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日蓮大聖人・池田大作

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「第二の枢軸時代」の要件  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 あなたは、新しい世界宗教の台頭の時代ということを述べられていますが、私は、その時代を、ドイツの哲学者ヤスパースになぞらえて言えば「第二の枢軸時代」ととらえております。
 ご存じのようにヤスパースは、紀元前五百年ごろ、さらに紀元前八百年から紀元前二百年の間を、「枢軸時代」と呼び、人類史におけるこの時代の重要性を訴えました。この時期には、釈尊、孔子、老子、そしてイザヤ、ヘラクレイトス、プラトン、アルキメデスなど、世界史に不滅の輝きを放つ宗教的・哲学的・思想的偉人が数多く出現したからです。まさに、ヤスパースが述べたように、この時代に、実現され、創造され、思考されたものによって、人類の今日の基盤は形づくられたと言えます。
 そして、ヤスパースは、この時代の特徴として「人間が全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識した」(「歴史の起源と目標」重田英世訳、『世界の大思想Ⅱ―12』所収、河出書房新社)と語っております。
 私は、現代もまた、人類の未来を開く大きな転換期であり、恒久の流れを決する精神の遺産を残すべき時代に入ったと痛感しております。
 今や人間は、一瞬にして人類を死滅させることのできる核兵器を生み落とし、全地球的規模での破滅の危機にさらされるにいたり、国家の枠を超えて、全地球という視点をもたざるをえなくなってきています。そうした時代の必然的な要請を包み込み、永遠なる人類の在り方を提示する思想、哲学、宗教の台頭が望まれていると言えましょう。
 そのさい、最も重要なものは「内在的普遍」というメルクマール(指標)であると思います。ヤスパースのいう「枢軸時代」がもたらした最大の価値は、やはり個の尊厳の自覚でした。
 ところで、その個の尊厳がどのようにして自覚されたかと言えば、個人が一人一人で、部族や国家を超越した「普遍的なるもの」に連なったとき、初めて「普遍的なるもの」のもとで万人の平等観、個の尊厳観も生まれたわけです。
 ところが、その後の歴史的展開が示しているように、その「普遍的なるもの」はどうしても「超越的普遍」の色彩が強かった。超越神を仰ぐキリスト教のような一神教は、文字どおりそうですが、儒教の「天」や、仏教の「法」などにしても、程度の差こそあれ「超越的普遍」に傾くきらいがありました。
 仏教の「法」のように、本来は「内在的普遍」であったものも、真実、そう働いてきたかというと、未だし、の感が強く、むしろ課題は今後に残りそうです。
 「第二の枢軸時代」は、何にもましてこの「内在的普遍」が旗印とされなければならないでしょう。イデオロギーや民族、貧富や貴賎、男女や老若……一切の差別に関係なく、生命に深く内在する“宝”を掘り当て、その薫発された人間性、人格の力をもって、万人の平等観を敷衍させていかなければなりません。前にも述べましたが、私の信奉する日蓮大聖人は「一人を手本として一切衆生平等」と仰せになり、一人の生命の内在的掘り下げと、その普遍化の方途を示されております。
 それゆえ、私は、以前より「創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵しつづける“力”に対する、内なる生命の深みより発する“精神”の戦いである」と訴えているのです。
 「国益」から「人類益」へ、「国家主義」から「人類主義」へと、発想を転換させゆく哲理の台頭――そこに、新しい世界宗教の意味もあると考えますが、あなたはどうお考えですか。
 イザヤ
 前八世紀のイスラエルの預言者。
 アルキメデス
 前二八七年ころ―前二一二年。ギリシャの数学者、物理学者。
