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日蓮大聖人・池田大作

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ニヒリズムと宗教の復権  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 あなたは著書の中で、今までソ連ではタブーとされてきた麻薬問題を扱われておりますが、麻薬、性犯罪などの刹那的快楽主義の蔓延は、世界、とりわけ文明国と言われる国々に共通する深刻な問題となっています。また、一方には物志向、拝金主義への傾斜といった現象も顕著になってきております。
 こうした風潮は、外的な刺激や欲望の充足によって、渇いた心を満たそうとするいわば精神のあがきでもあり、それは裏返せば現代における精神の空洞化を物語るものでもあります。
 私は、この時代の病理とも言うべき現象の根っ子には、徐々に、しかし確実に現代人の精神をむしばみつつある、本源的なニヒリズムがあるように思えてなりません。
 かつて人間は、「神」や「法」、あるいは「道」「天」などの超越的な規範をもち、それら「聖なるもの」「畏多いもの」をよすがとして、己を律してきました。そうでもしなければ暴れ馬のような自分自身をコントロールすることなど、とうてい不可能であるからです。
 しかし、近代人は、それらの規範に虚構性があるとして、「迷信」として一様に切り捨ててしまいました。それらからの解放こそ自由であると信じ、自由の航海に乗りだしました。
 しかし、希望に輝いているかに見えたその海に出るや、神という羅針盤を捨てた人間の船はたちまち方向を見失い、巨大化した科学技術、管理機構という大波に流されてしまったのです。その大波は、皮肉にも船が起こした波であったのです。
 漂流する船の上で、人々は心がからからに渇き、海の水を飲み始めました。それが物や金であり、快楽の追求と言えましょう。しかし、海水がますます渇きを募らせるように、欲望を充足することでは精神は満たされず、虚無感はますます深くなっていく――こうした状態が、現代ではないかと思います。
2  『罪と罰』の中で、ラスコーリニコフの犯罪を追い詰める敏腕な予審判事ポルフィーリイの言葉が思い起こされます。「これは陰気な、幻想的な事件です、現代的な事件です。人間の良心が麻痺し、血こそすべてを『一新させる』ということばがさかんに引用され、安楽こそ人生のすべてであると主張される現代でなければ起こらない事件です」(小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集6』、筑摩書房)
 この「現代的」を百年あとの現代と解しても、少しも違和感がないでしょう。文豪の筆は、ニヒリズムに由来する病理をまことに的確にえぐりだしていると言えます。
 「神」なり何なりの規範を失うということは、見えざる世界と自身を繋いでいた精神のよすがを失うことにほかなりません。それによって、現代人のまなざしは、現象の世界に釘づけになり、人間の生およびその前、また、死およびその後を切り離し、現世だけに関心を寄せて物事をとらえることに終始してきました。
 私は、それを現世主義と呼んでおりますが、その眼に真実の生の意味を投影させることは不可能と言ってもよいと思います。と申しますのは、生と死とは、本来、表裏一体であり、何のために生きるかという問いは、何のために死ぬかという問いと同じ意味をなすからです。
 また、形となって現れる現象の世界というのは、相対的な世界です。その世界だけを見ているかぎり、すべては無常であり、永遠なるものや絶対的な価値などは見いだせず、やがては、虚無感におちいらざるをえません。そして、この精神に巣くう空しさに追い立てられるようにして生じた社会現象が、前に述べた現代のさまざまな風潮ではないかと思います。
 地上に立つ一本の木という現象の奥にも、地中深く伸びた根っ子という、見えざる存在があります。この木を見事な大木に育むためには、幹や枝のことだけに気を配るのではなく、根や土壌を含めて総合的に考えていくことが不可欠です。
 同様に、現代人が自己の存在の意味を見いだし、より良く生きようとするためには、生という現象の奥にある見えざる生命の深淵およびその永遠性に目を向けること、言い換えれば、宗教の復権こそが肝要であると考えますが、あなたのご意見はいかがでしょうか。
3  アイトマートフ たしかに、人類は、現在、イデオロギー的、政治的闘争の荒れ狂う大海の中に、舵も帆もなくしてただよっているようなものです。加えて、あなたがおっしゃるように、神という羅針盤もありません。
 しかし……人類は自分の状態が絶望的であることを、恐ろしいものであることを感じているのでしょうか? 前途に破局が待っていることを知っているのでしょうか? というのは、黙示録的予感が起こりうるためには、人々の考えの中に、善と悪の対比可能な観念が代々受け継がれていなければならないからです。
 私たちは自分を欺いているのではないでしょうか? 自分自身に答えることを避けているのではないでしょうか? 判断力停止と思い違いの結果として到来するのは、「人々は死を探し求めるが、死は人々から逃げるであろう」という黙示録の警告でしょう。
 私は何を言おうとしているのでしょう? 私の中にフィレンツェの預言者サヴォナローラが目覚めたのでしょうか? 実際のところ、人間がかならず罰を受けると予言することができるのは、人間が未来の世代の不幸について哲学的に思索することなく、多幸感に陶酔してしまっているからであり、それに対しては報復が避けられないからではないでしょうか?
