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日蓮大聖人・池田大作
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第一章 人間を見つめる哲学を…
「吉川英治 人と世界」土井健司(池田大作全集第16巻)
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1
文化の殿堂を語る
――
お忙しいなか、まことにありがとうございます。
池田
この対談は「人間と文学」がテーマと、うかがったものですから、なんとか、時間をやりくりしてみたいと思っています。
――今回は、創価大学の土井健司先生にもご出席いただくことになりました。どうか、思う存分語り合ってください。
土井
専門外のこともいろいろあると思いますし、どこまでご期待にそえるかわかりませんが、毎回勉強のつもりでやらせていただきます。池田先生、どうかよろしくお願いいたします。
池田
こちらこそ、多忙のためスケジュールもご無理願うこともあると思いますが……。ともかく読者の方々、とくにこれからの若い方々に、何らかの参考になればと考えております。
――じつは、今回のテーマですと、池田先生はフランス文学を代表するアンドレ・マルロー氏との対談をはじめ、現代ロシア文学の巨匠で、ノーベル文学賞を受けたショーロホフ氏とも会談されている。さらに中国の大文学者である巴金中国作家協会主席、王蒙前文化相、フランスの著名な詩人でもあったフォール元首相、またルーマニアの若き詩人でブカレスト大学教授のアレクサンドル博士等との親交も知られています。
また、アフリカ初のノーベル文学賞作家ウォレ・ショインカ博士とも会見されている。そうした世界的なスケールからも、自由に論じていただければと思います。
池田
それほど形式にとらわれずに、楽しくやりましょう(笑い)。土井先生、どうでしょうか。
土井
そうおっしゃっていただければ、私も気が楽になります。(笑い)
――最近、お年寄りや婦人たちの間でもワープロを使って「自伝」や「俳句集」や「歌集」などを作ったり、小説を自費出版したりする人が増えているようです。
カルチャーセンターでも“小説作法”のコースは申し込みが多く盛況のようです。
以前にくらべて、いわゆる「文学」がずいぶん身近になってきたのではないでしょうか。
土井
各種の文学賞を見ても、他に職業を持った方が受賞しておりますね。
「兼業作家」はこれからも多くなることでしょう。(笑い)
また、身のまわりのちょっとした出来事を詠んだ高校の若い女性教師から、短歌の大きなブームが起こり、話題になりましたね。
池田
そうですね。
ただ流行という現象は別にしても、もともと文学は、日々の生活からかけ離れたものではない。
『万葉集』のあのさまざまな庶民の歌を見ても、文学への参画は、決して一部の人の独占物ではなかったと思います。
現実の生活のなかでの生命の喜び、悲しみ、苦しみ、楽しさを率直に言葉に表し、たがいに語り合っていたのではないでしょうか。
わが心のやむにやまれぬ思いをだれかに、そのままぶつけずにおられない――、文学の根底には、そうした素朴な「人間としての共感」への豊かな信頼が横たわっていると思う。
そうした意味から言えば、文学は民衆、さらには人類、宇宙へと「開かれ」「広がる」生命力を持っている。
土井
『古今集』の「仮名序」の冒頭にある紀貫之の有名な和歌論にも、「いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける」(大系8)とありますね。また、『万葉集』のなかの読み人知らずとなっている歌にも、無名の女性が数多く登場してきます。
池田
かつて一世を風靡した歌人・与謝野晶子にしても、毎日の家計のやりくりに頭を痛めながら、十一人の子どもを育てあげた母でもあった。
深夜までの執筆で、当然、他の母親と同じようにはしてあげられなかったけれども、時間を見つけては、みずから果物の皮をむいて子どもたちに与える母であり、また夫の食事にも、こまやかな心くばりを欠かさなかったといいます。
土井
彼女の五万首にも及ぶ歌の数々が、じつはそうした暮らしの汗と息吹のなかから生まれてきたことを、うっかりすると見落としてしまいますからね。
池田
彼女の有名な一首に、
劫初より つくりいとなむ 殿堂に
われも黄金の 釘一つ打つ(『与謝野晶子歌集』岩波文庫)
とあります。
いろいろな解釈ができるでしょうが、文学をはじめ文化とは、人類の誕生以来、それこそ数えきれない人々によって、営々として築き上げられてきた“殿堂”である。
