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日蓮大聖人・池田大作

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国益から人類益へ  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
2  しかし、このような「負の重力」による結びつきは、それなりの意義はありますが、決して健全なものではありません。もっと未来を志向した前向きな建設的なものにとってかわられなければなりません。「負の重力」に対する「正の重力」による普遍的な人類意識をどのように育てていくか、ここに人類の未来を平和と繁栄に満ちたものとしていけるか否かの分かれ道があります。
 私はそのためにも「世界市民」の育成が急務であると訴えたいのであります。国家、民族、地域という狭い思考の枠を超えて、地球全体を“祖国”とするような、人類愛を根幹とした意識に立つ人間を数多く育てていかなければ、いかに人類は一つと言ってみても、せいぜい危機意識の反映か、さもなくばたんなる空言でしかないでしょう。
 そのために私は「国連世界市民教育の十年」の設定を提案してまいりました。人類の議会とも言うべき国連のリーダーシップにおいて、たとえば「国連開発の十年」をとおして発展途上国への開発援助協力が活発になされてきたように、また「国連婦人の十年」が女性の権利と地位を高める上で大きな力があったように、「国連世界市民教育の十年」をとおして、上述したような世界市民を育成していこうというものであります。そこにおいては、とくに平和教育に力を入れていきたいとも考えております。
 その構想から見るならば、私どもがこれまで国連や広島・長崎両市と協力して行ってまいりました「核兵器―現代世界の脅威」展は、その前駆的な意味をもつものと言えるのではないかと、ひそかに自負しております。また、世界百十五カ国にわたり、人種や国境を超えた民衆レベルにおいて、それぞれの国に貢献しつつ世界平和をめざす人間の連帯を、仏法の普遍的な理念をもって広げてきた私どもSGIの運動は、それ自体、少なからぬ意義をもっていると言えましょう。
 いずれにせよ、今後の課題は、世界を運命共同体とした核による人類絶滅の脅威、その「負の重力」を、どのように「正の重力」に転じていくかにありますが、その場合の転轍機は何であるとあなたは思われますか、ご意見をお聞かせください。
3  アイトマートフ 「人はみな死ぬときは一人」というのは正しいですが、しかし生きるためにはみな一緒でなければなりません。そこで私たちは、一緒に生きることを学ぶ必要があります。それは現代人にとって最も有益な学問となるでしょう。それはまた、いちばんむずかしい学問になるでしょう。なぜかと言えば、人類はまだそれを学んだことがないのですから。
 ところで、私の記憶に間違いがなければ、日本は十九世紀の中期まで“閉ざされた”国であって、みずからの独立性を、現代風に言えば、みずからの主権を厳しく守っていました。そしてそのことがすべてに優先していました。その鎖国状態が現在までもちこたえて存続することはありえたでしょうか? また、当時の日本には、さし迫った必要性があったようには思えないのですが、なぜ急に鎖国をといて、世界に向けてみずから門戸を開いたのでしょうか?
 池田 日本が江戸時代にとってきたような鎖国政策が、現在までつづいているなどということは、いかに空想をたくましくしてみても、とうてい考えられません。
 たしかに、十九世紀の半ばの日本に、すぐ開国しなければならない、さしあたっての要請はなかったかもしれません。とはいえ、当時の日本は、産業、とくに商業の発達はかなりの程度進んでおり、幕府権力の衰微とあわせて、開国は時間の問題であったと思います。
 それにもまして第一の要因は、日本を取り巻く外的状況にありました。アメリカのペリー提督とロシアのプチャーチン提督は、一カ月ほどの期間をはさみ、相前後して江戸と長崎を訪れ、日本に開国を迫りました。
 強引に江戸湾に侵入し、“黒船”の威力を背景に恫喝的に開国を要求したペリーのやり方に比べ、日本の慣例を尊重して、江戸ではなく長崎にやってきた点に象徴されるように、プチャーチンのほうは、はるかに紳士的でした。皮肉なことに、日本の開国を決断させた直接のきっかけになったのが、ペリーの“砲艦外交”であったことは、周知の事実です。
 江戸時代の日本は、日本という民族意識よりも、それぞれが所属する藩意識のほうが強かったのですが、開国によって、民族意識の漸進的な高揚がうながされました。
 黙示録
 新約聖書の巻末の書。地上の王国の滅亡と新しい天と地の到来が預言されている。
