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日蓮大聖人・池田大作

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母性へのイメージ  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
6  キリスト教でいえば愛、仏教でいえば慈悲といった主たる宗教感情が、しばしば母の子に対する情愛になぞらえて語られるのは、大きな意味があるのです。涅槃経という経典には、次のような「貧女」の話が出てきます。
 ――一人の貧女がおり、住むべき家もなく、救護してくれる人もなく、その上に病苦と飢渇に責められてさまよい、物乞いをして歩いた。
 そうした折、ある宿に泊まり、子どもを産んだ。ところが、その宿の主人はこの貧女を追い出してしまった。産後日もたっていないのに、赤子を抱いて他国へ行こうとしたが、その途中で暴風雨にあい、寒さと苦しみに襲われ、多くの蚊や虻や蜂や毒虫に悩まされつづけた。そうした苦難の折、大河にさしかかって子どもを抱いて渡ろうとした。水は急流であったが、なおも子どもを放ち棄てることなく、ついに母子ともに没して、おぼれ死んでしまった――と。(『大正新脩大蔵経 第十二巻』参照)
 そうした哀れな「貧女」であったが、子を愛し思う慈悲の心の深さゆえに、救済される、とあるのです。こうした比喩からも、母性愛が、いかに大きな可能性を秘めているかを察することができます。その大きな可能性を、“宝の持ち腐れ”にして、あたら一生を空しく過ごしているケースが多すぎます。
 自己放棄――何ならニーチェ流に自己超克と言い換えてもよいのですが――なんと素晴らしい言葉でしょう。それは、自己をないがしろにすることでは決してなく、より大きな自己、より新しい自己への脱皮であり、飛翔ではありませんか。仏教的に言うならば「無我」ではなく、「小我」から「大我」への大いなる自己拡大ではありませんか。
 女性は、男性に比べて、そうした宗教的な感情にはるかに鋭敏であるはずなのに、男性と肩を並べるに急なあまり、母性の偉大さが軽んじられているのは、何よりも子どもたちにとって、寂しく、残念なことです。

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