その果てしなき建設に、自分もまた自分らしく参画していきたい――。そこには世代から世代へと悠久に続いていく、人類の歩みへの敬虔な愛情がある。また「不滅の文字」を残したいという永遠性への志向がありますね。
――そういう意味、次元から文学の世界をもう一度とらえなおしてみようという試みは、現状を打開していく根源的な力になります。
ともすれば、文学には、民衆という“根”を離れて、皮相的な自己満足の世界に閉塞しがちな一面がありますから。
2
思い出に残る『宮本武蔵』
土井
先生はこれまでもさまざまな機会に世界の文学を題材として、青年たちと語り合っておられますが、日本の作家では、吉川英治氏が多いようですね。
池田
氏の文学とは、少年時代からの長いおつきあいになりますもので……。(笑い)
土井
と言いますと、先生が、いちばん最初に読まれた吉川作品は何でしょうか。
池田
『宮本武蔵』です。自分で読んだのではなくて、小学校の担任の先生が、毎日読んでくれました。桧山浩平先生という方で、たいへんにいい先生でした。私たちはみんな、「武蔵の時間」と言って喜んだものです。
――『宮本武蔵』が「朝日新聞」に連載されたのは、昭和十年から十四年にかけてですが、今でいうテレビの超人気番組のようなもので、日本中の人気をさらっていたそうですね。
創価学会の初代会長・牧口常三郎先生とも交友のあった民俗学者の柳田国男氏も、『宮本武蔵』を愛読していたようですが。
池田
ああ、そうですか。何か書いたものはありますか。
――はい。たとえば、「吉川英治君の『宮本武蔵』には、お通といふ同じ故郷の美女を出して
萍逢流離
へいほうりゅうり
させて居るが、是をしまひにはどうする積りであるのか、我々見物には可なり気が揉める」(『定本柳田国男集』第九巻、筑摩書房)(笑い)と連載中に書いています。
土井
あれほどの碩学の人も、物語の流れに「気を揉み」ながら読んでいたわけですか。(笑い)
池田
連載小説によって、新聞の売り上げが左右されることもあったようですね。ですから、新聞社としても小説には相当、力を入れていたようです。
――少し調べてみたのですが、広く愛読されている作品のなかには、かなり新聞小説が多いようです。
土井
そうですか。どんなものがありますか。
――中里介山の『大菩薩峠』、大佛次郎の『赤穂浪士』をはじめ、石川達三の『人間の壁』、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、井上靖の『氷壁』……と、かなりあります。連載時、いずれも人気を博しています。
池田
この先いったいどうなるのだろうか、という興味で読者をひっぱっていくことが、新聞小説の作者には求められてくる。その点、吉川氏は名手でしたね。
土井
われわれ教員もよく思うのですが、たとえば授業で習った教科書よりも、歴史小説のほうが心に残っている、ということも意外とあるんですね。(笑い)
池田
たしかに、そうかもしれない(笑い)。なにげない日常の身近なものによって、物の見方が養われるというケースも多いようです。小説の効用というのは、案外そういうところにもあるのではないだろうか。
――子どもも十歳ごろから、いわゆる大人の本でも、なんとか理解して読めるようになりますね。
池田
十歳ごろというのは、他人との関わりとか、社会というものを明確に意識しはじめるという意味で、幼年期とは違ったかたちで好奇心が旺盛な時期です。
土井
人生には何回か好奇心の盛んになる時期があると思います。好奇心のサイクルとでも言いましょうか。そのなかでも、十歳ごろに興味をもったことというのは、その後の人生に大きな影響を及ぼすものですね。
――ところで、担任の桧山先生は、初めから終わりまで朗読してくれたのですか。
池田
そうです。ただ、おそらく、わかりにくいところや、子どもには不適当なところは、上手に省略されていたと思います。(笑い)
そのようにして、自然のうちに、文学のおもしろさを教えていただいたことを、私は今もって感謝しています。学生時代を通じて、小学校の先生の思い出がいちばん深いという人は、意外と多いのではないでしょうか。
土井
いいお話ですね。また、たしかに読書指導はむずかしいですからね(笑い)。そのころは、作品のどういうところに惹かれましたか。
池田
子どもですから、やはり武蔵がいろんな武芸者と闘うところとか(笑い)、武蔵についてくる城太郎や、下総(千葉・茨城方面)で出会って弟子になった伊織などの、少年が活躍するところでしたかね。
また、これはまえに『吉川英治全集』(全集17)に寄せて書きましたが、「あれになろう、これになろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」という言葉が、私は少年時代からたいへん好きでした。
