつ、「強欲も一種の業」(全集39)を体現した人間として描いていきます。
 池田 “金売り吉次”は、義経(牛若)を鞍馬山から連れ出した人物として義経伝説にも登場してきます。『義経記』では、義経を奥州(東北)に連れていくのも褒美のためであったと描かれています。
 “朱鼻の伴卜”は、平家の御用商人として、実際に屋敷跡も古図に残っている五条ノ邦綱がモデル(全集39)だと、吉川氏は書いていましたね。
 土井 それで『新・平家』には、「(=この二人は)いったい、どんな命をおびて、この土へ降りて来た魔界の使者だろうか。時、人間の荒廃と乱麻を見て、生まれた者か。
 または、どう平和らしく見える日ごろでも、常時、人間のいる所には必然な者どもか」(全集39)とあります。いつの時代であれ、人が争うのを利用し、また、それをけしかけて、自分だけ利を得ていく人間たちはかならず出てくる。
 ――しかし、一時は、よいように見えても決して長続きはしません。
 吉次について、『新・平家』では、「国と国とを戦わせ、人と人との殺し合いをやらせ、その間に、自身の国を富ませ、栄花と安全を計ろうという御商売が、自然お顔に死相を作っている」(全集35)と。
 この言葉どおり、伴卜は仲たがいをして吉次に斬り殺され、その吉次も溺れ死にという最期を迎えます。
 池田 彼らの実像については、異なる見方もありますが、頼れるもの、信じられるものが何もなく、たしかなものは金しかない、という風潮は現代こそ深刻でしょう。
 土井 そういった目で、今の財テクブームや拝金主義を見てみると、いつのまにか何かに乗せられてしまう人間の姿が浮き彫りにされますね。
6  “心の王者”と“心の貧者”
 ――ところで『新・平家』では、清盛・義仲・頼朝等々いろいろな権力者、武人、公家などが登場しては消えていきます。作者は、「しいていえば、主人公は“時の流れ”である」(全集39)と述べていますが、唯一、全編を通じて登場する人物が阿部麻鳥です。
 池田 麻鳥は一貫して“権門ぎらい”“武門ぎらい”。生涯、庶民として生きぬいていきます。
 もともとは、宮廷に勤める楽手であったのですが、十四、五歳で辞めてしまいます。それも、「同じ楽器を持って、人を楽しませるなら、もう、堂上人の腐え爛れた宴楽に侍して、浅ましい思いを忍んでいるよりは、青空の下で、貧しくても、心から歓んでくれるちまたの人びとの中で、笛を吹きたい、鉦や鼓も打ってみたい」(全集33)との心からです。
 土井 また、麻鳥が独学で医術を身につけたのも、貧しく暮らすまわりの人々に少しでも役に立てば、との思いからでした。
 池田 麻鳥は、市井の真っただ中で苦しみ悩みながら生きていく。決して、聖人君子とは描かれておりませんね。しかし、その生きざまには、流転のはかなさを超えた強さがあった。義仲との合戦に出陣しようとした清盛の甥・平経正が麻鳥と会い、次のように感嘆する場面があります。
 「世の波騒も、権力も、毀誉も褒貶も、栄華も、麻鳥には、何のかかわりもない。どんなに血みどろを好む魔物でも、かれの無欲と愛情に徹した姿を、血の池へ追いこむことはできないであろう。(中略)麻鳥は心の王者。自分は、心の貧者だった」(全集35)と。
 麻鳥を庶民と生きる音楽家であり、医者でもあるとした設定にも深い配慮を感じますね。美を生む芸術家と命を救う善行の医者とは、ともに利害を超えた人生の不滅の価値を追求している。人間、職業はそれぞれ異なっても、何らかの意味で、そうした不朽の価値創造を行いたいものです。それを為すカギが、「心の王者」の一言にこめられていると思う。
 土井 芸術といえば、当時の乱世にあって、一一八三年に『千載和歌集』の撰が命じられています。この年は、平氏が都落ちし、源義仲が入京しています。それで、『新・平家』のその部分に、次のようにあります。
 「歌には、興亡もなく、栄枯もない。(中略)一首の秀歌は、千載集に遺ってゆく。心の匂いをつたえてゆこう。――これこそ輪廻の外に立つ不朽の塔だ」(全集36)と。
