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第三章 多彩な人間観を味わう… 『三国志』の世界1

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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1  よき書、よき人、よき師との出会い
 ――今回も、よろしくお願いいたします。
 池田 こういうさわやかな季節ぐらい、何とか時間に追われないで、たまには秋の紅葉の山を散歩して語り合うような、ゆったりとした気持ちでやりたいですね。(笑い)
 土井 賛成です(笑い)。私も一回一回楽しくやらせていただいています。学生諸君からも、励まされ、心強く思っております。
 ――“読書の秋”“文学の秋”です。気候が年間でいちばん知的活動に適した時期で、「読書週間」も始まります。まず、そのへんから話を始めていただければと思います。
 池田 そうですね。吉川英治氏は、少年時代からたいへんな読書家であったようです。
 たとえば、すでに、七歳のころから『十八史略』などの漢籍に親しみ、十歳ごろには、雑誌等に熱心に投稿していたと書いています。(全集46)
 また、『三国志』については、「久保天随氏の演義三国志を熟読して、三更四更まで燈火にしがみついていては、父に寝ろ寝ろといって叱られた」(全集24)といいます。(笑い)
 感受性のかたまりのような少年時代――それは、いわば想像力とロマンの“魂の王国”です。その王国の大地に、人生という大樹が育っていく。
 大きな物語の種からは大きな人生が、繊細な詩心の種からは潤い豊かな人生が、きっと芽ぶき、伸びていくことでしょう。よき文学との出合いは、生涯の宝ですね。
 土井 吉川氏は、印刷工として働いていた二十歳前後には、独学の糧に百科事典を五十回も読んだそうです。書物の力は、本当に大きいですね。
 それにしても、今の青少年は本を読まなくなってしまった……。残念なことです。これは、子どもに限った話ではないですが。(笑い)
 池田 昔は余計なものがあまりなかったし、空気もよかったから頭もさえていたのかもしれない。(笑い)
 また、現代よりは容易に、一つのものに徹することができる時代であったとも言える。
 最近はテレビ文化で、新しいことは知っているが、情報に流されてしまって、本当に“自分にとって大事なもの”は何なのか。それが、実感としてわかりにくくなっている。
 土井 そう思います。その意味で、読書は地に根をはった物の見方、考え方を、養ってくれますからね。
 池田 私の恩師も、よく言われておりました。「一日に二十分でも三十分でも心に読書と思索の暇をつくっていくことが大事だ」と。やはり、勉強している人は、魅力があるものです。
 ――背伸びをして、たくさん本を買ってきて並べておくだけではなんにもなりませんね。(笑い)
 池田 恩師はかつて、「私の持っている本で、まだ読んでいない本はない。これが、私の誇りである」と語っていました。先生は若い時の読書もすさまじかったと聞いています。
 土井 『若き日の読書』(本全集第23巻収録)など読みますと、池田先生も、多忙のなか、よく読書に励んでおられたことがわかります。
 池田 いや、私など戸田先生の足元にも及びません。
 ――何か読書法は……。
 池田 特別にはありません。(笑い)
 私の場合は、会社の行き帰りの電車の中や、家に戻って、眠りにつくまえの時間を使って読んでいました。夏は暑いので、夜になってから涼しく静かなところを求めて、雑司ヶ谷の墓地で懐中電灯を照らしながら読んだ懐かしい思い出もありますが。(笑い)
 土井 やはり、工夫が必要ですね。
 池田 体も弱かったし、本が好きなのがとりえだったぐらいです。
 ただ、本の読み方について、戸田先生から、“本質”をつかむ訓練を厳しくたたきこまれたことは、今になって本当にありがたいことだったと思います。
 土井 それにしても、洋の東西を問わず“一書”との出合いが、その人の生涯を決めるきっかけになった例は、多いですね。
 池田 そうですね。今、思い出すだけでも、トロイ遺跡を発見したシュリーマンは、父親が贈ってくれた『子どものための世界史』の“トロイ戦争”のくだりが、探求の発端となっている。
 ナポレオンは『プルターク英雄伝』、教育者ペスタロッチはルソーの『エミール』、リンカーンは『ワシントン伝』、物理学者ハイゼンベルクはプラトンの『ティマイオス』などいろいろありますが、これは数えあげればきりがないでしょう。
 ――これなどは、中年になってからの一書との出合いが(笑い)、人生のみならず時代をも変えた例と言えますね。
 土井 ええ。玄白が、一字も読めないその本『ターヘル・アナトミア』を手にしたとき、すでに彼は三十九歳。良沢にいたっては四十九歳だったといいます。
