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日蓮大聖人・池田大作

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九識論と深層心理学  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 さて、私たちの「内面への旅」も、ラストコーナーにさしかかってきたようです。これまでさまざまな角度から、東洋思想の輪郭についてふれてきましたが、東洋思想の精髄とも言える仏法では、人間の内奥について、いかなる洞察をしているかを述べてみたいと思います。
 仏法では、人間に備わった、物事を識別しうる心の作用に九種あるとし、これを九識論として展開しております。
 まず、人間は、眼、耳、鼻、舌、身(五根)をとおして、色・形、音、香り、味、感触など外界の状況をキャッチしていきますが、この感覚器官による物事の識別を五識と呼んでおります。これらは、いわゆる感覚的意識であり、その感覚のみに頼った生き方は、植物的生、動物的生の域を出ません。
 次に、こうして感知した情報を比較検討して考察を加え、判断していく心の働きがありますが、それが第六識にあたる「意識」です。いわば理性や知性による心の働きです。
 しかし、だれしも、心の底から突き上げてくる激しい衝動によって、理性的な判断が歪められたり、頭ではわかっていても、激情を抑制しきれないといった体験をもっていると思います。その欲望、感情、衝動のエネルギーが渦巻く心の世界が、もう一つ奥にある第七識の「末那識」です。これは「思量識」とも言い、理性や知性の基体をなす無意識の世界におよぶものであり、深層心理学者の言うアイデンティティーの基体も、ここにあると言えます。
 しかし、この心に渦巻く、権力、権威などに執着する無意識的な衝動、生と死の衝動、エゴイズムの感情などが、理性、自我の基体にまといつき、それが発現することによって、六識の思慮分別の働きは狂わされていきます。
 ユングは自己意識の主体を求めて、自我の底に意識層を見いだし、その底に個人的無意識層を探し当て、そこに誕生以来、記憶としてとどめられてきた心的内容と、抑圧されてきたものが沈潜しているとしました。この個人的無意識層は、「末那識」にほぼ相当するものと言えましょう。
 この「末那識」に立脚した生き方は、交錯する衝動にさいなまれ、愛と憎、創造と破壊の間を目まぐるしく揺れ動くものとならざるをえません。
 仏法は、さらに「末那識」を突き抜けた奥に、第八識の「阿頼耶識」という、永遠にとどまることのない生命の根本の流れを見いだしました。
 阿頼耶とはサンスクリットのアラーヤの音写で、漢訳すると「蔵」となり、万物を生みだす“生命の種子”の住居を意味しております。そして、私たちが、思い、考え、語り、体験したことや民族などが経験してきた歴史なども、すべて香りが衣服に移り香を残すように、この生命の深層の「阿頼耶識」に蓄積されていく。それが、やがて種子が発芽するように、次の生命活動を生みだす。この永劫の繰り返しであると説いています。
 自身の生命は、渾然一体とした根本の生命流に潜在していきますが、その特質は消えることがありません。また、善にも悪にも染まっていきます。
 ユングは、個人的無意識層の奥に、集合的無意識層を発見し、その上部には民族感情など集団に共通する情動が、次に宇宙の中核からの噴出物が、最下層には、決して意識化されない内容物があり、そこには、すべての民族、すべての人の経験が、一切組み込まれているとしています。その考えは、「阿頼耶識」にきわめて近いものと言えましょう。
 そして、仏法の洞察眼は、またさらにその奥に、「阿摩羅識」とも「根本浄識」とも「九識心王真如の都」とも言われる宇宙万物の根源、生命の究極の実在を見いだします。これは私たちの生命流の源泉であり、善や悪などの相対的な区別をも超えたすべての実在を生みだす根源の力であり、いわば、宇宙意識、宇宙生命と言えましょう。