 そこで必然的に生ずる疑問は、自分の瞬間的な快楽を満足させ、享楽することに熱中して、そののんきさがどのような危険をはらんでいるかを少しも考えようとしない人間の罪はどこにあるか、ということです。
 一般にそこには「罪」があるのでしょうか? 一人一人の人間は全人類の運命に対する責任の重荷を担わねばならないのでしょうか? 「存在の悲劇性」を感じうるのは決してすべての人ではない、ということを認めるべきではないでしょうか? もし仮に私とあなたとがそのように感じ、理解しているとして、同じことを例外なくすべての人に要求することは理にかなっているでしょうか?
 サヴォナローラ
 一四五二年―九八年。イタリアの宗教指導者。預言的な説教を行い、当時のフィレンツェ社会を批判した。
4  池田 尊敬するアイトマートフ大兄、あなたは何がおっしゃりたいのでしょう? 何の屈託もなく享楽に明け暮れる人間には、その自己存在の不確かさを説いても無駄であり、物質的豊かささえあれば彼らが生の不安と不満に目覚めることはない――と言わんばかりのあなたの言い方は、それこそあの『カラマーゾフの兄弟』の傲慢な“大審問官の論理”ではないでしょうか。(笑い)
 ご存じだろうと思いますが、仏法では「生老 病死」の四苦を説きます。生きる(生まれる)苦しみ・老いる苦しみ・病む苦しみ・死ぬ苦しみ――この四つの苦は、人間存在の根本に巣くう苦悩であり、何人もその「存在の悲劇性」から逃れることはできない。なに一つ不自由のない王侯のごとき生活を送っていても、この四苦にまつわる懊悩をごまかすことはできない。昔、中国の皇帝は不老不死の秘薬を求めたといいますが、それもこの四苦がいかに人間存在の根幹に根差すものであるかを雄弁に物語っていると言ってよいでしょう。
 大半の人間には「自由」など必要ない、「パン」を与えておけばそれですむ――といった“大審問官”風の考え方が、いかに浮薄であり傲慢であるかは、あなたご自身がよくご存じのはずです。何か別の意図があるのでは(笑い)と勘ぐってしまいます。
 私はこれまで世界の多くの友人と対話を繰り広げてきました。それぞれ肩書も専門分野も違う人たちです。個性や能力、生まれ育った環境もさまざまです。しかし私は、それら多様な姿の奥底にひそむ、生老病死と格闘する「彼自身」と語り合ってきたつもりです。いわば、人間存在の“普遍の大地”に立脚しての語らい――そこにこそ、すべての差異を乗り越えた、人間と人間との本当の対話が成り立つものでしょう。あなたとの対話もそうです。
5  アイトマートフ ところで、現代の神学者たちが考えている神はあまりに厳しくて、しかも陰気だとは思いませんか? 人によっては、古代ギリシャの神のような陽気な神のほうが好ましいのではないかと思います。
 しかし、ついでに言えば、その場合でも「この世の終わり」的感覚が哲学者の心をかき乱すことが少なくなるとは思いませんが……。
 池田 哲学者の場合はそうです。一般の人々ももちろん、避けがたい天命を前にして漠然とした恐怖を感じていましたが、自分たちとともに人類そのものも消えてしまうとは、だれも考えなかったでしょう。原則として人類はみずからを不滅だと思ってきました。キリスト教的発想にもとづいて言えば、個人の運命に関しては、自分の意志と判断力をとことん駆動させるより、神を当てにするほうが良かったのです。人間の運命を取り仕切るのは神の職権だからです。
 アイトマートフ 同感です。しかし、ニヒリズム――少なくも、宗教に対しての――は、宗教が人間を厳しく規制し、人間の命を支配し、生物生理学的な本質にもとづく自由への衝動という人間本来の志向に鉄のたがをはめて制限し、民衆の観点からすれば人間的で「陽気な」神々を唯一の陰気で厳しい神に取り替えてしまったことに対する、人々の自然の、したがって、やむをえない反応であるとは思われませんか?
