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日蓮大聖人・池田大作

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リーダーへの戒め  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 あなたの作品『処刑台』に登場するボストンと町から派遣された党幹部との対立は、革命運動におけるリーダーの在り方に、多くの問題を投げかけております。おそらく、スターリンによる農業集団化の過程にあっては、この種の対立、矛盾、軋轢が数多く存在したのであろうと推測され、胸が痛みます。
 ところで、私はかつて、私どもの推進している仏法運動にあっては、職業革命家という在り方は必要ではないと訴えたことがあります。なぜなら、職業革命家というものは、みずからの生活とは離れ、一日二十四時間、ひたすら革命運動に没頭する結果、どうしても大衆から遊離し、庶民の生活感情から疎くなりがちだからであります。
 それゆえ、運動が机上の空論に振り回されたり、あるいは急進主義に暴走したりして、流血の惨事さえ招いてしまいます。「革命戦争は革命の墓穴である」(「戦争にかんする考察」伊藤晃訳、『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅰ 戦争と革命への省察―初期評論集』所収、春秋社)というシモーヌ・ヴェイユの言葉は、そのことを鋭く告発しております。
 革命というものは、過去と未来との間に、何らかの「断絶」をもたらします。生活は、そうではなく、本来「継続」していくものです。この「断絶」の側面と「継続」の側面をどう調和させていくかということが――古来、成功例は“暁天の星”に等しいのですが――革命運動の最大の課題と言えるでしょう。
 そのためにも、庶民の生活感情から離れてはならない。革命運動にリーダーシップの必要とされることは言をまちませんが、リーダーたるもの、その点を強く戒めていかなければならず、そうでないと、善良なボストンを非道な仕打ちで苦しめる党幹部の弊におちいってしまうと思うのですが、いかがでしょうか。
2  アイトマートフ おっしゃるように、革命の結果として「過去」と「未来」を調和させることに成功した例は歴史上きわめて稀だ、ということが問題なのです。正直なところ、私としても、一例も思い出せません。それのみか、原則的にそれが可能かどうかにも自信がありません。
 東ヨーロッパの「ビロード革命」――早計にも私たちはこう呼んでしまいましたが――は実際には残念ながら「ビロード」と呼ぶにはほど遠いものでした。しかもかなりの文明国であったにもかかわらず、です。
 全体主義であったとはいえ、不器用な独裁者がどんなに頑張っても、スターリン主義のような徹底した人間憎悪の体制とはなりえませんでした。そうならなかったのは、伝統的に民主主義が息づいていた東欧諸国の国民が自然発生的に抵抗していったことが、大きな要因だったのではないかと思います。わが国では、民主主義の概念など根幹から歪められてしまっていました。
 しかし、別の面から見れば、過去数世紀の蜂起や暴動を別にして、私たちに三つのロシア革命の経験が与えられたのは、ミハイル・ブルガーコフが一九三〇年にスターリン宛の手紙の中で自分の考えを規定したような、偉大な進化の思想――あなたが「継続」と呼んでいらっしゃるものと同じだと思いますが――を私たちがもっと尊重するためだったのだと思います。
 血気にはやる人、短気な人、急速な変化を求めてやまない人はつねに存在します。しかし、不幸なことに、心理や習慣の変化をもともなう、民衆の生活の本当に深い変化は、緩慢にしか起こりません。ユーリイ・トリーフォノフは「人民の意志派」を描いた小説の中で、「短気」の憂士の性格を見事に描写していますが、これらの憂士の中には、自分が蜂起する大衆の先頭に立って目立ちたいがためだけに歴史を毎回御破算にしようとする、野心家の姿が見えます。
 ただ、「暴動」はいつまでもつづくものではありません。何事にも時というものがあります。石を投げる時、石を拾い集める時と。しかし、エンゲルス――ほかならぬエンゲルスがです!――が晩年、『階級闘争』への序文の中で、マルクスと自分が社会的、政治的発展の長さを規定するにあたって、過ちを犯したと率直に認めていることです。
 私が言う指導者の野心は、彼らが権力を維持するために、革命的民衆の心に消えることのない憎しみを燃え立たせつづけ、それを「世界革命」のために彼らにとって必要な方向に向けたということ、つまり、終わりなき戦いを志向したということにあります。別の言葉で言えば、民衆は決まって空想的な観念の人質となり、そのために自身が手厳しく報いを受けることになる、ということです。
 シモーヌ・ヴェイユ
 一九〇九年―四三年。フランスの思想家。
 暁天の星
 暁天は明け方、その空。明け方に見える星の数が少ないことから、きわめて少ないことの例え。
 ビロード革命
 一九八九年から九〇年にかけてチェコスロバキアで始まった政治的変動。暴力的な波乱がなく、ビロードのようになめらかに進んだ変動とされた。
 ミハイル・ブルガーコフ
 一八九一年―一九四〇年。旧ソ連の作家。
 ユーリイ・トリーフォノフ
 一九二五年―八〇年。旧ソ連の作家。
 人民の意志派
 テロ活動による政治闘争を行った革命組織。一八七九年に結成。
 エンゲルス
 一八二〇年―九五年。ドイツの革命家、思想家。マルクスを支え、協力して科学的社会主義を創始。
3  池田 「心理や習慣の変化をもともなう、民衆の生活の本当に深い変化は、緩慢にしか起こらない」というあなたの指摘は、まったく正しく、どんなに強調してもしすぎることはありません。その変化の鼓動は、心して、注意深く耳をかたむけていなければ、決して聞こえてきません。
