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日蓮大聖人・池田大作

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民話のもつ意義と普遍性  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  アイトマートフ 初めに申し上げておきますが、つい最近わが国の批評界で激しい論争が行われ、その中で、民話や伝説の応用は死に値する罪深い行為であるとか、社会主義リアリズムへの侵害であるとか、社会主義リアリズムの伝統の冒涜であるとかいう非難が作家たちに浴びせられました。その「冒涜者」の一人がかく言う私だというのです。腹立たしいことに、そういう「純文学」の擁護者たる批評家を熱烈に支持する読者がかなり多くいました。
 しかし、ここで問題にしているのは児童図書の世界なので、ここでは腹立たしさとは無縁な穏やかな結論が、本来的に気高い思想が述べられるものとお思いかもしれませんが、残念ながら、わがソビエト社会の現実には、支配体制が爪痕を残していないような分野は、私たちが問題の緊張を味わわなかったような分野は一つもありません。児童文学すらその例外ではありません。
3  池田 その原因は何だとお考えですか?
 アイトマートフ 一部の読者に見られるそのような紋切り型の感覚と、文学に対するそのような紋切り型の要求の復活は、とりわけ、彼らの趣味がひどく教訓的で道学者的な小説によって養われてきたこと、すなわち、主人公を、主人公の心理や行動を、控えめに言えば、生活の目的にかなっているかどうかという観点から、はっきり言えば、イデオロギー的な純潔さの観点から定型化し、規定しているような小説によって養われてきたことによって、説明できます。
 その種の月並みな文学は、ほとんどいつの時代をとっても、人類共通の文化の血液循環系とは無縁のものです。またそれは、力強く練り上げられた心理主義をもち、道徳的、精神的に高度な潜在能力をもって、真理の探究と、人間的存在の全き意味における人生の意味の探究に、深さと熱情を示した偉大な十九世紀ロシア文学とも、無縁なものです。
 現代の小説の中に、民話、伝説、いわゆる「東洋」風のオレオグラフや装飾主義等への集団的な――と彼らには映ったようです――熱中を発見して驚いた批評家の高潔な立腹は、まったく理解に苦しみます。
 「どうしたことだ?」と批評家は厳しく、険しく問います。「いったいそれはどこから来たのだろう? ははあ、現代文学に独特な神話創造への関心や憧れが見られるからには、つまり、答えはこうだ、すべての罪は、作家に真実の道を、リアリズムの道を踏みはずさせるフォークロア(民間伝承)にある」と。
 社会主義リアリズム
 一九三〇年代にソ連で提唱されたリアリズム。現実を社会主義イデオロギーにもとづく革命の発展にそって描き、また、社会主義イデオロギー実現をめざした。リアリズムは、現実をありのまま描き表現しようとする芸術上の態度。
 オレオグラフ
 油絵風石版印刷。十九世紀後半に普及。
4  池田 たしかに、社会主義リアリズムのもとでは、いずこでも文学の貧困をかこっているのが現状です。正直なところ、「罪」を神話や伝説に着せるとは、想像力の貧困以外の何物でもありません。
 もともと「存在が意識を決定する」という考え方、上部構造としての文学や芸術も下部構造としての生産様式の反映にすぎないという物の見方、したがって社会主義による経済改革によってすべてがうまくいくという幻想が土台となっているのですから、その土壌の上に豊かな想像力や意識の実りがもたらされようはずがないのです。
 そこでは、人間の心の大きなふくらみである幻想やアレゴリー(寓意)や民話は、俗流合理主義に合わないものとして、はじかれてしまいます。古人の想像力が愚にもつかない夢物語であり、未開の原始時代の幼稚な産物として葬り去られてしまうとは、まったく理解に苦しみます。
 アイトマートフ もちろんです。なぜなら、それらはかつては人々のまったく現実的な世界観や人生観を、正義と善への人々の希求を、真理のための戦いの観念を表していたからです。それなのに、伝説のふところにいだかれて厳しい現実から「逃避」するなどと、どうして言えるのでしょう?
