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日蓮大聖人・池田大作

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制限主権論の錯誤  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 時代のあまりにも急テンポな展開のなか、はるか過去のことのような印象がありますが、「制限主権論を放棄」――一九八八年三月、新聞はソ連・ユーゴスラビア両国が発表した共同宣言(新ベオグラード宣言)についてこんな見出しで報道しました。
 この宣言はゴルバチョフ大統領(当時、書記長)がユーゴスラビアを公式訪問し、最高首脳と会談した結果をふまえて出されたもので、社会主義国とその党の関係について、独立、同権、不干渉、社会主義建設の多様な道などの原則が盛り込まれていました。それまでのゴルバチョフ大統領の一連の発言から、半ば予想されたものとはいえ、これは事実上、制限主権論を放棄したものであり、この報道に接し、私は「新思考」の光を見いだした思いでした。
 制限主権論とは、西側世界では「ブレジネフ・ドクトリン」とも言われます。一九六八年、ブレジネフ政権がチェコに軍事介入したさいの行動を合理化するために、「プラウダ」紙に掲載されたコバリョフ論文で展開された理論で、簡単に言えば、各社会主義国の主権は絶対のものではなく、ある社会主義国で社会主義の基礎を危うくし、また社会主義共同体の利益を損なう動きが現れた場合は、社会主義的国際主義の立場から、内政干渉を行うのもやむをえないとする理論です。要するにソ連がその衛星社会主義国家群の主権と民族自決権を制限したものです。
 また新ベオグラード宣言から約四カ月後、ポーランドとの間でも共同宣言が発表されましたが、そこでも両国の対等な関係、主権、自主的な政策決定権の尊重が強調されるとともに、社会主義刷新の基礎となる国民性と歴史的な条件には大きな違いがあることを認め、互いに「絶対的な真理」の主張はしないことが述べられました。
 とくにポーランドの場合は、ユーゴスラビアが非同盟を掲げる国で、ソ連・東欧圏とは一線を画しているのに対し、ワルシャワ条約機構のメンバー国であっただけに、その意義はきわめて大きなものがありました。
 先にソ連国内の「民族問題」について論じた個所でもふれましたように、社会主義の世界で「階級」に比べて軽視されてきた「民族」問題が、良い意味でも悪い意味でもいかに根強いか――ゴルバチョフ大統領のイニシアチブによる一連の開明的施策は、そのへんの厳しい認識に立ってのもののようです。
 現代の世界は、ますます相互依存を強めており、一国のみで生存していける時代ではありません。
2  しかし、私は「国益」から「人類益」への発想の転換は、いかなる意味でも一国、一民族の犠牲や抑圧の上になされてはならないと思います。植民地主義の刃にさらされてきたA・A諸国の唱導したバンドン精神や平和五原則――領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存――は、それゆえ、今でも、不滅の光を放っていると言えましょう。
 また、それと謳っていないとはいえ、制限主権論撤廃、覇権主義否定というソ連の決断は、今までの経緯から見れば勇気ある選択であり、字義どおりに実行されれば、たんに社会主義諸国にとってだけでなく、世界の平和にとっても大きな意義のあることだと、私は高く評価しています。
 それは、日本を含む自由主義諸国において一部の勢力によって執拗に、また繰り返し叫ばれてきた“ソ連脅威論”なるものの根拠を失わせ、なおかつ叫ばれるそのような声が、ためにする政治的な宣伝にすぎないことを、その後の経過によって事実の上で明らかにしてきたからです。
 西側諸国の軍備拡張は、その理由の多くを“ソ連脅威論”に負っています。したがって、それがなくなれば、軍事力増強論者の主張は、その根拠の大部分を失ってしまいます。その意味でソ連の制限主権論撤廃の動きは、世界平和にとってもじつに大きな貢献をするものとなるでしょうし、現実にそのような方向に加速度的に動いてきております。あなたは制限主権ということの不当性や平和五原則について、どのように思われますか。
 衛星社会主義国家
 ソ連に従属していた東欧の国家。
 ワルシャワ条約機構
 一九五五年、西ヨーロッパ諸国の北大西洋条約機構に対抗して、ソ連とチェコスロバキア、東ドイツなどの社会主義国が作った機構。九一年解体。
 バンドン精神
 インドネシアのバンドンで一九五五年四月、アジア・アフリカ諸国の会議が開かれた。その会議で民族の自立と世界平和を訴えて、前年の平和五原則をふまえた平和十原則が合意された。
 平和五原則
 中国の周恩来首相(一八九八年―一九七六年)とインドのネルー首相(一八八九年―一九六四年)の間で、一九五四年六月に追認された原則。同五原則は、チベット・インド間の協定の前文に記されていた。
3  アイトマートフ バンドンとそのアジア・アフリカ諸国会議で宣言された平和五原則を思い出してくださって、どうもありがとうございます。個人的なことですが、私の青年時代にバンドン精神は大発見であり、私はその普遍性と明快さに感動したものです。私はバンドン精神という言葉が大好きでした。
 本題に入りましょう。「バンドン精神」の光に照らせば、私たちが討論することにした苦悩多き現代世界の今日の多くの問題が、よりはっきりと見え、かつ見分けられるようになります。つまり、今日的問題群の多くは、冷静なテーブルにではなく、焼け石の上に並べられて白熱の度を増しているのです。
