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日蓮大聖人・池田大作

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作品に見る民衆像  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
2  アイトマートフ たしかに、民衆という定数(コンスタント)は大きなものです。人々は何かとくに重要なことを言わなければならないときには、いつもこの概念に目を向けます。民衆は伝統的に真理と正義の担い手とみなされています。しかし、この点に関しての悪用も少なくありません。民衆の名において実際に誓ったり、裁判を行ったり、警告したり、憤慨したり、感謝したりしています。
 しかし、同時に、だれもが知っていることですが、民衆の中にもさまざまな人間がいます。運命に感謝したくなるような人々もいれば、その野蛮さ、残酷さのために、地の果てにまで逃げだしたくなるような人々もいます。
 文学において、芸術的描写の対象としての民衆は、最も主要なテーマであり、しかもだいたいにおいて、心に安らぎをもたらすテーマだということができます。そのさい、それぞれの作家にはその作家なりの経験と信念があります。
3  池田先生、あなたは民衆像について話されながら、ドストエフスキーの幼年時代のマレイという農民との出会いについてのエピソードを思い出されました。それとの関連で、ちょうど良い機会なので、私自身の少年時代の一つの忘れがたい出来事の思い出を、お話ししようと思います。
 できるだけ詳しく話そうと思います。あの苦しかった戦争時代に、私がこともあろうに殺人を犯そうとしたというようなことが、どうして起こりえたかを知ってもらうためです。
 その冬、一九四三年の二月の初めに、私たちの家族は大きな不幸に見舞われました。ここでは、ひもじさだとか、貧しさだとか、戦争がどうのこうのということは言いません。それはすべてわかりきったことです。ただ、以上のことに加えて、私たちは追われる者たちの家族であり、スターリン体制によって弾圧された「人民の敵」の子どもだったということを考慮に入れておく必要があります。
 病人である私たちの母のその病気――生涯つづいた慢性関節炎――の原因は、おそらく父親が銃殺された一九三七年のショックだったろうと思いますが、その母は四人の子どもをかかえていました。私が最年長で十五歳、弟と二人の妹は小学校の低学年の児童でした。
 戦争が始まると、母は私たちを飢えから守るために、地区の町でのそれまでの経理の仕事をやめて、ある小さなコルホーズの会計係に就職しました。私たちが移り住んだ村は、今でもジーデ村と呼ばれています。私たちは持ち主のいない、半ば崩れかかった土小屋に身を寄せました。家畜用の小屋がないために、私たちは、私たちの養い手として乳を飲ませてくれる牛――その牛の名前がズフラであったことは、今でも覚えています。それは戦争直前に親戚がくれたもので、もらった時はまだ小さな子牛でした――を、その冬はコルホーズ議長の許可を得て、コルホーズの牛舎で飼っていました。
 このようなことをお話しするのは、その牛が私たちにとって命にかかわるほど重要だったということを説明するためです。
 その牛なしには生き延びることのできないことは、私たち子どもにもわかっていました。私たちは一日中牛舎で過ごし、牛に餌をやり、水を飲ませ、隣近所を回ってはさまざまな食べ物の残りかすを集め、それをかいば桶へ運び、そのようにして私たちは牛にお産の準備をさせていました。
 家では話といえば、早く春が来ないかなあ、そうすればしぼりたての牛乳が飲める、コテージチーズやサワークリームが食べられる、というようなことばかりでした。
4  その日の夜明けの、まだ薄暗い冬の朝、私は牛の様子を見るために、いつもより早く起きて、突風の吹く中を牛舎へと出かけて行った時のことを今もって忘れることができません。
