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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 人間を見つめる哲学を…  

「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)

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8  宗教と文学の方向性
 池田 じつは、今の韋提希夫人の言葉は、仏法上まことに重大な問いかけでもあるわけです。
 阿闍世の母、つまり韋提希夫人が、この二つの質問を発したのは観無量寿経という経典です。
 これは、いわゆる念仏宗系が依経とする浄土三部経の一つになります。
 ところが、じつはその観無量寿経では、韋提希夫人の問いそれ自体には、釈尊は一切、答えていない。
 土井 念仏の依経は、もともと仏法の本筋ではないことを釈尊自身が述べてますからね。
 池田 釈尊は、ただ韋提希夫人の問いを無視したわけではなかった。
 その証拠に、「釈尊が提婆となぜ眷属なのか」という問題を法華経提婆品第十二において、真正面から取り上げています。
 ですから、日蓮大聖人は、有名な「開目抄」で、「観経を読誦せん人・法華経の提婆品へ入らずば・いたづらごと徒事なるべし」と仰せです。
 土井 それにしても仏典は重層的な構成になっていますね。
 それで、法華経ではどのように……。
 池田 提婆品では、釈尊と提婆の過去世からの因縁を明かしつつ、「等正覚を成じて、広く衆生を度すること、皆提婆達多が善知識に因るが故なり」(開結424㌻)と説かれています。
 土井 一言でいえば、“提婆がいたからこそ釈尊は仏になれた”という原理になりますか。
 池田 そうです。
 また、日蓮大聖人はこの原理をさらに一般的にわかりやすく、「今の世間を見るに人をよくなすものはかたうど方人よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(「種種御振舞御書」)と展開されています。
 土井 仏法は、たしかに万般にわたる現実の道理を言われておりますね。
 その後、阿闍世はどうなりますか。
 池田 全身に悪瘡ができて、相当苦しんだようです。
 それが化膿して、膿汁が流れ、悪臭のために人が近づけなかったほどであったと記されています。
 ――何の病気だったのでしょうか。
 池田 医学博士の川田洋一氏によれば、おそらく悪性の皮膚病で、心の強い葛藤が原因となり、それに糖尿病か、食品アレルギーも重なっていたか、あるいは強烈な細菌によるかもしれないと言ってました。いずれにせよ、単純な身体の病気ではなかったように思います。
 そこで釈尊は、みずからの涅槃を目前にして、“ただ心にかかることは阿闍世王のみ”と語っております。
 つまり“親はどの子も可愛いけれど病気の子はとくにふびんである。父母を殺したり仏法の敵となる人間は、仏にとってはその病気の子どものようなものである”ということになるでしょう。
 土井 なるほど。仏法の懐は深い。表面的な見方だけでは、とてもわからないですね。
 池田 ですから、この阿闍世王を救うことができれば、一切の人間の救済へと通じていく――。
 こうして釈尊は、最後の力をふりしぼるがごとく、阿闍世の心身の病をいやし、その宿命的な生命を根底から大転換していくのです。
 阿闍世はその後、父の跡を継ぎ、すばらしき賢王となって活躍します。なかでも、釈尊入滅後の第一回の仏典結集を外護したと伝えられています。
 土井 仏典には、じつに壮大な人間ドラマが秘められていますね。
 ――池田先生も、まえに創価大学の講座で講演されましたが、「仏教と文学」というテーマも、つきせぬ興味をさそいますね。
 土井 そうでした。私もたいへんに感銘深くうかがいました。
 池田 いや、私の講演はともかく、かつて歴史家のトインビー博士と対談した折、博士が次のように語っていたことが忘れられません。
 それは、「私自身の人生をとおしても、“宿業”という問題を体験してきた。また歴史にも、さまざまな宿業の作用を見ることができる。
 人間、またこれからの人類にとって、もっとも重要な課題は、この宿業をどう好転させていくかという一点である」との一言であった。
 私もまったく同感であるし、それなくして人間の新しい創造性の開花も文化の昇華もなしえないのではないかと、確信している一人です。
 文学と宗教は当然、次元が異なります。しかし「人間」を徹底して「観ずる」という一点では、方向性は一致している。
 現代に必要なのは、この鋭き「人間凝視」の哲学であり、その実践ではないでしょうか。
 ――それこそ、この対談の大きなテーマになりますね。吉川文学は、宿命的な歴史の流転を見つめているからです。

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