土井
また、そういう一言が、じつに心憎いまでにちりばめられているんですよね。(笑い)
池田
ですから、こうした出合い以来、私は吉川氏の作品に、あるときは勇気づけられ、また、あるときは励まされたこともあった。教えられもした。氏の作品は、じつに多くのものを、若き日の私に語りかけてくれたと思っております。
なかでも、氏の『三国志』は、恩師・戸田城聖先生(創価学会第二代会長)のもとで、私たち青年が、半年間かけて本格的に学んだ教材でもありました。
――戸田先生を囲んでの読書会では、教材はじつに慎重に選ばれていたとうかがっておりますが。
池田
青年たちが、案としてあげてきた本も、戸田先生から「レベルが低い。主人公も二流、三流の人物だ」と一蹴されることがしばしばでした。
そうした戸田先生が、私たちの申し出に、「いよいよ始めるか」と破顔一笑されたのが『三国志』だったのです。
土井
目に浮かぶようですね。(笑い)
池田
当然、吉川文学に対しても、さまざまな次元からの評価があることは、私も承知しております。
ただ、私は、みずからの同時代における第一級の青春の文学として、語り伝えておきたいという気持ちなのです。
土井
よくわかります。また、大衆小説家としても、吉川さんは、世界に通用する手腕の持ち主だったと言えるでしょう。評論家の木村毅さんなども「優に大デュマに比肩し得る」(「世界的評価の宮本武蔵」、『吉川英治全集』第17巻月報30、講談社)という評価を、吉川さんの生前からしておりました。
――そうですか。木村さんは、池田先生と対談集を出しているEEC(欧州経済共同体)生みの親、クーデンホーフ・カレルギー伯の母・光子さんの生涯を、日本でもっとも早く紹介した方ですね。
3
成長する青年のひたむきさ
池田
アレクサンドル・デュマの代表作『モンテ・クリスト伯』(別名『巌窟王』)は、戸田先生もたいへん好きで、教材にもなりました。
土井
そういえば、戸田先生の自伝小説『人間革命』の主人公は、その名も巌九十翁さんでしたね。(笑い)
池田
戸田先生は明治の生まれで、また文学とは対照的な数学が専門でした……。
しかし、戦時中の弾圧で師・牧口先生は獄死、ご自分も二年間の獄中生活を体験されている。
ですから、悪しき権威や権力に対しては、それはそれは厳しい先生でした。
その先生の深い思いがこめられた名前なのです。
ご逝去の前の最後の夏、軽井沢で、小説『人間革命』をめぐって、先生と私の二人で語り合った一夜を、昨日のことのように思い出します。
先生の本の読み方は、かならず時代背景や社会状況をふまえられていました。
したがって、デュマその人が生きた時代についても、私たちは、ずいぶん勉強させられたものです。
――なるほど。
デュマが『モンテ・クリスト伯』を新聞に連載したのは、一八四〇年代でしたか。ちょうどナポレオンが没落し、ふたたび革命につぐ革命の大激動の時代となりましたね。
池田
そうです。
小説のなかで、主人公ダンテスが無実の罪によって十四年間も投獄されていたシャトー・ディフ島には、現実に、多くの政治犯が囚われていたようです。
夏空の地中海に浮かぶシャトー・ディフ島を、私も数年前、マルセイユ港から眺望したことがあります。
岩盤の上に石造りの古城がそそり立ち、たしかに、「巌窟」とはよく言ったものだという印象が残っています。(笑い)
土井
その時期、文学界にも権力の弾圧がありましたね。
池田
いつの時代も構図は変わらないのです。
権力側は、とくに大衆小説の影響力を知っていますから、それによって、民衆の目が社会に開かれることを恐れていた。
そこで、政府は大衆小説を連載している新聞に対し、特別な税金をかけるなど、次々と圧迫を加えて作品発表の場を奪っていった――。
土井
『パリの秘密』を書いたウージェーヌ・シューですが、彼は弾圧にあっても、筆を折らない。
そればかりか、みずから議員として、政治の場でも敢然と闘った作家でした。このへんがヨーロッパらしいところです。
しかし、やがて彼も亡命を余儀なくされる……。
こうして課税法が実施された一八五〇年を境に、大衆小説は新聞紙上からほとんど姿を消してしまったという、にがい歴史がありました。
――いや、今、話題の消費税のなかにも、書籍への課税が含まれているんですよ。(爆笑)
池田
私が忘れられないのは、戸田先生が『モンテ・クリスト伯』について言われた一言です。
すなわち「デュマは、主人公ダンテスの若々しい生命に対して、一つの人生の嵐を吹きかけて、生きるか、死ぬかの思いをさせた。肉体的にも、精神的にも、人生の苦しみを受けたものが強くなる」。