2  アイトマートフ あなたが取り上げた問題は、人類の知的発達の途上において、さまざまな時代とさまざまな教義の哲学思想を全世界的に総合しようとする、まさに総体的テーマの一つです。
 このテーマをつづけることは、一介の文士にすぎない私にとっては荷が重すぎるように思います。というのは、「鍛冶屋は自分の鉄床を使ってのみ名人」なのですから。したがって、これから私が申し上げることは、たんに主観的な判断であって、決して学問的なものではありません。
 あなたはその総合の中に時代の継承性を見ていらっしゃるし、人間精神の未来の開眼の中に「第二の枢軸時代」の新たな復活を、あるいは、より正しく言えば、その継続を予測していらっしゃいます。あなたの予測なさっている諸教義の総合を直接感じ取るためには、たとえ人間の一生は短すぎるにしても、しかし、それは偉大な知的発見です。
 結局のところ、人間の内面世界は思想と発見の巨大な銀行です。この銀行への「預金」はかならず年々殖える進歩の「利子」をもたらします。人間は個人としての自分自身を創り上げています。そして、それらが私たちの存在の最高の目的です。私は生と文明の意味をそのように理解しています。
 しかし、実際には、すべてがそのようにうまくいくものではありません。
 人間の道は歴史の迷路の中で、あまりに長く、痛ましく、複雑に、しかも矛盾に満ちています。人間をみずからの利益に奉仕させようとする制度的な力が、つねに現れるからだけではありません。かえって、人間自身が、自分を生命力に満ちた偉大な最高の機関としてかならずしも自覚していないからです。日常の雑事が私たちを損ない、あらゆる時代において個人を「未熟な」ものにしてしまっています。
3  例を挙げましょう。古代の人々、たとえば、ヘラクレイトスや老子の正しさを確信するまでには、二千年以上にわたる試練と探究が必要でした。
 ヘラクレイトスは次のように言っています。「英知の輝きは、すべては同じ一つのものである、ということの中にある」。また老子は次のように言っています。「もしも真の知識があれば、人は大道を歩むであろう。私が何を恐れるかと言えば、それは狭い小道である。大道は完全に平らであるが、しかし民衆は小道を好む」
 二千年以上が経過して、科学は、この宇宙のものはすべてが互いにつながっていること、ある場所にふれれば他の場所で反応が生ずること、環境に対する恣意的な態度は許されないこと、勝手気ままな態度は悪循環を生み、進歩の代償として環境が毒されてしまうこと、生命の法則は、人間の野望が押しつける異質なるものを最終的には拒絶してしまうことを確認しました。……そしてまたもやヘラクレイトスは正しかったことになりますが、「大多数の人々は自分がどういう局面にいるのかがわかっていない」のです。二十世紀にもなって! なぜでしょう?
 古代の人々が言っているように、初めから存在しているものは幸福と世界理性です。道徳律も存在しました。それらが進化の過程を決定しています。すべてが人間によって左右されるわけではありませんが、しかしすべては人間によって意味づけられます。
 人間がこの世に現れたのは、人間を通じて精神の自己認識と総体的救済が行われるためです。つまり、「あらゆる創造物について、人間について、鳥について、動物について、悪魔について、そしてあらゆる生き物についての人間の燃え上がる思い」を通じて、それを行うためです。
 これはイサーク・シーリンの言葉ですが、エヴゲーニイ・トルベツコーイは『色彩についての考察』の中で、この言葉を引用して、さらに次のように付け加えています。「人生の意味についての問題が、おそらく、世界悪と無意味さがむき出しになった現在ほど鋭く提起されたことはかつてなかったことである。……この世が始まって以来、前代未聞のこの精神の奴隷化は、すでに原則となり制度にまでなっている野獣化であり、今まで人間の文化の中に存在したすべての人間的なものの拒否である」――そのことを私たちは思い知らされ、その苦杯をなめさせられています――。そして次のように結論しています。「人間は人間のみにとどまっていることはできない。人間は自分自身よりも高まるか、奈落に落ちるかのどちらかであり、神になるか野獣になるかのどちらかである」
