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日蓮大聖人・池田大作

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往復書簡 親愛なる友、池田先生  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1       ルクセンブルク 一九九一年一月二十三日   C・アイトマートフ
 私たちの共同の書物であるこの対談集の原稿を出版社に回す準備を進めている中で、私は「リーダーへの戒め」の項を読み、このテーマをもっと発展させて以前のテキストを補足する必要を感じました。しかし、この場合は、追加はあなたへの手紙の形になりました。この手紙を読んでいただくためにお送りします。もしこの補足的な文章の中で私が提起した問題に、お答えになる必要があるとお考えならば、そうしてください。もしそのような必要はないとお思いでしたら、この文章はそのままの形で残して、読者の判断にゆだねてくださって結構です。
 さて、お知らせしますが、きょう、今からちょうど二時間前に、私はルクセンブルクで行われているヨーロッパ青年会議の開会の辞を述べる光栄に浴しました。私が会議の冒頭に発言することを求められたのは、おそらく、私が作家であり、同時に年配の世代に属する人間だからでしょう。それはヨーロッパ、アメリカ、ソ連の青年たちの大きな会合でした。私はその発言の中で私たちのこの対談集にかなりの時間を割き、私たちの優れた同時代人としてのあなたについて話し、私たちの対談集を引用して、一例として、「青年に望むもの」という項の内容と問題を紹介しました。聴衆は私の知らせを熱烈な拍手で迎えましたが、現代のヨーロッパの環境では、それは非常に珍しい現象です。しかし、これはついでにお知らせしたまでです。本題に戻ります。
2  さて、「リーダーへの戒め」のテーマを発展させるための補足的な資料に添えて、ご高覧に供します。
 内容は次のようなものです。
 私たちの対談をつづけるために、私はいくらか異なった側面から、「リーダーへの戒め」という一般的なテーマにあなたがまとめられた問題にふれてみたいと思います。
 それはこういうことです。現在、新しい地政学的時代が始まりつつあるように思います。つまり、脱対立(ポスト・コンフロンテーション)的傾向が、現代の社会意識の発展において、ますます強固な、普遍的な力になりつつあります。私たちの心は躍っています。戦後における魂の開眼が実現し、待ちに待った「神の王国」の到来が目前に迫っているかのような予感を私たちの心に喚び起こしつつあります。学問の世界では、人類の歴史は我々が従来理解していたような姿とは決別し、いまや質的に異なった状態へ、紛争のないテクノロジーの時代へ、新しい型の世界秩序へと転換しつつある、というような内容の、センセーショナルな哲学的着想が現れています。一部の学者たちのそのような先取りには真実味があるでしょうか? 歴史なき未来の歴史などありうるでしょうか? いずれにしろ、アメリカの哲学者フクヤマはそのような考えを述べています。それは、さしあたっては同意しがたい考えですが、にもかかわらず、現代の社会現象の本質に対する大胆で革新的な見解であることは間違いありません。
 そのような予言が実生活によって裏付けられることを望んでやみません。しかし、私たちがフクヤマの理論について議論している間に、全世界の目の前で、世界の世論の努力にもかかわらず、史上例を見ない戦争――ペルシャ湾岸での戦争が勃発しました。お互いに殺し合いながら、同盟国側の兵士も、イラクの兵士も死んでいます。
 あなたも私も、この絶対悪の暴発に無関心でいることはできませんでした。私たちも、直接あるいは間接に世界の軍事問題に点火しかねないクウェート紛争の平和的解決の探求に、力のかぎり役立とうと努力しました。新しい世界戦争の危険はなお地域的衝突の渦巻きの中にひそんでいる可能性があります。その危険は、たとえイラクの侵略を抑えることに成功したとしても、消えるものではありません。私とあなたは道徳的・心理的アプローチを見いだそうとし、公開状を書いてイラク大統領の理性と寛大さに訴えようとしました。しかし、その試みは絶望的でありました。
 そこで、そのような、予見できなかった苦い教訓を味わった今、私はあなたと自分自身にこの世界の現実を考えてみるよう提案したいと思います。なぜかと言えば、私たちの善意の行為は、残念ながら、私たちが念頭においた勢力によって気づかれることなく終わってしまったからです。
3  私は国家間の相互関係における非暴力と暴力行使の許容性(その行使形態をも含めて)との関係の問題から始めたいと思います。私の問題は、世界を揺り動かした例の事件の前だったら、別の形で提起されていたかもしれません。私はイラクによるクウェート占領と紛争の急速な拡大のことを念頭においています。この紛争がどのような形で終わろうと、それはようやく根づき始めた軍縮への傾向に恐ろしい打撃を与えたと思います。
 私とあなたは国際関係における暴力的手段不行使の徹底した支持者です。しかし、たんにそのことにおいてだけではありません。私は「非暴力」という言葉を意識的に使いません。そのことについてあなたと別個に話し合いたいからです。私は暴力的方法によって紛争状況を解決できるとは思っていません。それは紛争状況を一定期間奥へ追い込んでしまうだけです。どんな紛争も、それを解決できるのは、相互の譲歩と良識ある妥協だけだと私は思います。しかし、国家関係の歴史的経験はほとんど例外なくさまざまな形態での強制から成り立っている以上、強制的手段を放棄するのはかなりむずかしいのではないでしょうか。
 この問題は、奇異な感をもたれるかもしれませんが、次の問題、つまり、あなたの観点からすれば非暴力とは何か、という問題をともないます。非暴力という言葉でしばしば軍事力の不行使が意味されていますが、この二つの概念を等号でつないで良いものでしょうか? 対話の拒否、あるいは協力の拒否は強制の一形態、非公然の暴力の一形態ではないでしょうか?
