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日蓮大聖人・池田大作

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母性へのイメージ  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  アイトマートフ そのとおりです。しかし強調したいことは次のことです。つまり、真のリアリズム作家として、あくまで人生の真実を追究していたトルストイは、人間個人の運命のみならず、社会や国民全体の運命を支配するものは何かという、その選択の異常なむずかしさと、にもかかわらずその選択は不可避であることを理解していたということです。
 そのために、トルストイの場合はつねにそうであるように、主人公は感情の嵐を、感情の天国や地獄を経験し、多くの誘惑を乗り越え、精神的、肉体的破局におちいり、援助はどこからも期待できず、何をも当てにできないような状態に落ち込むのです。
 そこで、たとえば、ナターシャを生活の真実へと導いたものは何だったのでしょうか? 彼女の曇りのない心です。その心がつねに感受性の強い熱しやすい若い娘を守り、より高くより深いもののために、すなわち彼女の真の願望や使命を実現するために、彼女を守っていたのです。彼女は真の願望や使命を自分自身の苦悩をとおして達成しなければなりませんでした。
 私が言いたいのは次のことです。トルストイの教訓は、彼がみずからの主人公に自己認識と自己完成の困難な道を歩ませながらも、彼自身は、社会の全体としての道徳的雰囲気がいかに重要であるかということ、個性の萌芽期に家庭で始まる教育が、人間のその後の人生および運命においてどれほど大きな役割を演ずるかということを確信していて、それを私たちに悟らせようとしたことにあります。その教育とは、人間の心に知性の意味と、相互の感謝の念の中で種の存在を維持することの意味を、明確に理解させるという永遠の目的をもったものです。
3  トルストイの小説のヒロインが最後に母性の中に幸福を――しかも最高の幸福を――見いだすということは、たんに女としての、いわば、「正常な」生活と使命の図解であるだけではありません。母性の本能、生まれながらの欲求が精神性の極致にまで高められ、そこにおいて女性はみずからの内に秘めた本質を、あえて言えば、母という名の最高の称号を得るのです。
 母は自然界と融合します。なぜならば、母性こそ自然以外の何物でもないからです。その子どもたちのおかげによって、母親は何にも例えられない不死の感情を味わうことができるのです。
 しかし、近代は母性の地位をゆがめ、踏みにじっていると言わざるをえないと思います。残念なことに、母親がそれも普通、初産の若い母親が新生児を棄てることが、社会的不幸となって増大しつつあります。
 どの都市にも、棄てられた幼児の収容施設、いわゆる「幼児の家」が開かれています。破壊的な社会的諸原因が生んだ主要な結果だということはわかります。しかし、にもかかわらず、これは時代の兆候であり、より正確に言えば、時代の呪いです。
 以前は、私の子ども時代には、母親が自分の子どもを見棄てるなどということは、聞いたこともなく、また、考えられないことでした。母親が子どもを守りきれなかったこと、育て上げきれなかったこと、また飢饉や困窮の時に子どもとともに死んだことはありえましたが、幼児を棄てたこと、神によって決められた絶対的な義務を放棄したことは、決してありませんでした。
 そのことに関して次のようなことが思い出されます。幼年時代と少年時代に、私は夏になるといつも叔母、つまり父の妹のいるキルギスの農村へ行って、夏休みが終わるまで過ごしていました。そこで私はほかの男の子ども同様に、子連れの羊を放牧地へ追っていく仕事をしていました。
 カラクィズ叔母さんの家には子連れの母羊が十頭ほどいました。時折、どうしたわけか、理由はまったくわかりませんが、お産をした母羊が自分の子どもを受け付けず、拒否するようなことがありました。そのような母羊は不幸な子羊を絶対に近づけず、打ち、角で突つき、子羊に乳を飲ませまいとして逃げ回るのでした。
 叔母にとってそれは本当に大悲劇でした。叔母はそこにこの世の終わりを、神の罰と怒りを見ていました。
 叔母は目に涙を浮かべて、まじないの言葉で子を捨てた羊を「諭そう」としました。何かつぶやきながら、羊の首にお守りをぶら下げたりもしました。
 そして、夜には、叔母は、かまどの前で自分の悲しみや物思いに沈みながら、天に向かって、この世に何が起こったのでしょうか、だれかが神を汚したのでしょうか、正義を踏みにじったのでしょうか、どこかで山が崩れたのでしょうか、川が逆流したのでしょうか、天の星が消えたのでしょうか、お日さまが暗くなったのでしょうか、月が病気にかかったのでしょうか、風が息絶えたのでしょうか、等々と本気になって問いつづけていました。さもなければ、羊といえども母が自分の産んだ子を拒むなどということは信じられなかったからです。
4  当時は人間にとって、これは、それほどの重い意味をもっていました。
 もちろん、私は、過去と現在をこのように比較することが適当だとは思っていません。とは言っても……。
 エゴイズムは現代文明を貫いています。自分のためにのみ生きようとする希求、自分の満足感のみを満たそうとする希求は、つまるところは、疑わしいものであって、この点を黙殺したり、歴史の厳しさを理由に利己主義を正当化したりしてはなりません。
 母はつねに「無償の愛」のシンボルです。私だったら、さらに、「献身的な」という言葉を付け加えたいと思います。しかし……母は自己を否定しながら、その子どもの姿において万人を、全世界を手に入れます。子どもの中には、親の人生ではなぜか開花しなかった最良の特質が体現されている、と信じたいものです。私たちの子どもが私たちよりも良い人間になってほしいと願うことは無益なことではありません。
 その意識が私たちを鼓舞するのではないでしょうか? 私たちは、人間にふさわしい最高の喜びを、ほかならぬ私たちの子どもの中に見いださなければならないのではないでしょうか?