 宇宙船地球号
 地球の限られた資源を自覚し、人類共存を強調してアメリカのボールディングが用いた言葉。
 ペリー
 一七九四年―一八五八年。東インド艦隊司令官。一八五三年七月に江戸湾の浦賀沖に来航、翌年に日米和親条約を締結。
 プチャーチン
 一八〇三年―八三年。一八五四年に日露和親条約、五八年に日露修好通商条約を締結。
 黒船
 欧米諸国から来航した船。船体の黒色からいう。
4  アイトマートフ そうですか。民族意識は高ずるとやっかいなものです。わが国の場合は、この民族意識のゆえに、犠牲者をも出す深刻な事態を生んでいます。民族的感情に関するかぎり、理性に訴えてもほとんど効果はありません。「腕ずくで歓心は買えぬ」という諺のとおりです。
 それにしても、ソビエト時代に多民族が仲良く友情に結ばれていた姿は、まったくのお仕着せといつわりだったと言うのでしょうか。私は公式的デマゴギーのことを言っているのではありません。自由の可能性が出てきたとたんに、きのうまでの晴れやかな「友情」の微笑が、敵意と憎しみのいきり立った表情に変貌してしまったのはなぜなのでしょうか? 人々はあたかも憎悪に盲目になり、良識を奪われ、「悪しき平和は善き争いに優る」という諺も忘れてしまったかのようです。
 何十年、何百年と隣り合って、一緒に暮らしていた人々が、ただたんに民族が違うというだけの理由で、突然不倶戴天の敵となり、もはや他人の命も自分の命も顧みなくなるということを、どう説明したらいいのでしょう? 倫理と道徳性という観点からだけでは、どうにも説明がつかないように思われてきます。もしかすると、生物学的側面に光を当ててみる必要があるのでしょうか。
 あらゆる経済的、物質的問題を超えて、対立が不可避となる時に、どうして敵意の遺伝子の「目覚め」、血液型や生活様式や言語その他の不和合成を考えてはいけないのでしょうか? これはまた、部分的には、私たちの内部に私たちの先祖が「よみがえる」ことによって説明できるのではないでしょうか? それはいつ起きるのでしょう? 何がそれを助けるのでしょう?
 民族的反目は政治と教育に罪があるとも言われます。それは自明の理です。が、たんにそれだけに罪をなすりつけてしまうのも、短絡的すぎると思われます。
 問題解決の方途は、明らかに「人類益」の優位を認識していくところにあります。ただし、人類にとって新しいこの概念は、概念でとどまるかぎり、もしくは啓蒙的性格の押しつけになってしまえば、たんに体裁の良い抽象論で終わってしまうでしょう。人類益という考え方が、ぜひ人々の実感をともなう、時代精神の要求するところとなる必要があるのです。
 社会の精神風土が変わらなくてはなりません。そしてそのような変化は、国家主権ではなく「人間主権」、すなわち「人権」が現実の上で尊重されるようになるとき、意外に早く起こると思われます。そうなると、きわめて自然に「人類主権」という発想が生まれ、「人類益」が真に人々の欲するところとなっていくでありましょう。
 私は、この理想は決して不可能だとは思っていません。より多くの人々を糾合していくことによって達成できるはずです。人々はこの理想に共鳴していくはずです。なぜならば、皆、反目や、苦悩や、流血で疲れているからです。
 ひるがえって、そもそも国家主権とは何か、と問い直してみると、現代世界の実情に照らして考える場合、答えは意外にむずかしいことに気づかざるをえません。なぜなら現代のテクノロジーは国家主権のかつての機能の多くを有名無実のものに変えてしまったからです。たとえば、人工衛星からの宇宙撮影によって、一国の領土上で起こっていることが、収穫の予想にしろ、軍隊の移動にしろ、文字どおりすべてガラス張りになっています。
 たとえばソ連は情報の流れを国境によって遮断することにやっきでした。しかし、それは不可能でした。個々の国家の動きをさまざまに規制し、調整する地域的あるいは全世界的な組織・国際機関の数はますます多くなりつつあり、それらの国際組織の活動の圏外にとどまっていることは不可能です。
 人類はすでにグローバルな機構を作りました。そして今後も作りつづけるでしょう。とすれば、個々の国家は、国益のためという古い考え方においても、自国の主権を制限せざるをえません。
5  そのことを雄弁に物語っているのは、大国ドイツのためにも、小国ルクセンブルクのためにも統一的条件を保障している欧州共同体です。情報、貨幣、商品、人の巨大な流れは、現代世界の血液循環であって、それはもはやだれも止めることができず、できるのはその合理的な規制と改良だけです。
