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日蓮大聖人・池田大作

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生命のドラマ・法華経  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  ベルジャーエフは、時間には「宇宙的時間」「歴史的時間」「実存的時間」の三つがあるとしています。「宇宙的時間」とは、循環的な、暦と時刻をともなった太陽系の規則的運行の時間であり、「歴史的時間」とは、現在を過去に変形させ、未来へと進む時間です。そして、「実存的時間」とは、深処の時間であり、いかなる数学的時間にも順応することのない永遠の現在、超時間的時間です。
 そして、「実存的時間」の一瞬間は、他の二つの時間の長年月が有する以上の、意義、充実、持続を有しているとしています。
 いうなればベルジャーエフの言う「実存的時間」とは、この法華経に展開されている時間の概念に通じるものであり、近代歴史学でいう“史実”とは、別次元の世界で展開されているのです。
 実際、ベルジャーエフの言う「宇宙的時間」と「歴史的時間」だけに限られているとすれば、歴史は、何のドラマも想像力の働きもなく、砂をかむような味気ないものになってしまうでしょう。
 かつてニーチェが「生に対する歴史の功罪」を論ずる中で「歴史的なものと非歴史的なものとは、個人なり民族なり文化なりの健康のために等しく必要である」(大河内了義訳、『ニーチェ全集 第二巻(第Ⅰ期)』所収、白水社)とし、さらに「非歴史的なものとは覆い包む雰囲気のようなもので、その中で生命が生命を生み育み、この雰囲気を否定すれば、生命もまた消失してしまう」(同前)と訴えたのも、学の精密化が進む反面、肝心の人間の生命力や想像力を枯渇させかねない、近代歴史学の通弊を鋭く突いたものと言えましょう。
 それらの意味をふまえたうえで、この法華経の説き方について、どのようにお考えになられるでしょうか。
3  アイトマートフ 尊敬する池田先生、あなたが討議のために提起なさっている問題を見ると、あなたの関心と知識の範囲がいかに広いかがわかります。しかもその中にはユニークなものもあります。まさに法華経がその一つです。
 しかし、残念ながら、私はまったく違った雰囲気の中で育ち、弁証法的唯物論の立場に立つ教育を受けてきた人間ですから、仏教哲学の分野であなたの相手をつとめることは非常に困難です。けれども、あなたの発言は現代人を無関心にしてはおきません。そこで、もしお許しくださるなら、あなたのお話の過程で遠いこだまのように喚び起こされた考えを述べてみたいと思います。
 生命のドラマは私たちの本源的なパラダイム(体系)だと私は思っています。それゆえに、永遠のドラマについて考えるさいに、限られた現実の枠にはまった具体的な運命をひきあいに出しても、あまり要を得ないかもしれません。
 それぞれの具体的な人生を例に持ち出しても、すべての作業は、自分の経歴を規定するまったくの外的要因を解明するか、非難するか、あるいはもう一つのバリエーションとして、弁護するか、ということだけになってしまいます。そして最後には、自分の人生に自己満足して、あらためて別の人生を送れと言われても、つまりもっと正しく、もっと敬虔にと言われても、それはご免だということになってしまうのではないでしょうか?
