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日蓮大聖人・池田大作

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「人間疎外」をもたらす要因  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 ゴルバチョフ書記長の登場前後のモスクワに滞在していたある日本人が、著書の中で、ノーベル賞作家ボリス・パステルナークの子息エウゲーニイ・パステルナーク氏との対話にふれており、興味深いものでした。
 なかでも「私はだいたい、これまで無神論者なるものに会ったことがありませんね。人はだれしも、必ずなにがしかの信をいだいているものです。まったくの無神論者だってレーニンを偶像崇拝しているじゃありませんか」(前掲『複眼のモスクワ日記 オリンピック村団地の一年』)という率直な吐露には、さすがと思わせる鋭さを感じました。
 それは、宗教を否定した人間は、かならずその代替物を求めるというのが、歴史の教えるところであるからです。
 神と別れた人間は、理性を盲目的に信頼することによって、欲望を無制限に解放するとともに、科学技術の急速な発達をもたらしました。たしかに理性信仰は、人間の生活をいたって便利にはしましたが、それがそのまま人間解放につながるものでは決してありませんでした。逆に科学技術の加速度的な発達は、人間がみずから作り出したものに逆に支配されるという倒錯現象――いわゆる人間疎外の状況を生みだしました。
 その結果、人間は、社会のメカニズムの中の一部品とされ、生活様式も内面構造も均一化されていくなかで、本当の自分自身を見失ってしまう。カール・ユングに即して言えば、人間の立脚点が「自己(セルフ)」すなわち意識の深層にあって創造的エネルギーの源泉となる主体性の中核から浮上し、「自我(エゴ)」という意識の表層の中心に移行した状態をもたらしたわけです。
 それは、例えて言えば、川底に生えていた木が、水の流れに抗しきれずに、根元から折れ、流木となって川面をただよい始めた状態に似ているかもしれません。川底の根っ子というのが、自分を自分たらしめていた創造的エネルギーの源泉である本来の「自己」です。川の流れは、近代科学文明の流れです。そして流木は、理性の川面に浮く、「自己」を離れた「自我」の姿です。これが人間疎外、また自己喪失の風景と言えるかもしれません。
 この現象は、理性を拠り所として発達してきた近代科学、言い換えればヨーロッパ文明の行き詰まりを物語るものです。ユングは、その活路を東洋に期待し、「いまのところまだ見当もつかぬぐらいの影響力を秘めている、ひとつの東洋的叡知」(「近代精神治療学の諸問題」『ユング著作集・2 現代人のたましい』高橋義孝・江野専次郎訳、日本教文社)と語っています。
 たしかに、どちらかといえば西洋のとくに近代哲学は、デカルトの「思惟する自我」と「延長」以来、主観世界と客観世界を主客対立としてとらえ、それ自体を対象化する知的操作に重点をおいてきました。その結果「自己」も理性や知性の表層でしかない「自我」へと矮小化されてしまいました。
 しかし、近代文明の行き詰まりとともに、人々は、主客対立の世界観は閉ざされた系であり、部分知の世界でしかないことに気づき、それを超えた開かれた系、つまり全体知の世界への模索が始まっているようです。
 東洋哲学にあっては、「自己」とは何なのかという問題は、たんなる知的操作の対象となったことは絶えてなく、そのままみずからが生きるということに直結していました。