 この根源の生命に立脚するとき、「宇宙即我」といった無限大の自己の境界の広がりがあり、自身の欲望や衝動さえも、人間完成へのばねとしてコントロールしていくことのできる創造的生命の確立があることを説き示しています。私はそれを「人間革命」と呼んでおります。
 ところで、戦争にせよ、闘争にせよ、人間社会の一切の争いは、エゴイズムという問題を抜きにしては語れませんが、こうした心の構造を見ていくとき、たんに道徳や倫理をもってしては、とうていエゴイズムの問題は解決しえないと言わざるをえません。
 道徳、倫理は、理性に発するものであり、それは九識で言えば、ほぼ六識の次元にとどまります。それゆえに、欲望や感情の衝動を突き抜けた、さらにその奥、宇宙生命に立脚した自身を築いていく以外に、エゴイズムを超えゆく道はないと考えます。
 以上、九識論という観点から仏法の生命観の概略を述べてみましたが、この仏法の考え方に対するご意見をお聞かせください。
 サンスクリット
 梵語。完成された語という意で俗語に対する雅語。インド・ヨーロッパ語族に属する古代語。
2  アイトマートフ あなたは意識と無意識にふれて、その点について整然とした体系をもつ仏教の教えを話してくださいました。私にとってはそれは素晴らしい発見であり、説得力ある心理学的分析です。ついでながら、現代人はそのすべてを知り、自分の中でそれを総合すべきである、と私は思いました。
 私たちの現代文明は人間についてのありとあらゆる教義を包み込み、それらを自己の中で調和させなければなりません。東洋と西洋は地理的にこそ両立できませんが、人間個人の中ではその二つの方角は単一の構成要素をもつ富に合流します。
 しかし、それはどうしたら達成できるのでしょうか? 世界の総合大学に東洋・西洋学部というものを設置して、そこで現在まで伝わってきた、人間についてのあらゆる学問と哲学を学ぶようにする時期が来ているのではないでしょうか?
 腹立たしいことに、大部分の人々は日常生活において、その意味では自分自身を素通りしていて、鏡に自分自身の本質を映してみようとすらしません。
 すみません。本題から少し外れてしまいました。
 しかし、ここで、九種類の認識と深層心理学についての仏教の教えを背景にして、神秘主義というよりは神秘的な世界の詩的現象にかかわりのある、一つの特殊なテーマにふれてみたいと思います。
 ロシアの、まだ古い、革命によって破壊されなかった農村には、星女と呼ばれている未亡人たちがいました。人々の噂によれば、星女たちは自分の死んだ夫とこの世で会うことができるのです。死んだ夫たちは深夜に流れ星となって、天から彼女たちのところへ飛んで来るのだそうです。
 その噂によれば、村の隣近所の人々は、夜、流れ星が未亡人の家のペチカの煙突に落ちていくのを自分でも時折見ると、すすんで証言しているそうです。
 また星女たち自身も、星の姿をして飛んでくる夫の精霊との素晴らしい出会いを語り、その夫は夜明けとともにふたたび飛び去っていくと話して、黒魔術と通じた、すなわち、悪魔と通じたということで嘲笑されたり、非難されたりすることを恐れる素振りはまったく見せないということです。
 それのみか、そのような女たちは人々に尊敬されていて、近しい人々には印象を打ち明けて話し、夫の精霊がよろしく言っていたなどと伝えたばかりか、その出会いがどのように穏やかに楽しく行われたかを話し、何を考えて悲しんだかとか、家のことではどんな話をしたとか、子どもたちについてはどうだったとか、農作のことはどんなに心配していたかと話し、時にはそのような話し合いが知らずしらずのうちに歌に変わり、まるでこの世にいた時のように一緒に好きな歌を歌いました、などと話すのです。ただ、その歌は他人に聞こえないように、小声で、そっと、二人だけのために歌いました、と。
 このような事例にあっては、寂しさの強さ、別離による苦悩の大きさ、望ましい生活を復活させたいという希求などを考慮にいれなければなりません。そのような場合には、意識の中枢に、通常の形態を超えた、非伝統的な超日常的意識が発生し、そのことがそれ自体として魂の変容の無限の可能性を証明するものだと思います。
