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日蓮大聖人・池田大作

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言葉の「明示性」と「含意性」  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  アイトマートフ 私はその特殊な哲学分野の専門家ではありません。しかし、私の個人的な考えを述べてみようと思います。
 キルギス人は、言葉は「心」の鳥である、と言います。言葉は人間の世襲の財産であって、それは各人に終身的な個人的遺産として渡されるものである、と考えられます。しかし、遺産ですから、大きいものも小さいものもあり、豊かな資本であることも、乏しい資本であることもあります。
 言語の資本をいかに増大させ、完全なものにするかは、個人の社会史的、文化的状況によりますが、個人および集団の志向も少なからざる役割を演じます。
 私は、言語の「含意性」なり「明示性」なりの相互関係、その転換や変形について大部分の人々が日常的に考えているとは思いません。
 しかし、私はここで遊牧生活での比喩を使って話してみようと思います。言葉は「鞍をつけているもの」、つまり、真の意味を担っているもの、もあれば、「鞍をつけていないもの」、つまり、内容がなく、あるいは空っぽで、時には反対の意味をもっているようなもの、もあります。しかし、いずれにしても、言葉なしで世界を認識することは、たとえクラテュロスがやろうとしたように、ゼスチュアを使ったところで、ナンセンスです。
 私たちは言葉を使って生き、言葉の中で生きています。しかし、その反面、「語られた言葉は嘘である」とも言います。
 これは矛盾ではないでしょうか? 私たちの内部にあって、表現されないうちは汚れを知らず、真実のものであった言葉に表現されたら、何が起こるのでしょうか?
 しかし、いったん言葉を口にすると、私たちはいやおうなしに、これは違う、あれほど明瞭なもの、確かなものとして思い浮かんでいた真実の百分の一もこれは表現してもいなければ、伝えてもいない、と突然感じさせられます。
 私たちの善良な意図に反するこの「嘘」はどこから、どうして出てくるのでしょう? こうなったら、誠実で、真実の、心を打ち明けての交際など原則的に可能なのでしょうか? それとも私たちは理解し合えないことを運命づけられているのでしょうか?
3  意思の疎通(コミュニケーション)にはコード(符号)が必要です。学者たちがまず第一に用語について合意に達しようとするのはもっともなことです。しかし、たとえば、学者ではなくて普通の人が合意に達するにはどうしたら良いでしょう? その場合は、芸術が仲立ちになりうるとは思いませんか?
 たとえばの話ですが、話し相手同士が、等しくドストエフスキー、芥川龍之介、シェークスピアを好きだとしたら、どんな問題についても、同じ土俵の上で話をすることができると思います。
 この対談は永遠性を前におき、神秘の宇宙を背景にして行われていますが、この宇宙の姿を私たちが洞察し、鋭く感ずることができるのは、まず第一にそれが言葉による表現を得て、理解可能となり、明瞭なものとなっているからです。
 天才たちに扉を開いて見せる現実は生き、呼吸し、流れ、変化しています。そこで思わず考えてしまいます――世界の美しい風景や迷路を、一瞬たりとも停止することのない事象の流れを、描き出すことのできる言葉とはいったい何なのか、その魔力はいったいどこにあるのだろうか、と。
 『一世紀より長い一日』を書きながら、私は、読者を小説の中へ引き入れたい、自分がそうであるように物語の真っただ中へ引き入れたいという何とも説明しがたい気分を味わっていました。いってみれば、私の言葉を私自身の誠意と同等のものとして評価してほしいものだと思いつづけてきました。そこで十世紀アルメニアの大詩人のグリゴル・ナレカツィの次の文句を助っ人に頼んだわけです。
 「この本はわが身の代わりであり、この言葉はわが魂の代わりである……」
 現在生きている私たちの中で、いったいだれがこのように言う道徳的権利をもっているでしょうか? だれもいないとは言いますまい。さもないと私たちは一文の値打ちもなくなってしまいます。しかし、詩人なり思想家なりが自分の書く言葉は最高だとみなす道徳的権利は、何によって正当化されるのでしょうか?