戸田先生ご自身が、この言葉どおりの生涯でした。凄い先生でした。先生のような方を、私は他に知らない……。
土井
なるほど。なぜ青年にこそ、こうした大河小説を読ませられたのか――。その見識が伝わってくる言葉ですね。
また、「青年主人公にあえて試練を与える」とは、まさに“日本のデュマ”吉川英治氏にも共通した手法ではないでしょうか。
――子息の回想録によれば、吉川氏はよく“何でも成長するものが好きだ”(吉川英明『父吉川英治』文化出版局)と語っていたようです。
だからでしょうか、吉川作品に登場する武蔵にしろ、清盛や秀吉にしろ、とくに青春時代の姿に焦点を当て、じつに生き生きと躍動的に描かれていますね。
池田
歴史上の彼らが、実際はどうであったか、という研究は研究として、吉川氏の創作のなかの人物は、その「伸びよう」とするひたむきさで読者を魅了する。そこに、作家の史観や人間観を垣間見ることができますね。
4
人生遍歴から生まれた文学
池田
これはあまり知られていないと思いますが、吉川氏の短編に『恋山彦』という作品があります。
土井
はあ、私は読んでいません。(笑い)
池田
かつてこの作品を読んだとき、少々驚きました。かたい漢字が(笑い)、これでもか、これでもかという具合に並んでいるんですね。
たとえば「如何なる大願でも、百難、万難は、伴うのが当然だ。艱苦、挫折、呪咀、陥穽、あらゆる魔業の試煉にかけられ、不撓不屈、闘っては勝ち、磨いては自己を完成して行ってこそ、初めて大願の彼岸は来るのだ」(全集11)。
土井
吉川氏は、その言葉をすべて自分に向けていたのでしょうね。だからこそ、読者に強く伝わってくるのだと思います。
読者は、自分が高められるように感ずるものには敏感に魅せられていきますから。
――やはり、そこまで読者をひきつけていくには、吉川英治氏自身にたいへんな努力があったのでしょうね。
池田
そう思います。何といっても、みずから苦労しながら、「人を知ろう」とされた。なかでも、庶民の心を探りあてることに、吉川氏ほど腐心された人物は少ないと思う。
土井
吉川氏がまだ三十代初めのころですか、関東大震災で家を焼かれ、上野で屋台を引きながら牛丼か何かを売っていた(全集46)、と読んだことがあります。
池田
そうでしたね。じつは、戸田先生も青年時代、一時、渋谷の道玄坂で下駄の露店を出していたことがあるのです。
その経験を、先生はよく懐かしそうに振り返っておられた――。それとほぼ同じころの話と思います。
土井
戸田先生と吉川氏は時代が重なるのですか。
池田
年齢は吉川氏のほうが八歳くらい、年長だったと記憶しています。
土井
当時、吉川氏は、帰るところもないので、夜ごと、被災した人たちと木の下にムシロを敷いて寝ていたというのですが、いく日かたつにつれ、親しさも増し、各人が各様に、千差万別の人生を語り始める。
――星空の下の座談会ですね。(笑い)
池田
そんな雰囲気だったのでしょう(笑い)。吉川氏は、あの人、この人の人生経験を写しだしてみたいと思ったのでしょうね。それが文学への大きな出発点になったようです。
――自伝によると、吉川氏は少年時代の苦労も並大抵のものではなかったようですね。
池田
そのようです。たしか十一歳のとき、にわかに家運がかたむく。
ハンコ屋の店員を振り出しに、活版工、見習い社員、雑貨店の店員、土工の手伝い、船具工。さらに横浜ドックで、船の修理工として働くうちに、大怪我をして危うく一命をとりとめる。
退院と同時に上京して、絵師、新聞記者を経て、文筆生活へと入っていったようですが。
――波瀾万丈の人生遍歴ですね。もしかすると、横浜のドックで、「あっぱれマドロスの親分になってしまったかも知れない」(全集52)(笑い)と、ご本人が語っています。
土井
いや、それが人間・吉川英治をつくっていったのでしょうし、氏の強みだと思います。
池田
それはわかる気がします。
やはり、一流と言われる人物に会うことは、万巻の書を読むことに通ずる何かがあるものです。
5
受け継がれる「志」
――ところで、吉川英治という作家は、初期のころから家族の愛憎の問題を一貫して考えていた人で、それを作品にちりばめていると言われますが。
池田
年代順に読んだことはないので、どうですか、土井先生。
土井
ええ。『新・平家物語』はその代表的な作品とも言われますね。
また、たとえば、昭和十五、六年ごろのもので『高橋泥舟』という短編があります。これなど兄弟の絆ということについて、私はいろいろ考えさせられました。
池田
そうそう。たしか、泥舟の兄は、静山といって、当代随一の槍術家だった。ところが残念なことに二十七歳という若さで病死してしまう。
泥舟は、追腹を切ってあとを追おうとするほど、この静山を尊敬し、私淑していた。