 そこで思うのですが、私たちが自分自身に対して、自分の運命に対して、失ってしまった時間に対してつねに感じている内面的な不満、つまり“大いなる未完成”の思いを、法華経の精神は包んでくれるものではないかと思います。言い換えると、潜在的に、私たちは自分自身の目で見てさえ、もっとずっと意義深い存在になりうる素質をもっているのだと思います。
 しかしここで「若者は知らず、老人はできない」という古典的な諺を思い出さざるをえません。問題の皮肉さは、「永遠の問題」――「生命のドラマ」も疑いもなくそこに入ると思いますが――を、私たちが、物理的に知覚しうる時間と空間の枠の中で、「生きることに気がせいて、感ずることも急がるる」とばかり、直接に日常的なレベルで解決し、理解しようと無益な努力をしようとしていることです。しかもここに引用した言葉が生まれたのは現在ではないのです。
 すべてが以前には考えられなかった途方もない速さで進み、世界がまるでファッションのように文字どおり目まぐるしく変わっている現在なら、何と言ったらいいのでしょう? 人々は何が何でも追いつこうと必死になっています。そしてこの狂気の競争では多くの人がへとへとになります。その結果、プラグマティズムが好まれて、すべての抽象的なもの、いわゆる「高尚な話題」は軽蔑されるようになります。
4  池田 動物の生態については、私などよりはるかに通じているあなたには、申し上げるまでもないことですが、私は、レミングという小動物を思い浮かべます。
 レミングは、三、四年の周期で大繁殖し、集団を作って大移動するといいます。途中、山を越え、植物に当たるを幸い食い荒らしながら一直線に行進し、海岸に到着すると、そのまま海中に突き進み、集団で溺れ死んでしまう、と言われています。
 欲望に翻弄され、人類や現代文明の行く末などにはおかまいなしに、その日その日の快楽を追いつづけている人々を見ると、思わず、このレミングに思いいたり、暗澹たる思いにかられます。私は仏法者として、そこまで人間に絶望しているわけでは決してありませんが、“万物の霊長”などと威張ってきた人間が、動物の中でも最も愚かなレミングと並べられるようなことがあっては、不面目この上ないことですからね。
 そして、この連想は、私を、もう一つの、切実な連想へと誘うのです。そうです。ドストエフスキーが『悪霊』の中で、無神論者(社会主義者)たちを、聖書に出てくる豚――「その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」(前掲、新共同訳)――と描写された豚になぞらえている有名なシーンです。溺れ死ぬというところが、何とも不気味な連想を誘います。
 もとより『悪霊』のテーマは無神論の悲劇であり、それは宗教がいかに人間に本然的なものであるかの逆証明なのですから、良いと言えば良いのですが、それにしても人類は、そろそろ俗流プラグマティズム――あえて、こう言います。W・ジェームスなどは除外したいですから――や唯物論の物質主義から脱出すべきです。そうした風潮が、人間の精神性をどれだけ圧迫し、貧しいものへと導いたかに、気づくべきです。人間性とは精神性、あえて言えば、宗教性以外の何物でもないのですから。
 弁証法的唯物論
 マルクスとエンゲルスが唱え、レーニンらが発展させた唯物論。相互に関係し合う物質より成る世界は、対立物との闘争によって発展していくとする哲学。
 プラグマティズム
 十九世紀後半より主としてアメリカで盛んになった哲学思想。観念が真であるかどうかは、その観念を行動に移したときの有効性によって決まるというもの。実用主義。
 レミング
 ネズミ科の哺乳類。
5  アイトマートフ ここで、アインシュタインが科学技術の進歩の時代の人間の生活の本質を悲しく指摘して言った「奇跡からの逃亡」という言葉を思い出すのは当を得ていると思います。
 白状しますが、初め私はこの言葉を逆説として受け取っていました。しかし、ここでの意味は、私たちがあまりに速く人間の才能の驚くべき成果、すなわち「奇跡」に慣れてしまうということにあります。私たちはそれらの成果はすでにずっと前からあったと思い込んでいます。もし、そうでないということになったら、私たちの先祖は何とかわいそうなことよ、電気や自動車や飛行機というようなものがなくて、どうして生活ができたのだろう、ということになります。
 もっと信じがたいことは、それでも先祖の暮らしは面白くもあり、楽しいものであったということです。もしかしたら、子どものころ、高潔さと名誉を重んじる中世の騎士や侍の時代に生まれたいと思ったことのある人がいるかもしれません。
 そのことは何を物語るのでしょうか? おそらく、私たちの想像力は善と真実の高い理想のための献身的な行為を渇望している、ということだと思います。古い物語や伝説の道徳的基礎となっているのもその理想ではないでしょうか? それというのも、それらの理想がかつて現実生活の意味を構成し、それらを行動の指針とした現実の人々が存在し、その人々が人類の記憶の中で英雄の称号を授けられるような、真に不滅の奇跡を成し遂げたからです。しかもまず第一に精神の奇跡をです。