 ところで、非常に興味深いことですが、「星女」のような現象はキルギスの神話創造意識の中にも見られます。つまり、地理的にまったく異なった場所の、まったく異なった文化的環境の中にも見られるのです。違いはただ一つ、キルギスの場合は、愁いの星がペチカの煙突の中に落ちるのではなく、ユルタの開いている円屋根に落ちることになっています。
 その円屋根を未亡人は星となった夫の霊が訪ねてくることを期待して、夕方から開けておくのです。その先はだいたい同じで、家の中で話がなされるのですが、そこでも一つだけ違いがあります。夫の霊は未亡人に「おれの鞍はどこにある? おまえの鞍も持ってこい」と言うのです。
 二人は鞍を持って、月の光の中で、つないであった二頭の馬に鞍をつけ、生前さながらに近くの野原で乗馬を楽しむために連れ立っていきます。初めは音がしないように並足で進んでいきますが、やがて速足になり、駆け足になって、舞い上がり、まるで鳥のように音もなく空中を飛んでいきます。
 二人は明け方近くに戻り、汗まみれの馬から鞍を外し、鞍を元の場所に納めて、夫の霊はふたたび星となって消えてしまいます。未亡人は星となった夫と夜通し乗馬を楽しんだことの証拠として、翌朝、疾走した馬の汗でびっしょりになった、鞍の下に敷く汗とり布を見せます……。
 このような事柄を考え合わせますと、人間の意識の変容は、脱工業化時代の人工知能というような新しい現象をも含めて、無限であると思わざるをえません。
 ペチカ
 建物の一部として、石やレンガなどで造ったロシア風の暖炉。
 黒魔術
 もと、中世ヨーロッパに見られた魔術で、悪魔と通じた邪悪な魔術。善を目的とした魔術は白魔術。
 ユルタ
 遊牧民の天幕式住居。
3  池田 たいへんに夢多き、またロマンあふれる話ですね。そうした神話やフォークロアの多くは、現代人の常識からは“迷信”として排除されてしまうようですが、それは狭い、誤った考え方だと思います。
 そのことを強調した人に、ベルクソンがいます。彼は一九一三年、ロンドン心霊研究会に議長として招かれ講演しているのですが、その中で、心霊学に対する科学者たちの偏見を批判しつつ、「あなたがた(=心霊学の研究者)のやっておられるような研究を『科学の名において』否定するのは、とくに半学者であります」(「『生きている人のまぼろし』と『心霊研究』」渡辺秀訳、『ベルグソン全集5』所収、白水社)と断じております。そして「半学者」の一つの例として、ある著名な医学者の、次のような心霊現象への批判を挙げています。少し長いですが――。
 「あなたがたが言われることはみなわたしにはたいへん興味がある。しかしわたしはあなたがたが結論を引き出す前に反省されることを要求する。わたしもまた異常な事実を知っている。そしてその事実が本当であることを、わたしは保証する。というのはそれをわたしに話したのはたいへん聡明な婦人で、彼女のことばはわたしが絶対に信頼できるものだからだ。この婦人の夫は士官だった。かれはある戦闘で死んだ。ところがちょうど夫が倒れたときに、妻はその光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視、精神感応などがあったと結論なさるだろう。その場合ただ一つのことが忘れられている。すなわち、多くの妻は自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。正しいまぼろしだった場合だけが注意されて、他の場合のことは考慮されない。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう」(同前)
 すなわち、その医学者は、夫の戦死にまつわる婦人の体験を、「異常」であり、「偶然の一致」であるとして、彼の学問的常識の外へ排除してしまっているわけです。