 私は一番に着きました。その時間には飼育係の人はまだだれも来ていませんでした。私は初めのうち、どうして私たちの牛がいつもの場所にいないのかが理解できませんでした。牛舎の仕切りの中は空っぽでした。牛の綱は入り口の隅に落ちていました。門は昼も夜も開いていました。半ば壊れていたからです。ふだんは様子を見に行くと、私たちのズフラが遠くから私たちに、つまり、面倒見の良い主人に気がついて、訴えかけるようによく鳴き声を上げたものでした。
 牛がいつもの場所にいなかったので、私は初めは牛が綱を解いて、牛舎のどこかへ入り込んでしまったのかもしれない、と思いました。しかし納屋にも、牛舎にも、どこにもいませんでした。そこで私は夜警のところへ駆けていきました。番人は隅の干し草の上で眠っていました。その年寄りの番人は何も知りませんでした。あるいは、何のことかさっぱりわからないという振りをしていました。
 うちの牛はどこへ行ったのでしょう、という私の問いに、その老人は何も答えることができませんでした。そして、もしかしたら、綱が解けて、野原へさまよい出てしまったのかもしれない、と言いました。
 その時から私は不安に取りつかれました。私はあたりを駆け回り、窪地をのぞき、いつも牛を水飲みに連れていく川までも行ってみました。しかし、私たちのズフラはどこにもいませんでした。そんなに朝早く牛が建物の外へ出ていくわけがありません。私は牛が盗まれているという不幸が起こったことを悟りました。私は家へ駆け戻って、母にそのことを知らせました。
 その時から私たち一家にとって世界は崩れ落ちて、お先真っ暗になりました。もはや疑う余地はありません。牛は盗まれたのです。泥棒に盗まれたのです。家では皆が完全に途方に暮れて、泣きわめくだけで、どうしていいかわかりませんでした。
5  誇張なしに、それは私たちにとって大悲劇でした。四人の小さな子どもと、喘息にあえぎ、関節炎に苦しむ病気の母、それに独りっきりになってしまって私たちと一緒に暮らしている、母の姉の、やはり病人のグリシャ伯母さん――伯母の夫はやはり弾圧され、十八歳になる息子は召集されて戦場へ行っていました――だけです。
 近所の戦死した夫をもつ女性たちが駆けつけて来て、やはり嘆き悲しみ、私たちに同情してくれましたが、できることはただ一つ、悪党を呪い、神に祈って、彼らの「頭上に悪い日」をもたらすことで彼らを罰してくれるように頼むことだけでした。
 今でも覚えていますが、その時私の心に、奇妙な、激しい決意がむらむらと湧き上がってきました。
 私は子どもたちの中で最年長でした。妹や弟を守らねばならず、私は行動を起こさねばならず、あがき、戦って、私たちの悲しみに対して復讐しなければなりませんでした。そして当時の私の意識では、そのことはただ一つのことを、つまり泥棒を殺すことを意味していました。私はすぐ隣に住むトラクター運転手のテミルベックのところへ行きました。
 ――去る一九九〇年秋、彼が七十七歳で亡くなったことを、私はタラスの同郷の人の話によって知りました。安らかに眠られるよう祈らずにはいられません――
 テミルベックと私とは同じ仕事で結ばれていました。
 その前の秋の間じゅう、ずっと私は彼のところで秋蒔き用小麦のための耕作で、助手として水運びをしていました。テミルベックは私たちの村全体でただ一人のトラクター運転手で、今でもよく覚えていますが、エム・テー・エス(機械・トラクター・ステーション)が私たちの村の農作業のために割り当ててくれた、たった一台の車輪トラクター《XT3》を操縦していました。
 一台のトラクターとそれにつける一台の犂――それが、当時の私たちの機械化農業のすべてでした。しかも、その作業手順の中には、トラクターが一回り耕して戻ってくると、そのラジエーターに水をかける仕事が入っていました。その仕事をしていたのが私です。