 池田 「千載」とは、はるか千年の後までも久しく伝わっていくようにとつけられた名前ですね。どんなに世が乱れても「歌心」「詩心」は変わらない。いつの時代も人々の心を潤し、わが「心の匂い」を伝えていくことができる。そして、その歌の永遠なるがごとく、はるか後世の平和を望みたいとの心が感じられます。
 その意味で、文学、芸術は人間の「死への抵抗」である。自己を永遠化しようというやむにやまれぬ情熱が、その根底に動いている。
 信仰は、ある意味で、その昇華とも言える。偉大な文学と宗教は、決して平行線のものではない。ともに人間の「不滅のものへの祈り」を核としている。
 土井 これも有名な話ですが、清盛の弟の忠度が、都落ちのとき、途中から引き返して、みずから詠んだ百余の歌を『千載和歌集』の撰者の藤原俊成に託していきます。それで、忠度の歌が一首「読人しらず」として撰ばれています。これは、源氏が天下を取った世に平氏の名を出すことはできなかったからなのですが、身は滅びても、一歌が“不朽の塔”となっています。
 ――さて、阿部麻鳥は、吉川氏の創作した数々の人物のなかでも、その存在感といい、作品のなかでの重要さといい、随一であると思います。
 氏が戦前『宮本武蔵』を書いた時、“日本人の一つの典型ができた”と言われていましたが、麻鳥によって、戦後に生きる人間の一つのモデルがつくられたのではないでしょうか。
 池田 そこで思い出すのが、トルストイの『戦争と平和』に登場する農民出身の一兵士プラトン・カラターエフという人物です。彼はトルストイの創造です。ロシア農民の最良の魂を体現させている。ナポレオン、クツーゾフ等々、英雄が波瀾に富む人生を送るなかで、カラターエフはある意味で、地を這うように生きている。しかし、トルストイは、その彼こそ生活に根ざした強さと英知を持った人物として登場させている。敬虔に、それでいて大らかに自分らしく生きる姿は、読む者に鮮烈な印象を残していきます。
 土井 歴史の大河を見つめる文豪の眼は、ともに時代の底流を支える“無名の一人”にこそ注がれているわけです。不思議な一致ですね。
7  父と子、そして夫婦の絆
 ――そこで、『新・平家』は吉川文学を貫く一大テーマである「家族の絆」について集大成した作品となっています。
 一言で「家族」の問題といってもいろいろあると思いますが……。
 池田 そうですね。文明を蘇生へとリードするカギは、じつは、「女性」と「子ども」にあるかもしれませんね。そこに直線的な男性的文化によって疲弊した社会を潤す“未来”がある……。
 これは物語の初めのほうだったと記憶していますが、「美しき家族」と題する一章(全集32)があります。
 ある秋の夕暮れ、清盛が、京の蓮台野で野狩りをしていた。あたり一面に、芒が波打ち、萩や桔梗の花が夕陽に染まっていく――。
 突然、獲物のキツネを見つける。清盛はすかさず弓を引きしぼったが、思わずその手を止めた。見ると親子連れのキツネである。
 牡ギツネは、みずからが犠牲になる覚悟で、妻と子をかばい、らんらんと眸を光らせている。牝ギツネも、そのうしろで総毛を逆立てながら、産んで間もない子ギツネをふところ深くかき抱き、守っていた。
 その姿に清盛は、「あわれや、立派だ。美しい家族だ。へたな人間よりは」と言いながら、矢を宵空の星へと放ち、キツネの家族を見逃す――。
 なにげない一場面ですが、物語の機軸を暗示する光景として、印象に残っています。
 動物の世界でも、家族の美しく強い情愛の絆がある。いわんや人生にあって、家庭は、「幸福の城」であり、「人間性の城」である。
 しかし、このかけがえのなきわが城を犠牲にして、産業社会が成り立ってきた面もあった。それは、人間性を経済性の二の次にする発想でもある。現今の家庭破壊は、人間破壊と同義であると私は憂えています。
 ――現代では、むしろカルガモの親子連れのほうに、心ほのぼのとしたものを感じさせられますからね(笑い)。『新・平家』の冒頭でも「父と子」が大きなテーマとなっていましたが……。