 闇が最終的に人間を飲み込んでしまわないうちに、闇か光か、の選択をする以外に活路はありません。しかもどこかの遠い所ではなくて、自分の心の中においてです。また、いつかではなくて、今すぐにです。
4  池田 そのとおりです。にもかかわらず、人類はいつも神を当てにしてきました。世界的問題の解決を神にゆだねてきました。
 しかし、そこでも、すべてがうまくいっていたわけではありません。神とも人間は折り合いがつきません。自分が神のようになりたがっています。ところがそれは手に負えることではありません。そこから不満感が生まれ、無神論が生まれるのです。
 「神」と「自分」のどちらにウエートをおくかということは、たいへん微妙な問題であり、どの宗教にも、それが高等宗教であればあるほど重い課題として問われつづけています。『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の場面に集約されているように、ドストエフスキーの偉大なる苦悩の極点に位置していたのも、この問題です。
 仏教では、これが「自力」と「他力」という形で提起されています。「自力」とは、自分の力で修行して悟りを得ようとする方法であり、「他力」とは、他の力――阿弥陀仏という仏の力がその典型例――に頼って救いを求めることを意味します。キリスト教で言えば、救済を得るにあたって、人間の側の努力や責任を重視せず、もっぱら神の恩寵による予定調和を説くカルヴァンやルターなどの考え方は「他力」に通じると思います。
 仏教でも、宗派によって「自力」と「他力」のどちらに重きをおくかは異なりますが、私は、どちらかに偏るのは誤りであると思っております。
 たしか、どこかの詩人が使っていた言葉ですが、それは、人間の「呼気」と「吸気」に似ています。「自力」が「呼気」だとすれば「他力」は「吸気」にあたり、「呼気」と「吸気」とのバランスがとれてこそ、人間の呼吸活動が正常に営まれるように、「自力」と「他力」とは、どちらを重視するかという性質のものではなく、ともに重要であって、両者はつねに、微妙なバランスを保っていなければならないのです。
 仏典では、よく猿と猫の譬えが説かれています。何かの危険が迫ったとき、猿の場合は、子猿がぱっと母猿に跳びつくと、母猿のほうでも、子猿をぱっと抱きかかえて逃げていく。ところが、猫の場合は、危険を察知した母猫が、子猫にぱっと跳びかかり、首のところを口にくわえてさっと逃げていく。子猫のほうでは、何もしなくていいわけです。
 猫の場合は、もっぱら「他力」に頼る在り方であり、猿の母子の対応こそが「自力」と「他力」の絶妙なバランスにあたるわけです。
 宗教の場合、どちらかというと「他力」が重視される傾向があり、その結果、宗教が民衆の弱さや怠惰を覆い隠す隠れ蓑になってしまう。その限りにあっては、宗教を民衆の“阿片”とするマルクスの批判も、正当性を失っていません。とくに、宗教が教会などの手によって、パーソナル(個人的)なものからインスティテューショナル(制度的)なものへと変貌してくると、なおのこと“阿片”性が強まることは、歴史の示すとおりです。
 しかし、その反動からか「自力」偏重になってしまうと、独り高しとする傲慢な無神論に行き着いてしまいます。「自力」と「他力」とのバランスという問題は、それゆえ、我々の直面する人類史的アポリア(難題)と言ってよいのです。
 そして、このアポリアを直視することを怠ると、そこに待ち受けているのは、先のレミングや、悪魔の入り込んだ豚のように、人類の自殺への道にほかなりません。
5  エヴゲーニイ・トルベツコーイ
 一八六三年―一九二〇年。ロシアの哲学者、政治家。
 詩人
 中原中也(一九〇七年―三七年)。