――「兄弟は左右の手」と言いますが、すごい兄弟愛ですね。
池田
泥舟が、後に勝海舟、山岡鉄舟とともに“幕末の三舟”と並び称されていく陰に、この早世の兄あり、というのが一つの視点とも言えるのです。
たとえ短いようであっても、懸命にわが一生を走りぬいた人の「志」は、かならずだれかに受け継がれ、実現されている。これもよく、私の師が言われていたことです。
土井
泥舟は、鉄舟とは親戚の間柄にもなりますね。
池田
そうです。
奇しくも“幕末の三舟”は、それぞれひとかど以上の人物でありながら、幕府側の要人であったがゆえに、明治維新後の表舞台には、あまり出ることはなかった。
戸田先生は、よく勝海舟の父・小吉のことも語ってくれました。
先生が出版社を興されたとき、若きころより親交を重ねていた同郷の作家・子母沢寛氏の、海舟をテーマとした小説を発刊しているのです。
――『父子鷹』ですか。
池田
いや、『父子鷹』は、もっとあとになります。
先生の出版社から出たのは、『勝安房守』という題名でした。これが、後に『勝海舟』と改題され、氏の代表作となったわけです。
じつは先生の出版社の名前も、子母沢氏の作品、『大道』からとって「大道書房」とされたのです。
――あまり知られていないエピソードですね。
土井
いや、たしか文芸評論家の尾崎秀樹さんが、研究のなかで紹介されていた(〈大衆文学逸史〉11「ルーランの地で」、『昭和国民文学全集』付録12所収、筑摩書房)と思います。
池田
そこで、泥舟ですが、彼は兄・静山から、文武両道はもとより、徹底して人間的な訓練をうけている。
とくに、「傲慢」「驕慢」に対する誡めは厳格に打ち込まれたようです。
土井
作品では、静山がつね日ごろ「怖いのは驕慢だ。増長だ。心にいささかでも、驕傲のヒビが入れば、百年鍛錬の道業も一朝に崩廃し去る」(全集28)と言い聞かしていた、とありましたね。
池田
泥舟の生涯は、地味といえば地味かもしれない。
だが、ただ一筋、この誡めを人生の指針として生きぬいた偉さを、吉川氏は見逃さなかった。そこに、あらゆる階層の人々のなかで、もまれ鍛えられてきた「作家の眼」がある。
このあたりが、氏の作品を非凡たらしめている所以の一つではないだろうか。
幕末、泥舟は、新選組の前身であった新徴組を率いて、風雲急を告げる京都にのりこむ。
しかし、官軍の大勝に終わった鳥羽伏見の戦いのあとは、十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、骨肉相喰む争いを、和平へ和平へと向けている。
――勤皇、佐幕の決戦は、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談で回避されたと言われていますが、泥舟のような地ならしをしていた人物がいたわけですか。
池田
そうです。
江戸を戦火から救い、官軍を無血入城させたことは、特筆すべき出来事と言えるでしょう。
こうした歴史の陰には、かならず泥舟のような人物の存在があるものです。指導者たるものは、こういうところをよく見なくてはいけないと、戸田先生は厳しく言われていた。
土井
海舟は希代の経世家であり、鉄舟は一代の豪傑、それにくらべて、泥舟について書かれたものはあまり見当たりませんね。
池田
今、すぐ手に入るようなものはないでしょうね。
ただ、昔、中根香亭という作家がおりました。明治のころですが、江戸武士の生き残りのような人です。
この人が、鉄舟と泥舟についておもしろいことを書き残していたと思います。
土井
どういう……。
池田
詳しくは、あとで調べてもらいたいのですが、たしか「泥舟……少壮時には善く鎗を
揮
ふる
って、世にその右に出ずる者がなかった。晩年には筆をもって鎗に代えて、また人に過ぐるものである」という意味の言葉もあったと思います。
――すると明治のころは、泥舟は書家として名を残していたわけですね。
池田
そのようです。
そこで、香亭は鉄舟と泥舟の生き方を比較しているのです。
「泥と鉄とは、剛柔かけ離れているけれども、オイの鉄舟が亡びて、オジの泥舟は無事でいる。文叔の柔、測り易からぬものがある」と。
つまり、泥舟は、最後まで市井のなかで、淡々と生涯をまっとうしています。
若いころ、私は、泥舟に興味をもって、彼の書物を探したことがあります。しかし、どうも、彼は生前には、一冊の本も出していないようです。
彼が明治三十六年に亡くなった直後に、『泥舟遺稿』(安部正人編、國光社)というのが、一冊にまとめられているだけです。
私も、人に頼んで手に入れた思い出があります。
土井
とくに何か印象に残っているようなところはありますか。