 精神生活の純粋さによってです。そのことによってみて、ナレカツィがあえて言ったように、「心の奥底から出て神に向かう言葉」を口にすることができます。神の前に立って、神がじきじきに自分の言葉を聞いてくれるかもしれないと想像することは、考えるだけで恐ろしいことです。
 ところが、ナレカツィは自分の最も重いと思われる罪の懺悔をする対象として神を選びました。その罪を許す責任をみずからに引き受けることができるような人間は存在しえなかったからです。
4  池田 仏教には、すでにお話ししたように、創造者としての神は存在しません。したがって、好むと好まざるとにかかわらず、まず自分自身に向かい合い――あえて言えば――他人の助力なしに自分を裁かなければなりません。
 アイトマートフ ナレカツィは「神」という言葉でやはり自分の良心のことを言っていたのだと思います。それにしても、自分が曲解されるかもしれないなどと恐れることなく、あるいは、自分が心の奥底を正直に打ち明けようとしたことが哀れな許しがたい弱さとして受け取られるかもしれない、などと恐れることなく、他人を信ずることができたら、この上ない幸せです。
 池田 そのとおりです。意思の疎通の贅沢さと言って、そのことに憧れていたのはヘミングウェイだったと思います。彼はそのためには、相互の精神的な好意、相手を理解したいという強い欲求、すなわち、語られた言葉ではなくてその言葉の背後にある本人自身を理解しようとする気持ちが必要だ、と言っています。
 アイトマートフさん、あなたは私との出会いを、焚き火の前で出会って語る二人の旅人に譬えましたね。そして「どのようにして話が始まったのかは覚えていない。より正しく言えば、話は始まったのではなくて、つづいたのである。なぜならば、私たちはもっと前から、お互いに知り合う前から、話をしていたからである」と言われましたね。この「お互いに知り合う前から、話をしていた」という言い方に、私は深い興味をおぼえました。
 なぜならば、仏法では、生命はこの世だけではなく、過去世からつづいていて、さらに来世へとつづいていくと説いているからです――これは、やや異なる角度からですが、プラトンの『メイン』でソクラテスが精妙に論証しているところです――。しかも今世における人間の出会いは、決してたんなる偶然ではなく、過去世からの深い因縁によって導かれたものであると説いています。
 たとえば釈尊は法華経において、浄徳を妻とし、浄蔵・浄眼という二人の子をもつ妙荘厳王という人物を登場させています。簡単に言えば、仏法に帰依していた二人の子どもが、母と協力して父を仏法に帰依させるというストーリーですが、この四人の過去世の因縁として、天台大師の『法華文句』には次のような話が説かれています。
 この四人は過去世においてともに仏道修行を志した仲間であったが、みんなが修行に専念できるようにと、一人が炊事など身の周りの世話をする役目を引き受けた。おかげで他の三人は修行を全うできたが、世話係になった一人は修行ができなかった。しかし、三人の修行を支えた功徳によって妙荘厳王として生まれ、他の三人はその妻子となって、王が仏法に帰依できるようさまざまに尽力し、過去世の恩を返した――と。(『大正新脩大蔵経 第三十四巻』参照)
5  そういった仏法の生命観、人間関係観に立って、あなたと私との過去世の因縁を想像してみるのも、楽しいのではないでしょうか。
 あなたと初めてお会いしたのは、お国はまだソビエト体制の時代であり、宗教否定を建て前とする国家でした。その国から日本に来られたあなたが、だれよりも、創価学会の理念と運動に理解を示し、私との対談を始められた。これをたんに偶然の産物と片づけるには、あまりにも運命的な出会いとは言えないでしょうか。
 あなたは、ルクセンブルクでの出会いのさい、私どもの交際を「真の友情」と言われました。ところで、友情を定義する言葉として「何を言っても誤解されない」と言った人がいますが、これは名言だと思います。
 ちょっとした言葉のやりとりで、誤解や反目が生じてしまうようでは、真の友情とは言えないでしょう。友情とは、言葉以前に成り立っている相互の信頼感であり、完璧に近い意思の疎通だからです。そうして心が通じ合っていることこそ、対話が成立するための基本要件であり、そうした二人の間に誤解の生じようはずがないのです。
 私も、あなたとお会いした時、そのような「友情」の魂の響きを瞬時に感じ取りました。じつに不思議なものですね。私は、その不思議さの背景に、何か、因縁めいたものが感じられてならないのです。
