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日蓮大聖人・池田大作

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「内なる神」の意味するもの  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  アイトマートフ 提起された問題について次のような視点を紹介したいと思います。よく知られている格言に、「神はいたるところにいてどこにもいない」というのがあります。私たちがトルストイの思想に連続させて「わが内なる神の王国」と言っていることとそのことを、どのように結びつけたらいいのでしょうか?
 後者は前者を否定してはいないでしょうか? それとも、後者には、自分を神と同等なものと見なしたいというひそかな誘惑が隠されていて、だれかがうぬぼれの酒に酔いしれて陶然となり、突然「神が自分の内部に宿っている」と本心から思い込むようなことにならないでしょうか?
 しかし、そのように思い込むのは病的現象です。わが国の現代史でそのような行動の顕著な例は、グリゴーリイ・エフィーモヴィチ・ラスプーチンです。彼は自分に対する崇拝の念を上流階級の間に、それもロシア最後の皇帝の側近たちの間に吹き込み、その結果、多くの人が、皇后も、それに彼自身も、神がこの「聖なる修道士」の言葉を借りて語っている、と無条件に信じていました。
 ラスプーチンを精神異常者と見なすことはできないでしょう。しかし欲得ずくのいかさま師と言うなら話は別です。しかしそう言ったところでこの不気味な人物の特性を説明し尽くしたことにはなりません。それではあまりに単純すぎます。
3  考えてみますと、それはある一定の歴史的状況の中だけで可能な特異な出来事です。社会的雰囲気には世界的規模の悲劇が発生しそうな予感がみなぎり、「この世の終わり」という神秘主義的な宿命観がただよい、それを防ぐことができるとすれば、奇跡のような超自然力しかないと感じられていた世の中です。そこへ、待っていましたとばかり、その表現者となって突然現れた「奇跡者」がラスプーチンでした。
 にもかかわらず、彼が奇跡を渇望している人々に与えた衝撃的な印象は、やはり彼自身の個性と結びついていたと思います。
 彼は意識的に聖人を装っていましたが、結局は自分でもそれを信ずるようになったにちがいありません。崇拝者たちの熱狂的な賛美がそれを促進したにちがいありません。
 私がどうしてこのような驚くべき歴史的事例を持ち出したかと言えば、それは、善良な意図が時にはどういうことに転化するかを、時にはそれが営利のために利用されうることを示したかったからです。
 こんなことを言うのも、自分は神にかかわっているとうぬぼれる人間が何らかの超人間的な野心をもち、特権をもつということがどんなに危険なことであるかを忘れてもらいたくないからです。神へのかかわり! そこには明らかなごまかしがあります。それは思想上の制度となった教会に対して異を唱え、それどころか教会と対決しようという人間を弾圧するために、教会の権威を利用しているだけなのです。
 「教会」はいったん国家制度になると、社会生活の掟、しかもたいてい保守的な掟をふりかざします。そしてそれのみならず、精神的自由の発露や科学的・哲学的世界観が宗教の決めた宇宙観によって是認された「世界の構図」を揺るがしかねない場合には、とたんに抑圧しようとします。
 まさにその時に聖なる異端審問が始まり、火あぶりの火が燃えだします。その火は中世の陰惨な残虐的行為を照らしだしていますが、しかし、そのような残虐行為は、エジャ・スタニスラフ・レッツの言葉によれば、いつの時代にも存在します。
 異端審問は時代が変われば、当然ながら形式も変わり、指導者のシンボリックな名も、トルケマダ、ヒトラー、スターリン……と変わります。
 これに関連して、以前の異端審問はその後の異端審問より「まし」だったという声を、ことに最近よく耳にします。
 その場合、「有力な」論拠として引用されるのは、異端思想の祭壇に捧げられた犠牲者の数です。罰当たりな論理だと言わねばなりません。もちろん、規模はそれぞれ違いますが、人間の人格に対する残酷な弾圧であるという本質においては変わりません。
 グリゴーリイ・エフィーモヴィチ・ラスプーチン