池田
たとえば、家康の和歌に、
慈悲の目に 憎しと思ふ 人ぞなき
罪のある身は 猶不便にて
というのがあるのも、この本で私は知りました。
土井
これなど、晩年の家康の心境を歌っているのでしょうね。
池田
家康はまた、「悪逆は私欲より出で天下の乱はおごりより起る」と、つねに教訓していたとも紹介しています。
泥舟はこうした家康の心境が継承されたところに、徳川「三百年の昇平のもとゐ」があったと、とらえているわけです。
――なるほど。他にはいかがですか。
池田
そうですね。泥舟の言葉に、「知れば行ひやすく。行へば知りやすし。二のもの互に相たすけて。道明らかにして行はる」ともありました。
――思索と実践の関係性をわかりやすく述べていますね。
6
「心」の闇を見すえる文学
土井
ところで、現在でも吉川英治氏の本は売れていますか。
――今でも全集が手に入りますが、欠本も多いようです。ただ、ほとんどの作品が、文庫本になっていますし、息長くたくさんの読者に読み継がれているようです。
土井
そうですか。結構ですね。
池田
息の長い、地道な読まれ方こそ、吉川氏の文学にはふさわしいのではないでしょうか。
時代、歳月に耐えるということはむずかしいものです。
――厳しい世界です。一時代を画したような流行作家でも、故人になると、あまりかえりみられなくなるのが大半ですからね。
土井
明治・大正・昭和のすべてにわたって読まれてきた作家は、そんなに多くはないでしょうね。
――『吉川英治全集』は没後三回にわたって刊行されておりますが、亡くなって三年ほどして、最初の全集が出ました。
そのころ、発行部数は千数百万部に達したと騒がれたことを覚えています。
土井
晩年は、まさに国民的作家でしたね。
池田
小学生のころから読み始めて、大人になってもなお愛読させる作家は、なんといっても吉川氏でしょう。
土井
私なども、そのような読者の一人です。
――数学者の岡潔さんが、「吉川さんが亡くなった時、私には大東京が色褪せたように感じられた」(「吉川英治さんの思い出」、『吉川英治全集』第2巻月報6、講談社)とまで書いていました。
今は、庶民から知識人まで、幅広く人々の心を魅了する作品は、あまりないですね。時代なのでしょうか。
土井
とくに子どもたちにとってはそうでしょう。
一例として、ある図書館関係者のお話では、ちょうど十年くらい前から、児童の利用者が全国的に減ってきているそうです。
池田
いずれにせよ、青少年の心の“冷え”と“渇き”は、ますます深刻な問題です。その純粋な心のカンバスに何を語りかけていくか――。もっと希望を与え、精神の糧となるものを大人が考えなくてはならない。
――この七月(一九八八年)には、中学二年の少年が、両親と祖母を殺害するという、たいへんショッキングな事件がありました。
かつて吉川氏は『宮本武蔵』のなかで、「父を斬る?……それが本気ならおまえは人間の子ではない。(中略)親とは何かぐらいな事は、自然分っていなければならない。……獣にすら親子の本能はあるに」(全集17)と記しておりましたが……。
土井
文学のうえで「親殺し」の問題は、もっとも古く、また深刻なテーマです。
古代ギリシャの作品でも、すでにソフォクレスがオイディプス王の「父殺し」の悲劇を克明に描きだしております。
池田
ギリシャ悲劇には、この他に「母殺し」の王女「エレクトラ」の物語もある。
そうした意味で、文学は少なくともすでに二千五百年ほど前から、「親子」の亀裂、また人間の「心」の底知れぬ闇を凝視してきている。
――土井先生の専門の中国ではどうですか。
土井
これは史実になりますが、中国の史書『資治通鑑』には、親殺しの連鎖が記されています。唐の時代、玄宗皇帝の武将であった安禄山は、反乱を起こし、都・長安を占領し、みずから皇帝を名乗ります。
――“安史の乱”でしたでしょうか。
土井
そうです。じつは、この安禄山は、養母を殺害していたと言われています。ここに“殺”の連鎖が始まるわけです。つまり、その後、安禄山は、後継者争いから、実子・安慶緒に殺されてしまう。
その「父殺し」の安慶緒は、部下の史師明に殺され、さらに史師明は実子の史朝義に殺される。そして史朝義は最後に自殺しております。
池田
日蓮大聖人のお手紙(「千日尼御返事」)にも、この“亡国”の歴史を慨嘆しておられる個所があります。
「
抑
そもそも
子はかたきと申す経文もあり
(中略)
安禄山は養母をころし・安慶緒と申す人は父の安禄山を殺す・安慶緒は又史師明に殺されぬ・史師明は史朝義と申す子に又ころされぬ、此れは敵と申すも
ことわり
理
なり
」
この悲劇が始まったのは、仏教史のうえから見ると、三三蔵によって中国に初めて真言が伝わり、玄宗の庇護を受けて急速に全土に広まっていった時代になります。
