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日蓮大聖人・池田大作

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環境破壊と依正不二の哲理  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
17  たとえば、有名な「創世記」の一節には、こうあります。
 「神は(中略)言われた。
 『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい』」(前掲『聖書』新共同訳)
 これに対し、妙楽の著作(『止観輔行伝弘決』)では、たとえば鼻の息の出入りは山の沢や渓谷の中の風に擬せられ、口の息の出入りは虚空の風に擬せられています。また、両眼は日月に、その開閉は昼夜に、髪の毛は星辰に、眉は北斗星に、脈は江河に、骨は玉や石に、皮や肉は土地に、毛は叢や林に……と、それぞれ、人間が自然界に擬せられ、関係づけられていくのです。
 これを受けて私どもの宗祖は「このように我が身と天地とが一体不二であることをもって、天が崩れ、地が裂けるならば、我が身も裂け、地水火風が滅亡するならば我が身も滅亡すると知るべきであろう」(「三世諸仏総勘文教相廃立」御書五六八㌻)と述べておられるのです。
 キリスト教的自然観にあっては、動物を初めとする自然界は、人間の支配の対象である、いわば「部下」であるのに対し、仏教にあっては、自然は共生しゆく「友」であることは明らかです。
 その相違は、決して無視されて良いものではありません。もとより、そのことは、比較的仏教が浸透しているとされている日本で、環境破壊が少ないなどという結果に短絡するものではありません。第一、現代の日本の在り方が、どれだけ仏教の精神にかなっているかは、はなはだ疑問ですし、第二に、地球問題群のような“複合汚染”には、相応の多角的アプローチが必要とされるからです。
 それゆえ、私は、あなたの大らかな善意と願望には、十分に敬意を払いつつも「世界のすべての宗教は、それらを正しく理解するならば、すべて愛と美と人間性の土台の上に成り立っています」との認識は、一面において宗教のめざしたものを把握しているとはいえ、ややナイーブにすぎると言わざるをえません。
 宗教の善悪両面を、ともに厳しく吟味――もちろん、ソクラテス的意味での吟味、です――していく宗教批判の眼を養っていかないと、たとえば、イスラム原理主義の台頭といった現象に直面して、途方に暮れるといった事態を招きかねません。
 先に挙げた労働価値説にしても、擬似宗教としての共産主義イデオロギーを誤って理解したから、アラル海の危機といった惨状を招いたのではなく、正しく理解したからこそ、そうなったのです。問題は、理解のしかたではなく、労働価値説そのものにあったのです。
 そして、この次元で言えば、擬似宗教も宗教も、ほとんど五十歩百歩と言ってよいのです。断るまでもなく、以上申し述べてきたことは、「環境国連」のような場に、諸団体とならんで異なる宗教同士が参加し、それぞれの立場から協力し合うことを排除するものでは、決してないのです。
 むしろ人類の基本的問題については、仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、対話をし、その解決のために協力していきます。自然保護・環境保護の推進は、仏法の「共生」の思想から、当然のことです。
 妙楽
 七一一年―八二年。中国の天台宗の第六祖。中興の祖と言われる。

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