 彼らは“ABC”の勉強から始めて、じつに三年の歳月をかけて訳し上げます。それが、日本で初めての本格的な洋書の翻訳となったわけです。
 池田 敦煌研究の第一人者である常書鴻氏は、日本でも中国でもお会いしている私の大切な友人です。その常氏から、氏の人生を決定づけた一書との出合いの話をうかがったことがあります。
 ――それは……。
 池田 じつは、氏は、最初から敦煌の壁画の研究を志していたわけではなかった。初めは、西洋画を学ぶために、パリに留学されています。来る日も来る日も、たいへんな努力でフランス語を習得しながらの勉強であった。
 そうした留学生活を送っていた一九三六年の六月のある日、氏は、セーヌ河畔の露店の本屋で、たまたま、一冊の図録と出合う。
 ――何の本でしょうか。
 池田 それが『敦煌石窟』という図録でした。その本の画を見た氏は「夢から突然さめたように」、自国の唐代の敦煌壁画が、じつは、「ルネサンスの絵画よりもすばらしいものであった」ことに気づいたという。
 その一瞬の出合いが、後にご自身が語られているように、「人生の大半は敦煌」という、今日までの氏の足跡となったわけです。
 ――異国の地での一書との出合いが、自分の国の眠れる文化と生涯取り組む契機となったなんてドラマティックですね。
 土井 本というのは、いろいろな不思議な縁をつくりますね。
 池田 そう思います。私事で恐縮ですが、四年前(一九八四年)、ブラジルを訪問し、フィゲイレド大統領と会見しました。その後、大統領府文官長(国務大臣)とお会いしたさいに、文官長から、開口一番、「私は、あなたとトインビー博士の対談集を、ニューヨークの書店で買って読みました」と言われて、たいへん驚いた経験があります。
 土井 これは、本が国境を超えて人と人を結びつけた話ですね。
 池田 それはともかく、私自身、これまでの人生を振り返ってみても、「よき書」「よき人」そして「よき人生の師」との出会いが、いかに大きな意義をもつか、つくづく実感する昨今です。
2  「三国志には詩がある」
 土井 今のお話ではありませんが、優れた本というものは、一国にとどまらず、世界の多くの人々に共鳴と共感を与えるものですね。
 日本の本も、「メード・イン・ジャパン」のカメラや自動車と同じぐらい、海外で売れるといいのにと言う人もいましたが(笑い)、吉川氏の『宮本武蔵』は、海外でもなかなかの人気のようですね。
 池田 そうですね。私もアメリカでその話を聞きました。また『新・平家物語』も翻訳されていたと思いますが。
 土井 ええ。私も、英語とフランス語版の『新・平家物語』を見たことがあります。
 『宮本武蔵』は七年ほど前に“MUSASHI”として英訳が出版されて以来、アメリカとイギリスでロングセラーになりました。
 一九八三年に発刊されたドイツ語版は、発売二カ月で六万五千冊も売れたそうです。またフランス語版も、よく読まれていると聞いています。
 池田 “ムサシ”は、日本の大衆文学の翻訳の第一歩ですし、吉川氏も喜ばれているでしょう。
 なぜ“ムサシ”が読まれるか――。アメリカのある新聞の書評では、その理由の一つとして、日本人の哲学的基盤に対する関心をあげていたようです。たしかに、庶民に親しまれてきた文学を知ることは、その国の「心」を理解していく大きな手がかりになる。
 これは私も、海外を訪れるさいに、いつも、心がけている点です。
 ――そういう面から見ると、中国の民衆に愛されてきた『三国志』と日本人との交流も長いですね。『三国志演義』が元禄時代に翻訳(一六八九年)されて以来、ちょうど三百年になるようですが、現代日本人の心にこれほどまで身近なものにしたのは、やはり、吉川氏の大きな功績でしょうね。
 土井 ある中国文学の研究者が苦笑しておりました。というのは、吉川『三国志』と“タネ本”である『三国志演義』の訳本とを読みくらべたある読者から、“吉川氏以外の『三国志』は省略が多くてけしからん”と叱られてしまった、というのです。(笑い)
 吉川氏のほうは、本来が大衆小説ですから、かならずしも原典に忠実ではないし、まえにも話題になったように創作があるわけです。
 たとえば、吉川『三国志』は、黄河のほとりのシーンから筆を起こしていますが、これは『三国志演義』にはなかったものです。
 池田 そう。悠久なる黄河の流れに思いをはせる弱冠二十四、五歳の母思いの一青年・劉備が、やがて大きな歴史のうねりへと身を投じていく――。
 みずから、中国の大地と民衆を目のあたりにした、吉川氏の感慨を凝縮したような場面です。
 ――作家にとって、書き出しは、いちばん苦心するところですからね。
 池田 劉備にとっては生涯の敵となった曹操も、吉川『三国志』では、劉備が潁川えいせんで賊軍に向かって火を放ったとき、燃えさかる火の中からじつに印象的に登場する。
 「すると彼方から、一彪の軍馬が、燃えさかる草の火を蹴って進んで来た。見れば、全軍みな紅の旗をさし、真っ先に立った一名の英雄も、兜、鎧、剣装、馬鞍、すべて火よりも赤い姿をしていた」(全集24)と――。