 バケツで遠くまで水を汲みに行って、トラクターが畑を一回りする時までに、戻って来なければなりません。辛い仕事でした。でも私はがんばりました。というのは、トラクター運転手と私には食事が与えられたからです。それが最大の関心事でした。
 テミルベックはトラクター運転手として召集を免除されていました。やはりその面でも村全体で唯一の人間でした。無理もありません。たった一人のトラクター運転手を戦地へやってしまったら、畑が耕せなくなってしまうからです。
6  というわけで、その朝、私は怒りと決意で胸がはちきれる思いをしながら、テミルベックの家へ銃を借りにいきました。それは以前に、夜の間、畑で灯油入りの樽の番をしたときにテミルベックが私に貸してくれた猟銃でした。
 彼の家へ行くと、彼は病気でした。ひどい熱でした。汗びっしょりで、苦しそうに息をしながら、寝床に寝ていました。テミルベックはすでに私たちの災難を知っていました。私が、銃を貸してくれ、と頼むと、断らずに、「いいよ。持って行け。あそこの壁に掛かっている。弾丸は袋に入って、そばの釘に掛けてある。おれが病気でさえなければ、自分で出かけて行って、やつらに出会ったら、ぶち殺してやるのに!」と言いました。
 私は銃を手にし、復讐の念に燃えながら、テミルベックの家を出ました。それは悲しみと憎しみの荒れ狂う、激しい感情で、私には他のことは何も考えられませんでした。悲しみにうめく私の心を貫いていたのは、なんとしてでも泥棒を見つけだして、徹底的に罰してやる、というただ一つの考えでした。
 そのような恐ろしいもくろみは、牛泥棒はまだ遠くへは行けまい、という計算から出ていました。牛は馬ではないので速くは駆けられない。連中は、移動するとすれば、夜に決まっている。昼だったら他人に気づかれてしまう。連中は暗くなるまでどこか人目につかない場所に隠れているだろう。あるいは、もしすでに牛を殺してしまっているとすれば、肉を隠して、自分らはどこかで眠っているだろう、と思いました。
 そして、もう一つ、私の怒りをさらに激しくしていたのは、連中が、このよそ者の家族には追跡できるような人間は一人もいまい、と考えているにちがいないということでした。ところが、私はそこへ銃を持って突如として現れ、連中が何人いようと、二人であろうが、三人であろうが、たちどころに狙い撃ちして、情け容赦なく、徹底的に皆殺しにしてやる。かならず、絶対にそうしてやる……。
 私は疲れを知らずに野原や谷間を歩き、狂ったように右往左往し、丘や山の麓を走り回りました。気温はかなり低かったのですが、私は寒さを感じることもなく、体はほてっていました。私は走りながら狼のように雪を食べました。そして、一足しかなくて、そのために弟と交代で履いていた靴をも容赦しませんでした。私は雪や岩の上を狂ったように駆け回りました。それでも疲れを感じませんでした。
 ついに大事な靴も破けて、時間は正午に近づいていました。どこにもだれをも発見できませんでした。あたりは何もなくて、人気がなく、物音一つしない冬の昼は重苦しく、耐えがたく感じられました。周囲には死んだような山々と、その間の空虚な空間しかありませんでした。泥棒はどこにも見えず、足跡もありませんでした。
 そこで私は考えました。もしかすると、いや、きっと牛泥棒はまっすぐに近くの町へ売りに行ったにちがいない、と――後に私はその町の獣医専門学校で学ぶことになりました――。たしかに、連中は牛を町へ連れて行ったにちがいありません。そこで解体して、肉をバザールで売るためです。
 そう考えると、私はますますいまいましくなり、復讐心がますます募って、あまり深く考えずに、町のほうへと向きを変えました。たとえ一晩中休みなく歩きつづけたとしても、町に着くのは翌日の朝になってしまいますが、私はためらうことなくその道を歩きぬくつもりでした。
