Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「第二の枢軸時代」の要件  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
10  ――真摯なキリスト教徒を自称する、フランスの有名な古生物学者が、しきりに、社会主義にのっとった全世界的な進歩への確信を開陳していたある時、マルセルがソビエトの労働キャンプ(強制収容所)で刻一刻、死に瀕している何百万の不幸な人々に注意を向けさせようとすると、彼は、こう叫んだというのです。
 「宏大無辺な人間の歴史において、数百万ぐらいの人間がなんなのだ!」(同前)と。
 マルセルは痛憤します。「まさしく冒涜の叫びでなくて何んだろう。人間の現実が幾百万であれ、幾億万であれ、彼にはもはや件数によってしか、すなわち数理的抽象によってしか考えられなかったのである。唯ひとりの人間が言うにいわれぬ忍びがたい苦悩にあえいでいる現実など、彼には数の迷夢によって文字通りマスクをかけられているのであった」(同前)と。
 この古生物学者が、知らずしらずのうちにおちいっている「数の迷夢」こそ、あなたが糾弾しておられる「非個性的なもの」であり、「団結による同一性」であり、「世界悪」にほかなりません。そして、私が「内在的普遍」に対して「超越的もしくは外在的普遍」と名づけているものが、まさにそれなのです。それは、あなたのいう「隷属と奴隷制度への道」であり、「普遍」とは似て非なるものであって、世界と人類にとって、災厄以外の何物でもありません。
 「普遍的なるもの」は「内在的」に探求されなければなりません。悩み苦しむ一人の人間の苦悩に無関心でいられるような荒廃した精神、生命感覚であったならば、どうして人類の進歩などを論ずることができましょう。
 日蓮大聖人の「一人を手本として一切衆生平等」とは、ほかでもなく、「普遍的なもの」への、そうした王道ともいうべき探求のアプローチを示しているのです。たとえ迂遠なように見えても、それを外して「普遍」にいたる道は絶対にありえないからこそ、王道なのです。
 「普遍」とは精神(エスプリ)なのである。――そして精神とは「愛(アムール)」である、として、マルセルは提唱します。
 「われわれはどうも、普 遍なるものを、一般性の最大量といったようなものと理解しがちなのである。しかし、それこそ、如何に力強く反対しても足りないほどの解釈なのである。ここで最善の道は、われわれの精神の支点を、天才的な人間の最高の表現に、――私は至上の性格をあらわしている芸術作品をいっているのだが――求めることである」(同前)と。
 我々が、ドストエフスキーやトルストイ、プーシキン、そしてあなたの作品をも含めて、ささやかながらつづけてきた対談も、こうした「普遍的なるもの」へのアプローチではなかったでしょうか。
 その意味では、「内面へのはるかな旅」は「普遍的なるものへのはるかな旅」と言い換えることもできます。その旅路がどこまできたのか、どこへ向かおうとしているのか――だれも知りません。しかし、この道程をともどもにたどる以外に、あなたのおっしゃる「自由と救済」への道はありえないと、私は確信しております。

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