 土井 『三国志演義』では、劉備が曹操と会うのはもっと後ですし、曹操のいでたちも、「真赤な旗を立てならべた一隊の軍勢」(『三国志演義〈上〉』立間祥介訳、『中国古典文学大系』第26巻所収、平凡社)とあるだけで、全身が赤装束というわけではありませんね。
 この鮮烈な色彩感などは、吉川氏ならではの演出と言えるのではないでしょうか。
 池田 作家として、とくに吉川氏のような傑出した想像力の持ち主が、自分の解釈や工夫をこらして書くのは、当然のことでしょう。要は、古典の「生命」が脈打っているかどうかです。
 「水」と「火」と――。劉備にしても曹操にしても、その登場のさせ方が人物をみごとに象徴している。ここがポイントですね。
 吉川氏は、「三国志には、詩がある。(中略)東洋人の血を大きく搏つ一種の諧調と音楽と色彩とがある」(全集24)と記していますが、この原典のもつ魅力を、吉川氏は自分のものとしてつかみとっている。
 だからこそ、自信をもって独創性を発揮できたように、私は感じます。
 ――氏のそうした姿勢は、『新・平家物語』の場合などにも一貫していますね。
 少年時代の息子さんにも、自分のものより、まず、古典『平家』を読むようにすすめられたそうです(吉川英明『父吉川英治』文化出版局)(笑い)。幾多の歳月を超えて生きぬいてきた古典に対して、吉川氏は敬虔な愛情を示しておりますね。
 池田 古典とは、深い尊敬と興味をもって接していく時、心を潤す汲めどもつきぬ泉となる。また、現代を映しだす鏡ともなるものでしょう。この醍醐味を若い年代に知ってほしいものです。
3  郭嘉かくかの指導者論
 ――そこで、『三国志』の味わいの一つは、その多彩な人物論にあるわけです。少々、この点にふれながら、『三国志』の魅力を語っていただければと思います。
 まず、紅も鮮やかに登場した、颯爽たる曹操が、当時最大の名門であった袁紹えんしょうに戦いを挑んで見事に勝つ姿は、『三国志』のなかでも前半の大きなヤマ場ですね。
4  池田 そうですね。曹操が張繍ちょうしゅうとの戦いに敗れた直後、袁紹が曹操に無礼な手紙を送ります。曹操はその手紙を読んで、戦うべきかどうか考える。客観的には袁紹の軍のほうがはるかに強大であった――。だが、その曹操に向かって部下の郭嘉が、「袁紹には十の敗因あり、殿には十の勝因がございます」(前掲『三国志演義〈上〉』)と曹操と袁紹を比較しながら励ます話がある。
 これは、そのまま優れた指導者論になっていますが、指導者は苦境の時にこそ、真価がわかるものです。
 ――ちょっと長いのですが、吉川『三国志』のその部分を読んでみますと、
 一……袁紹は時勢を知らない。その思想は、保守的というより逆行している。
 が――君(=曹操)は、時代の勢いに順い、革新の気に富む。
 二……袁紹は繁文縟礼、事大主義で儀礼ばかり尊ぶ。
 が――君は、自然で敏速で、民衆にふれている。
 三……袁紹は寛大のみを仁政だと思っている。故に、民は寛に狎れる。
 が――君は、峻厳で、賞罰明らかである。民は恐れるが、同時に大きな歓びも持つ。
 四……袁紹は鷹揚だが内実は小心で人を疑う。また、肉親の者を重用しすぎる。
 が――君は、親疎のへだてなく人に接すること簡で、明察鋭い。だから疑いもない。
 五……袁紹は謀事をこのむが、決断がないので常に惑う。
 が――君は臨機明敏である。
 六……袁紹は、自分が名門なので、名士や虚名をよろこぶ。
 が――君は、真の人材を愛する(全集25)
 吉川『三国志』では、曹操が「もうよせ」といって、そこまででやめさせます。
 池田 曹操は笑いながら「美点ばかり聞かせると、予も袁紹になるおそれがある」と(笑い)。こういった機微の描写は吉川氏らしい。
 なお、この「十勝」について、『三国志演義』では、「道」「義」「治」「度量」「謀」「徳」「仁」「明」「文」(制度)「武」の十の点で勝っているとなっていますね。
 土井 ええ。さらにそのもとになったであろう「魏志・荀彧伝」(百衲本二十四史『三國史魏書』)では郭嘉ではなく荀彧が、四点にわたって曹操と袁紹を比較しています。
 長くなるので省略しますが、これを現代的にとらえて、「リーダーの人間的度量、戦略構想、集団の士気、功績主義」(『三国志Ⅱ』和田武司・大石智良訳、徳間書店)などという言葉におきかえている本もあります。
 池田 ともあれ、何よりも曹操には、時代の新しい門扉を自分の手で開いてみせる、という烈々たる息吹があった。
 吉川氏は、曹操が困難な戦いにあえて臨んでいく心情をこう描いている。
 「袁紹何ものぞ。すべて旧い物は新しい生命と入れ代るは自然の法則である。おれは新人だ、彼は旧勢力の代表者でしかない。よし!やろう」(全集25)と。彼はこの時、四十代前半であったといいますが、この生命のみずみずしさこそが、曹操の強みだったのでしょう。
 土井 袁紹と曹操の違いを、吉川氏は自分なりのとらえ方で、さまざまに描いてみせていますが、一言でいえば、「名門」と、「たたきあげ」の違いですね。氏は、名門に対して厳しい。