6  アイトマートフ まさにそこにこそ、あらゆる対談の意味があると思います。「人の言うことを聞こうとしない人」と同席したり、ましてや、その人々と話をしなければならない時ほど悲しいことはありません。そのような「耳の聞こえなさ」は、あえて言いますが、無関心からきます。相手が口にするその言葉がどのような意味をもつのか、その言葉にはどんな履歴があるのかを考えてみようとしないことからきます。
 インドの古典的大詩人ガーリブが次の詩で語っているのも、そのことについての深い悲しみだと思います。
 もしも私の言葉の衣装を裏返せば
 ぼろ着の内側は、綾なす金糸
 現代のやはりインドの思想家アブル・カラム・アーザードが『尊敬する友へ』という手紙の中でこの詩を引用していることも、たいへん教訓的です。それは監獄から書かれた手紙です。その本に書かれている独特な注釈もまた、同じように興味深いものです。
 「自由の身になっても、獄中での私の習慣である絶えまない自己管理と自省は変わらない。頭脳は思索のとりこから解放されることを望まないし、心は思い出の装飾でかざられた住処を見捨てることを欲しない。私は社会の華たるべく生まれついたわけではないが、自分の友を一度も見捨てたことがないことを誇りに思っている。私の心の一部は友人たちのものである」
 ここから、おのずと一つの結論が出てきます。それは、人間は自分が正しく理解されるだろうという希望をいだいているということです。なぜかと言えば、彼は自分もまた友人たちから見捨てられないこと、友人たちの心の一部は彼のものであることを、それなりの根拠をもって感じ、かつ知っているからです。
 ところで、心から心へという交際は、時には言葉の代わりをし、あるいは言葉をまったく必要としなくなります。
 天台大師
 五三八年―九七年。中国天台宗の開祖。天台大師は智顗の大師号。
 ガーリブ
 一七九七年―一八六九年。
7  池田 「尊敬する友人たち」に関してなら、疑いなくそのとおりです。ところが、話を、たとえば外交のレベルヘ移せば、利害が食い違うことの多い国同士を代表する政治家が相対することになる。その場合は残念ながら現状を見るかぎり、言葉の「含意性」どころではなくなるでしょう。
 外交の技術はある意味では「かけひき」となり、そこで依拠さるべきものは対話ではなく「政治の力は行為することであって、演説することではない」(前掲「ゲーテ格言集」)という格言のようです。マキアヴェリズムが常となり、友情のような徳目が成立する余地は、なかなかなさそうです。もちろん、個々に優れた政治家がいることを否定するものではありませんが……。
 アイトマートフ 一般的にはそうかもしれませんが、しかし、現在は各国の利害が相互に結びつき、相互に制約し合っていて、「かけひき」をしても労多くして功少なしです。私たちはお互いに必要なのです。必要不可欠なのです。
 新思考はゆっくりとではありますが、この複雑な世界に着実に定着しつつあって、率直で、真心のこもった、誠実な言葉を必要としています。というのは、万人および各人の自由という観念は最高の全人類的価値であり、自然の恵みであって、そのことは全人類によって今日かつてないほど鋭く認識されつつあるからです。
 社会機構の「悪意にみちた」不公平な意志によって踏みにじられた自然そのものを復権させる必要があり、意味の相関性が完璧で、明確で、真実味のある言葉に一歩一歩道を譲っていかなければなりません。そしてその道は和合と調和の未来の世界へと通じています。
 自然は、幾世紀もの間、人間の権勢欲の、人間による人間の抑圧の、一つの民族による他の民族の支配の、「奴隷」と「主人」への分離の犠牲になってきました。
 人類の歴史は自由のための闘いの歴史である、とはよく言ったものです。もしそうならば、現代文明がおちいってしまった袋小路からの活路は、今までとは考えを変え、万人に理解できる自由と真実の言語で自分を表現することを学ぶことです。その言語こそ善意の人々を統一するよすがです。その統一はいつの世でも必要ですが、現在はとくに必要です。
 しかし、そのことは、芸術における真実、それよりもまず生活における真実が、いわば、より簡単に手に入るということを意味するものでは決してありません。ドストエフスキーによれば、真実は一語で表現されます。その語が真実の情熱の緊迫の中で発せられれば、です。
 小説に出てくる主人公は現実の生活とちがって、いったん出てしまった言葉を二度と取り消すことはできません。いっぽう、芸術家は、大デュマが言ったように、神が口述し、私が書く、といったような状態に自分を高めなければなりません。しかし……ここでもまた神はだれにでも口述してくれるわけではありません。
 今日私たちが、どうしてしばしば不明瞭で曖昧な書き方しかしていないか、ということの答えがそこに隠されています。つまり、その程度の生き方しかしていない。だから、言葉も妙なる光を発してくれない、というわけです。