 従来の絶対的な意味での国家主権はもうだいぶ以前から存在していません。今やそのことを認めるべきときです。なぜならば絶対的な単一民族国家はすでに存在していないからです。そして国家主権は、たんに独自の行政、立法機関をもち、国家資産と国境の保全を図るという機能のみに集約されつつあるのです。
 この最後に挙げた国境というのは、なかなかやっかいな問題ですが、それとて、軍事行動によらず、政治的手段で達成された場合が最も安定した国境確定になることを、近年の経験が示しています。イラクとクウェートの例も、この事件は世界共同体を袋小路に立たせてしまいましたが、やはりそのことを証明しています。
 「国家主権の行為」が途方もない悪徳行為になるということで忘れることのできないのは、サハリン上空で二百六十九人の乗客・乗務員を乗せた韓国の大型旅客機が、ソ連の領空を侵犯したというただそれだけの理由で撃墜された事件です(=一九八三年九月一日)。相手が軍用機なら理解できます。それはボーイング旅客機だったのです……。
 軍関係者が弁解の理由として挙げているように、スパイ飛行だったとしても、その場合ですら、そのような罪を犯すことは考えられないことです。当時も、その後も、私はそのことで新聞に意見を発表しようとしたのですが、鉄筋コンクリート造りの国家主権の論理に穴をあけることはできませんでした。私たちは軍人の犯罪行為に対して謝罪することもできませんでした。そのことが心に重くのしかかっています。
 現代の中心的問題が、地域的および全地球的統合の流れと民族主義との間の矛盾であることは、まったく明白です。一見この矛盾は、北の先進国と南の発展途上国との間の矛盾と符合しているように見えますが、おそらくそれは違うでしょう。いずれにしろ、注目に値するのは、最近、統合に向かって進んでいるヨーロッパが旧ソ連の民族的分裂問題を懸念材料として、場合によってはヨーロッパ統合のつまずきの石となりうるものとして注視していることです。
 問題は、技術の進歩が、かつて予想されていたように、民族的・人種的矛盾を和らげなかったばかりか、逆にそれを先鋭化させていることにあります。
6  進歩は生活の伝統的なしきたりを破壊し、個人は今まで慣れ親しんでいた支えを失い、先行き不安の世界を前にして途方に暮れて、同じ民族というものによって立つ大地、あるいは心のやすらぎを求めています。また、交通手段の発達によって、国境を越えての移動が容易になり、そのため不特定多数のさまざまな人種、民族が接触する機会が急増したのですが、そのさい、人々はかならずしも相互理解を得られていないのが実情のようです。
 換言すれば、従来のように単純に国際化を図ることを良しとする行き方は、かえって民族主義の助長につながりかねないことに注意する必要があるのです。その意味で、国際主義と民族主義との均衡点を見いだすことが、人類の未来を考える上でたいへん重要なポイントとなるように思われます。
 国連の後援のもとに「世界市民教育の十年」を組織するというあなたのお考えに全面的に賛成です。応分の力添えをする用意があります。しかし、どうして滞ってしまったのでしょう?
 あなたのおっしゃるように、私たちのどんな言葉も、善良な意図も、実行がともなわなければ空虚なものになってしまいます。しかし、目的は非常に重要であって、全人類的な愛の育成は、それが真実や美と結合すれば、きっと世界を救うことになるでしょう。
 私たちが今日何も恐れることなく、緊急の重大事として話し合っているこの思想、つまりコスモポリタニズムがわが国で非常に悲劇的な運命をたどったことを、強調しておきたいと思います。この思想は、それに命を捧げた立派な人々の遺言状のようなものでもありますから、私にとってはとりわけ貴重です。この思想を実現することは私たちの義務です。
 経済の地域的アンバランスの是正、なかんずく民族的、国家的エゴの克服という課題に取り組まずして、「世界市民」の育成を内実のあるものにすることは困難です。
 この点ですでに世界の新しい経済秩序が形成されつつありますが、そこで最も問題なのは、それが依然として西欧文明の一方的な拡大と普及の域を出ていないことなのです。たしかにそれは、物質的繁栄という点で絶対的優位を示すものではありますが、同時に環境に対し深刻なダメージを与えるものでもあります。
 エコロジークライシス(エコロジー危機)はもう一刻の猶予も許さないところに来ており、それはとりもなおさず、この西欧文明にとってかわりうる新たな価値観を現代社会が渇望していることの証左でもあります。
 おそらくそのような価値観は、あらゆる文明が融合し合っていく中に見いだされていくものと私は期待しております。おのおのの文明の特質が新たな価値観の形成に寄与していくことは、偏狭な民族主義の悪弊を取り除いていくためにも効を奏するにちがいありません。