6  アイトマートフ 無神論は徐々に力を増してきました。昔は人間は神をめざしていました。聖アウグスティヌスは『三位一体について』で言っています。「魂は、みずからの罪の中で、誇り高く、ゆがんだ、言わば奴隷的自由の中で、神に似ようと努力している。したがって、我々の先祖たちは、“神のようになりなさい”という言葉だけで神になびかせることができた」と。そして今や、心に神がいなければすべてが許される、そこには神聖なものは何もない、という状況です。
 ドストエフスキーはロシアを念頭において、『カラマーゾフの兄弟』の中で次のように予言しました。「社会主義はたんに労働者階級の問題、あるいはいわゆる第四身分の問題であるだけではない。それは主として無神論の問題であり、無神論の現代的実現の問題であり、まさに神なしで、地上から天に達するためではなく、天を地上に降ろすために建てるバベルの塔の問題である」と。
 すべてそのとおりになりました。障害はすべて取り除き、心の外と内の殿堂をすべて破壊し、世界を足元にひれ伏せさせることすら要求できるというのに、何をわざわざ苦労して、自分を磨き、心を悩ませる必要があろうか、というわけです。
 人間は時にはこんなにもなります。ある人に、心の中で神になったつもりになり、神の責任と道徳的特質をも引き受けなさい、と言えば、じゃあ「最高の位」をよこせ、と言いかねません。どうしてそのようなことになったかと言えば、天を地に引きずり下ろしたからであり、全世界の平等という思想のもとに、気高いものを低級なものと一緒くたにしてしまったからです。
 しかしその結果、未曾有の不平等が現れました。なぜならば、存在の法則が、多様な統一が、生きた血液循環の可能性が破壊されてしまったからです。
 可能性の平等は事物の本質に秘められていますが、その潜在的な平等を現実的な平等と勘違いしてしまったのです――「生まれつきの本性はそんなに違いはないが、習慣や教養で差が生じる」と孔子は言っています――。「皆と同じように」ということのために、精神的な天の世界が廃止されてしまいました。
 しかし、一面的なものはすべてそうであるように、天がなければ地は死にます。見せかけの平等のために、その平等に従わないすべてのものが、つまり、すべての個性的で創造的なものが破壊され、そのことによって存在との結びつきが断たれました。
 なぜなら、その結びつきは、もっぱら個性的なものを通じて、すなわち、人間の個性あるいは民族の個性を通じて実現されるものだからです。一方、個性は文化的環境の中で目覚めるものです。
7  池田 ソ連の歴史では、当然のことながら、反宗教的プロパガンダ(政治的、思想的な意図をもった宣伝)が執拗に繰り返されましたが、そこでしばしば使われた言葉に、“法衣を着ない司祭”というレーニンの言葉があります。
 社会主義の革命や社会建設にあっては、清廉な司祭は堕落した司祭よりも有害である。後者は簡単に追放したり抹殺したりすることができるが、前者は、それが困難である。同じように、優れた在俗の宗教者すなわち“法衣を着ない司祭”は、宗教を社会から根絶するためには、法衣を着た聖職者よりも危険であり、有害であるというのです。
 社会主義革命やプロレタリア独裁に役立つものが善であり、そうでないものが悪であるという絶対基準から言えば、当然の帰結でしょう。驚くべきことに、あなたがしばしば言及なさったアインシュタインなども、この“法衣を着ない司祭”として糾弾されていました。
 この類まれなヒューマニストは、日本を一度だけ訪れたことがありますが(=一九二二年十月十八日来日)、相対性理論の影響もあって“アインシュタイン・ショック”と呼ばれるほどの、一種のカルチャー・ショックを残していきました。
 とくにその人柄の大きさ、温かさは、天衣無縫のユーモアや飾らぬ挙措とともに、忘れ得ぬ印象を刻んでいったようです。私の恩師の戸田城聖先生も、若いころ、来日した博士の講演を牧口常三郎先生とともに聞きにいくことができたことを、生涯の喜びとしておりました。
 博士は、日本の伝統文化をこよなく愛しましたが、ただ一つ、車に客を乗せて人間が引いて走る人力車だけは、非人間的であると強く批判しております。こんなことからも、アインシュタインのヒューマニストたる一面を知ることができます。
