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日蓮大聖人・池田大作

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子どもたちへのまなざし  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  アイトマートフ あなたのご意見に賛成したいのはやまやまですが、残念ながら、あなたが引用していらっしゃる事柄に対立する多くの事例があるために、私には「ソ連では子どもが愛されている」というような断定的な結論を下すことはできません。同意したいのですが、しかしその子どもへの愛も、イデオロギーの提灯持ちだったのです。
 子どもへの愛……。
 この問題は、社会的な、そして道徳的、哲学的な意味をもってきていると思います。なぜならば、ロシアの作家アンドレイ・プラトーノフが子どもをさして言った言葉を借りれば、「小さくて陽気な人類」に対する特定の社会全体の態度を肯定も否定もしているからです。
 私はこの点について重大な疑いをもっています。今日、どの新聞を開いてみても、親に棄てられた孤児の話、養護施設で、それでなくてさえ困窮している子どもたちを食い物にしている泥棒監督官の話、幼児や青少年に対する虐待の話などが目につきます。そのような例は枚挙にいとまがありません。
 これはいったい、例外的な現象なのでしょうか? それにしては数が多すぎます。しかし、よく知られているように、子どもの一粒の涙で、すべては明らかになります。
 偽りの約束と、その偽りの暴力的な主張にもとづく無責任なユートピア、そのユートピアの上に築かれた、病的で異常な社会における子どもの心の悲劇を非妥協的に示すことは、それがいかに苦痛であろうと、目のうろこを落とすためにも、私たちの子どもの未来のためにも、どうしても必要です。
 初め、私たちは「すべての良きものを子どもたちへ!」「ソ連の子どもは世界で最も幸せである!」等々と心底から主張していた、と言ってさしつかえないと思います。しかし、それもまた厚顔無恥な欺瞞でした。その種の主張はその根底においてユートピア的であり、観念論的であり、自己満足と気休めの産物でした。そして、つまるところ、「ソビエト的生活様式」の宣伝のためだったと思います。
 いちばん恐ろしいことは、国家が、「新しい人間」の製造をなんと幼稚園から行っていたということです。それは人格に対する抑圧であり、遺伝というきわめて神聖なものへの――もっとも、わが国では遺伝学は似非科学として認めていませんでしたが――乱暴な干渉でした。
 現代の子どもが、考えをもたないロボットになることを余儀なくされ――彼ら自身はそのことを理解していないにしても――、大人の行事と政治的儀式等々を模倣することを余儀なくされ、そのことによってどれほど大きな苦しみをなめなければならなかったことでしょう。その苦しみを文学で描ききることができるかどうか、私には自信がありません。ともかくこれは、二十世紀の恐るべきミステリーであり、悪魔への奉仕です!
 これだけははっきりしていることですが、人道的な社会を復活させるための主要な問題の一つは、子どもに対する考え方を変えることです。その要は何でしょうか。思いますに、まず第一に子どもを理解することです。それから自然な心の発露としていとおしむことです。
 未成年者は何よりもまず人間として見てもらうことを望んでいます。そして他人の中に人間を見ることのできる者は、自分自身が人間である者だけです。あなたの質問はこのように方向を変えることができると思います。
 アンドレイ・プラトーノフ
 一八九九年―一九五一年。
3  池田 ユートピア的で極端なものの考え方が、いかに旧ソ連の全域を重苦しく覆い、人々をがんじがらめに呪縛しつづけたかに思いを馳せると、その悲劇は途方もなく、思わず溜息をつきたくなります。
 先のシャフナザーロフ氏(ゴルバチョフ元大統領補佐官)が「イデオロギーはわが国のすべての領域を埋めつくし、おそらく世界史上例を見ないくらい、すみずみにまで入りこんだ」(『世界週報』一九九〇年四月二十四日号)と述べているのは、少しも誇張ではないでしょう。
 しかし、私はそうしたイデオロギー教育が、何かを鋳型にはめこむように、どこまで人間を作り変えることができるかという点については、はなはだ疑問に思っております。イデオロギーに都合の良い“ホモ・ソビエチカ”(ソビエト的人間)の大量生産に成功したように見えても、人間性の“根”の部分は、案外変わっていないのではないでしょうか。
 まだ、人格の固まっていない子どもたちの場合、比較的イデオロギー教育がやりやすいように思われがちであり、したがってソビエト政権も教育には異常なまでに力こぶを入れたわけですが、私は、その効果についても、いささかまゆつばものだと思っております。子どもの本質は、想像以上に不変なのではないでしょうか。
 アンドレ・ジッドの『ソヴェト旅行記』は、その結尾に、ベスプリゾールニクと呼ばれる浮浪児とのセヴァストポリでの“交流”を紹介しています。彼らは、ヴィクトル・ユゴーが『レ・ミゼラブル』の中で描き出しているパリの不良少年たちを彷彿させるように、生き生きと躍っていて、どんなに暮らしが逼迫しようとも明るさを失わない子どもらしさが発散しています。
 なかでも――。八歳になるかならないかの幼い子が、二人の私服警官に連れられていく。子どもは泣きながら、捕らわれた獣のように暴れ、かみつこうとしながら引きずられていく――。それから一時間ほどして、その辺を通り合わせると、くだんの子どもは歩道の上に座り、にこにこしながら、警官の一人と話し合っていた。そのうち、運送車が来て、警官が子どもの手をとって乗せてやり、どこかへ走り去っていった。
 そして、ジッドは書いています。
 「私がここで、こんな小さな出来事を話すのは、ソヴェトにきてから、この巡査がこの浮浪児にたいしてとった態度ほど私の心をつよくうったものは稀だったからである。あの噛んでふくめるような、もの優しい言葉(どんなに私は、彼の言っていることをわかりたく思ったことだろう!)、あの微笑のうちにこめられた慈しみの心、両手で子供を抱きあげたときのあやすような温情。……
 そのとき、私はふとドストエフスキーの〈百姓マレイ〉(私たちは、マレイについて、前々項で語り合いました・池田注)を思い浮べた。そして、これを見ただけでも、ソヴェトに来た甲斐があったと思ったのである」(小松清訳、新潮文庫)と。

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