 だからこそ、私は、革命を志す者は自分も民衆の一員として、民衆とともに生活していなくてはならず、そこから遊離した職業革命家というものの存在に、根本的な疑義をさしはさむのです。いとも簡単に「悪」を「善」に置き換えようとする、いわゆる“革命家”流の紋切り型のスローガンなどでは、人間にとって本質的なものは、何も変化もしなければ解決もしません。
 ゲーテの炯眼は、さすがにその本質部分を見据えていました。「真の自由主義者は(中略)自分に許された限りの手段をもって、できるだけ多くの善事を実現しようと努める。しかしながら、時に避けがたい欠陥があっても、立ち所に炎と剣を用いて、これを勦滅しようとするのを慎む。公けの欠陥を思慮ある前進によって、徐々に除去して行こうと努める。暴力的手段は同時に多くの善きものをも滅ぼすものであるから採らない。この世界はつねに不完全なるものである。それで、時と事情とが幸いして、より善きものに到達できるまでは現在ある善をもって満足する」(前掲『ゲーテとの対話』)と。
 アイトマートフ ゲーテが糾弾した現象と似たようなことが現在も起こっています。極端な演説をともなう政治集会、暴力行為に走りがちなデモ行進、高く突き上げたこぶし、破壊、爆破等のロマンティシズムへの陶酔がすでに一度ならず存在し、それらの行き着く先はただ一つ、騒動、流血、独裁、強制収容所の有刺鉄線……でした。
 むしろ、歴史が私たちにチャンスを与えてくれたのですから、人間的に、文化的に暮らすことを試みるべきです。挑発的なアピールを怒鳴るのではなくて、論議し、やっと芽生えたばかりの民主主義の若緑の芽を大切にし、やっと固まりつつある公平な法律と平和な生活を尊重し、創造のために努力すべきであって、すでに創造されたものの熱狂的な再分配にのみ意を注ぐべきではありません。
 池田 その意味で私は民衆に対する「リーダー」の責任を問題にしたのです。
 アイトマートフ スターリンがマキアヴェリに関心をもっていて、彼の『君主論』を鉛筆で書き込みをしながら読んだ、ということはよく知られています。スターリンの書き込みを研究したら面白いと思います。
 権力と民衆との関係において、私たちは今、おそらくソビエト権力の歴史の中で最も複雑な時期を経験しています。ブハーリンはサン=ジュストの「法律で統治することができなければ、銃で統治することが必要である」という言葉を好んで引用しました。銃で統治することは、わが国ですでに試験済みであり、その行政的実験の結果は広く知られています。しかし法律で統治する術を私たちはまだ心得ていません。新しいリーダーたちが今それを学び、議会が学び、民衆が学んでいます。そこでは、とりわけ冷静な相互評価が不可欠であり、権力と民衆との相互作用の新しい流派、新しい型が必要です。
 「偉大な指導者」と「偉大な国民」という二つの構成要素しかもたなかった古い単純化された公式を拒否することが早ければ早いほど、権力にとっても、民衆にとっても良い結果を生みます。
 マキアヴェリ
 一四六九年―一五二七年。イタリアの政治思想家。その著『君主論』は政治と道徳・宗教の分離を説き、権謀術数の政治を主張した。近代政治学の祖と言われる。
 サン=ジュスト
 一七六七年―九四年。フランス革命時の政治家。
4  池田 『君主論』へのスターリンの書き込みには、こんな言葉があるのかもしれませんよ。「誠実、正直、愛情などというものは、政治的な範疇の言葉ではない。政治には、政治的な打算があるのみだ」と(前掲、長島七穂訳)。
 ご存じのように、これは、ルイバコフの『アルバート街の子供たち』に実名で登場するスターリンの言葉です。ルイバコフの描き出しているスターリン像は、作家が綿密な考証による裏付けをとっている上、想像力を駆使して作り上げているので、なかなかの説得力をもっています。たしかに、スターリンは、言葉の最も悪しき意味でのマキアヴェリズム(権謀術数主義)の化身でした。
 それにしても「偉大な指導者」への信頼、尊敬、献身といった国民的な心情が、あのスターリンのような怪物を生み育ててしまうロシア史のパラドックスには、本当に胸が痛みます。
 そうした「人治」――良い意味でも悪い意味でも――の伝統の根強いところへ「法治」の習慣を根づかせようとするのですから、ペレストロイカが、いかに壮大な、ある意味では途方もない試みであり、難事中の難事であったかがわかります。いや「……あった」などと過去形で語るべきではないでしょう。民主化(デモクラチザーチヤ)、情報公開(グラスノスチ)など、ペレストロイカの解き放った改革の数々は、暗中模索しながら、いま進行中なのですから。
 前途に楽観は許されないものの、その足を引っぱる“ロシア的伝統”なるものに、あまりこだわりすぎるのも生産的ではないでしょう。つまり、アナーキー(無政府)志向と強権支配志向との間を揺れ動き、法にもとづく秩序感覚=市民社会的伝統が欠落しているのは、たしかにそのとおりでしょうが、広大なロシアのこと、すべてを同一の物差しで推し測ることはできないでしょう。
 その点に関して、いつでしたか、モスクワ市長のポポフ氏が、ゴルバチョフ元大統領の出身地は、何百年もの間、役人や警官のいない自治の伝統の強い地域で、ゴルバチョフ氏が濃密に体現していたデモクラシー、リベラリズムは、その伝統ぬきに考えられない、と語っていたのを印象深く記憶しております。
 私も、党官僚の典型的なエリートコースを駆け上りながら、あのように思いきった、ペレストロイカという“火中の栗”を拾うような人物が出現したことに、ゴルバチョフ氏の個人的資質だけでは割り切れないものを感じていただけに、ポポフ氏の言ったことがたいへん興味深く感じられたものです。

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