 そこに、ベルクソンは批判の刃を向けます。その医学者は「具体的なもの」に目をつぶってしまっている、と。すなわち、「かれは具体的な生きた光景の叙述――定まったときに定まった場所でこれこれの兵にかこまれてその士官が倒れたという光景の叙述――を、『その婦人のまぼろしは真実であって、誤りではなかった』という乾いた抽象的なことばにおきかえました」(同前)と。その結果「具体的なもの」は、抽象的な、確率論的なものにとってかわられてしまう。
 しかし、いかに確率的に低かろうと、夫が戦死したのと同じ光景を、妻が幻の中に、同じ時刻に見たという事実は否定のしようがありません。たとえば、画家が想像力を駆使してある戦闘場面を描く場合、まったく見たこともないシーンをそのまま再現しうるなどということは考えられません。
 この夫人は、画家と同じ立場に立っているわけです。にもかかわらず、彼女の想像力の世界に、現実の夫の死と同じ光景が再現されたとすれば、「どうしても彼女がその場面を知覚したこと、あるいはその場面を知覚した意識と彼女との間につながりがあったことが必要」(同前)になると言うのです。
 私は、ベルクソンの考え方は正しいと思います。意識の奥に広がりゆく、時間的空間的な無意識層の広大なる世界を考えれば、その夫人のような体験があっても、決して不思議ではないからです。それを「異常」や「迷信」として、一方的に退けてしまうことは、かえって、現代人の精神世界の貧困さを証拠立ててしまうでしょう。それでは、あなたがロシアやキルギスの神話的伝説に寄せて紹介されたような、瑞々しい感性、コスモス感覚は摩滅していくばかりです。
 もとより私は、ひところのオカルト(神秘的なこと、超自然的なこと)・ブームのような現象を、そのまま認めるつもりは毛頭ありませんが……。
4  アイトマートフ よくわかります。仏教に関して言えば、私個人は、仏教が人生哲学であって、仏教の教えは、自立的価値をもつ人格としての人間自身の責任を強調していることに感動しています。
 仏教は、神を引き合いに出すな、神の背後に隠れるな、おまえ自身がおまえの運命の主人なのだ、そして、その運命をどのように処理するかによって、周囲の生活の、世界全体の質が決まる、そしておまえがおまえ自身の裁判官なのだ、と言っているようです。つまり、そのような人間は罪を他人や他の物に転嫁することができません。罪は自分にのみ求めなければなりません。そのことは多くのことを義務づけています。
 しかし、いずれにしろ、人間が、たとえそれが具体的な政府という形をとるにせよ、抽象的な神という姿をとるにせよ、そのような他人の意志に支配されてはいないということを知ることは、偉大なことです。
 九種類の認識、あるいは、九段階の認識と言ったほうがいいかもしれませんが、それは、その一つ一つが永遠への道の道標です。
 それは、いってみれば、一つの年齢から新しい年齢への意識的な移行のようなものです。新しい年齢は全存在の精神的緊張を、それに応じての、いわば新しい生活段階での、それまでとは異なった行動を要求します。
 どうして最初にこのようなことを言うのかといいますと、それは多くの人々の年齢不相応な振る舞い、幼児性――もちろん、これは、人間に本来備わっている魂の全一性といった良い意味のものではなく、悪い意味での幼児性です――には目にあまるものがあるからです。まるで生活は彼らの中で未熟な青二才のままで停止してしまっているみたいです。いつも問題を回避しつつ生きているのです。あるいは、生きていると思っているのです。
 人間が人生の終わりに、これまでの生活はすべて無益であり無駄であったと悟ることになるとしたら、それは恐ろしいことです。たとえば、偶然にチェーホフをひもといて、「世の中の人々に役立ちたいという願いは、心の欲求とならなければならないし、個人的幸福の前提でなければならない」という言葉に、はっとしたとしたら……。
 認識のどのような段階で、このような考えが思考する人間の頭に浮かぶことになるのかは知りませんが、しかし、この考えは、過去を振り返り、価値観の仮借ない転換が必要となるときに、生活全体をゆさぶり、ひっくり返さずにはおかないと思います。
 池田 あなたは思考と感情の文化を興味深く指摘なさいました。その本質は何であると考えますか?
