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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 歴史との対話 『三国志』の世界2

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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1  「愉しみなき所にも愉しむ」
 ――さっそくですが、インドの国際非暴力研究所から国際平和賞が贈られるそうですね。
 池田 いや、どうも。
 土井 一九八八年一月にはガンジーの高弟ラマチャンドランの賞も受けられていますね。
 先生の平和行動は「精神の戦いである」と評した人がいました。インドのような“精神の大国”の眼には、“精神なき世界”への波動の深さが、くっきりと見えているのでしょう。
 池田 恐縮です。
 ――インドへ行かれるのですか。
 池田 多忙で動けないもので、代理として東洋哲学研究所の川田洋一所長に行ってもらうことになっています。
 インドは私ども仏法者にとって大恩ある国です。その意味で、日印の友好の一助ともなればとの気持ちでお受けすることにしました。
 ――十月(一九八八年)には「米国議会・青年平和国際賞」も受賞されましたね。
 また、BSGI(ブラジル創価学会インタナショナル)も十一月に「文化・教育功労大十字章」を贈られました。二十一世紀まであと十年余。日本も経済で有名になるだけでなく、精神性、文化の貢献を真剣に考えねばならない時代に入っています。
 土井 同感です。イギリスなどは、日本への信頼感をもっている人が、五パーセントしかいないという世論調査もあります。経済摩擦も大きい問題ですが、人間同士と同じく、つきあいの前提となる「信頼感」を得る働きかけが大事と思います。
 池田 当然、政治・経済の次元も大切である。とともに文化の交流が大切となる。さらに、その根本の道は、平和への「信念」と「行動」です。
 その現実の戦いがなければ、いつまでたっても、日本は真の意味の先進国にはなれないのではないでしょうか。
 要は人間の未来、人類全体の運命というものに、どこまで真摯な責任感をもっているか。その心の広がりこそ、いわゆる「国際人」の本質となると思います。
 土井 吉川英治氏は、戦争は終わっても、「人間苦、人間愚の無限軌道」は続いている、というような表現をされていましたね。
 「心の時代」といっても、そうした人間のもっとも大きな命題に真っ向から取り組むものがなければ、一つの流行で終わってしまう気がしてなりません。
 ――その反映として、人間の生き方も受動的になり、何か、狭められている感じがありますね。モノや情報が氾濫する一方で、本当に心から「喜ぶ」とか「感動」することも少なくなってしまった……。
 池田 かなりまえですが、吉川氏は、たとえば、お正月の楽しみ方について、「現代人も
 よく遊びよく働き、生活をエンジョイすることで負けはとらないが、それは『愉しみある所に愉しむ』程度につきている。けれどむかしの日本人は、(中略)愉しみなき所にも愉しむという何か今日よりも幅の大きい豊かな人生設計を心にもっていたと思う」(全集43)――と言っていますが、一つの急所を言いあてていると思う。恵まれた環境にあるから幸福だとは、かならずしも言えない。それも一つの幸福にはちがいないが……。
 日蓮大聖人は新年のお手紙(「十字御書」)に、「月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる」と。
 大切なことは「心よりいでて」つまり、幸福とはつきつめればわが心の中にある。ゆえにその心を鍛え、耕し、手入れし、豊かな緑の園にしていくことが、幸の花束と果実でわが身を飾ることになる。また、平凡であっても、日々新鮮な「感動」とたしかな「喜び」をつくっていくことができると思います。
 ――これからは、余暇の時間もさらに増えますし、それをどう人生と社会の価値へと発展させていくか――。
 その主役となる「心」それ自体の輝きが問われてきますね。
 土井 豊かな人生設計という意味では、人生の知恵というのも大事ですね。吉川氏は、日常の機微を大切にしています。一つの例として、どんなに執筆で忙しくても、家にいる時は、お子さんと一日朝夕二回、かならず目と目を合わせて挨拶を交わしていたそうです。(吉川英明『父吉川英治』文化出版局)
 それは「生活に句読点をつけてあげたかった」からだと言うのですね。
 池田 自分をじっと見つめてくれている人の存在を忘れない限り、人間は決して大きくは過たないですからね。
 こうした、人間形成にせよ、思いやりの心があれば知恵はいくらでもわいてくるものです。また「句読点」のない文章が間のびするように、生活と人生にも、生き生きとしたリズムを与える「けじめ」が大事ですね。
 ――なるほど。われわれももっと努力して、人生の句読点をつくっていきたいものです。
2  理論をいかに生きた理論とするか