 私はあなたが提起なさった古代の格言の「平和がほしければ戦争に備えよ」という命題に非常に興味があります。現代ではその格言は「平和がほしければ平和に備えよ」という言葉に換えなければなりません。人類にとって平和への準備は、すでに習い性となっている戦争への準備の状態(たとえそれが侵略戦争ではなく抵抗のための戦争であっても)よりもはるかに困難なものだ、という気がしてなりません。平和への準備は何から始まるのでしょうか。諸民族間に新しい、より公平な秩序を作ることからでしょうか、それとも、人々の心に現存する秩序への新しい考え方を培うことからでしょうか?
 私は現在の世界秩序の維持をたとえいささかなりとも主張するものではありません。その秩序の不公平さ、不合理さは明々白々です。しかし暴力によって現存体制を打破しようとする試みが、たとえそれがどんなに立派な意図のもとになされようとも、何をもたらすかを、私は自分自身の経験にもとづいてよく知っています。あなたは、世界の諸国や諸民族の発展の不均衡をならし、人類の需要と地球自体の可能性を調和あるものにし、世界全体で単一の経済体制を創造する過程は、どのように進むべきだとお思いですか? そこで非暴力的な道は可能だとお考えですか?
4  私にとって気がかりなのは、現在、世界で進行しつつある対決政策の拒否への転換は、かなりの程度において強制的な性格を帯びていて、そこでは、まだ消え去らぬ戦争の脅威はいうにおよばず、技術革新の裏面であるエコロジー的危機が大きな役割を演じている、という考えです。強制された平和愛好は強固なものではありえません。ロシアには「悪しき平和は善き争いに優る」という諺があります。それはたしかに善いかもしれませんが、それでも、平和愛好の心を強めて、善き平和を達成したいと思います。どういう方法でそれを成し遂げることができるとお考えですか?
 世界にはすでにかなり前から一つの傾向が顕著になってきていて、それは経済や環境、共同防衛といった統合化が進む一方で、急激に民族意識が高まり、それが人々を分断する結果になっているというものです。分断の要因には、とくに目立つイスラム原理主義を初めとして、さまざまな宗教的原理主義があります。それは、われこそ究極の真実をもてり、という攻撃的な野望によって、宗教を黒か白かという幼稚なレベルに引き下げてしまうものです。
 ソ連邦では、社会経済理論であったはずのマルクス主義が、神も道徳性ももたないまま宗教まがいのものとなってしまいましたが、原理主義はそういったソ連の社会主義と相通ずるものがあるように思います。道徳性をもたないというのは、人類社会全体の中で一つの体制、一つの国家だけが正しいとするようなイデオロギーに道徳性などありえないからです。
 わが国に強く根づいた全体主義的な意識は、普通、考えられているように、権力を担っているものたちだけがもっていたのでは決してなく、民衆の中にも浸透していたものですが、私の考えでは、それは、ペレストロイカを進める上での大きな障害の一つです。そこであなたの意見をおうかがいしたいのですが、全体主義意識に対置できるものは何であると思われますか。
 もう一つ、あなたと共に考えてみたい問題があります。それは全体主義と環境問題です。全体主義の犯罪の一つは、全体主義国家が環境破壊の規模の本当の大きさを隠し、情報を隠蔽することによって、エコロジー的思考の発展をはばみ、環境破壊の後始末の対策を遅らせたことにあります。その典型的な例が、チェルノブイリの影響を四年間隠しつづけたことです。全体主義とは、命令に服従することのみに慣らされた民衆の受け身の姿勢であり、上層部のもっている、自分たちは絶対に罰せられることがないという感覚であり、彼らが出す指令がもたらす結果についてまったく感知しない無責任さです。
5  一面から見れば、全体主義的意識は目の前の目標のみを追求し、現在のみに生きていますが、別の面から見れば、全体主義的意識にはまさに現在というものがありません。全体主義的意識はつねに輝かしい未来をめざしていて、その未来のために現在はいつも犠牲にされているからです。それゆえに、私は、全体主義意識はどんな形態のものであれ、特定のイデオロギーを絶対化し、人類を分裂させることによって、人類に最大の危険をもたらすものだと思います。
 ことによると、私はこの問題で芸術文化の役割を過大に評価しているのかもしれません。が、にもかかわらず、芸術文化は精神文化とともに(両者の境界はかなりあいまいですが)全人類的利益が民族主義のエゴイズムや独占資本の貪欲よりも優先される単一世界の創造に、それなりの貢献をすることが可能だと思っています。この問題についてあなたのご意見をうかがいたいと思います。
 民族芸術――文学、音楽、美術など――は最も良く、最も完全に民族的な精神を表現しています。それゆえに、主権国家という従来の概念が急速に意味を失い、国境の壁が過去のものとなりつつある時代においては、まさに芸術文化こそが民族の独自性を担う主体者となります。加えて、現代の技術は、人類の前にかつて存在しなかった可能性を切り開いて、以前には実現不可能であったことの実現を可能にしています。いまだに、国家がその構成員である民族集団や少数民族の生活を規制する特別な権利があるかのような既成概念がありますが、さまざまな民族の文化をより広く知ることによって、このような観念を打ち破ることができるのではないでしょうか。
 私が言わんとしているのは、少数民族の権利がしばしば暴力によって侵害されているのに、外部からはだれもその国家の「内政に干渉」できないでいるような場合です。不干渉といっても、それが度を越すと暴力の容認になってしまう、というような道徳的な限度があるのでしょうか?
 フクヤマ
 一九五二年―。論文「歴史の終わり」は反響を呼んだ。
 公開状
 一九九一年一月十五日、フセイン大統領宛に打電。

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