 すべてこれらは法華経の説法のしかたに通底しているのではないでしょうか? 説法は心の中で生まれ、心の中で行われます。すべての偉大なことは私たちの心の中で行われます。そして、心は、現代風に言えば、宇宙のモデルです。
 もしも私たち人間が、造物主のたわむれである自然の綾なす色彩や空気の変化や、少年のような若木が成長するさまを眺めつつ、その日自分自身が驚くべき変身をとげて、成熟した聡明な年齢に達したことを、自身の内部に急に感じたとしたらどうでしょう……。
 私たちを取り巻く周囲の世界へ、真剣な注意深いまなざしを注げば、どれほど多くのものに気づき、どれほど深い結論に達することでしょう。
 その結論を今度は自分にあてはめてみます。そうすれば、私たち一人一人の運命にふりかかる苦痛と苦悩を、私たちは今までとは違った形で、つまり罰としてではなく、新しい人生の前ぶれとして受け入れることができます。思いますのに、すべては苦悩の中から生まれ出るからです。
6  池田 人々は苦悩を恐れています。どうしてでしょうか?
 アイトマートフ 多分、「私は生きたい、考え、苦しむために」という詩人の言葉にだれもが同意するわけでは決してないからでしょう。プーシキンのこの言葉の意味はどこにあるのでしょうか? 彼は真の人間および詩人として、まさにその生命の宇宙的ドラマを理解し、受け入れ、それをカオスとエントロピーとの戦いの中に見ています。
 カオスとエントロピーを克服するものは思想です。もっとも、それは苦しみぬいてつかめる思想です。すなわち、「二束三文」で手に入るものではなく、秘められた本源的な人間の本性の表現としての、全存在をかけて苦しみぬいて生まれるものです。そこに人間の使命の核心があります。
 私たちの多くは偉大なドラマとして生命を感じようとせず、それゆえに、自分を出口のない絶望へと追いやり、とどのつまりは生を拒否し、生を呪いさえすることになります。
 もう一つの取り組み方は、生きること、すなわち苦悩も喜びも自分の権利としてとらえていくような生き方です。そこから人生のドラマが生まれます。そのドラマのただ中にあって、人間は必然的に、何のために生きるか、どうしたらより多く人間たりうるか、という「永遠の問題」に到達します。
 あなたがこのことに関連して引用なさったドストエフスキーに戻れば、「より多く人間たること」は、想像力をよりいっそう発達させ、自分の人生観を広げ、「眼に見えないものの目撃者」になること、というよりは、そのような人間になることをめざすことです。
 そうすれば、人間は自分の心の眼を呼び覚まして、永遠の、普遍的生命を感じ取り、体験することができるようになると思います。しかし、それはだれにでもできるということではありません。
 エントロピー
 無秩序さや不規則さを表す量として、もと物理学で導入された。
7  池田 ゲーテが「信仰は不可視なものへの愛だ。不可視とみえ、あり得べからざるものと思われるものへの信頼だ」(前掲「ゲーテ格言集」)と言っております。そうした目に見えないもの、ありうべからざる世界へも縦横に想像力を働かし、そこにリアリティーを感じ取ることは、古来、人間の最大の要件であったと言っても過言ではないでしょう。この種の感性ほど、現代の衰弱した精神風土から縁遠くなってしまっているものもありません。
 にもかかわらず、人々はその不幸に気づかず、というよりも気づこうとせず、物質的繁栄にのみ浮かれ、末梢神経を刺激するようなものばかり追い求め、そこに幸福の実像があるかのように錯覚しております。
 D・H・ローレンスが「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れたがらないのである」(『チャタレイ夫人の恋人』伊藤整訳、『新装世界の文学セレクション36 ロレンス』所収、中央公論社)と述べているように、悲劇を悲劇として感じられるのならば、まだ救いがあるでしょう。
 悲劇を悲劇と、不幸を不幸と感じられなくなったら、それこそ“病膏肓に入る”で、これほどの悲劇、不幸はありません。一日も早く、こうした転倒に気づく必要があります。
 たしかに、あなたのおっしゃるように、こうした時世であればあるほど、永遠・普遍なる生命の感得という課題を、万人が担いうるかについては疑問が生ずるかもしれません。しかし、事実問題としてはいろいろあるかもしれませんが、原則としては、その可能性は万人に開かれているはずです。また、そこに法華経の平等思想の卓越性が輝いているのです。
 しかし、そのことよりも私が心配しているのは、どうして私たちは自然界の威力を軽視しているのかという問題です。
 自然は自分自身を開いて見せようとしています。それは私たちより優れたものです。その証拠に、あなたの小説の主人公エジゲイはどうしてひとかどの人物なのでしょうか?