 本質的にみて、新しい宗教の歴史は真の神を求めての戦いの歴史である、ということができます。いってみれば、停滞した保守的な神学と民衆がいだいている「自分の神」という概念との間の戦いの歴史です。
6  池田 そのとおりです。硬直化した神学は、エマーソンが言うところの“死んだ形式”を後生大事にかかえ、それを民衆に押しつけてくる。それに対して、民衆は、生活と人生の中に脈打つ“生きた宗教的情感”を求めてやまない。その戦いが、これまでの宗教改革であったと言ってよいでしょう。そしてこの戦いは、現代においても、また未来にあっても、永遠につづいていかざるをえないと思います。
 今日、神を求める精神の傾向性は、たしかにあなたがおっしゃるように、「自分の」神という方向を模索している。超越的な高みから一方的に人間を律してくる神に、民衆はもう愛想をつかしています。「神の王国は汝の胸中にあり」と叫んだトルストイを想起するまでもなく、聖なるもの――それをキリスト教では「神」と呼び、仏教では「菩提」と呼びますが――を自己の内面に探求することが、今の人類に課せられた最も重要な宗教的課題ではないでしょうか。
 そのとき直面するのが、人間のもつ本能的衝動をいかに扱うかという問題なのです。
 食欲・性欲などの肉体的欲望、名誉欲・功名心といった精神的欲求は、いうまでもなく、しばしば人生と社会に悲劇を巻き起こす原因です。それに戒律という名の鉄のたがをはめ、何としても封じ込めよう、切り捨てようとしたのが、仏教の歴史で言うならいわゆる「小乗教」でありました。そうした行き方が、人間存在そのものを否定する逆説的な結果におちいりがちなことは、すでによく知られるところです。
 これに対して、「大乗教」では「煩悩即菩提」を説きます。煩悩とは、いってみれば人間ならではの自然な欲求であり感情です。それを払拭することは、どだい無理な話でしょう。問題は、それをいかにコントロールし、浄化するかという点にこそ求められなければならないでしょう。
 例えて言うなら、煩悩とは「薪」であり、菩提という悟りは「火」なのです。「薪」がなければ「火」は起こりません。煩悩を嫌うあまり、それを捨て去ってしまうのでは、悟りも得られないことになります。
 およそ人間的諸問題に関しては、分析的知性だけではまともな解決へとはいたりません。この問題についても、菩提と煩悩、換言すれば聖なるものと俗なるものを分断して二元論的にとらえて取捨選択するのでは、迷宮の袋小路におちいることになるでしょう。つねに「人間」という生身の現実存在へのまなざしを失ってはなりません。
 ところで、あなたの『処刑台』の主人公、アヴジイ・カリストラートフは、こういった問題についてどのような立場に立っているとお考えですか。
7  アイトマートフ とにかく、私の考えでは、彼は宗教問題における生まれつきの革新者です。彼は宗教を現代人の生活に近づけようとしています。宗教を現代の切実な要求に結びつけ、宗教を血の通ったものにし、宗教以外にはだれも答えられないような問題に人間が遭遇した時に、宗教が人間の相手になれるようにしようとしています。
 しかし問題は別のところにあります。現在、この世には、俗に言うような「悪魔」も「神」も信じない世代が生まれてきています。彼らは、人生の意味はどこにあるかという「永遠」の問題もまったく気になりません。大海原をどこへ行くべきか、何に乗って行くべきか、も考えません。彼らにとってはどんな羅針盤も必要がないように見えます。「船」が快適でありさえすればそれでいいのです。
 これらの人々は幸福なのでしょうか? 彼らはそんな問題は考えようとさえしないようです。もしも不意に考えてみたとしても、おそらく、幸福だ、と答えるでしょう。彼らには彼らなりの幸福の観念があります。
 彼らを憐れむべきかどうかについては自信がありません。心の中でひそかに憐れむ分にはいいのでしょうが。彼らにキリスト教的モラルを説こうとしたって、相手にもされないでしょう。
 池田 その人々が真の人間になることなく、生きながらにして堕ちていくのを黙って見ていてかまわないわけですか?