 ――そこで吉川文学の持ち味は、何といってもさまざまな名場面を描きながら、一人の人間の限りない可能性を訴えていることにあると思います。このまえ、『宮本武蔵』を読み返してみましたが、武蔵と吉岡清十郎の戦いが目にとまりました。
 土井 無名の武蔵が、京都で最高峰と言われ、千人近くの門弟をもつ名門の清十郎に挑戦する場面は、勝負は何が大切かを見事に映しだしています。
 池田 この有名な「蓮台寺野の闘い」については、もう二十年以上も前だと思いますが、私も関西の会合で少々話した記憶があります。
 当時は、『人間革命』の第二巻の執筆準備をしていた時で、何かの参考になればと思い、いくつかの本を読み、『宮本武蔵』もその時、三回目の読了をしました。最近、当時の日記が出てきて、そのことも書いてありました。じつは戸田先生も、獄中で四十代に、吉川氏の『宮本武蔵』を読まれています。
 土井 そうでしたか。あの試合は、武蔵にとっては、最初の公式試合とも言うべきものですね。
 池田 相手の清十郎は、名門の跡継ぎであったが、保守的で権力者とも結託していた。彼はできあがったものを受け継いだだけで、それをさらに発展させようという意欲はなかったとされている。
 土井 そのありさまを、吉川氏は繰り返し描いていますね。たとえば、「さしも、室町将軍家の兵法所出仕として、名誉と財と、両方にめぐまれて来た吉岡家も、清十郎の代になって、放縦な生活をやりぬいたため、すっかり家産は傾いてきた」「今の弟子も、清十郎の徳についているのではない、拳法(=父)の徳望と吉岡流の名声についているのである。吉岡で修行したといえば、社会で通りがよいから殖えている門生なのであった」(全集15)などの記述があります。
 池田 ところが、清十郎はそれに気づかない。人間は、自分の人気や立場のことばかりが心を占めるようになると、その分、次第に人の心が見えなくなる。また小細工やかけひきだけで、本当に自分を磨く労苦を忘れてしまう。
 それに対して青年・武蔵は野人であった。捨て身であり、意地があった。希望があった。勝たねばならないという真剣勝負の気概に燃えていた。
 いわば、一方は現在の栄えを失うまいとする「保守の一念」であり、他方は失うものとてなく、ただ未来にかけた「不惜の一念」であった。
 その違いが、錬磨の差を生み、武蔵の勝利に京都中は大騒ぎになります。概して勝負というものは、戦うまえから決している場合が多い。
 土井 武蔵は清十郎と会ったとたんに、失望していますね。(笑い)
 「武蔵が、求めているのは、常に自分以上のものだった。しかるに今、この敵を正視すると、一年も腕をみがいて会うほどの敵でなかったことが一目で視てとれたのである」(全集16)
 武蔵は闘う気をなくしてしまいますが、闘わないわけにもいかなかった。(笑い)
 池田 もはや吉岡一派の剣道は、格式や形式にとらわれて、実践的ではなくなっていたのでしょう。それに対して武蔵は、あくまで実践のなかの実践で進んできた。実践と理論との勝負が決せられたとも言えますね。たしか吉川氏も、それに近い評論をどこかでしていたはずです。
 土井 ええ。武蔵が一乗寺下り松で吉岡一門の精鋭七十余人を相手に闘うところにあります。
 「彼(=武蔵)が信じて疑わずに通って来た道は、なんでも実践だった。事実に当って知ることだった。――理論はそれから後、寝ながらでも考えられるとして来たのである。
 それとはあべこべに、吉岡方の十剣の人々を始め、末輩のちょこちょこしている人間まで、皆、京八流の理論は頭につめこんでいて理論だけでは、一家の風を備えたものも少くない。けれど(中略)いつでも死身となる稽古をして来た武蔵とは、根本からその心がまえも鍛えも違っている」(全集16)
 池田 そう。決して理論が必要ないのではない。理論をいかに生きた理論とするか。武蔵はその著書『五輪書』のなかに「何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにおしゆる事、是兵法の実の道也」(渡辺一郎校注、岩波文庫)と書いています。
 ――有名な二刀流というのも、実践のなかで生まれた……。
 池田 吉川氏は、武蔵は大勢を相手に闘っているうちに、自然に二刀を手にしていたと書いていますね。いろいろな説もありますが、私もそれが近いような気がします。
 無我夢中のもがきのなかから、人間の可能性の極限ともいうべき剣の形を開示したとも言えますね。
3  「汝の運命の星は汝の胸中にある」
 ――先日、読書世論調査(「毎日新聞」)が発表され、この一カ月間に多く読まれた本の第四位に、吉川氏の『三国志』と池田先生の『人間革命』がともに並んでいました。
 他は最近話題のものが多いのに対して、『三国志』は連載開始から約五十年、『人間革命』は二十数年で別格になっています。(笑い)
 土井 この対談の影響もあるかもしれませんね。(笑い)
 池田 読者の皆さまのおかげです。ただ恩師の真実を残したいだけです……。しかし、よく一世代三十年と言いますが、ここからも吉川文学は、世代を超えて幅広く支持されていることがわかりますね。
 吉川氏は、「歴史小説」を、自動車のバックミラーみたいなものだと、たいへんおもしろい表現でたとえている。
 つまり、「後ろを見つつ、前へ進む」という、双方向に動く眼で、氏は、時代の変化と人間の永遠性を見つめていた。