 私は急いで山の麓を降り、町へ通ずる街道へと向かいました。町へ着いたら、そのまま朝早くからバザールを回り、一人一人の顔をのぞき、内臓を抜かれたうちの牛の皮をかならず見つけてやる、いや、たとえそれがなくても、顔や目を見ただけでだれが泥棒であるかを間違いなく見抜いてやる、と思っていました。
 どうしてそれができるかは自分にさえも説明できませんでしたが、間違いなく悪党を見分けることができるということは信じて疑いませんでした。また連中も私に気づくにちがいありません。しかしその時はもう遅いのです。私は肉の売台の向こうにいる連中をたちどころに射殺します……。
7  そのようにして私は銃を手にし、一向に衰えない復讐の念にせきたてられながら、すでに街道を歩いていて、考え事に熱中するあまりすぐには気づきませんでしたが、突然、ロバに乗った人と出会いました。
 ありふれた田舎の老人がどこかへ向かっていたのです。みすぼらしい身なりに、擦り切れた、しかし暖かそうな帽子をかぶった白い顎鬚の老人を乗せた灰色のロバが通り慣れしているらしい道をゆっくりと歩いていました。
 老人は古い、見捨てられた墓地のほうから来て、私たちはすれ違うことになったのです。当然、そのような時は挨拶をすべきなのですが、私はその挨拶もしませんでした。それどころではありませんでした。心は腹立たしさでいっぱいでした。黙って通り過ぎようとした私を老人が呼び止めました。
 「おい、お若いの、おまえはだれかを殺しに行こうとしているのではないかね?」「そうです。殺したいのです!」。私はどうしてか、その質問に少しも驚くことなく答えました。私たちの目と目が合いました。そこには憔悴した顔と、穏やかな、温かいまなざしとがありました。
 老人はうなずきました。
 「そういうことなら、急ぎなさるな。ちょっと待ちな。話をしよう。どうして殺そうと決めたのかね?」
 「子どもが生まれる前の牛を盗んでいったんです。ぼくの家は四人の子どもがいて、僕がいちばん年上で、母さんも伯母さんも病気なのです」
 「そうなのか! それはたいへんなことだ。だけど私の言うことをよく聞きな。復讐心を燃やしてはいけない。人を殺してはいけない。たとえ想像の中でもだ。たとえ相手がいまわしい泥棒であってもだ」
 私は泣き叫びたくなる気持ちを抑えて、黙っていました。老人はつづけました。
 「おまえの気持ちはよくわかる。おまえを見ていると胸が痛む。骨さえもうずく。私は行きずりの老人にすぎないが、だけどこの私の言うことを聞いてくれ。人を殺しになど行ってはいけない! そんなことは考えてもいけない。
 家へ帰りなさい。そしていつまでも覚えていてもらいたいのだが、そういう悪いことをした奴は生活そのものによって罰を受ける。かならず罰を受ける。そのことは信じていい。罰が連中にしょっちゅうついてまわる。寝ても起きてもだ。
 だけど、おまえは、もしもこのまま家へ帰って、人殺しのことなど忘れるなら、幸せに恵まれる。幸せはおまえのところにやって来る。おまえはそのことに気がつかないかもしれないが、幸せはおまえの心の中に住むようになる。
 今のおまえには私の言うことなんかばかげていると思えるかもしれない。だけど、私の言うことを信じて、家へ帰りなさい。そのうちにいつか私の言うことがわかる時が来るだろう。その時は私のことを思い出すだろうさ。さあ、息子よ、家へ帰りなさい。そしてこのことをお母さんに話しなさい。さあ、お帰り。私も行かねばならない。いいね。人を殺すなんて絶対に考えてはいけないよ。どんなにひどいことをされてもね……」
8  私は老人の言葉に従いました。帰りがけに振り向くと、ロバに乗った老人は、もう後ろ姿しか見えませんでした。私は人気のない野原を帰って行きました。肩には前後の見境もなく持ってきた銃が載っていました。もうそれは無用の長物でした。太陽が雪をかぶった、何もない野原の上で輝いていました。
