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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 多彩な人間観を味わう… 『三国志』の世界1

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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6  王道と覇道の違い
 ――劉備像は史書と小説ではどう違うのですか。
 土井 たとえば、小説では、張飛が、督郵という立場にいた横暴な役人を腹にすえかねて、乱暴するシーンがありますが、史書では、その役人をこらしめたのは劉備だったとなっています。
 ですから、実際の劉備は、優柔不断な君子というより、もっと行動的な男性だったのかもしれません。
 池田 そうでしょうね。また、そうでなければあの乱世は生きぬけない。(笑い)
 しかし、史書のほうでも、劉備の人格について「弘」「毅」「寛」「厚」と記されている。毅然とした強さとともに、大勢の人々をつつみこんでいく「心」の深さをもっていたのでしょう。さらに、私心のない英雄として評価されていますね。
 ただし、権謀術数では曹操に劣ると、はっきり書いてありますが(笑い)。もっとも彼には、孔明という最高の参謀がいた。それも彼自身の「実力」のうちと見ることもできる。
 土井 小説では、劉備を徹頭徹尾「徳の人」として描いています。しかしそのために、関羽や張飛にくらべて、いささか生彩に欠けるところはありますね。
 池田 それはそれとして、その背景に、理想の君主を待望する民衆の願いがあったことを見落としてはならないと思います。
 恩師も、中国において「仁」というものが大切にされたのは、専制や暴政が打ち続くなかで、民衆の間に「仁」を行う人への憧れが高まったからだという、とらえ方をしておりました。
 そうした民衆の目から見れば、曹操たちは「覇道」を歩み、劉備・孔明は「王道」を歩んでいるというのが、戸田先生が強調していた点です。
 土井 「王道」とは、もともとは儒教で説かれた理想的な政治のあり方で、徳をもとにして国を治めることです。徳治政治などとも言いますね。
 これに対して、「覇道」とは、権謀術数によって権力の座についた覇者が、武力をもって天下を支配する権力政治のことであり、信義よりも功利を重んじるわけです。
 孟子は、「力を以て仁を仮るものは、覇たり。(中略)徳を以て仁を行ふものは、王たり」(渡邊卓『孟子』明徳出版社)と王道と覇道を明確に立て分けています。
 ――たしかに、現代は政治が複雑化してますが、いかに形態が変わっても、この原理があることを忘れてはなりませんね。
 池田 ですから、戸田先生は私たち青年に、根本的な「指導者」の生き方を示唆されたわけです。
 仏法では「王は民を親とし」(「上野殿御返事」)と説かれているように、民衆をわが「親」のごとく懸命に仕え、わが身を犠牲にしてもつくしていく。それが本来の指導者の道であると――。
 ――まえにも少し話題になりましたが、権力欲は、際限なく増長していくという魔性がありますからね。
 土井 シェークスピアも、権力に狂った人間の姿を数多く描いています。『ヘンリー六世』(第三部)のなかで王位をねらうリチャードのセリフに、こんな言葉がありました。
 「この世がおれに与えてくれる喜びは、おれよりなにもかもまさっている連中にたいして、命令し、叱りつけ、いばってみせること以外にない、だから王冠を夢見ることがおれの天国なんだ」(小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』Ⅶ、白水社)
 幼児性というのでしょうか、こういう人間が権力を持つことほど怖いことはないですね。
 池田 イギリスの話が出たので、ついでに申し上げますが、トインビー博士と教育について語り合った時、博士は学生時代を振りかえって、パブリック・スクールでは、年長の生徒たちに、あえて実際になんらかの権力を行使させ、責任感を養う機会を与えたと言われておりました。
