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日蓮大聖人・池田大作

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宗教における「不変」と「可変」  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  アイトマートフ あなたがふれられた問題は、精神的な存在としての人間について論ずる場合に、避けて通ることのできない問題です。とくに重要なことは、知性が危機にある現代において、そのことについて考えることです。
 私たちの経験にもとづいて話をします。つい最近まで私たちの社会のすべての否定的現象は、一般に、過去の遺物という概念で説明されてきました。現在ではそれは滑稽なことです。
 しかし、当時は大まじめでした――そこにイデオロギーの「力」があります――。単純で、都合が良かったからです。そのような過去の遺物にまず第一に数え入れられていたものが宗教でした。俗流唯物論の石臼は、支配的イデオロギーの独占体制を利用して、いわゆる唯物論的意識の領域に入らないすべてのものを粉砕し、破壊し尽くそうとしてきました。
 すべての宗教が根絶の危機にさらされ、あらゆる信仰の寺院や神殿が破壊されてきました。万人にとって単一の階級的世界観が植え付けられてきました。それは周知の事実です。
 その結果が精神の衰えであり、さまざまな民族や世代の人々の道徳的退廃です。悪と暴力が日常の生活様式になってしまいました。それもまた周知の事実です。
 しかし私としては、その点に関して一つの考えを述べてみたいのです。それは次のようなものです。
 つまり、私には宗教および一般に反体制思想への迫害の過程で、啓蒙時代以前に独占的に支配していた、中世的原理主義と(フアンダメンタリズム)は異なった、ある種の社会主義的原理主義が形成されたように思います。イランの原理主義現象は、ホメイニ体制によって生みだされたものです。
 ここで、池田先生、私はあなたのご意見をおうかがいしたいと思います。一定の社会における大衆の気分としての原理主義の本質について、どうお考えですか。しかも無神論的原理主義は宗教的原理主義と紙一重です。非寛容、暴力、大衆動員はあらゆる種類の原理主義に共通する特徴です。
 さらに、このことに関連して私がとりわけ心配しているのは、テロ行為が広がっていることであり、それを促進する政治的、宗教的要因が存在することです。
 考えるだけでも恐ろしいことですが、もしもテロリストのグループが突然、どこかの原子力発電所を占拠したらどうなるでしょう? そのような脅威にどう対処したらいいのでしょうか?
 脱工業社会
 物質的原料とエネルギーを基礎にしている工業に代わって、情報、知識、サービスなどを商品とする産業が中心となる社会。
 原理主義(フアンダメンタリズム)
 聖書を記述どおりに信ずる主義。もともと一九二〇年代以降にアメリカを中心にして広がった、進化論を認めない運動をいう。
 ホメイニ
 一九〇二年―八九年。イスラム教シーア派の指導者。イラン革命を指導。
3  池田 かつてアメリカでマッカーシズムの嵐が吹き荒れたことがありました。リベラルな思想の持ち主を「反共」の名のもとに、次々と罪人に仕立て上げていきました。この場合は、「反共」を原理として、少しでもそれに反する要素があれば、容赦なく攻撃していったものです。
 しかし、その嵐が去ってしまえば、あれはいったい何だったのかと、だれもがいぶかしく思うほどで、まるで憑きものが落ちたようになりました。
 マッカーシズムを支えたものは、まさに「盲目的熱狂」という以外にありません。原理主義とは、一言で言えば、一を是として他を非とする、多様な価値意識の否定であり、それを盲目的熱狂をもって遂行していくことにほかなりません。あなたの主催したイシククリ・フォーラムの一員であったA・トフラーも、『パワー・シフト』の中で、社会の健全な発展を妨げるであろう最大の要因の一つに、この原理主義を挙げておりました。
 T・S・エリオットは「キリスト教社会の理念」という論文の中で、世俗的な改革家や革命家のおちいりやすい陥穽を挙げています。
 これは直接、原理主義について言った言葉ではありませんが、原理主義の悪を適切に言い当てていると思われますので、エリオットの洞察を借りて、私なりに原理主義の本質をここから抽出してみれば、①悪をもっぱら外に見て内に見ない、②個の尊厳という、あらゆる高等宗教が志向したものを、それこそ「原理的」に認めない、ということになるでしょう。