 「馬は、自己の血統だけの値打を、とにかく『走る』という事実で立証する。が、人間社会では、じっさいの生存競争場裡で、走りも馳けもしない名門やら名家の子弟が多すぎる。馬ほどに信用できない」(全集52)とも語っておりますが。(笑い)
 ――馬が好きだった吉川氏らしい言葉ですね。(笑い)
 池田 それと、袁紹軍は、まえの戦で兵士たちが疲れきっていた。ところが、リーダーが勝利にすっかり浮かれてしまって、第一線の心がわからなくなり、軍全体の実態がつかめなかった。さらに、正しい進言までが退けられるようなありさまであった。
 それに対して、曹操のほうは部下の意見をどんどん取り入れた。
 過去に栄光があればあるほど、かえって過去にとらわれ、現実が見えなくなってしまうものかもしれない。
 恩師もよく、「つねに新しい息吹を入れることが、組織を腐らせぬ唯一の方法である」と言われていました。私も恩師の年齢を過ぎ、またさまざまな経験もし、その大切さをいつも感じます。
 土井 それから、文人としての曹操を忘れてはいけないと思います。彼は、乱世にあって、人を殺してもはばからない一面があったがゆえに、小説上では武人として描かれる運命にありました。しかし、小説を読んでいますと、武人の曹操が強調されすぎるきらいがあります。
 池田 それも大事な視点だね。当時の建安という時代は、たいへんに文学が興隆したようです。今日でも曹操自身の約三十首の詩、百五十編ほどの文章が残っています。
 また、息子の曹丕(文帝)、曹植もその担い手であったことで有名ですね。
 たしかに、古今東西の一流の指導者と言うものは「詩」にも「芸術」にも「歴史」にも通じる“何か”を持っている。また、そうでなければ、とくにこれからの時代は、本物の指導者とは言えないでしょう。
 土井 曹丕が書いた『典論』は文学論の先駆として評価が高いものですが、そのなかに「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『全上古三代秦漢三國六朝文(2)』巻八、宏業書局)の一文があります。
 「文」こそ一国の大業であり、永遠不滅であるということです。
 ――ところで、『三国志演義』が書かれたのは、今から六百五十年ほど前の十四世紀中ごろですが、中国では、現在でもたいへんな人気のようですね。
 池田 中国を訪問したときも、一緒に行った青年が言っていましたが、だいたいどこの書店にも並んでいるようでした。こういう例は、世界でもあまりないのではないでしょうか。
 土井 たしかに珍しいことです。十四世紀というと、日本では鎌倉末期から室町時代にいたる大動乱期で、『徒然草』や『太平記』が書かれた時代になります。
 ――そのころですと、ヨーロッパでは、どんな作品が書かれていますか。
 池田 ルネサンスの開幕を飾る、ダンテの『神曲』やボッカチオの『デカメロン』、それからチョーサーの『カンタベリー物語』などが、十四世紀の作品として知られていますね。
 『三国志』は、そうした作品以上に、庶民に親しまれ続けてきた歴史があります。
 土井 中国では子ども向けに、ポケット版の絵入り『三国志』も出版されていますね。あれは文庫本とも違うから何判と言うのでしょうか。女性のコンパクトのようなサイズです。(笑い)
 池田 そうそう。「連環画」と言うらしいですね。たしか全部で四十八巻になっているはずです。
 ふつう、書店では手に入りにくいので、街頭の貸本屋においてあり、ひっぱりだこのようです。大人も子どももその場にしゃがみこんで、読みふけっていると聞いたことがあります。
 ――そういえば、最近の北京の報道が伝えるところによると、中国では『三国志』の六十回にもわたるテレビの連続番組の撮影が始まったそうです。
 池田 表現される形態は、さまざまに変わっていく――。しかし、人々の心をとらえ、一貫して語り継がれ、受け継がれていく永遠のものが、『三国志』にはある。それを吉川氏は、「詩」と呼んだのでしょう。
 土井 なるほど。もともと『三国志』のルーツは、三世紀の後半に、まとめられた歴史書にまでさかのぼります。ですから、『三国志』の「志」とは、いわゆる「こころざし」のことと言うよりは、「誌」と同義で、記録の意味になりますね。
 これは、
 「魏志」三十巻
 「蜀志」十五巻
 「呉志」二十巻
 の全六十五巻からなり、有名な日本の卑弥呼が登場する「魏志倭人伝」はその一部になるわけです。
5  庶民に愛された関羽
 池田 その記述によれば、卑弥呼が魏に使節を送って、「親魏倭王」の詔書と印綬を受けたのは、孔明が死んで五年後くらいのことだったと思います。
 ――あの孔明が、謎の女王・卑弥呼とほぼ同時代の人であったというのも歴史のおもしろさですね。
 『三国志』は歴史と小説とでは、どのように違うのでしょうか。