 氏の作品には、そうした「歴史」との生きた対話があるから、色褪せないのでしょう。
 ――それが、前回ふれていただいた「三国志の詩」ということにもなっていく……。
 吉川氏自身、「三国志から詩を除いてしまったら、世界的といわれる大構想の価値もよほど無味乾燥なものになろう」(全集24)と述べていますが、今回は、その点をもう少し論じていただければと思います。
 池田 そうですね。
 私も、昔の蜀の地域にはまだ行ってないもので、一度行ってみれば、また見方も変わってくるかもしれませんが……。
 じつは、第五次訪中の折に、桂林を訪問し、漓江の川下りをした時に、船の中で、中日友好協会会長の孫平化氏と次回はぜひ、“蜀”や“敦煌”へ、という打ち合わせもしたのです。しかし、第六次訪中の時も、結局、多忙で果たせず残念に思っております。
 ――「三国時代」には、孔明、玄徳、曹操、孫権、関羽、張飛等々……、じつに多士済々の人材が輩出しております。乱世のほうが人物が出るのでしょうか。(笑い)
 池田 そう言えるかもしれない。青年は、北風に向かってこそ大樹へと育ちゆく生命の発条を秘めている。
 また、戸田先生は、「時代が人物を要求する」とよく言われていた。また、「東洋に偉人が出たときは、西洋にも偉人が出ている」といった見方もされていました。
 土井 乱世を舞台に生きゆかんとする丈夫の心を、吉川氏は、曹操をして次のように語らせております。
 すなわち、晩秋の銀河の煙る天を仰ぎ見ながら、「刻々、動いて休まない天体と地上。……ああ偉大だ、悠久な運行だ。大丈夫たる者、この間に生まれて、真に生き甲斐ある生命をつかまないでどうする!おれも群星の中の一星であるのに」(全集24)と。
 池田 いいですね。
 青年は、天を友とし、永遠と語りゆくようなスケールをもって、わが胸中の星を輝かせていきたいものです。
 「汝の運命の星は汝の胸中にある」とは、青年時代、私も大好きな言葉でした。
 人がどうあろうと、また、世間がどうあろうと、そうしたものに一喜一憂していては、本当の自分を見失ってしまう。しかし、権力を掌中にした曹操は、次第にみずみずしい生命を失っていく。
 土井 対照的なのが劉備たちですね。
 『三国志』の人形劇で有名な川本喜八郎氏は、「裏切りが日常化していた乱世に(中略)、この三人(=劉備・関羽・張飛)の美しい結びつきがあったからこそ、『三国志』は時代を超えることが出来たのであろう」(『三国志百態』ぱるぷ)と言われています。
 池田 彼ら三人が、同じ理想を掲げ、生涯ともに生きゆく誓いを交わしたのは、十代の後半から二十代前半のころであった。彼らは、その誓いを、四十代、五十代という、ともすれば利害や保身に流されやすい年代になっても、変わることなくまっすぐに貫きとおしている。
 誓いは、貫いてこそ、真実の誓いとなる。理想も、生涯追求してこそ、理想と言える。時とともに権威や名声は色褪せ、形あるものは変化していくが、深き「心」と「心」の共鳴で奏でる魂の歌は、「人生の詩」「人間の詩」として、いつまでも謳い継がれていくものです。
 ――なるほど……。
 池田 仏法のなかにも、「他人なれどもかたらひ語合ぬれば命にも替るぞかし」(「呵責謗法滅罪抄」)――他人であっても心から語り合えば、命を賭して身替わりになるものである――という、私が深く心に留めねばならないと思ってきた一文があります。
 歴史を見ても、友を信じ、みずからも友の「信頼」に応えんとする人間の結合の力は、何ものにもたじろがぬ強さをもつ。
 いわんや、偉大な目的に生きゆく人々は、守り合い、ともどもに励ましながら進んでいかねばならない――。
 これは戸田先生が、『三国志』を通じ、またホール・ケインの『永遠の都』を学ぶなかで、愛する青年たちに遺言のように言われたことでした。
4  劉備と孔明、水魚の交わり
 土井 そして、「三国志の詩」と言えば、やはり、孔明でしょう。数多い英雄のなかで孔明の存在は、ひときわ輝いています。陳寿は、正史の「蜀志」で孔明について、「公平無私で、賞罰のけじめがはっきりしていた」(宮川尚志『三国志』、『中国古典新書』所収、明徳出版社)と言っています。
 池田 それは、リーダーとしてもっとも必要な条件でしょう。
 しかも、孔明が死んだとき、彼の家にはまったく「余財」が残されていなかったという。私利私欲というものとは、完全に無縁の人であった。
 土井 また、孔明は、自国の領土を広げればいいというような考えではなく、あくまでも「中国統一への大志」に生きています。本物の「大志」があったからこそ、それ以外のことに対して無欲でいられたのでしょう。
 池田 玄徳は死に臨んで孔明にすべてを託し、「もし劉禅(=劉備の子)がよく帝たるの天質をそなえているものならば、御身が輔佐してくれればまことに歓ばしい。しかし、彼不才にして、帝王の器でない時は、丞相、君みずから蜀の帝となって、万民を治めよ……」(全集27)と言い残す。
 ここは、吉川『三国志』のなかでも名場面の一つですが、劉禅はいまだ若く、また、暗愚ではないまでも、凡庸な人物で、とても帝王の器ではなかった。