 土井 ええ。青年時代の清盛が家庭を通じて得た父親観は、「社交ぎらいの物ぐさで、出世欲もなければ、経済的なあたまもなく、ただ貧乏性を頑に守ることだけが強い」(全集32)としか見えなかった。
 ――いつの時代も子どもから父親は頑迷でどうしようもなく見えるものでしょうか。(笑い)
 土井 しかし、京都から四国、九州まで出て行き、海賊を生け捕りにし凱旋した時の父親の姿を見て清盛は、「おやじは、えらいのだ。……やはり、本当は、偉かったのだ」(全集32)と認識を改めています。(笑い)
 池田 このあたりは、吉川氏の父親への感慨が重なるのでしょうね。
 吉川氏と父親のおもしろいエピソード(全集52)を読んだことがあります。ある年の大晦日、正月を迎えるにあたって、父親が息子の吉川氏に、「年始歩きには、やはり紋付でなければいけない」と勧めた。
 ところが吉川氏は「紋付なんかいりません」と反抗する(笑い)。父親はカンカンになって「じゃあ勝手にしろ」といい、吉川氏は「一生着ない」と(笑い)。大ゲンカになり、正月三箇日も家族はシュンとなって送ったというのです。
 ところが、何十年か経って吉川氏は、その時の父親のことをしみじみと思い出したといいます。
 ――それは、氏が文化勲章を受けて紋付を着ることになった時でしたね。(笑い)
 どんなに反抗してみても子を思う親の心の温かさは、後になればなるほど、不思議に強く感じられるものですね。
 池田 そう。自分のことを本当に思ってくれる愛情が、どんなに得がたいものか、年をとるにつれて身に沁みてくるものでしょう。
 土井 結局、家庭の絆は愛情しかありません。吉川氏は、幻の栄華を追いゆく殿上人の虚栄の家庭がいかに脆いか、それにくらべて、大地に根を張った赤裸々な庶民の家庭が、いかにたくましく、また美しいかを浮き彫りにしておりますね。
 麻鳥・蓬夫婦はその象徴です。
 池田 そうですね。人はいつも幸福は遠くにあると思うが、そうではない。自分の足元につくりあげるものである。
 吉川氏は、平凡であっても大切な夫婦のあり方を、じつに生き生きと表現していますね。
 夫の麻鳥は無類のお人好し。妻の蓬も心清らかな女性だが、なにしろ口やかましい。(笑い)
 ただ、麻鳥は、この点、役者が一枚上で(笑い)、文句の多い妻を上手になだめたり、すかしたりしながら、みずからの信念と行動を譲らずに貫きとおしている。
 土井 ええ。吉川氏は、たとえばこんな描写をしています。
 「『口ばかり達者な女』と、おりおり、舌打ちはしても、それさえ、いとおしくなるほど、良人の修養みたいなものに、いつか、麻鳥も馴れてきた」(全集35)と。(笑い)
 当然、蓬はじめ女性のほうにも、言い分があるところと思いますが……。(笑い)
 池田 私の恩師もよく、「妻の言うことは、よく聞きなさい。しかし、それを鵜呑みにしてはいけない」(笑い)と言われてました。
 とくに大事な仕事の問題などで、妻の意見に左右されるような男性は信用しませんでしたね。
 しかし、いくらいばっても、聡明な婦人には、男性は絶対にかなわないとも言われていた。(笑い)
 人情の機微に、まことにこまやかな先生でした。
 土井 吉川氏は、歌人の与謝野晶子さんから、次のような言葉を直接聞いたそうです。
 それは、「夫婦愛は、その日その日の創作ですよ。わたし達夫婦のことを、よく人がどうしてそんなに仲がいいかと云いますが、毎日の創作ですからね、夫婦の愛情生活は」(「おせっかいな弁」、『吉川英治全集』47所収、講談社)と。
 こうしたみずみずしい心で、「家庭」という作品を、つくりあげていく主役は、なんといっても女性ですからね。(笑い)
 池田 いや、やはり両方じゃないかね(笑い)。家庭が「創作」していくものであるならば、夫婦とは、ともに共通の「主題」をもって、前向きに進んでいくべきでしょう。
 なかんずく、ともに社会貢献へと進む門下の夫妻の姿を、日蓮大聖人は次のようにたたえられています。