 神話や伝説にこめられている社会道徳的な経験は、決してのんびりした牧歌的なものではなく、概して劇的なものであり、しばしば悲劇的なものですらあります。それは多くの場合、民衆の不幸と苦悩の、血のしたたる年代記です。
 池田 日本では、たとえば「うばすて山」という昔話があります。日本には、ご存じと思いますが、古来、地方によっては「うばすて」の風習がありました。母親は、年老いてくると、みずから進んで、あるいは子どもに連れられて山奥へ入っていく。そこで周囲から隔絶された状態で余生を送り、死んでいくのです。年老いた女性はもはや社会には余計な者という観念がそこには働いております。
 この「うばすて山」という昔話は、そのような貧しい民衆の悲劇を背景としております。
 ただ、「うばすて」の話は、悲劇の中にも民衆の知恵を輝かせており、民話のもつ素晴らしい価値というものを教えてくれます。領主が、領民たちに「灰で縄を作って持って来い」と難題をふきかけたというのです。だれにもそれができない。ところが、ある老母が、先に硬い縄を作り、それを灰にすればよいと教えるのです。その老母は、山へ捨てられなければならないところを、息子にかくまわれていた身でした。難題が解けて、領主は喜び、同時に、うばすてのしきたりを廃止したという話です。
 ここに、権力に対する民衆の知恵による抵抗を見ることができます。また、年配者は、社会の余計者どころか、人生経験に裏付けられた知恵の持ち主として尊ぶべきことをも教えております。
 ところで貴国では、私の知るかぎり、神話的創作は古典に対置され、攻撃されていましたね。それはおかしいし、正当性を欠きます。
5  アイトマートフ まったくそのとおりです。そういう「美しきもの、永遠なるもの」の熱心な擁護者たちは、古典に支持を求めながら、その古典を、彼らが現代文学の「異常現象」と見なすものすべてに対しての“プロクルステスのベッド”(=本書七十二ぺージ参照)として好んで利用し、そのことによって多くの現代作家をリアリズムから引き離そうとしているような気がします。
 それはよく使われる手口です。というのも、古典的作品が学校の教科書的水準でしか理解されていないからです。実際のところ、その種の読者や批評家の論理に従うとすれば、まず第一に、はっきり言って、ほかならぬゴーゴリのリアリズムとも手を切らねばならなくなります。それは幻想小説以外の何物でもなく、しかも最高に向こうみずな、大胆な、激しい幻想ということになるからです。
 ロシア・リアリズムの根幹をなす『死せる魂』一つを取り上げてみてもいいでしょう。それは象徴的手法や誇張法の一大饗宴であり、大火のごとく燃え広がる詩的空想そのものではないでしょうか。
 ゴーゴリのリアリズムを私なら魔術的リアリズムと呼びたいところですが、そのゴーゴリは、読者を催眠術にかけることによって、胸おどる「空とぶトロイカ」の民話的、寓意的イメージを信じ込ませてしまいます。
 言葉を換えれば、観念や思考や感情の超自然的な現実性を信ずるということです。ゴーゴリはそれらを登場人物の生きた具体的な性格の中に、この世界の統一ある描写の中に実体化し、その世界を完璧に、しかも無限に繰り広げようとしています。
 真の作家は全人類的な経験と自分自身の精神的経験をふまえて、すなわち、哲学的、道徳的、美的経験をふまえて、独自の芸術的現実を創造し、発見し、そのためには可能にして必要な、あらゆる表現手段を利用します。ドストエフスキー、ホフマン、バルザック、トーマス・マン、トワルドフスキー――彼の『あの世のチョールキン』を取り上げます――ヘミングウェイ、アプダイク、ガルシア=マルケス等、あらゆる時代とあらゆる民族の優れた作家をいくらでも挙げることができます。それらの作家にとっては、どのように書くべきか、とか、自分の思いをよりよく表現するためにどのような手段を用いるべきか、というような問題は、そもそも存在しなかったのです。
 ゴーゴリ
 一八〇九年―五二年。ロシアの小説家。リアリズムの、ロシアにおける祖。
 ホフマン
 一七七六年―一八二二年。ドイツの小説家、作曲家、司法官。幻想的な作品を書いた。
 バルザック
 一七九九年―一八五〇年。フランスの小説家。リアリズムの大家。
 トーマス・マン
 一八七五年―一九五五年。ドイツの小説家。ノーベル文学賞受賞。
 ヘミングウェイ
 一八九九年―一九六一年。アメリカの小説家。ノーベル文学賞受賞。
 アプダイク
 一九三二年―。アメリカの小説家。
 ガルシア=マルケス
 一九二八年―。コロンビアの作家。ノーベル文学賞受賞。
6  池田 にもかかわらず、あなたやほかの若干の作家が神話に強い愛着をもっているのはなぜですか? 神話やアレゴリーが現代社会の社会的精神世界の現実の過程を露にするのに役立つわけですか?
