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日蓮大聖人・池田大作

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子どもたちへのまなざし  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
3  池田 ユートピア的で極端なものの考え方が、いかに旧ソ連の全域を重苦しく覆い、人々をがんじがらめに呪縛しつづけたかに思いを馳せると、その悲劇は途方もなく、思わず溜息をつきたくなります。
 先のシャフナザーロフ氏(ゴルバチョフ元大統領補佐官)が「イデオロギーはわが国のすべての領域を埋めつくし、おそらく世界史上例を見ないくらい、すみずみにまで入りこんだ」(『世界週報』一九九〇年四月二十四日号)と述べているのは、少しも誇張ではないでしょう。
 しかし、私はそうしたイデオロギー教育が、何かを鋳型にはめこむように、どこまで人間を作り変えることができるかという点については、はなはだ疑問に思っております。イデオロギーに都合の良い“ホモ・ソビエチカ”(ソビエト的人間)の大量生産に成功したように見えても、人間性の“根”の部分は、案外変わっていないのではないでしょうか。
 まだ、人格の固まっていない子どもたちの場合、比較的イデオロギー教育がやりやすいように思われがちであり、したがってソビエト政権も教育には異常なまでに力こぶを入れたわけですが、私は、その効果についても、いささかまゆつばものだと思っております。子どもの本質は、想像以上に不変なのではないでしょうか。
 アンドレ・ジッドの『ソヴェト旅行記』は、その結尾に、ベスプリゾールニクと呼ばれる浮浪児とのセヴァストポリでの“交流”を紹介しています。彼らは、ヴィクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』の中で描き出しているパリの不良少年たちを彷彿させるように、生き生きと躍っていて、どんなに暮らしが逼迫しようとも明るさを失わない子どもらしさが発散しています。
 なかでも――。八歳になるかならないかの幼い子が、二人の私服警官に連れられていく。子どもは泣きながら、捕らわれた獣のように暴れ、かみつこうとしながら引きずられていく――。それから一時間ほどして、その辺を通り合わせると、くだんの子どもは歩道の上に座り、にこにこしながら、警官の一人と話し合っていた。そのうち、運送車が来て、警官が子どもの手をとって乗せてやり、どこかへ走り去っていった。
 そして、ジッドは書いています。
 「私がここで、こんな小さな出来事を話すのは、ソヴェトにきてから、この巡査がこの浮浪児にたいしてとった態度ほど私の心をつよくうったものは稀だったからである。あの噛んでふくめるような、もの優しい言葉(どんなに私は、彼の言っていることをわかりたく思ったことだろう!)、あの微笑のうちにこめられた慈しみの心、両手で子供を抱きあげたときのあやすような温情。……
 そのとき、私はふとドストエフスキーの〈百姓マレイ〉(私たちは、マレイについて、前々項で語り合いました・池田注)を思い浮べた。そして、これを見ただけでも、ソヴェトに来た甲斐があったと思ったのである」(小松清訳、新潮文庫)と。

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