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第四章 歴史との対話 『三国志』の世界2

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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9  光のあたらない「陰」に本物がいる
 土井 『三国志』には、ほかにも数えきれないほどの人生模様が登場しますが、鼎談『敦煌を語る』(角川書店)でふれられた人物で、敦煌太守(長官)として活躍した倉慈も、この「三国時代」の人でしたね。
 池田 読んでくださったのですか。(笑い)
 正史『三国志』の「魏志」(巻十六)に、彼のことが記されていますね。まことに簡潔な記述ですが、私には、忘れられない歴史の一コマです。
 華やかなスポットライトを浴びている“大事件”や“大物”を追っていくだけでは、歴史の奥深さはつかめない。
 光の当たらない「陰」にも、本物の人物がいるし、また人知れぬところで、歴史を動かすドラマが生まれている。私も、なるべくそうした人物を語りたいと思っています。
 ――ジャーナリズムを“その日その日主義”と訳した人がいましたが(笑い)、心しなければならない視点と思います。
 土井 群雄が並び立って中原に鹿を逐っている、まさにその同じ時に、中央の舞台から遠く離れた辺境の地で、壮大なる文化創出への礎を、黙々と築き上げていた人物がいたわけですね。
 池田 三国鼎立の大動乱の世にあって、当時、シルクロードの要衝、敦煌の地も、荒廃を極めていた。
 中央との連絡が絶え、二十年間にわたって、太守が不在という状態が続いたため、その地の豪族たちはやりたい放題で、横暴に振る舞っていた。
 彼らは、庶民のわずかばかりの田畑をも貪欲に取り上げてしまったので、庶民は「立錐の土無く」(キリを立てるほどの土地もない)という窮乏に泣かされていたといいます。
 土井 はい。さらに傲れる有力者たちは、西域の諸外国から交易のために訪れてくる人々に対しても、さまざまな妨害を加えたので、交流も進展しなかったようです。
 池田 そうしたなかに、太守として赴任した人も何人かはいたが、結局、現実と妥協してしまい、何ひとつ改革しようとはしなかった。
 いつの時代にも、現実の壁はあまりにも厚い。捨て身の覚悟がなければ、新しい事業はなし得ない。そこに登場したのが、この倉慈です。
 彼は、敦煌の地を、わが使命の天地と胸中深く定めていたのでしょう。敢然と庶民を守りぬく戦いを開始した。
 ――それは太和年中(二二七年―二三二年)といいますから、ちょうど孔明が五丈原の決戦に挑もうとしていたころのことでしょう。歴史には、こうした“静かな戦い”があることを忘れてはいけませんね。
 池田 倉慈は非道な豪族らに対し、一歩も退かなかった。そして、ジリッ、ジリッと、本来の公平な土地の分配にまでもっていく。庶民の喜びは大きかったし、やがて敦煌の地に、民衆文化が花開く土壌ができあがっていった。
 土井 また彼は、異国からの旅人も最大に守り、大切にしていますね。こうして、貴重な国際交流への道も大きく開かれたわけです。
 池田 さらに倉慈は、山積みの裁判沙汰の問題も、みずからの陣頭指揮で一つ一つ解決にあたっている。
 それは、民衆を抱きかかえながらの戦いであった。その激しい辛労と疲れもあったのでしょう。彼は在職中に急死する。
 土井 ええ。庶民も異国の人々もこぞって、その突然の死をいたみ、彼の遺徳を偲んだといいます。
 いずれにしても、敦煌を舞台にした倉慈の活躍は、わずか数年間のことにすぎません。しかし、残したものは、じつに大きかったですね。
 池田 惰性の漫然とした二十年間よりも、たとえ一年間であっても、純粋な情熱を燃焼させた仕事は残る――。
 倉慈も、魂魄を永遠に留めんとするがごとき、気迫の一日一日を積み重ねたにちがいない。彼の死後、敦煌の太守に任じられた人々は、真剣に、倉慈のあとに続こうと努力したと言われる。
 彼の尊き「一念」と人生の「軌跡」は、後継の指導者たちの「模範」となり、「原点」となった。
 土井 敦煌の穀物生産を五倍にも飛躍させた潅漑事業も、倉慈に続く一人の指導者によってなされました。
 しかし、史書の『魏略』には、その潅漑の功労の指導者でさえ、倉慈の人徳には及ばなかったとあります。
 池田 あの絢爛たる文化の遺産、敦煌の莫高窟が築かれ始めたのは、倉慈の苦闘より、およそ一世紀ほど後のことです。
 “大きく(敦)輝く(煌)”――敦煌の悠久の歴史とともに、その名は長く語り継がれていくでしょう。
 華やかなものは、長続きはしない。しかし、地味であっても、庶民の真っただ中で戦いぬいた人生には、実像の生命の輝きがある。
 みずからの使命の舞台に生ききった倉慈の人生――なにげない歴史の記述の奥にも、美しい心の響きがあり、ドラマが秘められています。

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