 自分の外部にある悪――エリオットはこの悪は「非個性的」であると表現していますが、これはまた“非人格的”“非内面的”と言い換えてもいいでしょう。あなたのおっしゃるように、原理主義が非寛容で暴力的であるのは、こうした特徴に由来すると思われます。したがって、社会が原理主義の悪を免れるには、一に、悪を自己の内にも見いだすこと、そして、個の尊厳の思想を確立することが要請されなければなりません。
 仏法では、人間生命を十界互具の当体と説きます。その意味するところを単純化して言えば〈善の生命〉と〈悪の生命〉が一個の人間生命の中に備わっており、どちらが強いかによって、人間は限りなく高貴にもなれば、逆に限りなく愚劣にもなる可能性をはらんでいることを明かしたものです。
 私の提唱する人間革命は〈悪の生命〉を冥伏させて〈善の生命〉の活性化を成し遂げることです。先のエリオットの論文にも「俗世界と同時に自分自身をも回心させる必要があると判るときに、その人は宗教的な見解に近づきつつあるのです」(「キリスト教社会の理念」中橋一夫訳、『エリオット全集5』所収、中央公論社)とありますが、これも私の見解と軌を一にするものと言えましょう。
 また、人間が〈善の生命〉の活性化によって限りなく高貴になれる存在である、ということは、個の尊厳の思想に明確な基盤を与えるものとなるでしょう。
 ともあれ、内なる悪を見据え、その克服をめざす人間革命、自己変革の運動が、一切の根幹に据えられなければ、どんな運動も、先鋭化すればするほど、原理主義の悪をかかえこまざるをえないでしょう。
 マッカーシズム
 一九五〇年から五四年にかけて、上院議員のマッカーシーがおし進めた反共産主義活動。
4  アイトマートフ 池田先生、私は、最初に、あなたが提案なさった宗教をテーマにしてこの対談に加わるにあたって、宗教問題についての私の意見はまったく私的なもの、観察者的なものにすぎず、決して何らかの職業的権威を要求するようなものではないことを、あらかじめ断っておくべきだったにもかかわらず、それをするのを忘れてしまったことで、あなたにお詫びしなければなりません。
 この問題についての私の判断は、中途半端なものであり、それはある程度、いってみれば、私にとって新しい未知の世界へ接する試みであり、私にとって珍しい、胸おどる魅力的な人生観や生活感覚へ接する試みなのです。
 その魅力はおそらくまず第一に、美しさにあります。もちろん外面の美しさではありません。それは心のもつ太古からの、大昔からの霊性であり、魂の偉大さです。私は、たとえば、ブルガリアのアレクサンドル・ネフスキー寺院で初めて聞いた聖歌にそれを感じました。
 今でも覚えていますが、その時私は思いました。私の知らない遠い昔の人々の心にこのような天の音楽が生まれた――あるいは、よぎった、天下った――とすれば、その人々の生活はどんなにか素晴らしいものであったろうか、と。たしかに神は愛です。しかし、愛の最高の内密の表現は音楽です。
 ところで、私は信者なのでしょうか? 不思議に思わないでください。私が同じことを繰り返しているように思われるかもしれません。しかし、この問いはいつもつきまとうのです。私の意志に関係なく、自然に出てくるのです。そして一度それに答えても、時が移り状況が変わると、新たに自分のためにその問題を解決したくなります。
 宗教には幼児時代から親しむ必要があるということが真実なら、私にはそういうことはありませんでした。ありえなかったのです。
 私は、神は存在しない、神は作り話である、宗教は「民衆にとっての阿片である」と教えられていた時代に育ちました。私が生まれるよりも十年ほど前には神に対する裁判すら行われていて、その判決は、当時はきまって死でした。人々は天に向けて鉄砲を撃ちました。そして、おそらくその行為にひどく満足して散っていきました。
5  総じて、あらゆる面において、私たちの世代は確固たる無神論者として成長することを義務づけられていました。また多くの人はそうなりました。今でも彼らは神という言葉を耳にしただけで腹を立てます。多くの人がそうです。しかし、決して全員ではありません。