 アインシュタインが、宗派や教義にとらわれぬ宇宙的宗教感情の持ち主であったことは、我々も語り合ったところですが、じつは、その宇宙的宗教感情ゆえに“法衣を着ない司祭”のレッテルを張られ、革命の敵、人民の敵とされてしまうのですから、そこから人格的なもの、あなたのおっしゃる個性的なるものなど、育ちうるはずはないのです。
 べルジャーエフも言っております。
 「共産主義は新しい社会のみならず新しい人間をも創造したと主張する。ソヴェト・ロシアでは新しい人間について、新しい精神構造について、盛んに語られ、ソヴェト・ロシアを訪れた外国人も同じくそれについて語ることを好む。けれども新しい人間とは人間が生における至高の価値とみなされるような暁になってのみ出現しうる。もし人間がたんに社会の機構における一個の煉瓦にすぎぬと考えられているなら、もし人間が経済過程の道具にすぎないなら、ひとは新しい人間の出現よりはむしろ人間の消滅、言いかえれば人間疎外の過程の深化について語らねばならぬ」(前掲『ロシア共産主義の歴史と意味』)と。
 この指摘の正しさは、今では疑いようもありません。「新しい人間とは人間が生における至高の価値とみなされるような暁になってのみ実現しうる」とは、まさに、私が信念として掲げている「人間主義」と符節を合わせているものです。
 そうした人間の、さらに上位に別の「至高の価値」があるかのごとき思考形態――それが、かつての“神”であれ、今世紀の“プロレタリアート”であれ――は、私の言う「超越的普遍」もしくは「外在的普遍」として人間に君臨し、結局は人間抑圧と人間疎外とをもたらしてしまうでしょう。そして、時流の淘汰作用の中にあって、早晩、消え去る運命を免れないでしょう。
8  アイトマートフ 同感です。最後に新しい全人類的宗教について一言したいと思います。そういうものが考えうると仮定しての話です。世界宗教については宗教会議でヴィヴェーカーナンダが語っていました。彼はそれをどのようなものとして考えたのでしょうか? それは、人類が苦しみぬいてつかんだ精神的なものをすべて取り込んでいる宗教となるでしょう。
 各人がみずからの個性を培い、自己開示を通じて、全人格をもって統一へと向かうのです。彼はその考えを次のような言葉で明らかにしています。「すべての民族は、個々の人間と同じように、その生活の中に、その生存の中心となるような唯一のテーマ(主題)を、ハーモニーの他のすべての音をまとめあげる基調音をもっています。……もしも民族がそれを投げ捨ててしまうならば、もしも民族が自分自身の生きる原則を、代々伝えられてきた進路を捨ててしまうならば、その民族は死滅してしまいます」
 ヴィヴェーカーナンダは各人のもつ素晴らしさを信じて、人々や諸民族の友好を呼びかけました。彼はアメリカ人に対して、どの宗教の旗にもやがて「闘いではなくて相互援助。破壊ではなくて相互理解。実りなき論争ではなくて調和と平和」と書かれるであろう、と言いました。
 彼の信念に力を与えているのは人間に対する信頼です。彼の師のラーマクリシュナの言葉があります。「あなたは神を求めていらっしゃるのか? それならば、それを人間の中に求めなさい。神的なものは他の何にも増して人間の中により多く現れます」(『ラーマクリシュナの福音書』)
 人間には何と多くのものが与えられていることでしょう。人間の個性の容量は何と大きいことでしょう。しかし、そこでは偉大な可能性が何とわずかしか実現されていないことでしょう。人間は自由へ飛びつこうとして、自分の内面的な制約にぶつかりますが、その制約は外的世界の歪みを正確に反映しているものです。
 内面的な自由があって初めて外的な自由が可能です。しかし、内面的自由は発達した意識と道徳感覚を前提としています。人間であれ、民族であれ、あるいはその民族の言語であれ、何でもいいのですが、それらは完全に到達する過程で、力を蓄えた草花が突然花ひらくように、みずからの可能性を開いて見せます。個性と開かれた心こそが、意思の疎通と、全人類的連帯と、高度の統一の条件です。