 つまり、東洋哲学においては、考えることはたんに知的作業にとどまらず、行動し、聞き・語り、思い・志すという身・口・意の三業をもって、今ある自分を深層まで探求していく生命の掘削作業にほかなりません。そして、同時に、自分の生き方を求めていく主体性に立っての哲学的思考でした。
 ゆえに、そこには、「自己」と「自我」の遊離はありえなかったのです。その絶えず問い返され、問い直されてきた「自己」の深みこそ、ユングを魅了したものであると思います。
 ユングが、人間が「自己」を回復するための方途としてこの東洋哲学、「東洋的英知」に期待を託したことを、どうお考えになりますか。
2  アイトマートフ 私の記憶に間違いがなければ、人間は彼が自分について考えているところのものではなくて、彼が実際に存在するところのものである、と言ったのは、キルケゴールだったと思います。
 疑いもなく、このデンマークの哲学者は、文明の進歩を人類の当然にして必然的な道として受け入れつつも、同時に、「純粋理性」を過度に賛嘆することが、人間にとってどんなに危険なものになりうるかを予見していました。
 人間は神を打倒し、神を暴露することによって、それまで宗教的教義や掟という黒いベールに隠されていた世界の秘密を知ることができるようになったかのように見えました。
 ところが、人間はそのようにして一見絶対的自由を手に入れたものの、何かに対する――この場合は、理性に対する――敬意から、それに対する崇拝へと移行していることに気づいていません。つまり、「新しい」権力に従うことによって、その奴隷に、さらに自分自身の奴隷になってしまうのです。
 ここで私たちはおかしなパラドックスに遭遇しています。私たちは科学技術の進歩によってますます自由になりつつあるようですが、それにつれてますます多く、ますます鋭く――ますます病的に、とは言わないまでも――いいしれぬ不自由さを感じています。
 その不自由感は何に由来するものでしょう? 技術がみずからの法則にのっとって発展し始めて、もはや私たちの意志に従わず、逆に自分の意志を私たちに押しつけてきつつある、という従属感がますます明瞭になりつつあって、そこから来る不安にその原因があるのかもしれません。
 よく言われるように、ジン(悪鬼)が、瓶から飛び出してしまったのです。今や私たちは一休みする権利ももっていません。
 この状況は、まるで、猛スピードで走る文明という名の列車を機関士が止めようとするようなものです。脱線転覆して、車両は折れて重なり、斜面の下へ転がり落ちます。
 とは言っても……人類は想像を絶するような可能性を手にして、それに夢中になるあまり、未知の世界への行く手にどんな障害が待ち受けているか、どんな結末になるかも考えず未来へ突進してしまいました。素晴らしい未来へたどりつけるというのに、だれもが輝くばかりの幸福に行き着けるというのに、何の心配があろうか――そんな気分で走り、行き着いた先はというと……今さらそんなことを嘆いてもおそらく無意味でしょう。
 池田 きついジョークですね(笑い)。もっとも『処刑台』のようなシーリアス・ドラマ(深刻劇)の作者にして、初めて意味のあるジョークなのでしょうか(笑い)。……とはいえ全般的な幸福はやって来なかった。となると、言わば「ブラックボックス」――プトレマイオスの世界図――に住んでいた私たちの先祖と、闇から果てしない宇宙空間へ飛び出した二十世紀の人間である私たちとでは、どちらが幸福か、という問題になります――答えは世界観によります――。いずれにしろ、彼らは当面は苦しまなかったし、現実を当然のこととして受け入れ、それなりの生活をしていたと思います。
 アイトマートフ さしあたっては、おっしゃるとおりです。しかし、どの「時期」から「苦しみ」始めましたか? テイヤール・ド・シャルダンの言う「行きどまりの病気」をいつ感じたのでしょう? それはまたどうしてでしょう?