 生徒会長になった人には「権力は人格の試金石である」というギリシャの格言が贈られたと、博士は懐かしそうに述懐されていた。たしかに、伝統の力というか、確固たる人格の教育がなされていると私は感心したものです。
 いずれにせよ、先ほどの言葉を述べたリチャードは、王位を獲得しますが、自分が殺した人間たちの亡霊に悩まされ、最後は反乱によってあえなく殺されている。
 土井 これは史実にもとづいていますね。
 池田 そうです。この物語は、「権力」をめぐる宿命的な流転の方程式を呈示しているとも言えます。人類の歴史がいつまでも、そうした権力抗争の繰り返しにすぎないとすれば、これほどの不幸はない。
 また、人間性の名に値する歴史とは絶対に言えない。ゆえに、民衆自身が賢明になり、力を持たなくてはならない。恩師の視点はいつもそこにあった……。
 ――本当にそう思います。
 ところで、「魏」・「呉」・「蜀」の三国の勢力はどれぐらいだったのでしょうか。
 土井 当時、中国全体がほぼ十六州に分かれていましたが、そのうち、
 魏が十二州
 呉が三州
 蜀が一州
 という勢力配分になります。
 したがって、魏が圧倒的に優勢だったことがわかります。また、呉の国土は豊かで、発展の勢いがみなぎっていました。
 池田 いわゆる「天下三分の計」を構想したのは、ご存じのように、二十七歳の若き孔明でした。“北は「天の時」を得た曹操にゆずり、南は「地の利」を得た孫権にゆずり、われわれは「人の和」をもって、立ち上がろう”(全集25)――。この「理想の高さ」と「団結の強さ」こそが「蜀」の力であった。
 その気概に、青年時代の私たちは、限りない共感をおぼえ、民衆のため、社会のためにと、ひたすら働いたものです。
 土井 「歴史」に参画する青年の心意気というものは、時代、国を超え、相通じますね。
 池田 日蓮大聖人の御手紙(「衆生身心御書」)のなかに、「当世は世みだれて民の力よわ」という一節があります。
 いかにして、この民衆自身の「力」を強め、そして社会を安穏たらしめゆくか――。
 戦後の混迷の真っただ中で、はるかに、民衆の大河の時代を遠望されつつ、みずから青年の先頭に立って、その突破口を開かれたのが、戸田先生であったと思います。
 ――また、なんといっても、『三国志』全編のクライマックスは、「五丈原」です。蕭々たる秋風吹きすさぶ五丈原での、孔明の苦心孤忠の胸のうちは、万感迫るものがあります。
 池田 『三国志演義』は、その後さらに晋が三国を統一するまでを縷々描いていますが、吉川氏は、「孔明の死後となると、とみに筆を呵す興味も気力も稀薄となるのを如何ともし難い」(全集27)といって、「五丈原の巻」をもって、物語を終えています。よくわかる気がしますね。
 土井 その五丈原で、孔明は遺言として、自分の後任を次の次まで指名しています。
 しかし、「その次は」と問われても、孔明はそれに答えていません。いずれにしても、孔明の冷徹な目には、蜀の命運が、ありありと映っていたのでしょうか。
 池田 時に孔明五十四歳……。もう三十五年前になりますが、お正月に土井晩翠の「星落秋風五丈原」の歌を、先生のまえで披露したことがありました。先生も数えでいえば、はや、孔明と同じ年齢であった。その時、歌をじっと聴かれながら、「孔明の一念は、いまも歴史に生きつづけている」と先生は涙されていた。
 「孔明には、人材を探し、育てる余裕も時間もなかった」と慨嘆もされていた。
 先生は孔明より五年ほど長命でしたが、その晩年は、後継の青年の育成に、それはすさまじいまでの気魄をこめられていました。
 土井 指導者の胸中は、指導者でなければわからない……。“人の和”をもって立った蜀においても孔明という柱を失うと、まもなく、軍の重要なポストにあった魏延と楊儀が争いを始める。『演義』では、魏延が反逆者の典型として描かれていますね。
 池田 そうですね。魏延は、孔明なきあと、自分こそが軍の中心になるのだという野心の人物であった。ところが、丞相(孔明)の代理にライバルの楊儀が任じられるや、嫉妬に狂い、その本性をあらわす。