 おそらくこの事実は、人間の魂の太古からの秘密にかかわる事柄を――すなわち人を鼓舞し、疑いをいだかせると同時に高めつつ、人に信じられないような試練を乗り越える力を与えるものを――根絶することは不可能であることの、この上なく有力な証拠なのでしょう。その意味では、だれもが「永遠の真理」を理解することにかけてはずぶの素人です。
 しかし、先祖が誓いを立てていた神に対しては、すべての人に責任があります。宗教は継承されてきたものであり、自分にとって神が必要か否かを決定するのは個々人であるにしても、だれもその継承性を断ち切るべきではありません。ある程度において私はアヴジイ(『処刑台』の主人公)であり、「無邪気な未成年者」でした。「無邪気な未成年者」とは、ロシア正教の規範に通じていることを自認する一部の批判家がアヴジイを蔑んで呼んだ言葉です。もちろん、彼らは形式的にはれっきとしたキリスト教徒かもしれません。
 とはいっても疑問は残ります。一部の批評家が、私がイスラム圏の出身であるということを理由にして、あのような「テーマ」――キリスト教的――を扱った私を弾劾しようとしたことは、キリストのモラルと両立するのでしょうか? 何でも境界線を引けばいいというものではありません。
 私たちは皆、マルクス主義という同じ世界に染まってきました。また、神は同じだが、ただ真理へ人々を導く指導者がたくさんいるだけなのだという真実もあります。たとえば私の民族が帰依するマホメットの教えを、だれかロシア正教徒が研究してみたいと言ってきたとしたら、どんなにうれしいことでしょう。ぜひがんばってください、と言うでしょう。
 さらに、自分の人生経験にもとづいて言いたいことは、私一人ではないと思います。おそらく、これは二十世紀末の多くの人が心の中で思っていることだと思いますが、それは、現代人はキリスト教でも、イスラム教でも、仏教でも、その他、あらゆる宗教を、それぞれが当人に理解できるかぎりにおいて、またそれぞれが全人類的な道徳的価値と文化的価値を担っている部分において、すべてを同時に信仰することができるということです。
 私がキリスト教の原典である聖書にふれたのは偶然の機会からですが、それは私を豊かにし、人生を新しい光で照らし出してくれました。同じ真理を「共産主義建設者の行動規律」の言葉で述べれば、つまり「現代」語に翻訳してしまえば、心を揺り動かすことはなく、冷淡な、心のこもらない説教としてしか、あるいはさらに偽善としてしか受け取られないと思います。
6  おそらく、そのとき私は「美は世界を救う」というドストエフスキーの言った謎めいた文句の意味を、よりはっきりと理解し始めたように思います。
 とたんに恐ろしくなりました――いやはや、何という素晴らしい泉が我々から隠されていたことか!我々はいったい、どのように生きてきたのだろう?どうして本などを書くことができたのだろう? それのみか、一部の人々のように「人生の教師」を気取ることができたのだろう? と。
 身震いするほど恥ずかしい思いをすることがよくあります。原因は自分自身の無知蒙昧さにあります。加えて、科学技術革新の時代の現代人は、たとえば飛行機に乗って空を飛ぶなどということは想像することすらできなかった我々の先祖よりは「ずっと賢い」と考えていたりすれば、なおさらです。そこにこそ危険な無邪気さ、奴隷の思い上がりがあります。
 だれか、二十世紀の「スーパーマン」が、「教養のもたらす」偏見なしに、自分は科学技術革新の偉大な成果の恩恵を受けている者だというようなうぬぼれなしに、使徒パウロの古風な文章の、次のような個所を読んでみるがいいと思います。
 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(前掲『聖書』新共同訳)
 そしてあらゆる物事の本当の尺度は、死を前にしての善と悪の秤によって決められるということをよく考えてみてほしいと思います。そうすれば、その人は、自分の内部にあらゆる時代とあらゆる宗教に共通の、人間の普遍的な使命を感ずるでしょう。そうすれば、それ以前に幸福と呼んでいたような幸福は、空虚な妄想であり、幻想であったことを知るでしょう。
 私たちの社会における信仰――宗教的信仰――の道は本当に十字架の道です。現代の伝道者の一人がそれを次のように定義しました。「昔は宗教は人々の行進の先頭に立つ旗だったが、今は、負傷者を拾い集めて行く荷車である」。この言葉にはかなりの真実があるように思います。
 現在は、さいわいにも、事態は好転しつつあるように思われます。良心の自由に関する法律が採択されました。しかし、すべてが急速に正常に戻るだろうという予測については、慎重にとは言わないまでも、控えめにならざるをえません。