 私は自分に何が起こったのかわかりませんでした。私は急に大声で泣きだしました。肩を震わせて泣きました。私は破れてしまった靴を引きずりながら、身をよじって、激しく泣きつづけていました。私たちの不幸の復讐を遂げるために持ってきた銃は、肩に重くのしかかっていました。
 この出来事はその後、長い間忘れていましたが、つい最近になって、急に記憶によみがえってきました。すべてがあるがままに目の前に浮かんできました。街道で会った見知らぬ老人が私の記憶によみがえり、その老人の言葉が、ロバに乗って遠くへ消えていく老人の後ろ姿が、思い出されてきました。
9  池田 あなたは、一九九〇年の夏、ご一家で来日されたさい、創価大学における「文学と人生」と題する講演で、そのエピソードについてふれておられましたね。
 その時の感動的な様子は、長野県にいた私のもとへ、その日のうちに数人のメンバーから、やや興奮気味に伝えられてきました。学生たちは熱気に包まれ、目をキラキラさせながら熱心に聴き入っていたし、当日は通信教育の学生も参加していて、年配の婦人など、目に光るものが見られた。とくに、講演が終わったあと、ロシア語のできる学生が短いお礼のスピーチをした時、あなたがその学生を抱き寄せて祝福している様子に、そっと目頭を押さえる人が何人も見られた――と。
 あなたは、その講演を次のように結ばれていました。
 「(=見知らぬ老人とのエピソードは)ずっと忘れていたことだったんです。そして、池田先生からこのような質問を受けたとき(=本対談のこと)に、ふっと思い出して書くことにしました。なぜそうなったか、なぜ今、そのことを思い出したのかと言いますと、それまで池田先生の設問の中で、先生の文章にずっとふれ、また仏教のヒューマニズムの偉大なる考え方や、寛容の精神にふれてきて、それが私を刺激して、このエピソードを思い出させたのだと思います。
 少年時代に、小さなロバに乗った破れた服を着た、貧しいお爺さんに出会ったことが、私の人生の一つの大きな転機となったとすれば、いま、この年齢になって、池田先生に会ったことが、自分の人生の第二の大きな出会いになったと思います」
 私自身のことにふれていただいて恐縮しています。これで話が終わっているわけですが、起承転結のもっていき方といい、快い余韻のただよわせ方といい、優れた作劇法に魅せられているようなカタルシス(浄化作用)を感じたと、皆が異口同音に語っておりました。
 さて、幼いあなたが運命的な出会いをしたお爺さんは、私に、トルストイの名作『戦争と平和』に出てくるプラトン・カラターエフを想起させます。カラターエフは、ロシアの農民に流れている美質を、一身に体現したような典型的な庶民像として描き出されており、登場回数は少ないにもかかわらず、鮮烈な印象を残します。いうまでもなく、作者のトルストイが、プラトン・カラターエフに、英雄ナポレオンにも勝る、人間の英雄像を仮託していたからです。
 ともにフランス軍の捕虜になった主人公ピエールに、この無名の一農民は、忘れがたい印象を刻みます。『戦争と平和』の中でも、最も印象的な描写の一つです。
 「後日、(=捕虜の)ピエールには、彼らはみな霧の中の人のようにしか想像されなかったが、ひとりプラトン・カラターエフだけは、彼の心に永久に、最も力づよい、貴重な追憶として、またあらゆるロシヤ的な、善良円満の具象化として、のこったのだった。(中略)フランス外套に縄の帯をしめ、軍帽をかぶって木の皮ぐつをはいたプラトン・カラターエフの姿は、全体的にまるまるとしていた。頭は完全にまるかったし、背中も、胸も、肩も、いつもなにかを抱こうとするようなかっこうをした腕までが、まるかった。気持ちのいい微笑も、大きな褐色をしたやさしい目も、まるかった」(中村白葉訳、『トルストイ全集6』河出書房新社)と。
 「まるい」という言葉で、かくも豊潤なイメージを喚起させる、文豪の巨腕をうかがわせるに十分なリアリズムの手法と言えるでしょう。優れた文学を味読する楽しみは、こんなところにもあります。