5  アイトマートフ ここでルイジ・ヴォルピチェルリ教授の言葉を引用します。
 「文化とは何であるかということの古い定義は、それは、学ばれたことが忘れ去られた後に残るものである、というものである。我々の文化とは、人類の思想的遺産の中で我々のものとなり、我々の日常生活の中で我々の人格と合体したすべてのものである。コミュニケーションのみによって得られた知識は死んだままである。それは、要求されればいくらでも繰り返すことができるとはいっても、辞書や教科書の知識である。唯一の生きた知識は、我々のもっとも個人的な、最も深い感情の発露の中に存在し、我々自身の意義や価値を反映しているものである」
 池田 まったくそのとおりです。そうした文化に対する把握の深まりが、仏法で説く「末那識」「阿頼耶識」へと通じていくのです。しかし問題は、忘れるものがある、ということにあります。初めにたくさんのものを知らなければ、あるいは、たくさんのものが蓄積されていなければならないのです。
 アイトマートフ このテーマの話では大家たちの言葉を引用することが多くなってしまって申しわけありませんが、しかし、思考の文化については、アルベルト・アインシュタインの次の言葉以上のものはないと思います。
 「……“考える”とは本質的にみて何を意味するのだろうか? 感覚器官から発する感覚を感受する場合、想像の中に思い出の光景が浮かんだ場合、それはまだ“考える”ことを意味しない。それらの光景が一つの系列となって並び、その系列の一つ一つの構成要素が次の要素を喚び起こしている場合でも、それはまだ思考ではない。しかし、一定の光景が、その種の多くの系列の中で繰り返し出合うようになると、その光景は、その反復のために、それが、それ自体では関連をもたない多数の系列を結びつけているおかげで、整理要素となる。そのような要素は道具になり、概念になる。思うに、自由な連想あるいは自由な“空想”から思考への移行を特徴づけるものは、そこで“概念”が多かれ少なかれ支配的な役割を演じているということである」
 アインシュタインはそこから自分のためにどのような結論を出しているのでしょうか? 彼は、彼にとって物理学の歴史は、「それはドラマである。観念のドラマである」と言っています。自身の生活に対しても、彼は同じような基準を適用しています。
 「私のような気質の人間の生活にとって重要なことは、何を考えているか、および、どのように考えているか、ということであって、何をしているか、あるいはどんな実験をしているか、ということではない」
 もちろん、アインシュタインは科学者です。考えることは彼の職業だと言うことができます。
 池田 アインシュタインの人間的資質は、科学者である以上に哲学者でしょう。哲学は、いうまでもなく特殊な才能の持ち主の占有物ではなく、万人のものです。
 ですから、考えるということを、たとえばアインシュタインのような「専門家」に任せて、自分はその義務を放棄してしまっていいはずはありません。
 意識的にしろ、無意識的にしろ、そのように行動することは、みずから進んで自分の運命を拒否することであり、自分と全人類に対する責任を拒否することです。仏教徒にとってそれは受け入れがたいことです。
6  アイトマートフ 自尊心をもっている人間なら、だれでもそうです。
 だからこそ、私は先ほど悪い意味での幼児性のことを言ったのです。私たちの社会条件のもとでは、それが生き残りの形式と方法の一つになっていた観があります。「おまえに考えることができるのは、いわば、おまえの地位にふさわしいことだけだ」というわけです。
 そこには不文律の、厳しい服従関係がありました。「他人のことに口出しするな、自分の首を絞めることになる」という諺もありました。当時は「私は違う考えだけれどもそれに同意する」という悲しい一口話もはやっていました。人間はみずから耳をふさぎ、うっかり口をすべらせないために、「反逆的な」考えを自分の意識から追い出そうとしました。そしてあらゆる面で小さな人間であろうと努めました。目立つまい、出しゃばるまい、その地位により自分に代わってすべてを知る権利をもつ者たちを刺激すまいとしたのです。
 学問の世界でも同様でした。いうまでもなく、そこでは“プロクルステスのベッド”(本書七十二㌻参照)はいっそう残忍で、手がこんでいました。それなら「秘密の自由」はどうなのかと尋ねる人がいるかもしれません。しかし、それより辛いものがあるでしょうか? それは悪夢となり、呪いとなりうるのです。
