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日蓮大聖人・池田大作

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ドストエフスキーの宗教観  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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8  池田 「借り物」ではなく、自分自身で選び取った心の中に生きる喜び、わが内なる精神の大地に深く根を張るがゆえに、いかなる風雨にも揺らぐことのない「真理の大樹」を仰ぐ幸福――人生の至福の一つです。
 そうした人生を求めて進む「求道者」のイメージは、かの『カラマーゾフの兄弟』の末弟アレクセイ・カラマーゾフの姿を思い起こさせます。
 彼、アリョーシャ(アレクセイの愛称)は、あたかもその両腕に大地を抱きしめんばかりの情熱で真理を求め、愛しゆく。真理に到達するためには、自身のすべてを投げ出してもかまわない――そんな若き求道者として描かれています。
 しかも狂信や陰鬱な苦行者といったイメージとは無縁の、彼の健全さ、明朗さ、誠実で真摯な振る舞い。ドストエフスキーが、登場人物をして、繰り返し「天使」とすら賛嘆させているように、その求道の魂には、「純なるもの」という意味での、「完き信」「全一なる信」という言葉こそふさわしい。
 その清澄な心は、たとえば「聖書にも『もし完からんと欲せば、すべての財宝をわかちてわれの後より来たれ』と言ってある。で、アリョーシャは心の中で考えた。『自分は“すべて”の代わりに、二ルーブリ出し、“我の後より来れ”の代わりに、祈祷式へだけ顔を出すようなことはできない』(=“ ”は原文中では「 」)」(前掲書)といった言葉に、見事に描かれております。
 その上、彼は、煩悩の深淵をさまよう父親と長兄、鋭利な無神論者の次兄などとの葛藤を繰り返しながら、自分の内面をさらに深く掘り下げていきます。
 現実の懊悩に直面し、それへの回答をみずからの胸奥に問いかけつづける中で、それまでの「愛すべきアリョーシャ」の相貌に、人生の別の彩りが加わっていく。アリョーシャは、経験の旅の重さゆえにはるかな飛躍をとげた人格、いわば新しいアリョーシャとして生まれ変わっていく。「求道の炎」ゆえの、この「内面への旅」「信仰の内面化の旅」――ここに、『カラマーゾフの兄弟』が提示する重要なテーマの一つがあると言ってよいでしょう。
 つまり、真理とは、夢のかなたにあるのでも山の奥深くにあるのでもない。苦楽と愛憎織りなす「現実」の中にある。人は、そのただ中へ飛び込んでこそ、自分自身を打ち鍛えていくことができる。真理を、一つ一つ確認し、再発見し、真に自分のものとしていくことができる。それがアリョーシャに具現されているのです。
 修養のため、アリョーシャは、いったん修道院をあとにします。その彼に長老ゾシマは、「人々を和解させ、結び合わせていく」人間としての成長を期待しました。
 現実との格闘の中に真理の発見はある。それはまた、他者と自己の内面を貫き結ぶ、「普遍」の発見の旅でもある。してみれば、ゾシマが示した「愛し能わざる苦悩」であるところの「地獄」を克服しゆく鍵も、アリョーシャのこの「内面への旅」「信仰の内面化への旅」というテーマにこそ、隠されているのではないでしょうか。
 周知のとおり、ドストエフスキーは、その後のアリョーシャを描く、『カラマーゾフの兄弟』の続編を構想していました。その中で彼が、この「内面への旅」というテーマを、どう展開していこうと考えていたのか、内なる魂の世界と、外なる「カラマーゾフ的」現世との間に、どのような架橋を構想していたのか、人間完成への果てない道程を凝視する文豪の眼光に、興味は尽きません。

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