 プラトン・カラターエフは、トルストイ晩年の“悪に抵抗するな”という無抵抗主義、非暴力思想の先駆けともいうべき存在であり、その点、あなたの「お爺さん」のイメージと重なります。それはまた、仏教のヒューマニズムにも通じていく側面をもちます。私の民衆への言及から、あなたが、そのことを汲みとってくださって、うれしく思います。
10  アイトマートフ トルストイは『戦争と平和』への意図を説明して、民衆の歴史を書いたのだ、と言いました。
 民衆の歴史、と言うのは簡単ですが、これは芸術家の最大の課題です。どんな時代のことであろうと、民衆の新しい世紀、あるいは民衆の歴史は、可能なるもののうちのつねに頂点であり、そこへ通ずる生きた道は、民衆出身の主人公の形象――人物像――です。
 私は吹雪の中のエジゲイの形象をとおして、このテーマにかかわろうとしたのです。それはリアリズムの根本原則に対する私の考えです。リアリズムの主要な対象は、過去においても現在においても民衆であり、働く人間だからです。
 しかしここでとくに強調したいことは、エジゲイにとって労働は、たんに生きる手段であるだけでなく、まず第一に彼の生きる目的であり、使命であり、他の人々に対する義務である、ということです。彼は彼自身の選択においてはまったく自由です。その選択は勇気と気高さを要求します。
 それゆえに、彼は本当の意味で立派な人間なのです。彼は金儲けにも損得勘定にもまったく関心がありません。
 彼はたとえどんな個人的特典を与えようと言われても、それは彼にとって人間の尊厳に対する侮辱です。大事なことは、彼は、労働に対するそのような考え方によって、自分が時代に、民衆に、骨肉のかかわりをもっていると感じているということです。時代や民衆を抜きにしては、彼には自分も、自分の運命も考えられません。時代や民衆のおかげで、彼は考えることができるのです。なぜならば、エジゲイのような人間にとって、考えるということは、屁理屈をこねたり、あること、ないことに関して駄弁を弄することではないからです。
 彼が口にする「最後の」言葉は、彼の生涯の最も辛い瞬間に、避けがたい永遠――つまり死――を前にして、彼の心に生まれたものです。
 その言葉は死んだ友人のカザンガップに、さらに生きているすべての人に向けられています。なぜならば、その言葉はエジゲイの責務だからです。額に汗して働く人間の偉大にして聡明な人生について語らねばならないという責務なのです。エジゲイの「最後の」言葉は、彼の「最初の」言葉でもあります。少なくとも、口に出された言葉としてはそうなのです。エジゲイが言わない言葉は、作家である私が言わねばなりませんでした。だれにもそれぞれの役割があります。
 それならエジゲイはどうでしょう? 彼は黙って生き、「大地を支え」、精神の力を証明していくことでしょう。彼は、避けて通れぬ多くの試練――戦争、飢餓、猛吹雪、悲恋等々――を乗り越えていくことによって、民衆の歴史に関与する自分へと到達します。彼は自身の「不幸」な運命を呪うこともせず、人生に復讐することも考えません。彼の中には、いうなれば、もって生まれた遺伝的な人間らしさが具現されています。
 エジゲイは、己に向かうことによって、人々のもとへ到達し、未来へ到達します。苦しい時に彼を救うのは子どもの微笑みです。しかし彼の厳しい沈黙は人々にとって生きることの助けになります。
 さらに、エジゲイにとって戦争は何のために必要なのでしょう? 彼にはそのようなことを考える暇はありません。彼は働く人間の重要きわまりない掟にもとづいて、つまり、平和への、相互理解への希求にもとづいて生きています。彼にとってそれは万有引力の法則なのです。
 エジゲイは死のサルオーゼキの荒野に「天国」を戻すことを夢見ています。かつてはそうだったのです。彼にそのことを話したのは、親友の地質学者エリザーロフです。砂漠の中に、生き生きとした美しい庭園を造ること以上に楽しいことがあるでしょうか?