 カール・ユング
 一八七五年―一九六一年。スイスの心理学者、精神医学者。フロイトとともに初期の精神分析に参加したが、後にフロイトから離れ、心の奥に広大な無意識層を発見して分析心理学を創始した。
 キルケゴール
 一八一三年―五五年。デンマークの宗教的哲学者。実存哲学や弁証法神学に大きな影響を与えた。
 プトレマイオスの世界図
 プトレマイオスは二世紀のギリシャの天文学者、地理学者、数学者。彼の宇宙観は古代、中世を支配し、その世界地図は十五世紀の新航路発見まで権威だった。
 テイヤール・ド・シャルダン
 一八八一年―一九五五年。フランスの古生物学者、哲学者、神学者。
3  池田 その苦しみ、つまり漠然とした不安は、新しい時代の誕生の予感、あるいは胸騒ぎだと思います。そのとき人間は不快状態を感じ始め、精神的な不調和が生じ、見慣れた周囲の状況にもはや満足を感じなくなります。カオス(混乱状態)です。
 アイトマートフ 「カオス」の感覚はどこから来たのでしょう? その本質はどこにあるのでしょう?私はそれは次のような悲劇的矛盾と関係があると思っています。つまり、人間はまさに信じられないような現実に生き、その技術的恩恵を享受しているものの、自分がその現実に深くかかわっていることの「正当性」は、日常的な意識では、理解することも、説明することもできません。
 多くの人は自覚していないかもしれませんが、これは夢が現実のものとなった、つまり降ってわいた奇跡のようなものです。
 では、それはなぜか、われわれ人間は、はたしてその奇跡を手にする資格があるのか、という疑問もあります。意識の奥底にひそむ恐怖、その恐れはまさしく現実的です。もしも現在の奇跡的な技術のすべてが人間への服従を完全に拒否し、いかに強制しても、いかに説得しても、従来どおりに人間に奉仕させることができなくなってしまったらどうなるか、という心配です。
 初歩的な例として、テレビが壊れたとします。その「主人」、つまり持ち主の大多数は、頭にきて、こぶしでテレビを叩く以外に手だてがありません。私たちにはテレビを修理することができないからです。テレビは私たちにとってまさに「ブラックボックス」です。私たちにできる唯一のことはスイッチボタンを押すことです。そうすれば「アウトプット」に物言う面白い画面が出てきていたのです。
 ところが、その「奇跡」が壊れてしまった時、人間はその主人ではなくて、奴隷であったことが明らかになります。人間はもはや生きるすべがありません。楽しませてくれる物がなくては生きていけないからです。そこで言いようのない、説明しがたい恐怖を味わいます。それは自分自身と差し向かいになることの耐えがたさからくるものです。そこで、自分自身がないらしいことが明らかになります。
 しかし以前はあったのでしょうか? あったとすれば、どこへ消えたのでしょう? これが、かの有名な「人間疎外」であり、自己喪失です。
4  池田 その問題は、まさにSF的時代における「自然」、人間生存の最も根本的な問題かもしれないと思います。ここでもそれは「記憶」の問題と結びついています。いや、忘れっぽさと結びついている、と言ったほうが正確かもしれません。シェークスピアの言う「時間のつながりが崩れた」典型的な状況です。
 私たちは二つの絆なしには生きていけません。一つは過去・伝統との絆であり、もう一つは隣人との絆です。現代人は、この二つの絆がともに弱まってしまっており、シモーヌ・ヴェイユが「根こぎ」と呼んだ、孤独という底知れぬ黒い穴の中に落ち込んでしまっております。私たちは自分たちの根から離れてしまったのです。しかも、その事実に気づこうとしないところが、なおのこと悲劇性を増幅しています。
 アイトマートフ 私はこんな光景を思い浮かべています。人類が一目散に走っていて、その背後で橋がつぎつぎ壊れていく。しかし……――これはよく知られた隠喩を使っているのですが――人々はひたすらに前をめざしていて、そのことに気づいていません。私たちは多幸症の狂気にとりつかれてしまっているようです。まっしぐらにどこへ駆けていくのでしょう? 理性が心より速く飛んでいきます。まさにこれはブレーキのない自動車レースです。
 もう一つ付け加えたいことは、みんな走りながら、振り返るのを本能的に恐れているということです。驚いて絶句してしまうかもしれないからです。なぜなら、背後に広がるのは無の世界か、チェルノブイリだからです。焼けただれた大地、死の荒野です。