 しかし、孔明はその劉禅に忠誠をつくしぬきます。人は自分が偉いと錯覚するところに破滅が始まる。これはある程度の立場にいる人間ほどおちいりやすい落とし穴です。だが、孔明は、帝位などまったく望まなかった。
 土井 そんな孔明だからこそ、民衆にも支持されてきたのでしょうね。
 陳寿は、孔明の次のような話も書いています。
 孔明が祁山に進出した時のことですが、隴西と南安で魏軍と戦って大勝利し数千人を捕虜にします。
 そのお祝いを言いにきた人々に孔明は、「天が下すべて漢の民であるはずなのに、国家の武威があがらないため、民衆が豺や狼の牙に苦しむような結果を招いている。
 一人の男の死でも、私の責任なのだ。これしきのことで祝われては、かえって恥ずかしく思うだけです」(『三国志Ⅱ』今鷹真・小南一郎・井波律子訳、『世界古典文学全集』第24巻B所収、筑摩書房)と言います。そして、すべての捕虜を解放し、職を与えたり、任官させます。
 池田 このくだりは、孔明の指導者観がにじみ出ているところです。
 孔明にとっては、敵も味方もない。また、指導者だから偉いというのでもない。現実に苦しんでいる民衆、その民衆のためにのみ指導者は存在している。
 決して逆ではない。この原則を、彼は金剛石のごとく胸にいだいていた。また、その五体の隅々にまで脈動させていた。これは、現代にも通ずる優れた指導者観と言ってよい。
 ――孔明の一生もまた、青年時代の誓いと絆に貫かれておりますね。
 池田 彼自身がつづった有名な「出師の表」にこういう一節があります。
 「先帝(=劉備)、臣(=孔明)が微賎なるをも顧みず、かたじけなくも貴き御身をもって、三たび草盧をおとなわれ、漢室復興の大事を諮詢(=質問)せらる。よって臣その意気に感じ、先帝がおんために奔走せんことを誓えり」(『三国志演義〈下〉』立間祥介訳、『中国古典文学大系』第27巻所収、平凡社)と。
 以来二十有余年、孔明は、この誓いのままに、「朝夕心を砕き」「危難の間を奔走して」(同前)いく――。原点をもった人生は、強い。そして深い。
 土井 古来、劉備と孔明の二人の結びつきは、「水魚の交わり」として有名ですね。
 すなわち、「蜀志・諸葛亮伝」には、「ここにおいて亮と情好、日に密なり。関羽・張飛等悦ばず。先主(=劉備)之を解きして曰く、『孤の孔明あるは、猶魚の水あるがごときなり。願わくは諸君またいふなかれ』と。羽・飛乃ち止む」(百衲本二十四史『三国志蜀書』)と記されております。
 吉川『三国志』では、「赤壁の巻」の「臨戦第一課」に描かれているところです。劉備が孔明をあまりにも重んじるので、関羽と張飛はおもしろくない。
 「いったいあの孔明に、どれほどな才があるのですか。家は少し人に惚れ込み過ぎる癖がありはしませんか」(全集25)と不平を鳴らします。
 すると劉備は「わしが、孔明を得たことは、魚が水を得たようなものだ」(全集25)と答える。
 池田 孔明は劉備より二十歳も若かった。
 その若い孔明の力を、なによりも信頼し、思う存分指揮をとらせたところに、劉備という人物の大きさがうかがえる。また私には、だれよりも青年を愛し、信じてくださった恩師のことが偲ばれるところです。
5  孔明の求めた「志」とは何か
 土井 また、孔明の没後すぐに、孔明の廟を建てたいという声が、民衆の間から沸き起こってきます。これも、いかに民衆から慕われていたかの証左ですね。
 池田 吉川氏は『三国志』の余録に、「彼(=孔明)の真の知己は、無名の民衆にあったといえよう。今日、中国各地にのこっている――駐馬塘とか、万里橋とか、武侯坡とか、楽山とか称んでいる地名の所はみな、彼が詩を吟じた遺跡だとか、馬をつないだ堤だとか、人と相別れた道だとかいう語り伝えのあるところである。そういう純朴な思慕の中にこそ、むしろ彼の姿は有りのままに、また悠久に、春秋の時をも超えて残されていると思う」(全集27)と書いていましたね。
 偉大な人物は、民衆のなかにこそ伝えられ、残されていくものです。
 土井 人間の偉さは、最終的に歴史と民衆が決めていくと思います。財力でもなければ、政治力だけでもない。
 池田 あるイギリスの文化人も、「政治家や経済人に会うことも大事だが、民衆のリーダーは、国益や立場などのさまざまな制約から独立しており自由である。その人たちに会って話すことは将来のためになる」と語っていましたが、なかなか鋭い言葉と思いました。
 ――たしかに欧州は、“政治家はやめてしまえばふつうの人だが、文化や教育に貢献していく人、また人々や社会に奉仕していく人は変わらない”として、尊ぶ英知をもっていますね。
 池田 ともあれ、民衆のなかで民衆とともに戦いぬく人こそ、真の指導者である。そして、それは偉大な人格の光なくしてはなしえない……。この点は故・周恩来総理とお会いした時にも私は、強く感じました。
 また、周総理は、青年期の信念を七十歳を超えて最期の瞬間までもち続けている。
 土井 本当に一生をとおしてみないと、人間はわからない。
 劉備のもとで孔明と一緒に戦いながら、劉備が死ぬと、孔明と正反対な生き方をする者もいました。
 孔明とともに劉備の遺言まで託された、李厳もそうです。李厳は、わずか五千の兵をもって、数万の賊を討ったり、大きな活躍をした有能な人物で、劉備に重く用いられていました。