 芸術家にとって、創作は自由への道です。すべてに逆らってもです。芸術家は九種類の認識へ向かう用意があります。同様に地獄の九圏へもです。
 池田 自由の問題を軽視、というよりも塵や芥のように扱ってきたイデオロギーのもたらした悲劇ですね。「意識が存在を決定するのではなく、存在が意識を決定する」「意識とは意識された存在以外の何物でもない」といったテーゼ(命題)が金科玉条とされているかぎり、存在つまり生産力プラス生産様式から成る「土台」の変革がすべてであり、他は全部「上部構造」として二の次、三の次の重要性しかもちません。
 そこでは、精神の自由の問題など、原理的に存在せず、問い直すことが許されないのです。
 こうした、中世の神学的様相を帯びたイデオロギーが、いかに生活の隅々にまで浸透していたかは、あなたとの対談で、どの問題を論じていても、この凶暴なイデオロギーへの呪詛にも似た告発が顔をのぞかせることからも、明らかです。ちょうど日本の“金太郎飴”の金太郎と同じように――。
 ところで、仏教は人間を職業によって区別するようなことはしませんし、いわゆる「普通の勤労者」に対しても「芸術家」に対してもなんらかの特権を与えるようなこともありません。人間に差が生ずるのは、生まれついた「身分」によるのではなく、「行い」によるのだということは、仏陀の基本的な考え方です。
 それゆえ正直なところ、私は、普通の人々であるあなたの作品の主人公たちが、叙事詩(エポス)の言葉で話すことに何の違和感もおぼえず、むしろ新鮮な感動を受けたものです。叙事詩というものは、本来、そうした普通の人々によって詩い継がれることを本領とするものであり、その種の雄渾な詩心ほど、現代から失われてしまったものもないからです。
 金太郎飴
 棒状の飴で、どこを切っても金太郎という童子の顔が現れる。
7  アイトマートフ サン=テグジュペリに「農民はすきで考える」という言葉があります。農民の「思い」を私たちの日常語に完全に移し替えることができるでしょうか? しかもそれはまだ決してすべてではないのです。というのは、彼以前に先祖たちが数千年にわたって同じように「考えて」きたからです。
 それゆえに、彼は、そんなこととは露知らずに、フンボルトの言葉を借りて言えば、最高の意味において考え、考えることによって全人類的な思考に参加しているのです。
 しいて言えば、彼の口を借りて歴史が語っているのです。というのは、彼は不滅の自然の一部として、祖語そごを記憶し、その祖語によって難なく自然と交流してきたからです。彼こそ真に幸せな人間だと思います。ニュートンのようにです。ニュートンにとって自然は難なく読むことのできる開かれた本でした。
 しかし、彼自身は、自分が幸福であることを知っているでしょうか? これは実用主義的な現代の問題です。
 この問題は、私たち自身が不幸を運命づけられているために、だれかが無邪気に、しかも損得ぬきで幸福であるなどとは簡単には信じられないし、また認められないところからきています。そんなことはありえない、いったいどんな幸せがありうるというのだ、という内心の抗議の声が聞こえてくるからです。
 しかし、それは私たちの内部のエゴイズムです。もっと悪いことに、それは横柄な形態をとっていて、私たちは、苦悩だけを自分の長所と認め、私たちの醜い欠陥を「長所」の証拠としてひけらかす傾向があります。
8  池田 充足している人は、充足とは何かについて思いをめぐらしたりしないものです。何かが不足した時に、初めて充足ということが念頭に上ってくるのです。
 幸福についても、同じことが言えます。だれでしたか、古代の哲学者が「言葉の使用頻度は、実態の密度と反比例する」と言っていましたが、たしかに、吟遊詩人の韻を踏んだ声に一心に聴き入っている人々の満ち足りた表情は、衰弱した現代人からは、はるかに遠い存在となっているのかもしれません。
 他と異なろうとして、個性的たらんとすればするほど、かえって不安と孤独を深めていってしまう、蟻地獄のような自縄自縛こそ、現代人の不幸の最たるものなのです。幸福とは、目先の欲得などとは関係なく、もっともっと深く、大きな充足感をともなったものだということを、知らなければなりません。
9  アイトマートフ エゴイズム。それは私たちの自意識の偉大な産物です。人間は本来的にエゴイスティックなものであると思います。つまり、自分の外に出ることはできないのです。