5  池田 東京の都心で、ここ数年、一つの風物詩になっていることがあります。
 夏のある時期がくると、ビルの谷間にある小さな池にカルガモの母鳥がやって来るのです。彼女はそこで卵を産み、孵化させ、子育てをするのです。そして秋になり、子ガモが大きくなってくると十羽前後のチビっ子を引き連れて、それこそ“カルガモ一家のお通り”とばかり、大通りを横切って、隣接する皇居のお堀へと移住するのです。
 その子育ての様子や、子ガモを引率している姿がまことに愛くるしく、新聞やテレビが大きく報道したり、野次馬が遠まきに見物したり、一時はたいへんな騒ぎでした。
 このようなほのぼのとしたニュースが話題をさらうということは、逆に言えば、社会がそうした母子の情に飢えているとも言えるでしょう。実際、アクバラではありませんが、カバにしろ、トラにしろ、ライオンにしろ、動物たちの子育て、スキン・シップのやり方など、じつに愛情こまやかで、かえって人間が教えられる場合も少なくありません。
 ところであなたは、本能的な母性愛が、精神性の極致にまで高められていくところ、女性は子どもをとおして永遠性にふれる、と述べられていますが、たいへん正しく、そして貴重な指摘であると思います。エゴイズムとはおよそ対極にある、そうした母性愛、女性的なるものが最も光り輝いている母性愛は、声高な自己主張のみ目立つ現代文明が忘失している最たるものかもしれません。小さな自己を捨て、乗り越えることによって、大きな自己を獲得していくという、有史以来の人格形成の王道とも言うべきものです。
6  キリスト教でいえば愛、仏教でいえば慈悲といった主たる宗教感情が、しばしば母の子に対する情愛になぞらえて語られるのは、大きな意味があるのです。涅槃経という経典には、次のような「貧女」の話が出てきます。
 ――一人の貧女がおり、住むべき家もなく、救護してくれる人もなく、その上に病苦と飢渇に責められてさまよい、物乞いをして歩いた。
 そうした折、ある宿に泊まり、子どもを産んだ。ところが、その宿の主人はこの貧女を追い出してしまった。産後日もたっていないのに、赤子を抱いて他国へ行こうとしたが、その途中で暴風雨にあい、寒さと苦しみに襲われ、多くの蚊や虻や蜂や毒虫に悩まされつづけた。そうした苦難の折、大河にさしかかって子どもを抱いて渡ろうとした。水は急流であったが、なおも子どもを放ち棄てることなく、ついに母子ともに没して、おぼれ死んでしまった――と。(『大正新脩大蔵経 第十二巻』参照)
 そうした哀れな「貧女」であったが、子を愛し思う慈悲の心の深さゆえに、救済される、とあるのです。こうした比喩からも、母性愛が、いかに大きな可能性を秘めているかを察することができます。その大きな可能性を、“宝の持ち腐れ”にして、あたら一生を空しく過ごしているケースが多すぎます。
 自己放棄――何ならニーチェ流に自己超克と言い換えてもよいのですが――なんと素晴らしい言葉でしょう。それは、自己をないがしろにすることでは決してなく、より大きな自己、より新しい自己への脱皮であり、飛翔ではありませんか。仏教的に言うならば「無我」ではなく、「小我」から「大我」への大いなる自己拡大ではありませんか。
 女性は、男性に比べて、そうした宗教的な感情にはるかに鋭敏であるはずなのに、男性と肩を並べるに急なあまり、母性の偉大さが軽んじられているのは、何よりも子どもたちにとって、寂しく、残念なことです。

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