 出陣する孔明の留守を守るなど、その存在は大きかった。
 劉備没後は、「私は孔明とともに先帝の依頼を受けました。憂いは深く責任は重大です」(前掲『三国志Ⅱ』)などと語り、忠誠を誓っています。
 ところが、これほどの重臣も、やがて私利私欲に負けて、みじめな姿に堕ちていってしまいます。
 ――『三国志演義』や吉川『三国志』にはあまり出てない話ですね。
 池田 正史のほうにくわしく記されています。
 劉備の跡を継いで、劉禅が帝位についたのは十七歳の時です。
 ゆえに、魏も呉も、かならずや蜀には内紛が起こる、と見ていた。また、魏からは、傘下にくだって、国の安泰を望むべきであると迫る手紙が送られてくる。
 それに対し孔明は、先主(劉備)の心を体し、厳然と、「正しい道に準拠して悪行を討伐することは、多勢か無勢かには関係がない」(中林史朗『諸葛孔明語録』明徳出版社)と述べ、自身の信念を人々に示し、団結をはかっていく。
 こうした孔明の必死の戦いの一方で、李厳は、自分の栄誉栄達のみを思い、種々、画策を始める。
 土井 いわば、重鎮中の重鎮が、真の「志」を見失って、自身の小さな野望の奴隷となってしまった。
 池田 孔明は、そんな李厳の心を見破りながらも、「私とあなたとは知り合ってからずいぶん長くなります。それでもまだお互いによく理解し合っていないようです」(同前)と誠意をつくしてその非を諭します。
 わがままな李厳の振る舞いにもかかわらず、孔明は相変わらず彼を厚く遇する。何とか立ち直らせたいとの気持ちもあったのかもしれない。
 しかし、李厳はさらに勝手な行動を繰り返す。そこで孔明は、やむを得ず決然とその役職を取り上げ、領地などを没収する。
 いざという時、指導者は、悪と戦う勇気がなくてはならない。そうでなければ無責任である。もっとも大切な庶民を守れないからです。これも、戸田先生がつねに言われていたことでした。
6  ゲーテが予見した「世界文学の時代」
 土井 ところで、ベストセラーといえば、日本で最初の『三国志』と言われる湖南文山訳の『通俗三国志』は、元禄二年(一六八九年)に発刊されて以来、昭和初期のころまで、延々と読み継がれてきた超ロングセラーでした。
 亡くなられた桑原武夫氏は、『三国志』なら、この『通俗三国志』に限る、という大ファンだったようです。
 池田 相当読まれていたのでしょうね。戸田先生も、青年時代、その『通俗三国志』を何回となく愛読したと話されていました。
 また、『通俗三国志』が世に出た元禄二年といえば、当時二十五歳の青年であった日寛上人が細草檀林の門を入られた年です。
 日寛上人の『文段』を拝しても、たとえば、「関羽が赤兎馬、玄徳の的驢あり。的驢は檀溪を一躍三丈す」(文段集712㌻)など『三国志』を引かれた個所があります。
 土井 関羽の赤兎馬といえば、あの曹操から贈られた名馬ですね。
 また、劉備玄徳の愛馬・的驢の活躍も、手に汗をにぎる圧巻の場面です。
 『通俗三国志』のそのくだりは、少々長くなりますが、「玄徳二里ばかり行て、前に大なる溪あり、檀溪と名づく。源湘江に通じて白波天に漲りければ、如何して渡んとて、後を顧玉へば、敵軍すでに背にあり、とても逃れぬ所と思ひ、急に馬を馳て颯と打入玉ふに、水の勢盛にして鞍爪見えぬ程に成ければ、馬の頭をたゝき挙て、的驢々々今日われに祟をなすか、努力と云玉ふに、那馬忽ち水中より出て一躍三丈飛で西の岸に襄る」(石川核校訂『通俗三国志』上巻、有朋堂書店)と。
 ――当時の日本人にとっては、的驢や赤兎馬などは、今でいえば、“幻の名車”を目のあたりにするような驚きがあったのでしょうね。(笑い)
 池田 杜甫でしたか、ある西域の名馬の姿を、
  向う所空濶無く 真に死生を託するに堪えたり
 (この馬はいずこに向かうとも、瞬時に目的地まで駆けぬけていく。まことにこのような馬こそ、己れの生命を託するに足りる)(黒川洋一注『杜甫』、『新修中国詩人選集』3所収、岩波書店)
 と詠っていましたが、たしかに、名馬は人々の大きな憧れの存在だったのでしょう。
 日寛上人は、「生死不二」の大法を的驢や赤兎馬をはじめ、古今東西の名馬の話を引きながらわかりやすく論じられています。
 当時の人々には、身近な同時代の文学に登場するエピソードであり、まことに心に入りやすい新鮮な譬喩だったと拝されます。
 土井 たいへんな碩学だったのですね。
 いずれにしても、『三国志』は、優れた文学は時を超え、国境を超えて人々の心を打つという好例ですね。
 池田 そう思います。余談になりますが、私が思い出すのは、ゲーテが七十八歳の時、中国の小説を読んだ感想を、愛弟子のエッカーマンに語った言葉です。
 「(=中国の小説は)思ったほど、そんなに変ってはいない。(中略)人間の考え方やふるまい方や感じ方は、われわれとほとんど変らないから、すぐにもう自分も彼らと同じ人間だということが感じられてくる」(エッカーマン『ゲーテとの対話』〈上〉、山下肇訳、岩波文庫)と。
 ゲーテは、はるか東洋の中国の小説をとおして、まさに“同じ人間だ”と、感嘆をもって共感している。
 彼は中国の作品に限らず他国のいろいろな文学を読み、また、人にもすすめています。