 以上の個人の原則はすべての関係を正常化します。それは、一個の全体としての人間が事物の尺度となるからです。個人は「良心の器官」であって、民族の部分ではありません。「民族性は個人の部分であって、個人の中に、その質的内容の一つとして存在する。民族性は個人を育む環境である。しかし、民族主義は偶像崇拝と奴隷制度の一つの形態である……」とも言っています。
 その二つは近い感情のように見えますが、内容においては相反するものです。片方は自由と救済へと導き、他方は隷属と奴隷制度へと道を開きます。それゆえに党官僚の個性のなさ、民族的その他の特徴の欠如は驚きです。すべての人間が、初めから活動計画に組み込まれている単一の行政的論理に従って、同一の行動をとるのです。
 個性的なものが神的なものであるならば、非個性的なものは、つまり、例の「団結」や同一性は、まさに「世界悪」であり、あるいは、私たちの命を奪いかねなかった悪魔の誘惑でした。人間の中に主体を見ず、人間を客体として、人的資源の一粒としてしか見ないような考え方が、百万単位で数えねばならないような犠牲をもたらしたのです。闇の世界ではすべてがあべこべで、嘘が真実と呼ばれ、同一性が統一と呼ばれます。しかし、人間や民族から自由の可能性そのものを奪っているものを、どうして統一と呼びうるでしょうか?
 いうまでもなく、このテーマは非常に現実的なものです。新しい夢は、あるいは未来の世界は、どのような観点に立とうと、その特徴は、自由な人間の誕生と、西洋と東洋との幾世紀にもわたる文化を知ることを通じての、自己認識と自己実現を通じての、自己完成の個性的な道を探求することです。
 ヴィヴェーカーナンダ
 一八六二年―一九〇二年。インドの宗教哲学者、近代宗教改革者。
 ラーマクリシュナ
 一八三六年―八六年。インドの宗教家、哲学者。
9  池田 あなたがラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダに仮託しておっしゃっていることは、私の強調してやまない「内在的普遍」という指標へと通じてくるものです。「神的なものは他の何にも増して人間の中により多く現れる」――ラーマクリシュナの言葉は、この「内面へのはるかな旅」の掉尾を飾るにふさわしいものです。
 マハトマ・ガンジーも、同じように、言っております。「神を捜し求めるのに、巡礼に出かけたり、燈明をあげたり、香を焚いたり、神像に油を塗ったり、あるいは、朱を印したりする必要はない。神はわれわれの胸の内にましますからである」(前掲『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』)と。
 さて、私たちは何度もお会いし、また書簡を交わしながら、そのつど友情を確認し合ってきました。覚えておられるでしょうか。一昨年(一九九〇年)の七月、モスクワのオクチャブリスカヤ・ホテルでの出会い――そうです。ゴルバチョフ大統領(当時)との会見の三日後のことでした。あなたの友人のキルギス共和国のドゥイシェーエフ副首相も、駆けつけて祝福してくれました。その時、私はおおよそ次のような趣旨のことを申し上げました。
 私は、仏法者ですが、仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒といった形式を信ずるのではなく、むしろ人間の友情を信じます。これは、四十年余りの私の信仰体験の結論なのです、と。
 友情とは、人格と人格との深き結びつきです。私は、今年(一九九二年)二月、十三年ぶりにインドを訪問し、当地の多くの方々と友情を結び、確認し合ってきました。私にとっても、インドの友人にとっても「宗教はわれわれの行為のすべてに浸透していなければならぬ。そうなってこそ、宗教は宗派心ではなくなり、宇宙の秩序ある道義的支配への信頼を意味するものとなる」(同前)とのガンジーの言葉――私が、当地でのガンジー記念講演で引用したものです――は、共有の財産でした。