 一八七一、二年ころ―一九一六年。ロマノフ王朝の末期、皇室に取り入った怪僧。
 トルケマダ
 一四二〇年―九八年。残虐をもって知られるスペイン宗教裁判所の異端審問官。
4  池田 仏法では、人々の生命の境地を、大別して十段階に分けて説いています。それを下から上へ――獣性から神性へ、と類推しても結構です――列挙してみますと、第一に「地獄界」とは、苦しみに押しつぶされ身動きのとれない状態、第二に「餓鬼界」とは、身も心も激しい欲望のとりこになっている状態、第三に「畜生界」とは、強きを恐れ弱きをあなどる本能につき動かされている状態、第四に「修羅界」とは、つねに他人に勝ろう勝ろうとしている自己中心の状態、をさします。
 これを仏法では四悪趣(四つの苦しい境界)と呼び、これに支配されると、人間として最低の生き方を余儀なくされてしまうとするのです。
 これを脱して、だんだんと人間らしい、そして崇高な生き方へと進みます。そのステップとして、第五に「人界」とは、平静に物事を判断する生命状態、第六に「天界」とは、歓喜に満ちた生命状態、さらに第七の「声聞界」、第八の「縁覚界」とは、ともに一定の悟りはあるものの個人の枠にとどまっている状態、第九の「菩薩界」とは、自分のことだけにとどまらず、民衆救済の慈悲の実践へと踏みだしていく生命状態、そして最後に「仏界」、つまり、円満にして自在の完全なる悟りの状態にいたるのです。
 大切なことは、自己の生命の基底部が、どの境界に属しているかです。
 あなたの挙げたラスプーチンやトルケマダ、ヒトラー、スターリンなどに見られる神がかりや誇大妄想は、「内なる神」と自己を同一化したと言っても、その神は神性とは似て非なるもので、仏法で言うところの「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」のどこかに住しているのです。
 彼らは、「内面へのはるかな旅」に耐えきれず、途中で挫折してしまったか、あるいは「内面への旅」などという、人間がより善き人間であろうとする自省能力とは、最初から“縁なき衆生”であったかの、どちらかなのです。
 トルストイの「神の王国はわが胸中にあり」との叫びは、いうまでもなくこれとは対極に位置しております。それは『クロイツェル・ソナタ』などにくっきりと描き出されているように、人間が神性、聖性なるものを求めて、限りなき自己開発と向上をつづけていく、透徹した理想主義でした。
 これこそ、「内面への旅」の正道であり、めざすところは、仏法で説く「菩薩界」「仏界」に通じていくのです。
5  アイトマートフ よくわかります。そこで、結論です。
 たしかに、神への道は各人にとって自分から始まりますが、しかし、神が個人の利用のためのみにとどまるならば、すなわち、私たちの「自己の内部」にあって「自己のため」のみの存在であるならば、善へのこの「私有財産的な」道の行き着く先は、営利目的のための神の悪用であり、個人生活と社会生活におけるさまざまな不公平と抑圧の合理化以外の何物でもないでしょう。
 しかし同時に「神」は、具体的な人間の「自我」という主体の外に存在することはありません。このような考え方はきっと多くの強い反発を呼ぶことでしょう。
 ――神は我々に関係なく存在しているのであって、むしろ我々のほうこそ生まれてから死ぬまで、完全に神に従属しているのだ。いや、やはり我々一人一人にとって神が存在しているのは、我々自身が生きている間だけなのだ――。残念ながら、これが人間と神の関係性の弁証法なのです。
 問題はもっと別のことだと思います。つまり、個人を経由して神の概念を、万人にとって単一であり、しかも万人が一つになれる「神」という普遍的・総体的な概念へ転化させることです。
 さらに言えば、あなたが私たちの対談のこの部分を「内面へのはるかな旅」と名づけたことの意味が私にはわかるような気がします。自己の内面へのこの旅は、宇宙そのものと同じように果てしないものです。
 そうです、それは自分の精神の無限の向上を通じて神に近づくことです。その道には、あなたが、適切にもトルストイの『クロイツェル・ソナタ』に言及されたように、果てしがありません。
 理念としては、いかなる時代においても人間一人一人の生活はそのようなものでなければなりません。しかし、だれも終点には到達できないのです。

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