7  西欧文明、なかんずくキリスト教文明が世界を支配したのは、その教義的優位によるものではなく、植民地政策の結果と言ってよいでしょう。ゆえに私たちが未来に指向すべきは、明らかに文化と文明の多様性であります。
 ところで、この多様性を唱える学者たちは、将来なんらかの普遍的宗教が登場する可能性はないとみています――私自身は魂のそのような統合を渇望しているのですが――。なぜならば、そのような普遍化した宗教は、必然的に合成的なものになり、そこでは豊かな感情が欠落してしまうからだと主張しているようですから。
 しかし私は、すべての世界宗教を結ぶ共通項は「普遍性」にあると思っています。その普遍性を指向しているエキュメニズムを、世界の心ある人々、良識の人々がしっかり支えていくべきだとも考えます。
 世界の各地でさまざまな紛争が化膿した腫れ物のように噴き出しているときに、そのようなことを言うのは無謀であることはわかっています。おめでたい理想主義者と見られるでしょう。そう言われてもかまわないと思っています。人類は、生き残って、子孫を残そうと望むならば、団結しなければなりません。私は「望むならば」と言いましたが、じつはそこが問題なのです。
 種を保存するという本能を失いつつあり、あるいは失ってしまったような人間もいます。この現実は、それがいかに苦い恐ろしいものでも、ぜひ直視していくべきです。現代人は、あたかも、自分の中にたまった悪意と絶望感をもてあまし、それを昇華させる努力もせずに、いたずらに野望をいだくことで自身をごまかし、その野望のためには未来の世代を犠牲にすることもいとわないように見受けられるのです。
 本来、人間の最高の幸福は、生命を尊び、愛するという行為の中にあるはずなのです。それを多くの人々が忘れてしまったかのようです。であれば、思い出すように働きかけていきたいものです。後になって悪夢から覚めた人々が、「なぜもっと早く知らせてくれなかったのか」と嘆くことのないようにです。
8  池田 冒頭の書簡でふれたエリー・ヴィーゼル氏の言葉を、もう一度想起してみましょう。彼は、傷心のゴルバチョフ大統領の印象を生々しく語ったあと、次のように述べています。
 「世紀末が近づきます。すべては失敗でした。夢が悪夢になって、共産党は崩壊しました。問題は、何が共産主義にとって代わるのか、ということです。ナショナリズムだという人もいます。私は、むしろ宗教だと思います。組織化された宗教のことでなく、宗教性ということです。私たちに欠けているのは精神性です。だからこそ私は、より高度で、より説得力があり、かつ慎ましやかな『ヒューマニズム』こそが、あらゆるイデオロギーや狂信的な動きにとって代わると思います」(前掲『朝日ジャーナル』)と。
 私は、全面的に賛成であり、なおかつ、そのようなグローバルな流れを作っていかなければならないと思っています。普遍的宗教なるものの内実がどうであれ、それは、ヴィーゼル氏の言うところの「ヒューマニズム」の形成に寄与するものでなければならず、それには、固定化された教義や組織などの“ハード”な側面よりも、人間の内面から発現してくる宗教性、精神性といった“ソフト”面が重視されるべきは当然のことでしょう。
 そうした宗教が、はたしてありうるのかどうかは、たしかに人類的課題であります。互いに争い、相せめぎ合って屍累々たる宗教史に愛想づかしをするのは当然ですが、だからといって、諸宗教が単純に統一すればよいというものではないし、実際問題、それは不可能でしょう。よし、可能となったとしても、そうした方向づけが、宗教そのもののバイタリティーを減少させてしまうという、あなたの挙げた学者の意見も一理あるのです。
 その上で、なおかつ私は、あなたの「私自身は魂のそのような統合を渇望している」とのひそやかな願いに応えうる宗教はある、と申し上げておきたい。そうではなく旧態依然たるセクト争いを繰り返したり、その結果「ヒューマニズム」どころか、「人間」や「人間性」を狂信の奴隷にしてしまうような宗教に未来はなく、普遍的宗教を名乗る資格などありません。
 そうした点を感じ取ってくれたのでしょう、ヴィーゼル氏は、今春、私どもの運動、理念について、次のようなコメントを寄せてくれました。
 「宗教は本来、人々を結び合うものであって、分離させるものではありません。しかし同時に、過去幾世紀にもわたり、神の名のもとに宗教が殺し合いの歴史を繰り返してきた事実を忘れてはなりません。だから、宗教は今その再人間化が必要なのです。人間のための宗教、平和のための宗教の必要性を説いているSGI会長の意見に全く賛成です」(「聖教新聞」一九九一年三月三日付)

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