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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 世間の波騒を超えて 『宮本武蔵』の世界

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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6  戸田会長の読書論
 土井 ある意味では、文学も、その出発点において、「志」の問題をもっとも重視していると、私は思います。
 その一例として、中国最古の詩集である『詩経』の大序には、
  「詩は志の之く所なり
   心に在るを志と為し
   言に発するを詩と為す」
 とあります。一言でいえば、「志」の発露こそが詩であるということになるでしょう。
 池田 たしか、『詩経』の大序では、自分が本当に言わずにはおれない、また歌わずにはおれないという「志」の迸るような表現が「詩」であると論じていたと思いますが……。小才とか、要領とかでごまかしのきかない、たしかな尺度であると感心した記憶があります。
 土井 おっしゃるとおりです。また人間、政治のあるべき姿などについても、論及しております。
 ――仏法ではどうですか。
 池田 そうですね。深き生命観のうえから、種々説かれていますが、その一端として、「ことばと云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(「三世諸仏総勘文教相廃立」)、また、「文字は是れ一切衆生の色心不二のすがたなり」(「諸宗問答抄」)とあります。
 すなわち、形に現れた「ことば」や「文字」は目に見えない「心」の世界の表現である。
 ですから、「人のかける物を以て其の人の心根を知つて相する事あり、凡そ心と色法とは不二の法にて有る間かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり」とも説かれています。
 いずれにせよ「表現」というものは、その人の境涯の“窓”と言ってよい。
 土井 なるほど。
 池田 戸田先生は、私たち青年に、「作者の人格と思想、その人生観、世界観、宇宙観まで、読みとっていかなければ、本当の読書とは言えない。作者の境涯がわからないと小説に読まれてしまう」と厳しく注意されていました。
 本の読み方もそうでしたが、万般にわたって、原理・原則を教え、確固たる「哲学」を青年に持たせておきたいという先生の心だったと思います。その基本さえできあがれば、応用は自在ですから。
 ――とくに現代は、そうした自分のたしかな視座をもたないと、それこそ「言葉の洪水」に溺れてしまいますからね。
 土井 言葉の表現といえば、徳川夢声氏がラジオの『宮本武蔵』の朗読で、たいへんな人気を博しました。氏との対談で、吉川氏は、権力を望む人間の心理について、語っていましたが。
 池田 そうですか。夢声氏とは、戸田先生も対談したことがあります。
 ――ええ。夢声氏の連載対談「問答有用」(「週刊朝日」昭和三十二年九月一日号掲載)に収録されております。夢声氏は、戸田先生の座談の妙を評価していて、できれば活字でなく、戸田先生の肉声を読者に伝えたいと――。
 池田 たしかその折、夢声氏は「文ハ人ナリ」をもじって、「はなしハ人ナリ」と記していましたね。
 土井 今はそういう座談の名手が少なくなりました。夢声氏と吉川氏との対談(『徳川夢声の問答有用』1、朝日文庫)も要約してしまうと、その座談の味わいをそこねますので(笑い)、あえてそのまま読んでみます。
 「吉川 ぼくはだね、『新・平家』を書いているあいだじゅう、どうしてもわからないことがある。(中略)多少は常識もあったり、ものもわかったり、学問もあったりするひとびとがみんな、より以上の権力に対して、ああいうふうに自分を、あるいは、自分の周囲すべてを賭けたのは、なぜかということだ」
 「夢声 それはね、酒飲みが、うまくもなんともないのに、ただもう、なんばいでも飲みたいような……。いくらでも飲みたいのとおんなじで、権力に酔って、あすこまでいっちゃうと、わけもヘッタクレもないんだな。
 吉川 すると、人類はみんなアル中のごときものかい(笑)。いやだな。近代になっても、人間のなかに、そういう妄想が強く残ってるような気がするんだ。保元の乱であろうと、なんであろうと、乱になる口火というものは、それに原因がある」
 池田 人間の心に巣くう権力の魔性――それが、歴史の幾多の動乱を凝視してきた吉川氏の胸中から離れなかった課題であったのでしょう。
 権力の魔性を酒にたとえるのは(笑い)、古今の通例のようだ。アメリカの政治学者ラスウェルは、自著『権力と人間』のなかで、イギリスの詩人サミュエル・バトラーの「権威は魔酒なり、その魔気は頭脳をおかし、ひとを軽佻・尊大・虚栄と化せしむ」(永井陽之助訳、創元社)を引いて論じていますね。
 土井 そういう“酒グセ”の悪いのが、いつの世にもいますからね。(大笑い)

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