 しかし、そうなることを信じたいと思います。私たちは寛容さを学び取らねばなりません。教会そのものにおいても、私たちの共通の生活においてもです。己の心に愛があるならばそれは可能です。
 ロシア正教
 ビザンチン帝国で成立し、一〇五四年に西方教会(ローマ教会)と分離したキリスト教を東方正教会といい、その中で最大の規模のものをロシア正教会という。
 パウロ
 初期キリスト教の伝道者。キリスト教のローマ帝国における普及に功があった。
7  池田 かつてのソ連で「神」に有罪判決を下して、空へ向かって鉄砲を撃っていたなど、寡聞にして知りませんでした。今から見ればほとんど児戯に類することですが、人々がそれを大まじめで行い、反宗教宣伝の嵐が吹き荒れたことを考えれば、決して笑ってすませることではありません。
 それゆえ、寛容ということは、非寛容で狂言的なファシズムやコミュニズムなどのイデオロギー――それは、程度の低い代替宗教でしかありませんでした――の悪酔いからようやく醒めつつある二十世紀末の我々にとって、最も重要な役目をもつものとなってくると思われます。
 世界中の、各界さまざまな人々とお会いしてきた私の経験に照らしても、一流の人格をただよわせている人物は、例外なく寛容であり謙虚です。もとよりそれは優柔不断や自信の欠如を意味するものでは決してなく、宗教的次元にかぎらず、確固たる信念に支えられて生きているがゆえに、彼らは人を容れるのに寛容であり、人を認めるのに謙虚なのです。ある種の精神的余裕と言ってもよいかもしれませんが、寛容さや謙虚さは、むしろそうであればあるほど、彼の人間としての自信や信念を鍛え上げていくものです。
8  宗教にあっても、その宗教的確信の絶対性は、決して偏狭・盲目であってはならず、つねに“他”に向かって開かれていなければなりません。宗教間の対話は、時に白熱化することはあっても対話であるかぎり、寛容さや謙虚さをはじめ、総じて人間の善性――愛であり、友情であり、信頼であり、希望です――を磨き上げ、鍛え上げていくはずです。
 それはまた、あなたが「全人類的な道徳的価値と文化的価値を担っている部分」と呼んでいるところや精神性の形成に、かならずや資するところ大であるはずです。
 巨人トルストイが、己の存在をかけて訴えつづけた、聖性のシンボルの内面化も、そこに通じています。彼が「神の王国はわが胸中にあり」と言う時、「神の王国」とは、人間の善性――彼が類まれな愚直さで希求しつづけた人間の証である善性の総称でもあったはずです。自己の内面に「神の王国」をもつ人こそ義の人、完き人、最も善き人、嘉せられし人、強き人と彼は考えていたはずです。
 そうではなく、教義や儀式・典礼、堂宇など、外面的な“形”に聖性のシンボルを求めると、どうしても形式主義、閉鎖主義におちいってしまいます。
 信仰が信念を鍛え上げるどころか、“形”への執着は、ドグマティックな狂信の温床にさえなりかねない。そして、狂信から生まれるものは、謙虚や寛容とは百八十度異なる非寛容な独善であり傲慢であることは、申すまでもありません。そのような宗教は、“百害あって一利なし”であり、「負傷者を拾い集めていく荷車」にさえなりえないでしょう。
 したがって、宗教を奉ずる者はすべからく、次のようなガンジーの言葉に引き合わせて、己を検証することが不可欠となってくるのです。
 「寛容が大切になる。その寛容はなにも自分自身の信仰に無関心になることではなく、一段と理性的に純粋にそれを愛することである。寛容によって精神的な洞察力が身につくが、その洞察力は狂信とはとてつもなくかけ離れたものである。宗教上の真の知識は信教間の障害を打ちこわすものだ」(K・クリパラーニー編『《ガンジー語録》抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 コミュニズム
 共産主義。生産手段を個人ではなく、社会の所有とする社会をプロレタリア革命によって実現しようとする主義、運動。その社会ではすべての階級は消滅しているとされる。
 ガンジー
 一八六九年―一九四八年。インドの政治家、民族運動の指導者、インド独立の父。非暴力主義を貫いたが、宗教対立のなか、凶弾に倒れる。

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