 問題はすべてそのエゴイズムの程度がどのようなものであるかにあります。もしも、エゴイズムが全人類をその明るい側面や暗い側面もろとも自己の中に収容し、その重い世界を自分のものとして受け入れるような、そういうエゴイズムをもつ存在があるとすれば、それが神です。
 また、もしも自分自身の子どもすら受け入れられないようなエゴイズムをもつ人間がいるとしたら、それは取るに足りない人間です。
 エゴイズムと戦うことは無意味です。重要なことは、「私の」エゴイズムにできるだけ大勢の人々を入り込ませることであり、また各人がそのようにすることです。そうすれば、私たちの一人一人の中に私たち全部が入ることになります。つまり一人一人の中に全員が存在することになります。
 エゴイズムを宇宙的規模に拡大すること、それが未来の世紀における人間の進化の道です。
 そのような進化の図式は、いうなれば、そもそもの初めから存在します。幼児は「自己」のエゴイズムの中に自分の母親しか含めていませんが、やがてしだいに家族、親戚縁者、民族、世界を認識するようになります。未来の人々がその道を無事に進みうるような条件をつくることが大事です。
 残念ながら、民族的エゴイズムは非常に長い間、幾世代にもわたって克服しがたい障害になりそうです。もしも不幸にして第三次世界大戦が勃発するようなことがあれば、その根本原因は民族的エゴイズムと、それが生みだす狂信性と攻撃性であることはまちがいないでしょう。
10  池田 エゴイズムの宇宙規模への拡大――優れた詩人であるあなたらしい、素晴らしい言葉です。私が、「この根源の生命に立脚するとき、『宇宙即我』といった無限大の自己の境界の広がりがあり、自身の欲望や衝動さえも、人間完成へのばねとしてコントロールしていくことのできる創造的生命の確立がある」と述べたのも、まさにそのことをさしています。
 ここで、「『人間疎外』をもたらす要因」の項を思い出しながら、ふたたびユングにならって、少し言葉の整理をしておきましょう。ユングは、宇宙生命の深層とふれ、融合しゆく拡大された自分を「自己(セルフ)」と呼び、もっと表層次元で――たとえば、日常生活で我を張り合っているような自分を「自我(エゴ)」と名づけました。
 近代哲学や近代文明の通弊は、「内面への旅」の果てに、自分を客観世界から切り離し、対立する「自我」「個我」へと矮小化してしまった点にあります。つまり、「自己」から切り離されてしまった「自我」は、根無し草のように、人生の波のまにまにただよっていくしかないからです。そこに、近代社会の“人間疎外”と呼ばれる現象が生じてくるのです。
 日蓮大聖人は「八万法蔵も、釈尊という一個の人間の生命に記された日記のようなものである」(「三世諸仏総勘文教相廃立 」御書五六三㌻)と述べられています。八万法蔵の中には、釈尊の宗教観はもとより、人間観、世界観、宇宙観の一切が含まれており、そこに、釈尊の生命は「宇宙即我」という無限の自己拡大を遂げているわけです。
 「内面へのはるかな旅」は、当然あるがままの現実、あるがままの自己を否定する自省の旅でもあるわけですが、それがまことの自省であるかぎり、その先にはかならず、この“大いなる肯定”が待ち受けているものなのです。
 仏法では「無我」と言いますが、その真義は、自分を無にすることではなく、小さな自分――小我――から、大きな自分――大我――への、ユング流に言うならば「自我」から「自己」への自己拡大にあるのです。
 八万法蔵
 釈尊が一生に説いたすべての経。
11  アイトマートフ 私は中編小説の『海辺を走るまだらの犬』の中で自分なりにそのことを、つまり、人間の心の細胞的レベルのエゴイズムの克服について語ったつもりです。覚えていらっしゃるでしょうか、小舟で海に出て、霧に巻かれて方角を見失った三人の大人と一人の男の子が自分たちの立場の絶望的なことにしだいに気づいていく、という話です。
 私は、芸術の使命は、人間の心の、生きるための本能にもとづくエゴイズムを克服する能力を高めることであると思っています。実際の生活においては、いうまでもなく、それらすべては、私たちが抽象的な判断で望むものからは遠く懸け離れています。それというのも、細胞のレベルを超えたエゴイズムは、不可抗力だからです。
 海での遭難で破滅の運命にある小舟の姿は、その例は無数にあります。各人がまず第一に自分の身の安全を考えます。私はその本能に芸術の力を、個人を超えた意識の力を対置しようとしました。
 エゴイズムの魔性を克服すること、そこに人間の人間化の道があるのではないでしょうか? そこに認識の意味と目的があるのではないでしょうか?