――ところで、近代文学ではどうでしょうか。ドストエフスキーなどもあると思いますが。
池田
これは有名ですね。
『カラマーゾフの兄弟』の無神論者イワンの悪魔的分身ともいうべきスメルジャコフによる父親殺しは、とくに有名ですね。
当時は「神の死」の時代の始まりにあった。『カラマーゾフの兄弟』のなかでスメルジャコフは、みずからの父親殺しを公然と言い放ってはばからない。
「『なにをしても赦される』というのが原因なんですよ。(中略)永遠の神がなければ、善行もありえない、そうなればそんなものは全然必要がない」(小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』第11巻所収、筑摩書房)と――。
ここには、理性の解放によって目覚めたはずの人間の、自己矛盾が浮き彫りにされている。
――いわゆる虚無主義の台頭ですね。
池田
ドストエフスキーは、その心情を極限化していく過程のなかで、人間が「信仰」という確固たる精神の依処を失うことが、いったいどういうことなのか、どれほど恐ろしいことであるか――。その一点を見すえていたにちがいない。
土井
現代における、精神の空洞化の、鋭い先取りでもありましたね。
7
仏法に見る親子の問題
池田
西欧の知識人が直面した一つの限界が、このあたりにあるのではないでしょうか。
いわゆる合理主義の限界ですね。それと同時に彼らは硬直した「神」概念や「教会」の不合理さもイヤというほど知悉していた。
それだけに、いっそう苦悩は深かったし、真実の「信仰」を、心の奥深く求めてやまなかったのでしょう。
――同じような親子の問題について、仏法では何か?。
池田
そうですね。仏典には、有名な阿闍世王の物語が説かれています。
釈尊の在世、中インドのマガダ国の王子であった阿闍世は、王に即位するため、父である頻婆沙羅王を幽閉し、ついに死にいたらせてしまう。さらには、母である韋提希夫人まで殺そうとしたという話が残っています。
土井
精神分析の分野で「阿闍世・コンプレックス」という理論があるようですが。
池田
そうです。
「阿闍世」という名は、一義には、「未生怨」と訳されます。つまり“まだ生まれてこないうちから、怨みをいだいている”という意味となります。
ですから「阿闍世・コンプレックス」は、従来の精神分析理論が切り捨ててきた誕生以前にまでさかのぼって、親子の複雑な葛藤に着目し、そこから治療の糸口を見つけようとする理論と言えるでしょう。
土井
医師の方もよく言われますが、たとえば、母のいらだちの声は、胎児にも不快なものとして伝わっていくようですが。
――私も、胎児の記憶は、六カ月目ごろには、すでに刻まれていると聞いたことがあります。
池田
いや、仏法の視座は、そうした現象面のみの論議にとどまらないのです。
もっと奥の、無明というか、過去も未来も含んだ人間生命の深層の次元にまで光を当てているのです。また、日蓮大聖人の仏法においては、さらに深く説かれていますが、ここでは略させていただきます。
そこで、阿闍世ですが、彼は王子として、すこやかに成長していたようです。
ところが、その王子の出生の秘密をまことしやかに吹きこみ、彼をたぶらかし、両親への憎悪をあおりたてる人物が出てきた。それが釈尊の従兄弟の提婆達多です。
提婆は阿闍世に対し、“自分は釈尊を殺して、新仏となる。王子は、父王を殺して新王となり給え”と教唆する。
教団もマガダ国も、自分の思うように牛耳ろうというのが、提婆の野心であった。
王子の心は、すっかり狂わされる。彼は、全インドの十六大国の悪人を集め、またさまざまな外道と手を組んで、仏弟子を迫害しはじめる。
――人間の心理的弱みにつけこむ権力者の野望というのは、本当にこわい。これは吉川文学の一大テーマでもあります。
池田
たとえば阿闍世は、“口の四悪を具す”と言いますから、相当の妄語、綺語、悪口、両舌で、悪事を働いたようです。
提婆の策謀によって、王の一家の幸福も、そして一国の平和も破壊されてしまう。愛するわが子の手によって夫を殺され、自分も殺されそうになった母の韋提希夫人は、わが子と自分の宿業の深さに気づき、すがりつくように、釈尊の教えを求める。
“なぜ、私はこのような子どもを生まねばならなかったのですか”と。
しかも、可愛いわが子を悪の道へ転落させた提婆は、他ならぬ釈尊の従兄弟である。
韋提希夫人はさらに続けて問う。
“なぜ、釈尊のような方が、提婆のごとき大悪人と身内なのですか”
そこには、“仏なのに、よりによってあんな悪人と一緒に生まれあわせるなんておかしいじゃないですか”(笑い)という疑念もこめられていたのでしょう。