8  池田 さすが、ゴルバチョフ元大統領のもとで、新思考外交の一翼を担ってこられたあなたの言葉は、清新な理想主義的な響きをたたえており、いわゆるメッテルニヒ流の良く言えば老練、悪く言えば老獪な政治家の発言とは一味違った、温かなヒューマニズムを感じさせます。
 その清新さは、ゴルバチョフ氏やJ・F・ケネディ元米大統領の登場時に、共通して見られたものであり、それゆえ、政治は、国民にとって好ましい関心事となっていったわけです。
 とはいえ、ケネディの場合もゴルバチョフ氏の場合も、その理想主義の路線は順調であったわけではなく、ある意味では、ともに挫折です。その難行苦行ぶりは、他ならぬ渦中にあるあなたが、最も身にしみて感じておられるはずです。
 願わくは、権謀術数をこととする政治の世界でどんなに泥まみれになろうとも、理想と現実を近づけよう、一致させようとする初一念だけは、絶対に手放さないでください。「万人に理解できる自由と真実の言語で自分を表現する」という遠大な理想を、決して摩滅させてはなりません。
 私が、何よりも心配しているのは、ここ数年来の激動の波間にあって、あなたが少々疲れ気味でいらっしゃるのではないかということです。先ほどあなたがおっしゃったように、「言葉の価値が極度に低下している」現代社会の状況下にあっては、疲れから言葉への失望、不信へは数歩をあますのみです。どうか、かけがえのない友人として、疲れを知らぬ、人類のための闘士でありつづけてください。
 ところで、たしかにドストエフスキーの言うように、真実は一語で表現されます。その「一語」があればこそ、疲れを知らぬ闘士でありつづけることができるのです。また、その「一語」を欠いているがゆえに、現代社会は、おびただしい言葉が符丁として飛び交っている反面、その言葉の内実は、恐ろしく空疎なものとなってしまいました。こうした状況――言葉を換えれば、言語の「明示性」も「含意性」も、二つながら毀たれているような状況ほど、繊細にして鋭敏な、そして傷つきやすい精神を疲れさすものはないのです。
 そこで肝要なのは「一語」です。日蓮大聖人は、中国の法華経の正師である天台大師の『法華玄義』の言葉を解釈して「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す」(「当体義抄」)。「妙法の至理には、もともと名はなかったが、聖人がその理を観じて万物に名をつくるとき、因果倶時の不思議な一法があり、これを名づけて妙法蓮華と称したのである」)とされています。
 「至理は名無し」とは、言語化される以前の混沌として豊饒なる世界をさします。前にふれたように、東洋思想とりわけ大乗仏教は、言語による物事の固定化を強く警戒しましたから、この混沌・豊饒なる世界、つまり「含意性」の世界の伝統的アプローチの多彩さは、類を見ません。
 とはいえ、その混沌・豊饒なる世界を統べ、というより貫いている「一語」がないわけでは決してない。それが「妙法蓮華」なわけです。この「一語」によって、「明示性」の世界の“画竜点睛”(物事の眼目となるところ)がなされ、「含意性」の世界との絶妙な調和、バランスが可能となってくるのです。
 やや、図式的な説明になってしまいましたが、ものすごい勢いで回転する独楽があたかも静止しているように見えるように、精神と情熱の諸活動が一点に集中し、緊迫した白熱状態の中から選り抜かれて発せられる「一語」が、いかに重い意味をもつかは、あなたならおわかりいただけるでしょう。
 その「一語」あるがゆえに、私は――人間は、と敷衍したくなります――、疲れを知らぬ闘士たらんと、日々を戦っているのです。
 次元は違いますが、また唐突なようですが、デカルトにとっての「コギト・エルゴ・スム」とは、まさに、そのような「一語」だったのではないでしょうか。
 大デュマ
 一八〇二年―七〇年。フランスの小説家、劇作家。作品に『三銃士』『モンテ=クリスト伯』など。その子を小デュマという。
 メッテルニヒ
 一七七三年―一八五九年。オーストリアの政治家。フランス革命、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序の回復のために開かれたウィーン会議を主導し、巧妙な外交手腕でヨーロッパの新秩序を形成。
 J・F・ケネディ
 一九一七年―六三年。アメリカの第三十五代大統領。遊説中に暗殺された。
 デカルト
 一五九六年―一六五〇年。フランスの哲学者、数学者。近代哲学の祖。
 「コギト・エルゴ・スム」
 「我思う、故に我在り」。デカルトが確実なるものを求めてすべてを懐疑した末に得た、認識の起点。

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