 土井 歴史のほうを編纂した陳寿という人は、魏の流れをくむ晋に仕えた人ですから、あくまでも三国のうちの「魏」を正統とする立場で書かれております。曹操の悪口もほとんどない(笑い)。それに対し、羅貫中が書いた小説のほうは、ご存じのように、「蜀」に正義があり、曹操は憎々しい悪漢として描かれているわけです。
 ともかく、小説が誕生する以前の講談でも「町の子どもたちは玄徳(劉備)が負けるとがっかりして、曹操が負けると喜んだ」(笑い)と言われるくらいですから、庶民の「蜀びいき」は相当根強かったようです。
 池田 吉川氏も、「歴史は『勝者が敗者を書いた制裁の記録である』と。そしてそれを書き正すのが文芸の一つの仕事であろう」(全集39)と述懐していますが、じつに見事な逆転劇と言ってよい。
 ――庶民が下した歴史の審判は、あなどれませんね。
 池田 歴史書としての『三国志』と文学としての『三国志演義』との間には、千年以上のへだたりがある。
 そのはるかな歳月にわたり、『三国志』のドラマは、ある時は、演芸小屋での講談として、またある時は、大道での演劇として、民衆の手によって、もまれ、練りあげられていった。
 それを“村の学者”とも言われる羅貫中が、史書をふまえて、集大成したのが、『三国志演義』ですね。
 土井 「演義」とは、史実(義)を敷衍(演)するという意味になりますから、今風に言えば、大河小説といったところでしょうか。
 池田 アリストテレスの『詩学』に、「詩が語るのは寧ろ普遍的な事柄であるのに対し、歴史が語るのは個別的な事件」(今道友信訳、『アリストテレス全集』17所収、岩波書店)とあります。民衆の幾世代にもわたるリレーによって、個別性である「史」から、時代を超えた普遍としての「詩」へと結ばれた「懸け橋」が、この『三国志』であると見ることもできる。
 土井 同感です。そこに『三国志』のスケールの大きさ、おもしろさの所以もあると思います。
 ――また、「個別をとおして普遍を見る」というのが、中国を貫く一つの精神性ですね。これは、池田先生が北京大学で講演されたことですけれども。
 池田 もちろん、史書の『三国志』も、たんに一方的な、また無味乾燥な記録ではありません。
 淡々とした記述のなかに、鋭い人物洞察が光っています。たとえば、「蜀」の関羽と張飛の二人についても、その存在はともに「一万人に匹敵する」力があるとしつつ、両者を次のように対比している。
 「羽(=関羽)は善く卒伍を待ちて士大夫に驕り、飛(=張飛)は君子を愛敬して小人を恤れまず」(宮川尚志『三国志』、『中国古典新書』所収、明徳出版社)
 つまり関羽は、部下の兵士を大事にし、有力者には強気で向かっていった。逆に張飛は上には愛想がよかったが、部下には威張っていた。簡潔ではあるが、二人の人物像の対照がくっきりと浮かび上がってくる。
 土井 張飛のような豪傑でさえも、そういう脆さがあった。残念ながら、いつの時代も人間はちょっとしたところで失敗してしまう。
 池田 恩師は、ことのほか関羽が好きでした。いかなることがあっても節をまげない関羽の生き方に多々、共鳴するところがあったからだと思います。
 土井 官渡の戦のまえ、曹操にとらわれた関羽が信念を貫きとおす姿はみごとですね。このとき、劉備は徐州で曹操に敗れて、袁紹のもとに身を寄せていましたが、関羽は曹操に条件つきで降伏しています。
 池田 そう。関羽が三十九歳のころです。心ならずも曹操に降伏した関羽を、曹操はありとあらゆる手段で自分のもとに引き止めようとする。しかし、関羽はその誘いを振りきって、ひとたび主君とあおいだ劉備への節義を守りぬく。関羽の魅力が、もっとも生き生きと描かれているところです。
 また、人材を愛することだれよりも強かった曹操が、なんとしても関羽を得たいと望み、しかしついにそれがかなわないと知ると、「人おのおのその主ありだ。このうえは彼の心のおもむくまま故主のもとへ帰らせてやろう……」(全集25)と言う。このときの曹操はさわやかでいいですね。
 土井 曹操は、関羽に、まず偏将軍の官位を得させ、珠玉や金銀を贈りますが、関羽は少しも喜ばず、すべて、ともに捕らわれていた劉備の夫人に献じてしまいます。さらに三日に小宴、五日には大宴をはって関羽を饗応し、美女に媚を競わせたりしますが、関羽の心は動かされません。
 錦の衣服を贈っても、関羽はその上に、かつて劉備からもらった旧衣を着てしまう。ただ一つ喜んだのは、赤兎馬をもらった時だけです。劉備の行方が知れたら、ただちに飛んで行けるからでした。
 ――あくまでも桃園で結んだ「義」に生きようとする関羽の姿に、後世の人たちも深い感銘を受けたのでしょうか。関羽は民衆の間でどんどん神格化されていったようです。
 池田 関羽のよさは、やはり「誠実」と「信義」を貫きとおした「人格」にあるでしょう。
 日蓮大聖人の御書(「四条金吾殿御返事」)に「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり」という、私がいつも心に刻んできた一節があります。
 ――これは人生万般の道理でもありますね。