 彼は自然の猛威、自然界、宇宙を前にして、人間であることの意味を深く認識していて、それらの試練を義務として受け入れています。その結果、新たな人生を生き始め、彼の心は人々や生への愛に貫かれて、自然と溶け合い、非凡なものになります。彼は一見不可解な生に対する恐怖に打ち勝ち、大胆に過去へも未来へも入っていきます。
 日蓮大聖人は、善きことを行うことは、たとえ仏教を知らなくても仏教の精神を実践していることになるのだ、という趣旨のことを述べられていますが、彼(エジゲイ)の場合も、本能的に法華経の精神の一部を実践していると言ってもいいでしょう。彼にとって材料はいたるところにあります。その材料は永遠で美しい自然そのものです。問題はすべてその自然をどのように受け入れるかにあります。
 アイトマートフ 正直なところ、そういう見方は私にとって思いがけないもので、しかも非常に興味があります。あなたは平凡な人間であるエジゲイを詩人として見ていらっしゃる。
 池田 それは当然です。人間はだれしも無意識のうちに自分なりの世界のイメージを作っています。ましてや、詩人が愛情をこめて創造した主人公の場合はなおさらです。そうでしょう?
 アイトマートフ そうかもしれません。私たちは流行を追い、生活の豊かさを求めることによって、自分たちのこの地上での生活を縮めているように思います。どうでもいいような欲求を満たすために作られた「玩具」のようなものに満足して、喜びの創造者たることをやめてしまっているからです。想像力の危機はそこからきています。
 しかし、ここではどうすることもできません。飛行機で行けるのに、どうして馬車を使うでしょうか? 超高速自動車で疾走するよりも歩いていくほうがはるかにたくさんの素晴らしい物が見られるなどと言ってもむだです。
 とどのつまり人間は科学技術の進歩の犠牲になっているのであり、その進歩の付録になっているのだという論拠も説得力をもちません。どうしたらいいでしょう?
 もう一つ問題があります。現代人は永遠とまで言わずとも、長生きをしたいと思っているのでしょうか? 多くの人は短くてもいいから、いい暮らしがしたい、と答えるでしょう。人生は最も魅力的なショーだ、というアインシュタインの言葉に同意する人は少ないでしょう。
 池田 あなたがおっしゃったように、生の価値は異常に下がっています。人間が品物の奴隷になりさがり、人生はあれこれの品物の寿命によって測られるようになったからです。
 しかし、それにもかかわらず、人類はみずから求めた不自由さを経験した後で、人と人、心と心、魂と魂との交流の中で得られる真の喜びに到達するものと信じます。それは、奇跡を前にしての、生を前にしての、人々の一体化の欲求の中で得られます。そしてそれは法華経の中に具現されています。
 法華経は「活の法門」と言われています。法華経を根本として、あらゆる思想や哲学を活かしていくところに法華経の特色があります。“時の極み”“地の果て”を大きく超え、超えることによって、それらの生命のドラマを包み込んだ壮大なる法華経の世界は、かならずや人類の蘇生の泉として、スポットライトが当てられるであろうことを、私は信じております。
 アイトマートフ その点で折り合うことにしましょう。

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