 「国民文学というのは、今日では、あまり大して意味がない、世界文学の時代がはじまっている」(同前)これは彼の予見であった。
 この「世界文学」という言葉は、ゲーテによって初めて使われたようです。
 優れた文学は人類全体の財産であり、全世界の民衆が文学を通じて、「精神の独自性の財宝」を交流させるべきだというのが、彼の心情であったわけです。
 各国の文学が個性を発揮するほど、全体としての世界文学は豊かになる。それは人類に普遍の人間性を豊かにすることである。
 個性のなかにこそ普遍がつつまれ、個性の表現のなかにしか文学もない。
 ゲーテの言葉には文学をとおしての精神の交流と、それによる人間性の巨大な開花への念願がこめられていると思う。
 土井 以前に先生がお話しされたことですが、ゲーテは、「国民的憎悪というものは、一種独特なものだ。――文化のもっとも低い段階のところに、いつももっとも強烈な憎悪があるのを君は見出すだろう。ところが、国民的憎悪がまったく姿を消して、いわば国民というものを超越し、近隣の国民の幸福と悲しみを自分のことのように感ずる段階があるのだよ。こういう文化段階が、私の性分には合っている。そして私は、六十歳に達する前から、すでに長いあいだ、そういう段階に自分をしっかりとおいているのだよ」(前掲『ゲーテとの対話』〈下〉)とも言っています。
 池田 そのゲーテの言葉は、平和という問題を考えるうえでも、きわめて大切な視座と言える。民衆が国民的憎悪を心にいだいていれば、一時期は平和状態に見えても、なんらかの契機によって、紛争や戦争へと傾斜してしまう。民族問題が、ことのほか重要性、深刻さを増してきている今日、国民的憎悪を超えた、同じ人類、人間としての連帯が、平和には不可欠です。
 先日、オスロ国際平和研究所のマレク・テー博士とも意見を交換したことですが、これからの時代は、「平和」の意味を考え直すことが必要である。真に人間的という意味において、平和な世界を創出しなくてはならない。
 ゲーテがみずからにふさわしい「文化段階」というのは、そうした高みへ人々を導くことにこそ、文学の使命もあると言いたかったのかもしれない。
7  「娑婆即寂光」の法理
 ――『三国志』に戻りますが、歴史の流転の方程式でしょうか、蜀もあえなく滅びています。そして、最後に残るのは孫権の呉になります。
 土井 孫権が父・孫堅、兄・孫策の跡をうけて第三代の位についたのは弱冠十九歳の時でした。
 若き孫権のまわりには、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜、諸葛瑾、龐統(ほうとう)などの有能な臣下が集まり、孫権を支える。その盛況はあたかも「人材雲のごとし」であったとも言われています。
 王位を継いだ孫権は、懸命に兵を養い、民を愛し、広く賢人を集めて善政をしき、江東の地に一大勢力を築いていきます。そして、半世紀あまりの長きにわたって、呉の帝王として君臨しています。
 池田 孫権の数多い臣下のなかでも、主君を守り支える“赤誠”という点では、周瑜がその代表格でしょう。
 周瑜は孫権の兄・孫策と同じ年齢で、二人は無二の親友であった。しかし、孫策は敵の兵卒の不意討ちによる傷がもとで、二十七歳の若さで亡くなってしまう。
 年少の孫権が帝位に就いた時、周囲には、帝王とはいえ多少軽く見るきらいがあった。そうしたなかで、周瑜はまずみずからが率先して臣下の礼をつくし、若き孫権を懸命に守り立てています。
 この話は、ある意味では、中心者を支え補佐する立場にどういう人物がつくかが、重要であることを物語る話です。
 ――主従の関係も多くは利害を中心としていた時代に、二代の君主に一途に仕えきった周瑜の生涯は天晴れですね。
 池田 まあ、価値観が大きく異なる現代と、そのまま比較するのはどうかとも思いますが、たしかに、人間、ちょっとしたことがきっかけで“慢心”や“我”が顔を出す。
 私も三十二歳という若さで会長になり、さまざまな人間模様を見てきてよくわかります。
 だが、周瑜は人生の最期の瞬間まで、不変の心であった。
 土井 呉は荊州の帰属をめぐって、蜀と激しく争うが、彼は死の直前まで指揮をとり続ける。
 吉川『三国志』では、「諸君。不忠、周瑜はここに終ったが、呉侯を頼む。忠節を尽して……」(全集26)と部下に言い残して、息絶えてしまう。
 この周瑜の死を知らされた孫権は、「周瑜のような王佐の才を亡くして、この後何を力とたのもう」(全集26)と、深く嘆き悲しんだといいます。
 周瑜は孔明のライバルということもあって、どうしても人気の点では劣ります(笑い)。しかし、『三国志』のなかでも屈指の人物としてあげられますね。
 池田 また、孫権が、夷陵の戦いにおいて、いまだ一書生にすぎない陸遜を抜擢し、国家の危急存亡の事態に臨んだことなどにも見られるように、これはという人材に対して全幅の信頼をおき、その才能を存分にひき出していたことも見逃せないでしょう。
 人を活かし、力を結集していったという意味では、「総合力」の時代に生きる現代人がもっとも学ぶべき指導者であったかもしれない。