 アイトマートフ 裁判官になることは困難です。しかし、彼らの中の人間的なものに訴える必要はあります。
 池田 アヴジイのようにですか? しかし、残念ながら、私たちはすでにその結末を知っています。
 その結末……
 アヴジイは横死した。
8  アイトマートフ あなたが言われる「宗教の復権」には私も全面的に賛成です。ほかに「宗教の復権」の道があるでしょうか?
 私たちの現代の社会では言葉は極度に価値が低下しており、虚偽――故意の、あるいは偶然の、いずれにしろ善良にもとづく虚偽――に染められてしまっていて、人々の心に呼びかけを行っても、それに対応する反響を得ることができません。なぜならば、人々はあらゆる種類の説教に対して前もって疑いの念をいだいているからであり、なによりも目に見える真の人間の道の証を求めているからです。
 社会の病弊の原因の一つは精神の病気です。その診断については、だれが行っても大きな食い違いはないように思いますが、その病気は言葉と行動との不一致によって生まれたものです。言うことと、行っていることとが違うという問題です。
 この状態はあまりに長くつづいてきました。そこで、虚偽にもとづく生活をたんに個人個人に対する侮辱としてだけでなく、ヒューマニズムの理想に対する侮辱と受け取る「無邪気な未成年者」(アヴジイ)や変人がつねに存在するし、また現れてくるわけです。アヴジイにとっては、彼は正教徒でしたから、ヒューマニズムの理想の体現者はキリストでした。
 「復権」の問題は、さほど簡単ではないように思います。教会を社会の低い地位に押しやり、信者を「二級の」人間にして、のけ者にしてしまったような法令を廃止することはもちろん必要です。しかし、教会と真の信仰という問題は、私たちがすでに話したように、それとはまったく別次元のものです。旧教徒はいみじくも「神がいるのは肋骨の中であって、材木の中ではない」と言っています。
 私が言いたいのは、宗教がみずからの権利を獲得するのは、人々、および社会が、神および高度な精神に対して渇きにも似た欲求を感ずるようになり、それなしには「良き」生活も少しも良くないと自覚するようになってからだろう、ということです。
 そして、その自覚とともに鏡で見るように自分を見つめてみれば、私たちが人間としてどんなに忌まわしい誘惑に魅入られてしまっていたかがわかり、恥じ入ることでしょう。もしも私たちが恥じ入れば、そして恥ずかしさが私たちの心を焼き焦がすようなことがあれば、私たちも生き方を変えるようになるだろうと期待することができます。
 それはいつ起こるのでしょうか? どのように起こるのでしょうか? それはわかりません。わかっているのは、かならず起こるだろうということだけです。すでに一部の人々にはそれが起こっています。そのことが希望を与えてくれます。
9  池田 私たちは、お互いに歴史の主体者であって、傍観者ではありません。かならず起こるだろう、いやかならず起こしてみせるという、その「確信」が大事なのです。決めたほうが勝つ。これはトルストイの『戦争と平和』の洞察です。その一念が定まらないところに、じつは敗北の影も宿る。決めれば勝つという意味において、私は楽観主義者です。
 たとえば、ガンジーの「非暴力」を思い起こしてください。彼は言っています、「非暴力には敗北などというものはない。これに対して、暴力の果てはかならず敗北である」(前掲『わたしの非暴力Ⅰ』)と。真理に生きる者は、たとえ囚われの身であろうと、つねに勝利者である。それはまさに、本質において勝っているからです。
 ガンジーはこうも語っています。「私はどこまでも楽観主義者である。正義が栄えるという証拠を示し得るというのではなく、究極において正義が栄えるに違いないという断固たる信念を抱いているからである」(前掲『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』)
 信念の強者は、また楽観の強者です。時代と世界を動かす根源的要因の萌芽も、このような強き一人の「胸中」にこそひそんでいる。決して下部構造のいかんや、制度・機構といったハードな側面にあるのではない。時代の変革も、何よりも一人における“内面の革命”、つまりソフトな側面が機軸になると私は確信しています。
 「制度」から「人間」へ、「ハード」から「ソフト」へ――。時代の潮流は、確実に動いています。私たちの戦いも、またそれを志向したものにほかなりません。一人の「人間」の内なる「確信の世界」を鍛え広げる戦いです。

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