 自己に打ち勝ったときのこのきらめく歓喜こそが人生を輝かせ、その最後の瞬間でさえ照らしゆき、時と空間を超えた広がりをもって、個々の人間が人類全体と一つになることができるのではないでしょうか。幸福とは、日常生活の枷や束縛から解放されることの熱狂的な歓喜です。その時は人は自分を鳥と感じます。その時は死の恐怖が消えます。
 そんなことは一瞬の出来事にすぎない、と言う人がいるかもしれません。そのとおりです。しかし、その瞬間は、過ぎ行く時間の尺度ではなくて、永遠です。
 永遠の感覚を味わった人こそ、本当の意味での人間です。
 芸術は認識の特別な形式であって、それは不滅の瞬間を記録する使命をもっています。芸術は世代の異なる人々を結びつけるものであって、同時に、一部の現代人が、自分たちは、あれやこれやを知りもせず体験もしていない先祖たちよりも「賢い」と思っているような、そのような、ドミトリー・リハチョフの言葉を借りれば、「幼稚な厚かましさ」を決して許しません。
 どうして古代の芸術は私たちにとって到達しがたい、しかしめざすべき手本としてとどまりつづけているのでしょうか?
12  池田 つまり、芸術は不滅の保証であるとおっしゃりたいわけでしょう。私は、あなたのおっしゃる意図がよくわかりますし、それは正しいのです。
 そうでなければ、なぜ古来、宗教と芸術はあのように切っても切れない関係でありつづけたのでしょう。世界中の美術館や博物館に足を運んでみれば――そのうちのいくつかを私も見ております――そのことは明らかです。とくに時代をさかのぼればさかのぼるほど、その密着の度合いは強まり、ほとんど二重写しと言ってもよいほどです。すべての宗教は、必然的な補完物として芸術的様式を要請していると言っても過言ではないと思います。
 当然でしょう。時間的にいっても空間的にいっても、生命が無限に拡大し、飛翔しようとする時、その自己拡大のエネルギーは、かならず何らかの“かたち”を求めるからであります。絵画であれ、彫刻であれ、あるいは文学であれ、その“かたち”の最も純粋な、典型的な表れが芸術であります。文化であります。
 したがって、優れた芸術は、例外なく、歴史と国境を超えて魂と魂とを一つに結びゆく「全一なるもの」を志向し、秘めている――私は一九八九年六月、フランス学士院での講演「東西における芸術と精神性」においても、そのことを強く訴えました。その「全一なるもの」は「詩心」と置き換えてもよいかもしれません。
 アイトマートフ もちろんです。なぜならば、芸術はその内部に、言葉では表現できない、しかし言葉なしで理解できる、身近な、素晴らしい存在の謎を秘めているからです。そしてそれは言語によって表現される音楽、つまり真の詩の中でのみ存在しうるものです。
 ああ、心の記憶よ!
 おまえは知性の悲しき記憶より強い
 十九世紀の詩人コンスタンチン・バーチュシコフのこの詩も、そのことを語っているのだと思います。ついでに言えば、このバーチュシコフは、芸術を、一般に創作を、「未来についての思い出」と見なしていました。
 池田 「未来についての思い出」は「詩人」の特権だというわけですか?
 アイトマートフ 決してそうではありません。私は、すべての人間は、実在の前、詩の前では平等であるとする仏教哲学の正しさを信じています。
 しかし、そのこととは別に、「浮世の雑事」が人間のもつ詩的感受性を殺し、人間を陰気で冷淡な存在に変えてしまっています。
 しかし、そこからいかなる結論を引き出すべきでしょうか? それはただ一つ、認識は――そこにどれだけの種類があろうとも――人間が自分自身の内部へ向かう道である、ということです。
 人間の尊厳は、おそらく人間の潜在意識の中に秘められているにちがいない並外れた精神力を、自分の心の中に意識的に目覚めさせることを人間に義務づけています。「星女」の幻の話も、そのことを物語っているように思います。もしそれが実現すれば、人間が人間になることを妨げているすべての奇怪至極のものは、たちまち崩壊してしまうでしょう。
 コンスタンチン・バーチュシコフ
 一七八七年―一八五五年。ロシア。

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