 友情が、ガンジーの言う「宇宙の秩序ある道義的支配への信頼」を形成する重要な機軸であることは、申すまでもないでしょう。もし「宗派心」によって友情が損なわれるようなことがあったとすれば、本末転倒というしかなく、今後の世界宗教の在り方にはまったくふさわしくないでしょう。私は、オクチャブリスカヤ・ホテルでのあなたへのメッセージに、私のささやかな思いをこめておいたつもりです。
 最後に、私がキーワードとして提示しておいた「内在的普遍」、すなわち万人に内在する普遍的な価値について、簡単なアプローチをしておきたいと思います。
 私の知るかぎり、この「普遍性」「普遍的なるもの」に最も鋭い分析を加えている人は、フランスの哲学者ガブリエル・マルセルですが、彼は、「普遍性の座は、深さの次元にあるのであって、決して拡がりのなかにあるのではない」(前掲『人間―それ自らに背くもの―』)ということを、何度も力説しております。彼の出合った、あるエピソードというのがあります。それは、こうです。
10  ――真摯なキリスト教徒を自称する、フランスの有名な古生物学者が、しきりに、社会主義にのっとった全世界的な進歩への確信を開陳していたある時、マルセルがソビエトの労働キャンプ(強制収容所)で刻一刻、死に瀕している何百万の不幸な人々に注意を向けさせようとすると、彼は、こう叫んだというのです。
 「宏大無辺な人間の歴史において、数百万ぐらいの人間がなんなのだ!」(同前)と。
 マルセルは痛憤します。「まさしく冒涜の叫びでなくて何んだろう。人間の現実が幾百万であれ、幾億万であれ、彼にはもはや件数によってしか、すなわち数理的抽象によってしか考えられなかったのである。唯ひとりの人間が言うにいわれぬ忍びがたい苦悩にあえいでいる現実など、彼には数の迷夢によって文字通りマスクをかけられているのであった」(同前)と。
 この古生物学者が、知らずしらずのうちにおちいっている「数の迷夢」こそ、あなたが糾弾しておられる「非個性的なもの」であり、「団結による同一性」であり、「世界悪」にほかなりません。そして、私が「内在的普遍」に対して「超越的もしくは外在的普遍」と名づけているものが、まさにそれなのです。それは、あなたのいう「隷属と奴隷制度への道」であり、「普遍」とは似て非なるものであって、世界と人類にとって、災厄以外の何物でもありません。
 「普遍的なるもの」は「内在的」に探求されなければなりません。悩み苦しむ一人の人間の苦悩に無関心でいられるような荒廃した精神、生命感覚であったならば、どうして人類の進歩などを論ずることができましょう。
 日蓮大聖人の「一人を手本として一切衆生平等」とは、ほかでもなく、「普遍的なもの」への、そうした王道ともいうべき探求のアプローチを示しているのです。たとえ迂遠なように見えても、それを外して「普遍」にいたる道は絶対にありえないからこそ、王道なのです。
 「普遍」とは精神(エスプリ)なのである。――そして精神とは「愛(アムール)」である、として、マルセルは提唱します。
 「われわれはどうも、普 遍なるものを、一般性の最大量といったようなものと理解しがちなのである。しかし、それこそ、如何に力強く反対しても足りないほどの解釈なのである。ここで最善の道は、われわれの精神の支点を、天才的な人間の最高の表現に、――私は至上の性格をあらわしている芸術作品をいっているのだが――求めることである」(同前)と。
 我々が、ドストエフスキーやトルストイ、プーシキン、そしてあなたの作品をも含めて、ささやかながらつづけてきた対談も、こうした「普遍的なるもの」へのアプローチではなかったでしょうか。
 その意味では、「内面へのはるかな旅」は「普遍的なるものへのはるかな旅」と言い換えることもできます。その旅路がどこまできたのか、どこへ向かおうとしているのか――だれも知りません。しかし、この道程をともどもにたどる以外に、あなたのおっしゃる「自由と救済」への道はありえないと、私は確信しております。

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