 現代の軍備をもってすれば、地球を破壊することなどおそらく簡単でしょう。しかし、それはエジゲイには考えられないことです。正常な人間には考えもつかないことです。エジゲイのような人間は長生きをし、孫やひ孫をもうけて、子孫に自分の魂を伝えてほしいと思います。
 しかし、私はいずれにしろ作家を待ち受けている「死に値する罪」についても言わないではいられません。作家が善良な意図からであっても、「素朴な」人間に、あるいはおしなべて民衆に、へつらう時に、その罪におちいります。
 第一に、作家はそのことによって、だれをも欺きませんが、しかし、自分自身は別です。そして、その上、民衆のそのような「熱愛者」の偽善は、その動機の打算的な真相は、遅かれ早かれかならず明らかになります。片方の民衆を他方の民衆に、つまり、民衆をインテリゲンチアに対立させるようなことが起こりかねません。
 確信をもって言いますが、民衆はイコンになって皆に崇拝してもらいたいなどとは全然望んでいません。民衆は自分自身についての真実を知ることを望んでいます。
 民衆は大海に譬えられてきました。その場合は、詩人は荒れ狂う大海原の波です。
 私は、民衆を自然界になぞらえるのがいちばん正しいと思います。それが不滅であるという意味においてです。
 その観点から、心に秘めた願いを「私は民衆になりたい」という言葉で表現したラ・ブリュイエールは、従来とはまったく違ったふうに読むことができます。それは永遠と一体化したいとの願望です。つまり、自分の裁量にゆだねられた時間の限界を意識せずに、始めもなければ終わりもない歴史的存在の空間の中で生きたいという願望です。
 思うのですが、その場合においてのみ、作家は民衆の名において語る権利をもつ、とあえて言うことができます。
 ちなみに、それがにじみ出てくるような作品というのは語り口が慎ましやかである――ロシア文学の特性についてのドミトリー・リハチョフの、私の見解によれば、この上なく慧眼な観察――というような特徴があります。
 ここで急に頭に浮かんできた考えを述べさせていただきます。これはひょっとすると、以前に勢いでつい言ってしまったことと矛盾するかもしれません。
 私は「民衆」が、「民衆」の描写が文学の「主題」、あるいは「本道」でありうるとか、そうであらねばならないという考え方には首をかしげたくなります。それは、「民衆」を盲目的崇拝の対象にしている、社会主義リアリズムの名うての理論家たちの「発見」にすぎないと思います。
 彼らが言っている民衆とは、もちろん、党の鉄の意志によって方向づけられ、党の賢明な指導によって、富農撲滅とか、白海バルト海運河の建設とか、戦争等々の英雄的事業を遂行している大衆のことです。簡単に言えば、民衆とは道具であり、民衆とは、ヒステリックなアピールや「天国」についてのカラ約束によって頭がいかれ、そのようなカラ約束に拍手を送り、なおかつ簡単に誘惑され、簡単に買収される群衆なのです。
 スターリン的イデオロギーはまず第一に大衆をたぶらかそうとしました。大衆――あるいは人民――におおげさな称賛の言葉をふんだんに使い、「神聖な」宣誓を行いながら、民衆――人民――の名において、許したり、罰したりしました。そこに民衆に対するお世辞の不快きわまりない本質があります。
 では、現代の作家は何をなすべきでしょうか? まず第一に、民衆とは何であるかということについての従来の真の理解を取り戻すことです。その取り戻すべきものは、民衆のもつ、永遠にして、変わることのない精神的価値です。その価値は、どんなに手のこんだ凶暴な破壊手段が用いられたにもかかわらず、絶滅しませんでした。
 作家のなすべきことは、さらに、例えようのない感謝の念を味わいながら、その「不変のもの」にもとづいて、現実に――空想においてではなく――人間にふさわしい生活の可能性を見いだすように努力することです。
 民衆に生きることを教えるのではなく、絶望やヒステリーにおちいることなく、ともに生きることを学ぶべきです。たとえ、人々が、いわゆる「人間の魂の技師」たる私たちとは別の掟や規律にもとづいて暮らしたいと思っていることがわかっても、絶望やヒステリーにおちいることなく、共に生きることを学ぶべきです。
 イコン
 ギリシャ正教会やロシア正教会などで礼拝した聖画像。
 ラ・ブリュイエール
 一六四五年―九六年。フランスのモラリスト。
 ドミトリー・リハチョフ
 一九〇六年―。ロシアの文芸学者。社会的にも広く活動。
 白海バルト海運河