 その焼け石とは植民地主義です。一つの民族あるいは階級が他の民族や階級を抑圧するという意味での植民地主義的考え方は、まだ決して息絶えていません。それは名称を変え、仮面に隠れて、あからさまでないぶん巧妙な政治的デマゴギーの中に生きつづけています。その隠されたまやかしを、人々はいたるところに感じているのです。民衆を無能な「羊」と見なしたスターリンの言動――レーニン廟上でのものですが――にも、そして民衆を「人的資源」として扱う現代政治の中にもです。
 ソビエト時代の民族政策について言えば、「民族に関する政策」とは名ばかりで、その実、どんな民族の利益も完全に無視された政策だったと言うべきでしょう。ロシア人の利益すらも度外視されていたのですから。その本質はまさに、あなたがおっしゃるように、「社会主義の世界では“階級問題”に比べて民族問題にわずかな注意しか払われず、むしろまったく無視されていた」ということにあります。
 あるいは、民族政策にも階級問題にも相当注意が払われていたのでしょう。ただし、それはあくまでイデーのための政策であり、人間不在、人間無視のものでした。ホモ・ソビィエティクス(ソビエト的人間)という新種の人間を作り出す実験が行われたのです。
 その結果は何でしょう? 生涯にわたって手ひどく欺かれ、時にはおだてられ、時にはあおられて、打算的な目的に利用されたことに気づいた庶民の怒りです。現在の流血の惨事や、互いの報復の繰り返しは、その同じ民族政策のなせるわざであり、その継続です。抱き合って兄弟になる代わりに、私たちは相変わらず、自分ではそれと気づかずに、他人の不気味な意志を遂行しているのです。そして妖怪は相変わらずあの世から私たちをあざわらっています。
4  しかし、「新しいソビエト人」の誕生というまやかしのスローガンで私たちの意識がふさがれていた時でさえ、私たちはウクライナ人、キルギス人、ロシア人、ユダヤ人等々でありつづけていましたし、当時にあっても私の忘れることのできない師、ムフタル・アウエーゾフの「私が誇るのは、カザフ人の子であるということではなくて、人間の子であるということである」という予言者的な声が響いていました。ただ、だれがそれを耳にしたでしょうか? 今、だれがそれを聞いているでしょうか。
 それぞれが衝突の中で、相手に対して、自分がどの民族に属しているかを証明しようとしていますが、自分のことを「私は人間の子だ」と言える人は少ないのです。
 罪なくして罪を着せられた人々の争いは見るに忍びません。しかし、狂気の情熱にとりつかれて、私たちがまず第一に人間であることを忘れてしまったからには、やはり罪ある人かもしれません。私たちはそのようにさせられてしまったのでしょうか? そうかもしれません。だとしたら、今や立ち止まって、悪のためではなく善のために自由をより良く利用するためにはどうしたらいいかを考えてみるべき時ではないでしょうか。
 それとも、私たちを待っているのは、歴史的なチャンスを失ってしまったということについての苦い後悔なのでしょうか。自由に値しない人間であることが判明し、自由を奴隷にふさわしいようなやり方で使ってしまったということについての、後悔なのでしょうか。そうなったら私たちはだれを非難するのでしょうか。
5  池田 他の民族を尊重し、すべての人々と抱擁し合うためには、「私は人間の子である」という自覚がなによりであるというあなたのご意見は、よく納得できます。
 たしかに、人種をはじめ宗教、社会体制など、とうてい融和できそうもない前提条件が、それぞれの民族を特徴づけております。しかし、そうした事実上の民族や国境の壁を、想像以上の壁として乗り越えるだけの「人間の子」の自覚は、民衆の心の中に決して失われてはいないし、人間の本能と言ってもよいくらい根強いものであると信頼してもおります。
 たとえば、日露戦争を舞台とした日本のある作家の作品に、次のような史実が記されております。それは、日本軍の連隊本部にロシア兵が捕虜となった。そこで、中隊長が兵を集めて、捕虜見学の希望者を募ったところ、半分しか希望しなかった。中隊長はその理由を問いただすと、一人の兵隊が、こう語った。「自分は在郷のときは職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります。何処のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙く捕虜となって彼方此方と引き廻され、見世物にされること、定めて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒で耐りませんから自分は見学にいって捕虜を辱めたくありません」(長谷川伸『日本捕虜志』中公文庫)と。
 この言葉は中隊長の胸を打ち、結局、捕虜見学会は中止になったというのです。「何処のどういう人か知りませぬが」という言葉からは、一職人の心にごく自然のうちに宿されている、「同じ人間ではないか」との思いが伝わってきます。
 戦争は、決して人と人の関係ではなく、国と国の関係のことであり、そこでは個人は人間としてではなく、市民としてでさえなく、ただ兵士として偶然に敵になるにすぎないのであり、国家は人間同士を敵にすることはできないというルソーの言葉が思い出されます。この職人も、そして本質的にはどんな人も、戦争などしたくないのです。このような人間本来の心情を、民族を超えた信頼と友情へと発展させることが、民族の間の融和をはかる上で何よりの基礎となると私は考えます。
 また、旅行、会議、電波など多くの点で、世界はますます一体化しつつあることからも、民衆レベルでの友情を深めやすくなってきていると言えましょう。国家間の関係は、国家エゴにとらわれてしまう。互いの間に、遠心的な力が働きます。こうした排他性の強い「国際関係」よりは、民衆同士の心の絆を広げていく大規模な民衆交流――「民衆関係」の今後に、私は大きな期待をもっておりますし、私なりに努力もしております。

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