土井
なるほど。やはり、良くも悪くも母親ですね。先ほどの「阿闍世・コンプレックス」は、この物語のなかに母子関係の「根源的な錯綜」を読みとった学説ですね。
仏典そのものとはちょっと違うのでしょうが。
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宗教と文学の方向性
池田
じつは、今の韋提希夫人の言葉は、仏法上まことに重大な問いかけでもあるわけです。
阿闍世の母、つまり韋提希夫人が、この二つの質問を発したのは観無量寿経という経典です。
これは、いわゆる念仏宗系が依経とする浄土三部経の一つになります。
ところが、じつはその観無量寿経では、韋提希夫人の問いそれ自体には、釈尊は一切、答えていない。
土井
念仏の依経は、もともと仏法の本筋ではないことを釈尊自身が述べてますからね。
池田
釈尊は、ただ韋提希夫人の問いを無視したわけではなかった。
その証拠に、「釈尊が提婆となぜ眷属なのか」という問題を法華経提婆品第十二において、真正面から取り上げています。
ですから、日蓮大聖人は、有名な「開目抄」で、「
観経を読誦せん人・法華経の提婆品へ入らずば・
いたづらごと
徒事
なるべし
」と仰せです。
土井
それにしても仏典は重層的な構成になっていますね。
それで、法華経ではどのように……。
池田
提婆品では、釈尊と提婆の過去世からの因縁を明かしつつ、「等正覚を成じて、広く衆生を度すること、皆提婆達多が善知識に因るが故なり」(開結424㌻)と説かれています。
土井
一言でいえば、“提婆がいたからこそ釈尊は仏になれた”という原理になりますか。
池田
そうです。
また、日蓮大聖人はこの原理をさらに一般的にわかりやすく、「
今の世間を見るに人をよく
なす
成
ものは
かたうど
方人
よりも強敵が人をば・よくなしけるなり
」(「種種御振舞御書」)と展開されています。
土井
仏法は、たしかに万般にわたる現実の道理を言われておりますね。
その後、阿闍世はどうなりますか。
池田
全身に悪瘡ができて、相当苦しんだようです。
それが化膿して、膿汁が流れ、悪臭のために人が近づけなかったほどであったと記されています。
――何の病気だったのでしょうか。
池田
医学博士の川田洋一氏によれば、おそらく悪性の皮膚病で、心の強い葛藤が原因となり、それに糖尿病か、食品アレルギーも重なっていたか、あるいは強烈な細菌によるかもしれないと言ってました。いずれにせよ、単純な身体の病気ではなかったように思います。
そこで釈尊は、みずからの涅槃を目前にして、“ただ心にかかることは阿闍世王のみ”と語っております。
つまり“親はどの子も可愛いけれど病気の子はとくにふびんである。父母を殺したり仏法の敵となる人間は、仏にとってはその病気の子どものようなものである”ということになるでしょう。
土井
なるほど。仏法の懐は深い。表面的な見方だけでは、とてもわからないですね。
池田
ですから、この阿闍世王を救うことができれば、一切の人間の救済へと通じていく――。
こうして釈尊は、最後の力をふりしぼるがごとく、阿闍世の心身の病をいやし、その宿命的な生命を根底から大転換していくのです。
阿闍世はその後、父の跡を継ぎ、すばらしき賢王となって活躍します。なかでも、釈尊入滅後の第一回の仏典結集を外護したと伝えられています。
土井
仏典には、じつに壮大な人間ドラマが秘められていますね。
――池田先生も、まえに創価大学の講座で講演されましたが、「仏教と文学」というテーマも、つきせぬ興味をさそいますね。
土井
そうでした。私もたいへんに感銘深くうかがいました。
池田
いや、私の講演はともかく、かつて歴史家のトインビー博士と対談した折、博士が次のように語っていたことが忘れられません。
それは、「私自身の人生をとおしても、“宿業”という問題を体験してきた。また歴史にも、さまざまな宿業の作用を見ることができる。
人間、またこれからの人類にとって、もっとも重要な課題は、この宿業をどう好転させていくかという一点である」との一言であった。
私もまったく同感であるし、それなくして人間の新しい創造性の開花も文化の昇華もなしえないのではないかと、確信している一人です。
文学と宗教は当然、次元が異なります。しかし「人間」を徹底して「観ずる」という一点では、方向性は一致している。
現代に必要なのは、この鋭き「人間凝視」の哲学であり、その実践ではないでしょうか。
――それこそ、この対談の大きなテーマになりますね。吉川文学は、宿命的な歴史の流転を見つめているからです。
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