 「鳥の二の羽そなはり車の二つの輪かかれり・何事か成ぜざるべき、天あり地あり日あり月あり日てり雨ふる功徳の草木花さき菓なるべし」(「日女御前御返事」)と。
 つまり、大いなる目的に生きる夫婦の絆とは、鳥に二つの翼がそなわり、車に両輪があるのと同じようなものである。
 それは「大空」と「大地」、また「太陽」と「月」、そして「陽光」と「慈雨」という自然のハーモニーにもたとえられる。
 そのうるわしき一家の庭には、美しい幸福の花が咲き、豊かな人生の実が結ばれていく――たしかに私も、このとおりのすばらしいご夫婦の姿を数多く知っています。
 土井 やはり「夫婦の絆」の「創作」といっても、戦って勝ち取っていくものなのでしょうね。ともにめざしゆく「何か」を持った夫妻には強さがある――。
 池田 物語の麻鳥・蓬夫婦も、決して順調な人生行路だったわけではない。
 あまりにも忙しすぎて、十分、面倒を見られなかったこともあり、一人息子が非行に走ってしまい、盗賊の仲間に加わって行方もわからないという大きな悩みもあった。
 しかし、懸命に人のためにつくしながら、一筋の道をまっすぐに生きぬいていく両親の後ろ姿に、その不良息子も、やがて心を改める日がくる――。
8  「家庭の幸福」から「平和な社会」へ
 土井 『新・平家』のラストは、華やかな権力人が、次から次へまるで彗星のごとく消え去ったあとに、この一組の庶民の老夫婦が、奈良の吉野山の桜をしみじみと眺め、その様子を、息子が見守っているという場面で幕を閉じます。それは、大長編の掉尾を飾るにふさわしい見事な大団円です。
 何が本当の「人間の幸福」か――。また、何が真実の「人生の勝利」か――、を読者に語りかける結末ですね。
 ――これは、吉川氏自身が実際に、戦後まもなく、目のあたりにした光景が“モデル”(前掲「おせっかいな弁」)になっているようですね。
 池田 そのようです。
 終戦三年目の春、吉川氏は夫人とともに、「一目千本」と言われる吉野山の花見に行く機会があった。その折、ある老夫婦が、崖ぶちの草の上に、新聞紙を敷いて、まるで雛人形のように並んで座っていた。吉川氏夫妻は、そのほほえましい姿に心ひかれ、そっと見守った。
 この老夫婦は、やがてアルミの粗末な弁当箱を取り出す。中身は、「麦めし」か「豆のご飯」のように見えた。お菜も、梅干しにたまご焼きといったささやかなものであった。
 だが、二人は、それをひと箸ひと箸味わいながら、かなたの花景色に眺め入っている。しかも、何も言わず語らず――。
 しかし、吉川氏は、その夫婦の間に交わされる「千言万語」の語らいを心で聞きとるわけです。
 吉川氏は思う。その老夫婦は、「谷間をへだてた吉野山の花を前に、実は、自分たち二人の歴史を二人で読み合っている」のだろう。
 そして、それは、「ひとが書いた歴史ではなく、男の一生と女の一生を賭けて書いてきたお互いの記録」であるにちがいないと――。
 ――戦争の傷跡も生々しい当時にあって、その老夫婦のほのぼのとした光景は、まるで「平和」そのものの象徴のようにも映ったのでしょう。
 それまで、「お国のため」に、あまりにも家庭が土足で蹂躙されてしまいましたからね。
 土井 その意味では、吉川氏は、戦後日本人の幸福像を見事に凝縮したと言えるかもしれません。
 「この辺が、人間のたどりつける、いちばんの幸福だろう」(全集39)と。
 青年「武蔵」の求道から、老夫婦「麻鳥・蓬」の勝利まで――、吉川文学が時代とともに切り開いてきた「人生観」の深まりが、ここに見られると思います。
 池田 ただ、吉川氏の示したその「平凡な幸福」とは、一つの到達点であるとともに、新しい出発点でもあったことを見逃してはならないでしょう。
 すなわち、「家庭の幸福」を、「平和な社会」へとどう開いていくか――。
 吉川氏の幸福像には、本来、「家庭」から「社会」へ、また「一人」から「万人」へと大きく開かれていく広がりが、孕まれているからです。
 ――たしかに戦後の日本は平和で急速な経済成長を遂げましたが、日本人の「家庭」は、「社会」へ開いていくというよりは、むしろ、こぢんまりとしたマイホーム主義へと閉ざされてきたきらいがあります。