 なるほど、優れた作品には往々にして、神話やアレゴリーを豊かにちりばめているものが見られます。たとえば、偉大な哲学書にして文学作品であるプラトンの諸著作がそうです。シビレエイや助産術といった、学問を触発することの譬えやアトランティス島の物語はよく知られておりますが、代表作『国家』の中でも、それは顕著です。
 「洞窟の比喩」はとくに有名で、太陽のまばゆい光に目が眩んで、もとの住み慣れた洞窟へと引き返そうとする、つまり精神の解放を目前にしながらもあまりに眩しすぎて、それから尻込みしてしまうというような現象は、まさに身につまされる今日的な世界の問題でもあります。自分の姿を見えなくできる「ギュゲスの指輪」という譬えも、なかなか示唆に富んでおりますし、国家を巨獣に譬えているその比喩もじつに適切です。
 アルカディアの神殿にまつわる伝説として「人間の内臓を食い味わった者はかならず狼になる」という戒めの言葉を引きながら、同胞の血を流しつつ人間から狼へと変身する独裁者の姿が描かれておりますが、これも現代の世界にもそのまま当てはまる教訓です。
 『国家』の最後を飾る「エルの物語」は、まったく空想的な神話のように語られておりますが、これには、原形となる神話があったのではないでしょうか。死後の世界で、次の生における生涯の選択をみずからの手で行うときに、「悪い生」でなく「善い生」を選び取るだけの力と知識の持ち主でありうるかという、いわば「生の選択」の問いかけをもって、この大著は結ばれております。
7  アイトマートフ ある科学者が、地震は地球の地下を照らす燈火だと言いました。実際のところ、どうして時折、火山の噴火が起こるのでしょうか?
 もちろん、この比喩があまり適切でないことはよくわかっていますが、しかし、比喩の相対性や制約を考慮した上でなおかつ思うことは、長い間眠っていた、あるいは永遠に過去のものとして消えてしまったかに見えていた神話や伝説が、人間の記憶の中でよみがえり、活動し始めたのは、決して偶然ではなく、時代の要求や科学技術の進歩に反するものでもなければ、ましてや、俗に言われているように、「正常なリアリズム作家」として書く能力をもたない一部の作者の「気まぐれ」や「悪意」によるものでは決してない、ということです。
 原因はどこにあるのでしょうか? 現代文学の芸術的思考におけるいわゆる神話創造とはいったい、何なのでしょうか? 批評家は皮肉っぽく寛大さを示して、「レースのようなお飾りさ」と言います。読者は厳しく、「流行だ!」と断定します。おそらく、ここでの論理は、父親の亡霊と話をする(『ハムレット』)のは流行だ、ということです。それを流行らせたのはシェークスピアです。
 同じように、大きな樫と話をすればトルストイ、悪魔と話をすればドストエフスキー、魚と話をすればヘミングウェイ、ということになります。そういう先例があるから現代の作家は楽なものだ、自分の好みと分別に応じて好きな流行を選んで、それで自分の「レース」を編めばいい、と言うのです。
 一例を挙げれば、私は、あるとき、「あなたの『海辺を走るまだらの犬』の中で主人公の一人はありふれた小舟に向かって、“カヤックよ。わが兄弟よ”と呼びかけていますが、あなたはどうしてそんなことを言わせる必要があったのですか」という質問を受けて面食らいました。説明するのは何となくきまりが悪いのですが、それは私にとって必要があったのではありません。そこには登場人物の奥深い本性と哲学が表れているのです。
 彼にとってカヤックは本当に兄弟なのです。彼はそれを自分の手で作り、それに魂をこめ、今や、大海原を征服するという期待をかけているのです。私たちは、既製の自動車を兄弟などとは思わないではありませんか。もっとも、人それぞれです。
8  今度は「流行」について話しましょう。私は時折、当惑顔で、ヘミングウェイを好きか、と尋ねられます。当惑顔になるのはわかります。私がヘミングウェイの真似をしているのではないか、と尋ねたいのが本心だからです。『老人と海』の主人公と『海辺を走るまだらの犬』の主人公とがともに魚を相手に話をするということに、模倣があるのでしょうか?