 魏延は、楊儀を悪人に仕立てて、偽りの上奏をする。いつも見られる常套手段です。
 その後、楊儀からも魏延反逆の上奏が届き、現場から遠く離れた宮中では、いったい、どちらが裏切ったのかと動揺します。しかし、日ごろから魏延を知っていた何人もの人が、反逆者は魏延にちがいないと語る。
 土井 ええ。孔明の後継者であった蒋琬しょうえんは、「魏延は、日頃から己の功を恃んで人をあなどり、人もまた、彼に遜っておりましたが、楊儀だけはついぞさようなことをいたさなかったので、魏延はつねづね恨みとしておりました」(『三国志演義〈下〉』立間祥介訳、『中国古典文学大系』第27巻所収、平凡社)と見破っています。
 また、別の人も、「魏延は日頃から己の功名を鼻にかけて不平の心を持ち、それを口にも出しておりました。これまで、謀反いたさなかったのは、丞相(=孔明)がおられたればこそでござります」(同前)とも語っています。
 ――劉備夫人の呉太后なんかも“魏延の言うことを軽々しく信じてはいけない”(同前)と状況をよく見定めたうえで、判断するよう忠告します。
 男が浮き足立っているときに、ドッシリとかまえる、ご婦人の一言は大きいですね。(笑い)
 池田 孔明は、魏延が反逆することはすでに見抜いていた。すべてを知ったうえで、その武勇を惜しみ、しばらく用いていたわけです。
 その証拠に、みずからの死後の備えに、楊儀に“錦嚢の計”を授け、魏延の破り方を明確に教え残していますね。無私の指導者には、すべてが見えてくるものです。
 土井 そして、魏延軍と楊儀軍がぶつかる。楊儀軍の先鋒とあたった時、魏延は自軍の兵がどっと逃亡してしまい、ひとたび勢いをそがれるや、いったん魏に身を寄せようかと、すぐ弱気になりますね。
 ――虚勢をはっても、裏をかえせば真の勇気もなく臆病である。また、自分一人ではなにもできない。
 土井 「孔明計ヲ遺シテ魏延ヲ斬ル」(『校訂通俗三国志』七篇巻之五、博文館)とあるごとく、魏延は孔明の命をうけた馬岱に一刀両断のもとに斬られてしまいます。
 池田 しかし、その楊儀も、やがて、自分より年も官位も下だった蒋琬が、孔明の遺言どおり丞相となると、魏延と同じ轍を踏む。そして、最後には、自害してしまいます。これも一つの歴史の教訓と言えるでしょう。
 戸田先生は私たち青年に、「反逆、裏切りは、歴史の常であり、これからも、当然おこるであろう。だが、諸君は、本当に信頼できる人間の『絆』で、どこまでも前へ進みゆくことだ」と語っておられました。
 戸田先生はすべてを見抜き、そのうえで包容されていた。しかも未来へのあらゆる布石は完璧に教えておいてくださった。
 先生の言われたとおり実践したことは、あとからかならず、なるほどという結果になっています。
 ――さて、孔明の死後、約三十年で蜀は魏に滅ぼされる。しかし、その魏もまた、曹操の死後、五代四十五年にして滅び、さらに呉も、孫権の死後三代二十七年で滅びます。こうして、三国志の興亡盛衰のドラマは一世紀たらずで幕を閉じます。
 池田 『三国志演義』の巻頭の詞には、その歴史の「無常の劇」を見極めた感慨が詠じられていますね。
 「たぎりながるる長江の東に下る水の上、
 うたかたに浮びて消ゆる英雄のかず。
 世に栄えしも敗れしも頭をめぐらせば空しくなりぬ。
 青山は昔のままに、
 いくたびすぎし夕日の紅」(『完訳三国志〈一〉』小川環樹・金田純一郎訳、岩波文庫)
 土井 『平家物語』の冒頭の「祇園精舎」のくだりにも、一脈通ずる気がします。
 また、「歴史の無常」というテーマは、吉川氏の晩年の作品へとつながっていきますね。
 池田 そう思います。
 いわば、敗者も勝者もともに押し流していく、無常の歴史にあって、真の勝利者とはだれか……。
 吉川氏の思索は、この一点の探究へと向かい、深められていったと私はみたい。
 ――このことについては、『新・平家物語』『私本太平記』にも関わってきますので、次回で論じていただければと思います。

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