 決して、マイホーム主義を否定するわけではありませんが、今日の青少年のさまざまな問題の背景には、家庭が「閉ざされている」がゆえの、閉塞感が指摘されるところです。
 池田 いずれにしても、家庭の「窓」を社会に、また未来に向かって広々と開き、呼吸していくことが大切でしょうね。
 そうでなければ、家庭の空気がいつしか淀んでしまう。倦怠感も進む。また自身の心も沈殿していってしまう。
9  義経の死に見る「平和への祈り」
 土井 少し次元は違うかもしれませんが、吉川氏の家庭では、家に訪れてきたお客さんに対しても、お子さんがきちんと挨拶するようしつけておられたようですね。
 ちょっとしたことですが、社会との接点を大切にしておられたのでしょう。
 ――今の「社会」への広がりに関連した話になりますが、さすがの吉川文学も、具体的な「民の和楽の設計図」までは示しえなかったというような指摘もありますが……。
 池田 それは、そんなに簡単にできることではないでしょう。(笑い)むしろ、吉川氏は、その「設計図」づくり、そして、実際の「建設」は、読者、とくに若い人々に託したのであろうと、私はとらえたい。
 ――ところで、『新・平家』で戦乱の皮切りをなすのは、「保元の乱」ですが、これは家庭の平和を社会に開くどころか、反対に、血族が敵同士に引き裂かれての戦いでした。
 土井 ええ。吉川氏もその様相を列挙しておりますね。
 「内裏方新院方
 後白河天皇…(御兄弟)…崇徳上皇
 関白忠道……(兄弟)…左大臣頼長
 同………(父子)…宇治入道忠実
 源義朝……(父子)…源為義
 同………(兄弟)…頼賢、為朝など六人
 安芸守清盛…(叔甥)…平馬助忠正」
 このなかでも、嫡子・義朝と戦わざるをえなくなった源為義は、戦いの前夜、みずからの形見を、わが子のもとへ届けさせています。
 その姿をとおし、吉川氏は次のように問いかけています。
 「“――明ケヌレバ、敵トナル子ノ許へ、遣ハシケル、親ノ心ゾ、哀レナル”と『保元物語』は書いている。人間、父子の情、理性の悩みも、これほどなのに、なお、戦わねばならなくなるとは、いったい、どういう地上の約束なのであろうか。はたまた、宇宙の一環に、べつに目に見えない魔の作用でもあるものだろうか」(全集32)と。
 池田 「悪」の本質は、一面から言えば、「分断」にあるといえる。小は家族間から大きくは国家間の対立憎悪まで、どうしようもない人間社会の惨劇をもたらしている。
 ですから仏法では、「人の身に入つて自界叛逆せしめ」(「法蓮抄」)云々と、人間を自界叛逆(内乱)へ、分断へと向かわしめゆく「悪」の生命作用を鋭く喝破しているわけです。
 土井 たしかに、歴史を見ると、なにか宿命的な悪循環さえ考えさせられますね。父の命を断たざるをえなかった義朝の忘れ形見、頼朝と義経の兄弟も、その後、また骨肉相食む争いを繰り返す運命にありました。
 池田 日蓮大聖人の御書(「小乗大乗分別抄」)には次のような一節があります。
 「たとえば野馬とんぼ蜘蛛くもの網にかかりかわける鹿の陽炎かげろうふよりもはかなし・例せば頼朝の右大将家は泰衡を討たんが為に泰衡をたぼらかして義経を討たせ、太政入道清盛は源氏をほろぼして世をとらんが為に我が伯父平馬介忠正へいまのすけただまさを切る義朝はたぼらかされて慈父為義ためよしを切るが如し、此等ははかなき人人のためしなりと。
 土井 それにしても、仏法は人間社会の構図を本質から鋭くとらえていますね。
 池田 こうした極端な例にかぎらず、人間の心はつねに微妙な移ろいを重ねていく。その移ろいに移ろいが重なり、流転に流転が続いていく時、やがて小さな確執の雪玉が大きな悲劇のなだれへと転がっていく。その小さく、そして重大な「心の変化」に対する高感度のアンテナを持っているのが詩人であり、文学者でしょう。文学を味わうことは、そのアンテナを磨くことにもなる。