 池田 そのとおりです。「利」・「誉」・「称」・「楽」の四つは、「四順」と言います。これは、心を楽しませてひきよせるものです。「衰」・「毀」・「譏」・「苦」は、「四違」と言います。これは、避けがたい人生の苦しみのことです。
 この「八風」におかされないのが、真の賢人であり、信念の人である。また、そうであってこそ揺るぎなき不動の境涯を楽しんでいける。そして、環境をも変えながら価値の方向へと転じていける、という仏法の法理なのです。
 土井 たしかに、信仰していても「利」・「誉」・「称」・「楽」などの軟風におかされ、結局、身を破っていったはかない姿がありますからね。
 池田 これは人物を見る基準ともなる。秦の始皇帝の宰相であった呂不韋が編集した『呂氏春秋』に、
 「之を喜ばせて以て其の守(=信念)を験し、
 之を楽しませて以て其の僻(=くせ)を験し、
 之を怒らせて以て其の節(=節操)を験し、
 之を懼れしめて以てその特(=特長)を験し、
 之を哀しませて以て其の人を験し、
 之を苦しましめて以て其の志を験す」(鶴田久作『國訳漢文大成』経子史部第二十巻所収、東洋文化協會)
 云々とありますが、曹操は意識的にではなくとも、関羽を喜ばせてその信念の堅さを試したと言えるかもしれない。
 土井 曹操軍と袁紹軍は、白馬の野で激突します。袁紹軍には顔良という豪傑がいて、曹操軍のだれ一人として太刀打ちできる者はおりません。そこでいよいよ関羽の出番となるわけです。
 ――赤兎馬に乗った関羽が、八十二斤の偃月刀を振るって進んでいき、一刀のもとに顔良を斬り下げるところは圧巻ですね。
 土井 顔良を討って、曹操のためにひと働きしたあと、劉備の消息を知った関羽は、贈られた財宝をすべて残して立ち去ります。
 曹操も「追うな」と命ずるのですが、部下たちのなかにはそれを知らず、行く手をさえぎる者が次々とあらわれる。このあと劉備と再会するまでの「関羽千里行」は、京劇でも人気のある演目になっているようです。
 池田 中国唐代の詩人・王維も、この関羽の節に生きた姿を引用していますね。
 日本の阿倍仲麻呂が留学生として入唐して以来、友情を結んでいた王維は、仲麻呂の帰国にさいし一詩を贈る。
 その序に、「関羽は恩に報じて終に去りぬ」(小林太市郎・原田憲雄『漢詩大系』10、集英社)と、仲麻呂の旅立ちと、関羽が曹操のもとを去る姿をダブらせています。
 こうした美しい心の交流が、昔から中国と日本にあったことはすばらしいことです。
 土井 ところで、これは、陳寿の正史『三国志』に、後から裴松之という人がつけた註釈のなかにあるのですが、孔明の奥さんは、いわゆる美人ではなかったというのです(笑い)。それで、周囲の人々はずいぶん馬鹿にしたらしい。
 しかし、孔明にふさわしい聡明な女性だったようです。そういう「目」で伴侶を選んだところからも、孔明という人の実像がうかがえますね。
 池田 そうですね。この夫人については、吉川氏も、それ以上ふれていませんが、氏がもし晩年に『三国志』を執筆していたら、孔明夫人の賢明な内助の功の姿について、もっとくわしく描いていたような気が私はします。
6  王道と覇道の違い
 ――劉備像は史書と小説ではどう違うのですか。
 土井 たとえば、小説では、張飛が、督郵という立場にいた横暴な役人を腹にすえかねて、乱暴するシーンがありますが、史書では、その役人をこらしめたのは劉備だったとなっています。
 ですから、実際の劉備は、優柔不断な君子というより、もっと行動的な男性だったのかもしれません。
 池田 そうでしょうね。また、そうでなければあの乱世は生きぬけない。(笑い)
 しかし、史書のほうでも、劉備の人格について「弘」「毅」「寛」「厚」と記されている。毅然とした強さとともに、大勢の人々をつつみこんでいく「心」の深さをもっていたのでしょう。さらに、私心のない英雄として評価されていますね。
 ただし、権謀術数では曹操に劣ると、はっきり書いてありますが(笑い)。もっとも彼には、孔明という最高の参謀がいた。それも彼自身の「実力」のうちと見ることもできる。
 土井 小説では、劉備を徹頭徹尾「徳の人」として描いています。しかしそのために、関羽や張飛にくらべて、いささか生彩に欠けるところはありますね。
 池田 それはそれとして、その背景に、理想の君主を待望する民衆の願いがあったことを見落としてはならないと思います。
 恩師も、中国において「仁」というものが大切にされたのは、専制や暴政が打ち続くなかで、民衆の間に「仁」を行う人への憧れが高まったからだという、とらえ方をしておりました。
 そうした民衆の目から見れば、曹操たちは「覇道」を歩み、劉備・孔明は「王道」を歩んでいるというのが、戸田先生が強調していた点です。
 土井 「王道」とは、もともとは儒教で説かれた理想的な政治のあり方で、徳をもとにして国を治めることです。徳治政治などとも言いますね。