 たしかに、二人は精神的な兄弟です。そのような人間は、同じような状況に遭遇して、大自然を前にすれば、突然、人生の最大の危機的瞬間に、かつて彼ら自身もこの大自然によって産みだされたものであること、大自然から生まれて人間になったものであること、それゆえに、今、たとえ死を前にしても、大自然を呪う権利はもっていないこと、反対に、大自然に対して彼らが自分たちの生みの親にふさわしい存在であり、さらに生みの親よりは高度な存在であることを証明しなければならないことを「思い出す」のです。
 そこには思い上がりなど片鱗もありません。彼らはその瞬間にみずからの人生の頂点を、まれにみる感情の高まりを味わっているのだと思います。その感情の高まりは彼らの内部に、つねに無意識の中に生きながら、ついに死の形態をとって、出口を見いだしたのです。
 そこからおのずから結論が出てきます。死の恐怖を克服するためには人間は詩人にならなければならない、という結論です。そう思いませんか?
 なぜかと言えば、人間はすべて、現代文明の「大衆文化」に損なわれていないかぎり、その本性において生まれながらの詩人です。ナボコフは言っています。「詩人とは詩を書いている人ではなくて、詩によって死ぬ人である」。しかし、「その人にとっての死は無を意味しない。むしろ、死は変身の可能性である。つまり、この世界に完全に別の姿をとって存在することである」と。
 池田 今日の度しがたい合理主義者は、少しも疑わずに、たとえば、オウィディウスの『変身譜』を古代の神話の詩的な改作であるとみなしています。だとすれば、奴隷制時代の芸術において「リアリズム」は、何によって、どのように表現されていたのでしょうか? どのようにしてみずからを確立してきたのでしょうか?
 アイトマートフ アウグストゥスがオウィディウスを追放したのは恋愛詩集のせいばかりではないと思います。
9  ナボコフ
 一八九九年―一九七七年。ロシア出身のアメリカの作家、詩人。
 アウグストゥス
 前六三年―後一四年。オクタヴィアヌスの尊称。ローマの初代皇帝となり、以後、ローマは最盛期を迎え、二百年間平和が続いた。
10  池田 きっとそうでしょう。どんな全体主義国家も、どんな独裁政権も、民話を疑いの目で眺め、民話の中にみずからの権力に対する、厳しい鉄の規律や決定で人々を支配しようとする独裁的権利に対する侵害の意図を見ていますが、それは根拠のないことではありません。
 民話は、別の生活様式や別の人間関係の原則に対する暗示であり、印なのです。民衆はそれに憧れ、民話の中で別の生活の可能性を表現しました。それゆえに、私の質問の初めに戻って、この点についてのあなたのご意見をおうかがいしたいと思います。
 アイトマートフ 「児童図書」出版所は二巻ものの『ソ連諸民族民話集』の序文を私に書いてくれと依頼してきました。私は考えてみることを約束しました。正直なところ、お詫びを言って、そのような面白い頼みにもかかわらず、断ってしまおうと思いかけていたところでした。いかんせん、暇がないのです……。しかし、もう断りません。もしお許しいただけるなら、たとえ箇条書き的にでもあれ、これから書く序文の内容を述べてみましょう。できたら、こんな形で始めようと思います。
 「この地上で最初の民話はどのようにして生まれたのでしょうか? だれがそれを作ったのでしょう? それを私たちは知ることができません。しかし、どうして人間が太古の昔に、ある目に見えないものを、人を感動させ、人の心を熱い感情で満たしたものを表現しなければならなかったかということは推測することができます。表現したかったものは喜びであり、恐怖であり、空を飛びたいという熱望であり、あるいは遠くを走る見事な角の鹿や、風にそよぐ草原や、無限の夜空にまたたく星などとの、つまり自然との肉親に対するような一体感でした。
 自然は人間にとって生きていました。息づいていました。言葉を語っていました。教えていました。出来事を前もって知らせていました。それと同時に自然はさまざまな大きな秘密によって人々を招き、引き寄せていました。人間はそれらの秘密を解き明かしながら、だんだんに人間になってきました。なぜならば、人間は自分の周囲で起こる未知の力や現象の不思議な循環運動をたんに観察していただけではなく、芸術家として頭で考えてもいたからです。人間はこの宇宙の壮大な光景を描き、それを人格化し、そこに驚くべき存在を、果てしなく戦いつづける美しきものと恐ろしきものを住まわせました。それは善と悪との永遠の戦いです……」