 奇跡が理解しがたいのと同様に、信じがたいのは私たちが目にする「ごみの山」や「月面風景」が進歩の報いであり、快適さの代償であるということです。そうであるならば、気にすることはないように思えますが、しかし、繰り返して言えば、これもまた漠然とした不安をいっそうかきたてる要因です。
 いったい、活路はどこにあるのでしょう? いずれにしろ、人類全体と私たち一人一人をとらえている漠然とした不安の原因を理解する必要があります。それは、ある時期から私たちが成果に鼻高々になって、それに満足し、そして……立ち止まってしまったということにもあります。そのときからモノは独り歩きするようになりました。
 たしかに私たちはまだモノを利用してはいますが、しかしそれは、借り物としてです。モノは私たちにとって「他人」なのです。私たちもまた「モノ」に対してそうなのです。
5  池田 おっしゃるとおりです。あなたの『海辺を走るまだらの犬』の主人公は小舟カヤックに対し「わが兄弟よ」と呼びかけていますが、あなた自身が指摘されているように(=第五章、「民話のもつ意義と普遍性」の項)自分の車をそのようには呼べないでしょう。カヤックは彼の手が作ったものだというだけではありません。カヤックには彼の心が、彼の先祖の心がこめられています。彼はカヤックに語りかけることによって、歴史へ、記憶へ、宇宙へ語りかけているのです。
 彼にとって海は宇宙です。なぜならば海は地上の宇宙であり、不滅の大自然であって、それは、人間にとって生きにくいだけでなく、自分の場所すら見いだすことの不可能な文明のせわしなさに、混沌の猛威に対立するものだからです。
 アイトマートフ 多分そうでしょう。そして最も重要なことは、年老いた漁師の彼が海という存在を頭でとらえているのではなく、全身全霊で海と対峙しているということです。彼は普通の日常的な意味で考えているのではありません。彼は思索しています。その結果、普遍的な生命と自分個人の生命という観念を理解します。
 ときどき自問することがあります。――人生の「複雑さ」についていたずらに駄弁を弄し、社会に要求を突きつけて、社会はどんな要求をも満たす義務があるのだと主張する人間と、存在の美しさや賢さという、人間の手によるものではない奇跡に敬虔の念をいだき、この世に生まれたという最大の幸福に対して運命に感謝する人間とでは、どちらが本当に現代的な人間だろうか、と。
 詩人は後者です。その一人であるパステルナークは、万物の創造者に向けた「あなたは頼んだ物より多くの物をくださった」という素晴らしい言葉に、自分の考えを表現しています。
 「より多くの物」というのは一人に対してです。しかし「一人」が皆に与えられた物を、あるいは少なくとも多数に与えられたものを一人占めする権利をもっているでしょうか? エゴイズムは自分のための閉鎖性で、それは人間にとって不幸の原因です。まず第一に、それは現在生きている人々の間での完全な孤立化をもたらします。第二に、これはすでに避けがたい結果ですが、エゴイストは、残念ながら「あら皮」の役割を果たすことを運命づけられている、いかがわしい喜びの「ブラックボックス」の中へ自分を閉じ込めてしまいます。
 エゴイストにとって人生の時間はすばやく経過してしまいます。ところが思い出すべきものは何もありません。なぜならばエゴイストは「幸いなる者」ではありませんでしたし、また至福なる者たちの宴にさいし相手として招かれたことはなかったからです。
 さてそこで、だれが本当の「現代人」と呼ぶ名にふさわしいかと考えているうちに、ハクスリーの驚くべき考えを発見しました。彼の考えによれば、人間とは、自分自身の進化を認識する存在です。つまり、時間の経過における自分の存在が自分という人間だということです。そのことによって人間は永遠、不滅の感覚を持つことができます。それゆえにハクスリーは「一時的に不滅な我ら」と言っているのです。
 しかし、この人間の「自我」が歴史に「参加」しているという意識があってこそ、あなたがおっしゃるように、行動し、聞き、話し、考え、志すことができます。
 「東洋の英知」というような状態にどうしたら入ることができ、到達することができるかということはまた別問題です。それは何によるのでしょうか?
