Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「内なる神」の意味するもの  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
5  アイトマートフ よくわかります。そこで、結論です。
 たしかに、神への道は各人にとって自分から始まりますが、しかし、神が個人の利用のためのみにとどまるならば、すなわち、私たちの「自己の内部」にあって「自己のため」のみの存在であるならば、善へのこの「私有財産的な」道の行き着く先は、営利目的のための神の悪用であり、個人生活と社会生活におけるさまざまな不公平と抑圧の合理化以外の何物でもないでしょう。
 しかし同時に「神」は、具体的な人間の「自我」という主体の外に存在することはありません。このような考え方はきっと多くの強い反発を呼ぶことでしょう。
 ――神は我々に関係なく存在しているのであって、むしろ我々のほうこそ生まれてから死ぬまで、完全に神に従属しているのだ。いや、やはり我々一人一人にとって神が存在しているのは、我々自身が生きている間だけなのだ――。残念ながら、これが人間と神の関係性の弁証法なのです。
 問題はもっと別のことだと思います。つまり、個人を経由して神の概念を、万人にとって単一であり、しかも万人が一つになれる「神」という普遍的・総体的な概念へ転化させることです。
 さらに言えば、あなたが私たちの対談のこの部分を「内面へのはるかな旅」と名づけたことの意味が私にはわかるような気がします。自己の内面へのこの旅は、宇宙そのものと同じように果てしないものです。
 そうです、それは自分の精神の無限の向上を通じて神に近づくことです。その道には、あなたが、適切にもトルストイの『クロイツェル・ソナタ』に言及されたように、果てしがありません。
 理念としては、いかなる時代においても人間一人一人の生活はそのようなものでなければなりません。しかし、だれも終点には到達できないのです。

1
5