 これに対して、「覇道」とは、権謀術数によって権力の座についた覇者が、武力をもって天下を支配する権力政治のことであり、信義よりも功利を重んじるわけです。
 孟子は、「力を以て仁を仮るものは、覇たり。(中略)徳を以て仁を行ふものは、王たり」(渡邊卓『孟子』明徳出版社)と王道と覇道を明確に立て分けています。
 ――たしかに、現代は政治が複雑化してますが、いかに形態が変わっても、この原理があることを忘れてはなりませんね。
 池田 ですから、戸田先生は私たち青年に、根本的な「指導者」の生き方を示唆されたわけです。
 仏法では「王は民を親とし」(「上野殿御返事」)と説かれているように、民衆をわが「親」のごとく懸命に仕え、わが身を犠牲にしてもつくしていく。それが本来の指導者の道であると――。
 ――まえにも少し話題になりましたが、権力欲は、際限なく増長していくという魔性がありますからね。
 土井 シェークスピアも、権力に狂った人間の姿を数多く描いています。『ヘンリー六世』(第三部)のなかで王位をねらうリチャードのセリフに、こんな言葉がありました。
 「この世がおれに与えてくれる喜びは、おれよりなにもかもまさっている連中にたいして、命令し、叱りつけ、いばってみせること以外にない、だから王冠を夢見ることがおれの天国なんだ」(小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』Ⅶ、白水社)
 幼児性というのでしょうか、こういう人間が権力を持つことほど怖いことはないですね。
 池田 イギリスの話が出たので、ついでに申し上げますが、トインビー博士と教育について語り合った時、博士は学生時代を振りかえって、パブリック・スクールでは、年長の生徒たちに、あえて実際になんらかの権力を行使させ、責任感を養う機会を与えたと言われておりました。
 生徒会長になった人には「権力は人格の試金石である」というギリシャの格言が贈られたと、博士は懐かしそうに述懐されていた。たしかに、伝統の力というか、確固たる人格の教育がなされていると私は感心したものです。
 いずれにせよ、先ほどの言葉を述べたリチャードは、王位を獲得しますが、自分が殺した人間たちの亡霊に悩まされ、最後は反乱によってあえなく殺されている。
 土井 これは史実にもとづいていますね。
 池田 そうです。この物語は、「権力」をめぐる宿命的な流転の方程式を呈示しているとも言えます。人類の歴史がいつまでも、そうした権力抗争の繰り返しにすぎないとすれば、これほどの不幸はない。
 また、人間性の名に値する歴史とは絶対に言えない。ゆえに、民衆自身が賢明になり、力を持たなくてはならない。恩師の視点はいつもそこにあった……。
 ――本当にそう思います。
 ところで、「魏」・「呉」・「蜀」の三国の勢力はどれぐらいだったのでしょうか。
 土井 当時、中国全体がほぼ十六州に分かれていましたが、そのうち、
 魏が十二州
 呉が三州
 蜀が一州
 という勢力配分になります。
 したがって、魏が圧倒的に優勢だったことがわかります。また、呉の国土は豊かで、発展の勢いがみなぎっていました。
 池田 いわゆる「天下三分の計」を構想したのは、ご存じのように、二十七歳の若き孔明でした。“北は「天の時」を得た曹操にゆずり、南は「地の利」を得た孫権にゆずり、われわれは「人の和」をもって、立ち上がろう”(全集25)――。この「理想の高さ」と「団結の強さ」こそが「蜀」の力であった。
 その気概に、青年時代の私たちは、限りない共感をおぼえ、民衆のため、社会のためにと、ひたすら働いたものです。
 土井 「歴史」に参画する青年の心意気というものは、時代、国を超え、相通じますね。
 池田 日蓮大聖人の御手紙(「衆生身心御書」)のなかに、「当世は世みだれて民の力よわ」という一節があります。
 いかにして、この民衆自身の「力」を強め、そして社会を安穏たらしめゆくか――。
 戦後の混迷の真っただ中で、はるかに、民衆の大河の時代を遠望されつつ、みずから青年の先頭に立って、その突破口を開かれたのが、戸田先生であったと思います。
 ――また、なんといっても、『三国志』全編のクライマックスは、「五丈原」です。蕭々たる秋風吹きすさぶ五丈原での、孔明の苦心孤忠の胸のうちは、万感迫るものがあります。
 池田 『三国志演義』は、その後さらに晋が三国を統一するまでを縷々描いていますが、吉川氏は、「孔明の死後となると、とみに筆を呵す興味も気力も稀薄となるのを如何ともし難い」(全集27)といって、「五丈原の巻」をもって、物語を終えています。よくわかる気がしますね。
 土井 その五丈原で、孔明は遺言として、自分の後任を次の次まで指名しています。
 しかし、「その次は」と問われても、孔明はそれに答えていません。いずれにしても、孔明の冷徹な目には、蜀の命運が、ありありと映っていたのでしょうか。
 池田 時に孔明五十四歳……。もう三十五年前になりますが、お正月に土井晩翠の「星落秋風五丈原」の歌を、先生のまえで披露したことがありました。先生も数えでいえば、はや、孔明と同じ年齢であった。その時、歌をじっと聴かれながら、「孔明の一念は、いまも歴史に生きつづけている」と先生は涙されていた。