 土井 人の使い方という点については、曹操はあまりに厳しすぎ、劉備は情に流されてしまうきらいがあった。それに対し、孫権は兄・孫策の遺言を固く守り、じつに見事な“人事の采配”をふるっています。若いころからの苦労が生かされていますね。
 池田 ともあれ、悠久なる宇宙の中で、あまりにも小さな人間という存在と営み――『三国志』には、その果てなき流転の彼方に永遠なる光を見いだそうと生きぬいた群像がある。
 そこには、時代や社会が変化しても不変の人間のロマンがある。
 ――そう思います。しかし、ある意味で、戦いの途上での孔明の壮絶な死は、人間や国の運命のはかなさを象徴してあまりあるようにも思われます。
 池田 その点を、恩師も強調されていました。
 仏法は、この世界を「娑婆世界」と説きます。娑婆とは、「忍」「堪忍」「能忍」のことです。
 しかし、人々がいつまでも悲惨と苦悩に沈む世界であってはならない。また現実のはかなさのあまり、夢想のごときユートピアを描くのみでも、一種の自己陶酔であり、無慈悲である。
 苦悩と無常の現実にわが身はおかれている。しかも心は永遠なる楽土を求めてやまない。青年が人生に真剣であるほど、二つのはざまで揺れ、また板ばさみになっていく――。
 ですから、戦後、私がこの仏法に出合ってまもないころ、法華経の「娑婆即寂光」という法理を知り、たいへんな衝撃を受けたことを覚えています。観念ではなく、現実に平和と安穏へと社会の宿命を転換していける「大法」であるならば、一生をこの法戦にかけてみようと――。それから四十年たった今日も、その信念は、まったく変わっておりません。
8  三国時代の人物像
 ――三国時代には、変わりものの人物も出ています(笑い)。有名な阮籍もその一人です。
 阮籍は、歴史のうえでは知られているものの、小説には出てきませんが。
 池田 それはしかたがない。同時代の人を全部登場させたら、ストーリーが混乱して、収拾がつかなくなるでしょう。(笑い)
 土井 当時、俗世を離れて、山陽の竹林に集まっては、酒をくみかわし談論していた「竹林の七賢」と呼ばれる文化人がいたことは、よく知られています。阮籍は、その筆頭にあげられる人物です。
 池田 そうですね。日蓮大聖人は「立正安国論」に、思想の乱れは国の滅びる前兆であるとの実例としてあげられていますね。
 「阮藉げんせきが逸才なりしに蓬頭散帯ほうとうさんたいす後に公卿の子孫皆之に教いて奴苟どこう相辱しむる者を方に自然に達すと云い撙節兢持そんせつこうじする者を呼んで田舎と為す是を司馬氏の滅する相と為す」とあります。
 通解すると――阮籍(阮藉)は、若いうちから逸材として世に知られていたが、髪を乱し、着物もだらしなく着て、礼儀というものをまったく無視していた。
 そのため、当時の公卿の子弟たちがみな阮籍にならって礼儀を乱し、賎しい言葉でたがいに悪く言いあい、相手をはずかしめるのが自然だと言い、礼儀を重んずる慎み深いものを「あれは田舎者だ」と呼んだ。これは司馬氏の滅亡する相であった――。
 彼については、博学多才でもあり、人格識見ともに優れていたとの評もあります。
 また彼が礼儀を無視した背景には、魏王朝を乗っ取った司馬氏に対する無言の抵抗があったという見方もある。
 ただ、本当に新しい創造をもたらすものは何か――。また青少年の心に何を与えていけばよいか、ということも同時に考えねばならないでしょう。バクーニン流に言うならば“破壊のパッション”を、いかにして“創造のパッション”へと転じていくかという視点です。
 ――現代の風潮にも通じるような気がします。
 土井 「白眼視」という言葉がありますが、それは阮籍が母を亡くした時、弔問客に応対するのに白眼と青眼を使い分け、礼法主義者には白目をむいた(笑い)ことから由来しているようです。
 「晋書・阮籍伝」に「礼俗の士にまみえるに白眼を持ってこれに対す」(百衲本二十四史)とあります。
 ――それにしても、斜めに構えるというのは、周囲にいやな雰囲気をつくりますね。頭がよくても人から嫌われていることには気がつかない……。ほかに三国時代のころの人で、日蓮大聖人の御書に出てくる人物はいますか。
 池田 華佗、鄭玄など、医師や学者の名もあげられています。華佗については、正史の「魏志・華佗伝」(百衲本二十四史『三国史魏書』)にもその名医のほどが記されていますが、『三国志』の読者にとっては、周泰や関羽を治療したり、曹操によって獄へ投じられた人物としてよく知られているところです。
 土井 龐徳ほうとくとの戦いで矢傷を受けた関羽のところに、華佗が「かねがね景仰する天下の義士が、いま毒矢にあたってお悩みある由を承り」(全集27)と進んでやってくる。
 そして馬良を相手に碁を打っている関羽の臂の骨を、鋭利な刃ものでガリガリ削ったといいますが、ああいう時代に手術を施す医師がいたというのは驚異的なことだと思います。
 また関羽はその間も、傷のない右手で碁盤に石を打ち続けていた(笑い)――と言うのですから、すさまじい話ですね。
 池田 たとえば、御書(「太田入道殿御返事」)では、「就中なかんずく・法華誹謗の業病最第一なり、神農・黄帝・華佗・扁鵲も手を拱き持水・流水・耆婆・維摩も口を閉ず」とあります。この御文からも、華佗がたいへんな名医とされていたことがわかる。