 あらゆる社会の指導者が、また家庭においては両親が、自分なりに文学を愛することが、どれほど心豊かな世界をつくっていくことか。
 土井 『新・平家』では、骨肉の争いが戦争の悲劇の象徴なら、平和への願いもまた肉親の愛に託して語られています。
 池田 だからこそ、読者の心に切々と突き刺さってくるとも言える。氏は、義経の母をして、次のように語らせている。
 「武門に立っても、おん身は決して、驕る人とはならないでくださいね。人の非道を憎み、人の権力や栄花をたおしても、また己れが、前の権者に代って同じことを振る舞えば、さらに次の敵が起って、討ちたおそうとするでしょう。百年、千年、そんな修羅道を繰り返してゆく恐ろしさと愚かさを思うたがよい。馬上の将とはおなりになっても、どうぞ、世を守り人を愛して、よい君よと、慕われるようなお方になってください」
 まさに『新・平家』には、「平和への祈り」がこめられている。そして、平家を滅亡させた英雄・義経の死というクライマックスにおいて、その祈りの炎は未来を照らすことになる。
 すなわち氏は、この母の願いのままに、義経がこれ以上の戦禍を止めるため、みずから兄・頼朝の追手にかかり、いわば無抵抗に死んでいく姿を描いている。それは、“復讐から復讐へ、瞋恚から瞋恚へと、とどまることなき「業の輪廻」と「血の歯車」に、みずからの犠牲によって、終止符を打ちたいとの崇高な願いからであった。我一個の死によって、無数の生をあがなうために……”(全集39)。義経の最期をこのような「聖なる死」として描いたところに、人間苦の果てしなき連鎖を断ち切るために、氏が模索していた方向性が見えると思う。それはまさに菩薩的勇気と言えるかもしれない。
 ――麻鳥夫妻も桜を眺めながら、その義経の心をしのんでいますね。こうして『新・平家』の約半世紀にわたるドラマは、一二〇三年の時点をもってピリオドを打ちます。
 先ほども『平家』と日蓮大聖人の時代について話題になりましたが、ちなみに、大聖人の立教開宗(建長五年〈一二五三年〉四月二十八日)は、さらにちょうどその半世紀後のこととなりますね。
 池田 それは、人間の生命に存在する魔性を断ち切り、「平和」「安穏」へと国家、社会の宿命を転換していく大闘争の出発であられたわけです。
 すなわち三十二歳の御年から、ある時は寺を追い出され、住処を逐われ、両親を苦しめられ、夜討ちに遭い、悪口を数知れず言われ、打たれ、傷を負い、弟子を殺され、頸を斬られようとし、二度も流罪に処せられた。まさしく、「二十余年が間・一時片時も心安き事なし、頼朝の七年の合戦もひまやありけん、頼義が十二年の闘諍もいかでか是にはすぐべき」(「単衣抄」)と仰せのとおり、未来万年へ向けての大慈大悲のお姿であられた。
 ひるがえって歴史を見ると、いまだ権力闘争のための政治や力の論理を、人間は一つも乗り越えていない。いかに華やかな文明の色彩で飾っても、その本質はドス黒い修羅である。
 土井 ある意味では、封建社会の鎌倉時代に、大聖人が一個の人間の変革に光を当て、生命解放の戦いを開始されたのは、あまりにも早かった。たいへんな時代の先取りをされていたと言えるかもしれませんね。
 池田 ちょうど『新・平家』が連載されていたころ、私が拝読した御書(「御義口伝」)の一節があります。
 「大乗無価の宝珠を研き顕すを生値仏法と云うなり」――。わが胸中の尊極の宝珠を磨き、顕現させていくことこそ一切の要である。容器をいくらとりかえても、濁った水が入ったままでは意味がない。と同じように、「生命の尊厳」といい、「平和の実現」といっても、所詮「人間の社会」である。
 ゆえに「人間」の生き方と人生の諸相が変わる以外に社会の変革もない。これが道理です。
 仏法は一人一人が人生の幸福を勝ち取りながら、真実の平和へと生きぬく道を示しているわけです。吉川氏の描く「義経」の犠牲も、悲劇のなかにも、そのポイントを美しく映像化し結晶させています。

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