Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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往復書簡 親愛なる友、池田先生  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
5  一面から見れば、全体主義的意識は目の前の目標のみを追求し、現在のみに生きていますが、別の面から見れば、全体主義的意識にはまさに現在というものがありません。全体主義的意識はつねに輝かしい未来をめざしていて、その未来のために現在はいつも犠牲にされているからです。それゆえに、私は、全体主義意識はどんな形態のものであれ、特定のイデオロギーを絶対化し、人類を分裂させることによって、人類に最大の危険をもたらすものだと思います。
 ことによると、私はこの問題で芸術文化の役割を過大に評価しているのかもしれません。が、にもかかわらず、芸術文化は精神文化とともに(両者の境界はかなりあいまいですが)全人類的利益が民族主義のエゴイズムや独占資本の貪欲よりも優先される単一世界の創造に、それなりの貢献をすることが可能だと思っています。この問題についてあなたのご意見をうかがいたいと思います。
 民族芸術――文学、音楽、美術など――は最も良く、最も完全に民族的な精神を表現しています。それゆえに、主権国家という従来の概念が急速に意味を失い、国境の壁が過去のものとなりつつある時代においては、まさに芸術文化こそが民族の独自性を担う主体者となります。加えて、現代の技術は、人類の前にかつて存在しなかった可能性を切り開いて、以前には実現不可能であったことの実現を可能にしています。いまだに、国家がその構成員である民族集団や少数民族の生活を規制する特別な権利があるかのような既成概念がありますが、さまざまな民族の文化をより広く知ることによって、このような観念を打ち破ることができるのではないでしょうか。
 私が言わんとしているのは、少数民族の権利がしばしば暴力によって侵害されているのに、外部からはだれもその国家の「内政に干渉」できないでいるような場合です。不干渉といっても、それが度を越すと暴力の容認になってしまう、というような道徳的な限度があるのでしょうか?
 フクヤマ
 一九五二年―。論文「歴史の終わり」は反響を呼んだ。
 公開状
 一九九一年一月十五日、フセイン大統領宛に打電。

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