 ただ、いわゆる病気は医師が治療する。しかし病める生命をどうするか。そこに仏法の眼目があります。
 もう一人の鄭玄は、前漢以来の経学を集大成した儒学の大学者です。劉備たちより三十以上も年上です。
 主君の圧迫を受けていた門下のために日蓮大聖人が代筆してくださった、「頼基陳状」という御書の一節には、「鄭玄曰く「君父不義有らんに臣子諫めざるは則ち亡国破家の道なり」」とあります。
 忠義に生きた鄭玄の言を引いて、大聖人は何が真実の忠誠であるか、先人の説いた道理をとおし諭されているのです。
9  光のあたらない「陰」に本物がいる
 土井 『三国志』には、ほかにも数えきれないほどの人生模様が登場しますが、鼎談『敦煌を語る』(角川書店)でふれられた人物で、敦煌太守(長官)として活躍した倉慈も、この「三国時代」の人でしたね。
 池田 読んでくださったのですか。(笑い)
 正史『三国志』の「魏志」(巻十六)に、彼のことが記されていますね。まことに簡潔な記述ですが、私には、忘れられない歴史の一コマです。
 華やかなスポットライトを浴びている“大事件”や“大物”を追っていくだけでは、歴史の奥深さはつかめない。
 光の当たらない「陰」にも、本物の人物がいるし、また人知れぬところで、歴史を動かすドラマが生まれている。私も、なるべくそうした人物を語りたいと思っています。
 ――ジャーナリズムを“その日その日主義”と訳した人がいましたが(笑い)、心しなければならない視点と思います。
 土井 群雄が並び立って中原に鹿を逐っている、まさにその同じ時に、中央の舞台から遠く離れた辺境の地で、壮大なる文化創出への礎を、黙々と築き上げていた人物がいたわけですね。
 池田 三国鼎立の大動乱の世にあって、当時、シルクロードの要衝、敦煌の地も、荒廃を極めていた。
 中央との連絡が絶え、二十年間にわたって、太守が不在という状態が続いたため、その地の豪族たちはやりたい放題で、横暴に振る舞っていた。
 彼らは、庶民のわずかばかりの田畑をも貪欲に取り上げてしまったので、庶民は「立錐の土無く」(キリを立てるほどの土地もない)という窮乏に泣かされていたといいます。
 土井 はい。さらに傲れる有力者たちは、西域の諸外国から交易のために訪れてくる人々に対しても、さまざまな妨害を加えたので、交流も進展しなかったようです。
 池田 そうしたなかに、太守として赴任した人も何人かはいたが、結局、現実と妥協してしまい、何ひとつ改革しようとはしなかった。
 いつの時代にも、現実の壁はあまりにも厚い。捨て身の覚悟がなければ、新しい事業はなし得ない。そこに登場したのが、この倉慈です。
 彼は、敦煌の地を、わが使命の天地と胸中深く定めていたのでしょう。敢然と庶民を守りぬく戦いを開始した。
 ――それは太和年中(二二七年―二三二年)といいますから、ちょうど孔明が五丈原の決戦に挑もうとしていたころのことでしょう。歴史には、こうした“静かな戦い”があることを忘れてはいけませんね。
 池田 倉慈は非道な豪族らに対し、一歩も退かなかった。そして、ジリッ、ジリッと、本来の公平な土地の分配にまでもっていく。庶民の喜びは大きかったし、やがて敦煌の地に、民衆文化が花開く土壌ができあがっていった。
 土井 また彼は、異国からの旅人も最大に守り、大切にしていますね。こうして、貴重な国際交流への道も大きく開かれたわけです。
 池田 さらに倉慈は、山積みの裁判沙汰の問題も、みずからの陣頭指揮で一つ一つ解決にあたっている。
 それは、民衆を抱きかかえながらの戦いであった。その激しい辛労と疲れもあったのでしょう。彼は在職中に急死する。
 土井 ええ。庶民も異国の人々もこぞって、その突然の死をいたみ、彼の遺徳を偲んだといいます。
 いずれにしても、敦煌を舞台にした倉慈の活躍は、わずか数年間のことにすぎません。しかし、残したものは、じつに大きかったですね。
 池田 惰性の漫然とした二十年間よりも、たとえ一年間であっても、純粋な情熱を燃焼させた仕事は残る――。
 倉慈も、魂魄を永遠に留めんとするがごとき、気迫の一日一日を積み重ねたにちがいない。彼の死後、敦煌の太守に任じられた人々は、真剣に、倉慈のあとに続こうと努力したと言われる。
 彼の尊き「一念」と人生の「軌跡」は、後継の指導者たちの「模範」となり、「原点」となった。
 土井 敦煌の穀物生産を五倍にも飛躍させた潅漑事業も、倉慈に続く一人の指導者によってなされました。
 しかし、史書の『魏略』には、その潅漑の功労の指導者でさえ、倉慈の人徳には及ばなかったとあります。
 池田 あの絢爛たる文化の遺産、敦煌の莫高窟が築かれ始めたのは、倉慈の苦闘より、およそ一世紀ほど後のことです。
 “大きく(敦)輝く(煌)”――敦煌の悠久の歴史とともに、その名は長く語り継がれていくでしょう。
 華やかなものは、長続きはしない。しかし、地味であっても、庶民の真っただ中で戦いぬいた人生には、実像の生命の輝きがある。
 みずからの使命の舞台に生ききった倉慈の人生――なにげない歴史の記述の奥にも、美しい心の響きがあり、ドラマが秘められています。

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