11  池田 民話には、おっしゃるとおり、自然や人間に対する深い洞察と知恵を含んでおります。ところが、これを現代の子どもたちに絵本やテレビなどで見せるさいに、安易な改竄が行われることがあります。とくに、残虐なストーリーは子どもに悪影響をおよぼすとして、カットされたり、より穏便なストーリーに変えられてしまうのです。
 たとえば、日本古来のおとぎ話に『かちかち山』というのがあります。その中では、タヌキがお婆さんを殺して、しかもそのお婆さんを味噌汁にしてお爺さんに飲ませるのですが、それではあまりにも残酷すぎるというので、殺すところを頭を叩くだけですませ、あるいは「お婆さんの味噌汁」の話はカットするという具合です。
 ところが、日本の高名な心理学者などは、こうした民話の残虐性によって、子どもの心が歪められたり、その残虐な物語をそのまま実行するということはないと指摘しております。むしろ、子どもたちは、残虐な話を聞きながら、心の中での体験としてそれを直視し昇華することによって、みずから残虐な行為をすることがなくなるということです。
 民話の残虐性の改竄という現象は、日本だけのことでしょうか。そこには、現代世界の一つの病理が表れていないでしょうか。すなわち、死や残虐性などの「悪」を直視しようとせず、できるだけそれを避けて通ろうとする通弊です。それによって「死」は、病院内の密室へと追いやられ、死をもって完結するしかない人生の深みや重みが失われ、薄っぺらな快楽主義が幅をきかせるようになりました。そんな人畜無害な消毒済みの環境の中から、耐性をもった、たくましい子どもが育つはずはないのです。
 心理学者
 河合準雄(一九二八―)。
12  アイトマートフ そのとおりです。「序文」の先をつづけましょう。
 「民衆は記憶の中に、かつて存在した、あるいはいまだかつて存在しなかった出来事を、決して中断することのない民話として保存しています。それは光明への導きの糸です。あるいは、より正確に言えば、それは、人類が《未来》という名の素晴らしい国への扉を開けるのに使う金の鍵です。未来はつねに前方にあります。
 ところで、私の若い友よ、ここである素晴らしい詩人の次の文句をじっくり読んで、よく考えてほしい。《人間の不思議な感性がとらえられないような“不思議”はこの世には存在しない》。
 これはボリス・パステルナークの言葉です。素晴らしい言葉ではありませんか。つまり人間は神業と言うべき世界の誕生という奇跡に驚く能力がつねにあるのです。そしてこのような驚きを失わぬ人間こそが、幾千年の歳月に何ら関心を払わぬ者より聡明なのです。これこそが良質の大人たちが夢見てきたことです。ヤヌシュ・コルチャクは教鞭をとり、数多くの童話や『私がふたたび子どもになる時』というリアリスティックな本を書きましたが、彼もそういう素晴らしい人間の一人です。
 子どもになるということは巨人になることです。私はふざけているのではありません。恐ろしい自然現象を屈服させることができるのはまさに子どもなのです。
 子どもは、だれかを不幸から救いだすためならば、どんな自然の猛威とも、胆力・品性あわせもつ中世の騎士よろしく戦う覚悟をもっています。そして子どもは未知とも戦います。そしてつねに勝利します。どうしてでしょう? なぜならば、ここでもふたたび、自分のためではなく、虐げられ、辱められている者たちの幸せのために戦うからです。
 そして、その、民話の不滅さを無条件に信ずることは、今日とくに重要です。空想的なるものは、新しい、思いがけない視点で現実を見ることを可能にする、現実のメタファー(隠喩)なのです。メタファーが現代においてとくに必要不可欠になっているのは、科学技術の成果がつい昨日までは空想の世界であったような分野にまで入り込んできているからだけではありません。そうではなくて、むしろ、私たちの生きている世界がまさに空想的(ファンタスティック)な世界だからです。
 遠い昔に民話を考えだした人々は、驚くほど現実に即した未来を予見して、その未来に若い世代を備えさせ、少なからざる勇気と意志の力を必要とする極端な状況の中で、若い世代の知性と感性を鍛えようとしているかのようです。