 あら皮
 バルザックの作品の題名となっており、作品中では、この皮を所持する者の欲望はすべてかなうが、かなうたびに皮はちぢみ、生命がけずられていくという力をもった護符として描かれている。
6  池田 「一時的に不滅な我ら」とは、面白い表現ですね。それは、私がいつも使っている「刹那に永劫を生きる」ということと通じており、仏教的発想に親近しております。
 時間の問題は、あとの章でふれる予定ですので簡単に申し上げますと、仏法では、永遠の生命ということを説きますが、それは過去から現在、現在から未来へと伸びる一本の線のような、客観的実在をいうのではなく、まず、現在の一瞬があるのです。
 無限の過去と無限の未来とを包摂する現在こそ生きた実在であり、それを離れた過去といい未来といっても、それは空虚な存在であり、虚像でしかないのです。そのことを私は「東洋哲学にあっては、『自己』とは何なのかという問題は、たんなる知的操作の対象となったことは絶えてなく、そのままみずからが生きるということに直結していました」と前述したのです。
 さて、そのような「自己」を前提として、ひとつ、発想の転換をしてみませんか。演繹的な発想法に……。
 たしかに、帰納的に考えると、現代社会を覆う「人間疎外」「自己喪失」は、絶望的とまではいかないまでも、はなはだ悲観的にならざるをえないでしょう。あなたが例を挙げておられたように、テレビに対する私たちの能動的働きかけは、スイッチを“オン”にするか“オフ”にするかなど、ごく限られたものですし、自動車という無気質な物体に「わが兄弟よ!」と語りかけたとすれば、よほどの変人扱いをされかねません。
 たんに物に限らず、たとえば政治機構などにしても、肥大化し巨大化すればするほど、限られた個人の力では手に負えない、手の届かないものと化し、その結果、政治的なアノミー(無力感)を引き起こしてしまうことは、現代の民主主義や議会政治のアキレス腱として、しばしば指摘されるところです。
 とはいっても、そうした機械文明の成果や政治制度などを、すべて否定しようとしてもできるはずはありません。カウンター・カルチャー(対抗文化)としての意味はあっても、それが、すぐさま現代文明にとってかわりうるという考え方は、現実的ではありません。
7  そこで、演繹的に発想を転換してみましょう。と言いますのは、そのような現代文明が産み落としたさまざまな事ども、換言すれば可視的な世界を一挙に跳び越えて、その世界を包摂する不可視な世界へと自己を拡大しゆく手立ては、はたしてないものかということです。
 そうです。それは、ある意味では、あのファウスト的野心と通ずる側面さえ有していると思うのです。
 おれは人類全体にあたえられたすべてのものを、
 内部の自己で味わいつくすのだ。
 おれはおれの精神で、もっとも高いものとともに、もっとも 深いものをつかむ。
 おれはおれの胸のなかに、あらゆる幸福とあらゆる悲嘆をつみかさねる。
 そして、おれの自我を人類の自我にまで押しひろげ、
 ついには人類そのものといっしょに滅びてみよう(前掲『ファウスト』)
 「……滅びてみよう」はともかく、こうしたファウスト的な、不敵な自己拡大の試みほど、衰弱した現代人から縁遠くなってしまったものもないはずです。たしかに、それは、人間の傲慢、ドストエフスキー流に言うならば「人神」へと傾きがちな側面も有しますが、正しく導かれるならば「我即宇宙」として、ミクロ・コスモスとマクロ・コスモスの融合を説く、仏教的宇宙観にも通じていくはずです。私が、ユングの「東洋的英知」という言葉に言及したのは、そうした演繹的発想が念頭にあったからです。
 そうした時間的、空間的な自己の拡大は、ユングらによって進展させられた深層心理などによっても裏付けられているようですが、それはまた、あらためて論じましょう。

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