 ロシア連邦の北西部にある長さ二二七㌔の運河。一九三三年に完成。
11  池田 楽しく夢を語っているうち、突然うつつに返り、おぞましい現実に眼を向けざるをえなくなる――そんなあなたの話のトーンの振幅の大きさに、旧ソ連の抱えていた悲劇性のすさまじさが垣間見えるように思います。
 たしかに、旧ソ連でイデオロギー的に使われてきた「民衆」や「人民」などという言葉は、民衆の実像とは何の関係もありません。スターリンを「人民の父」とし、それゆえ、彼に反対するものすべてを「人民の敵」として「人民裁判」にかけ、どれほど多くの人々が無実の罪に問われ、命を失っていったか。今さらいうまでもないことですが、そんな時に使われる「人民」などという言葉は、観念の化け物にすぎないでしょう。
 「知識人は軽薄である」とは、プルードンの言葉だそうですが、そんな観念の化け物にとらわれるのは、ほとんどの場合、尻軽な知識人であり、肝心の民衆のあずかり知らぬことです。“あなたのエジゲイ”は『一世紀より長い一日』で、そうした軽薄才子を痛罵しているではありませんか。「一体、いろいろな講習会で学び、大学で学んだことの結果は何なのだろう? もしかしたら学校とはあんな人間しか作り出さないものかも知れない」(前掲書)と。
 そんなつまらぬ論議よりも、本質論をやりましょう。民衆とは、人間が、真実、人間であろうとする時、かならず行き着かざるをえない原点なのです。私は、民衆――みずからもその一員である民衆への思いを、かつて一編の詩に託したことがあります。その一節を引用してみたいと思います。
 民衆よ――
 君こそ 現実だ 
 君をはなれて 現実の世界はない
 時代は真の民衆運動を
 祈り待っていることを忘れまい
12  君こそ――
 すべての者が流れ入る大海であり
 すべての者が 混沌のなかから
 新しき生成のために鍛錬される
 熔鉱炉であり
 坩堝であることを忘れまい
 そして すべての者の
 真正と邪偽とを峻別する
 試金石であるのだ (本全集第39巻収録)
13  私の言う「現実」とは、あなたが弾訶しておられる“社会主義リアリズム”による平板な定義とは縁もゆかりもありません。小さな自分を超えた「永遠なるもの」「大いなるもの」への敬虔の念をつねに失わず、今日から明日へと一日一日、小さな自分を乗り越えていく人間の在り方そのものが現実です。そこに、民衆というものの実像が輝いているのです。そこから遊離すれば、すべては虚像となり、幸福という実像の輝きは失われてしまいます。ゆえに、私は、詩を次のように継ぎました。
 科学も 哲学も
 芸術も 宗教も
 あらゆるものは
 民衆に赴くものでなければならない
 君のいない科学は冷酷――
 君のいない哲学は不毛――
 君のいない芸術は空虚――
 君のいない宗教は無慙――
14  このような自分の民衆観に照らして、私は、“あなたのエジゲイ”に、心からの親愛のエールを送りたいと思います。彼こそ民衆の王者です。
 あなたは、エジゲイについて力説していますが、エジゲイの言葉の紹介がないので、『一世紀より長い一日』の読者でない人には、わかりにくいでしょう。そこで、私が、エジゲイの最も印象的な言葉を代わりに引いておきましょう。カザンガップ老人を埋葬したあと、エジゲイが、一人で「神」に語りかけるくだりの独白です。
 「おれはあんたが存在するということを、おれの心のなかに存在するということを信じたい。おれはあんたにお祈りをするときは、実際はあんたを通じて自分自身に語りかけている。その時のおれは、造物主であるあんたがおそらく考えるであろうように考えることができる。そのことが肝心かなめなのだ。ところが若い連中はそこのところがわからなくて、お祈りを軽蔑している」(前掲書)と。
 精神を健康に保つためには、おそらく不可欠であるはずの祈りというものへの、まことにエジゲイらしい、剛毅で真摯な問いかけと言ってよいでしょう。
 そして、傲慢な無神論が犯してきた最も大きな罪は、このような健全な民衆を、愚昧の二字で切り捨ててきた点にあります。今の旧ソ連社会を覆う精神的荒廃は、そのツケが、一挙に回ってきた結果なのです。
 プルードン
 一八〇九年―六五年。フランスの社会思想家。その無政府主義は大きな影響を与えた。「知識人は…」は、「人間、それ自らに背くもの」小島威彦訳、『マルセル著作集6 人間、この問われるもの』所収、春秋社を参照。

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