 民話はそこに語られていることの多くが現実のものとなることによって古くなりつつあるのでしょうか? それに対しては、星は古くなるのでしょうか、という問いで答えましょう。世界は子どもの心の中でつねによみがえり、新たに生まれ変わっています。それゆえに民話は人生の永遠の魂なのです。
 もっとも、それと同時に、民話は人間の精神の発達の中での特別な歴史的現象であり、その時代は特別な時代です。それゆえに民話は唯一無二のものです。なぜならば、それは『奇跡』についての、つまり、私たち自身についての幸福な思い出を保存しているからです。人々の心にはあらゆる時代の、あらゆる民族の民話の主人公たちが自覚されないままに生きつづけ、時折よみがえってきます。
 それは何を物語っているのでしょうか? 私たちは皆同じ人類だということです。民話はその本質において国際的なものです。カフカス出身の詩人が次のように語ったのは、理由のあることです。
 人みな同じ言語で泣き
 人みな同じ言語で笑う
 わが若き友よ、私は君がわが広大な国土の諸民族の多くの民話を、初めて読むことができるようになったことを喜びます。同じ一つの“屋根”の下に集められたそれらの民話は、(地球という)自分たちの家と、同じ気遣いや夢や希望に生きる人々を愛することを教えてくれます」
 私の即興話が長くなってしまってすみません。しかし児童図書の成り行きに対してはだれもが無関心でいることはできません。児童図書はひらめきを要求します……。
13  池田 あなたのお話の中には、素晴らしい言葉が珠玉のように光っております。たしかに民話には国境はありません。それは、民話には結局は、人間普遍のテーマが扱われているからです。さらに言えば、民話はインタナショナル(世界的)であると同時に、コスミック(宇宙的)でもあります。ギリシャ神話などの神話の世界はいうまでもありませんが、たとえば日本の古い説話である『竹取物語』では、かぐや姫は月に帰っていきます。宇宙との生命的な交流は、まさに自由な創造力がもたらしたものです。
 ある日本の著名な科学者は、物理学を学ぶには、ギリシャ神話を読むとよいと言っておりますが、それはそこに表れている想像力、空想力が、科学を発展させる創造力にも通うものであるからだと言うのです。
 そして、そうした世界の主人公は子どもたちです。長じても子どもの感性を失わぬ詩人たちです。よく引かれるように、「氷が解けたら何になる?」と聞かれたとき、大人たちは「水になる」と答え、子どもたちは「春になる」と答えた、と。子どもたちの答えの何とファンタスティックなことか。そこには、詩心があります。自然が息づき、宇宙の鼓動が聞こえてきます。
 それに対し、大人たちの答えの何とみすぼらしく、無味乾燥なことか。近代人が科学や知性の名のもとに、いかに多くのものを失ってきたか、歴然としております。近代が、中世の世界観に代わる新たな世界像を創出したというより、世界像なき時代であると言われるのも、ゆえなきことではないのです。
 コスミックといえば、これは民話ではありませんが、宮沢賢治の作品『銀河鉄道の夜』は、日本で最も親しまれている童話の一つです。作者はみずからの心象世界としての銀河系を描き、そこを鉄道で旅する少年の心の成長の跡をたどっている名作です。
 少年は、銀河をどこまでも旅していける切符を持っておりますが、その少年に呼びかけるこんな声が聞こえてきます。「さあ、切符をしっかり持っておいで。おまえはもう夢の鉄道の中でなしに、ほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない」(新潮文庫)と。それがとても印象的なのですが、美しいファンタジーの中にも一つの信仰を教えるほどまでに人生を励ますものがあります。
 いずれにせよ、磁石が必ず北をさしているように、優れた民話や童話には、永遠に人間の心を照らし、心と心を結びつけてくれる光があります。
 ヤヌシュ・コルチャク
 一八七八年―一九四二年。ポーランドの教育者、児童文学作家。ユダヤ人の子どもたちをかばい、ナチスの収容所でともに殺された。
 宮沢賢治
 一八九六年―一九三三年。詩人、童話作家。法華経に帰依。

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