 「孔明には、人材を探し、育てる余裕も時間もなかった」と慨嘆もされていた。
 先生は孔明より五年ほど長命でしたが、その晩年は、後継の青年の育成に、それはすさまじいまでの気魄をこめられていました。
 土井 指導者の胸中は、指導者でなければわからない……。“人の和”をもって立った蜀においても孔明という柱を失うと、まもなく、軍の重要なポストにあった魏延と楊儀が争いを始める。『演義』では、魏延が反逆者の典型として描かれていますね。
 池田 そうですね。魏延は、孔明なきあと、自分こそが軍の中心になるのだという野心の人物であった。ところが、丞相(孔明)の代理にライバルの楊儀が任じられるや、嫉妬に狂い、その本性をあらわす。
 魏延は、楊儀を悪人に仕立てて、偽りの上奏をする。いつも見られる常套手段です。
 その後、楊儀からも魏延反逆の上奏が届き、現場から遠く離れた宮中では、いったい、どちらが裏切ったのかと動揺します。しかし、日ごろから魏延を知っていた何人もの人が、反逆者は魏延にちがいないと語る。
 土井 ええ。孔明の後継者であった蒋琬しょうえんは、「魏延は、日頃から己の功を恃んで人をあなどり、人もまた、彼に遜っておりましたが、楊儀だけはついぞさようなことをいたさなかったので、魏延はつねづね恨みとしておりました」(『三国志演義〈下〉』立間祥介訳、『中国古典文学大系』第27巻所収、平凡社)と見破っています。
 また、別の人も、「魏延は日頃から己の功名を鼻にかけて不平の心を持ち、それを口にも出しておりました。これまで、謀反いたさなかったのは、丞相(=孔明)がおられたればこそでござります」(同前)とも語っています。
 ――劉備夫人の呉太后なんかも“魏延の言うことを軽々しく信じてはいけない”(同前)と状況をよく見定めたうえで、判断するよう忠告します。
 男が浮き足立っているときに、ドッシリとかまえる、ご婦人の一言は大きいですね。(笑い)
 池田 孔明は、魏延が反逆することはすでに見抜いていた。すべてを知ったうえで、その武勇を惜しみ、しばらく用いていたわけです。
 その証拠に、みずからの死後の備えに、楊儀に“錦嚢の計”を授け、魏延の破り方を明確に教え残していますね。無私の指導者には、すべてが見えてくるものです。
 土井 そして、魏延軍と楊儀軍がぶつかる。楊儀軍の先鋒とあたった時、魏延は自軍の兵がどっと逃亡してしまい、ひとたび勢いをそがれるや、いったん魏に身を寄せようかと、すぐ弱気になりますね。
 ――虚勢をはっても、裏をかえせば真の勇気もなく臆病である。また、自分一人ではなにもできない。
 土井 「孔明計ヲ遺シテ魏延ヲ斬ル」(『校訂通俗三国志』七篇巻之五、博文館)とあるごとく、魏延は孔明の命をうけた馬岱に一刀両断のもとに斬られてしまいます。
 池田 しかし、その楊儀も、やがて、自分より年も官位も下だった蒋琬が、孔明の遺言どおり丞相となると、魏延と同じ轍を踏む。そして、最後には、自害してしまいます。これも一つの歴史の教訓と言えるでしょう。
 戸田先生は私たち青年に、「反逆、裏切りは、歴史の常であり、これからも、当然おこるであろう。だが、諸君は、本当に信頼できる人間の『絆』で、どこまでも前へ進みゆくことだ」と語っておられました。
 戸田先生はすべてを見抜き、そのうえで包容されていた。しかも未来へのあらゆる布石は完璧に教えておいてくださった。
 先生の言われたとおり実践したことは、あとからかならず、なるほどという結果になっています。
 ――さて、孔明の死後、約三十年で蜀は魏に滅ぼされる。しかし、その魏もまた、曹操の死後、五代四十五年にして滅び、さらに呉も、孫権の死後三代二十七年で滅びます。こうして、三国志の興亡盛衰のドラマは一世紀たらずで幕を閉じます。
 池田 『三国志演義』の巻頭の詞には、その歴史の「無常の劇」を見極めた感慨が詠じられていますね。
 「たぎりながるる長江の東に下る水の上、
 うたかたに浮びて消ゆる英雄のかず。
 世に栄えしも敗れしも頭をめぐらせば空しくなりぬ。
 青山は昔のままに、
 いくたびすぎし夕日の紅」(『完訳三国志〈一〉』小川環樹・金田純一郎訳、岩波文庫)
 土井 『平家物語』の冒頭の「祇園精舎」のくだりにも、一脈通ずる気がします。
 また、「歴史の無常」というテーマは、吉川氏の晩年の作品へとつながっていきますね。
 池田 そう思います。
 いわば、敗者も勝者もともに押し流していく、無常の歴史にあって、真の勝利者とはだれか……。
 吉川氏の思索は、この一点の探究へと向かい、深められていったと私はみたい。
 ――このことについては、『新・平家物語』『私本太平記』にも関わってきますので、次回で論じていただければと思います。

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