Nichiren・Ikeda
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調和ある民族の統合
「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)
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1
池田
今、ペレストロイカを推進中の貴国がかかえておられる最大の問題は、「民族」の問題であると思います。たとえばアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国との争いに代表される民族間の対立・抗争、また、その処理をめぐっての中央政府に対する諸民族からの不満の抗議、自治権の拡大を求めるリトアニア共和国などバルト三国の動き等々――。
民族問題、とくにグルジアの問題をめぐり、レーニンとスターリンが激しく対立したことは私もよく承知しております。空しく病に倒れたレーニンの歯ぎしりを尻目に、結局、スターリンの考えにより、被抑圧民族の独立を否認した形で問題処理がなされ、それが今日にいたるまで尾を引いているわけであります。ソ連が多民族国家であるがゆえにかかえる、まことにむずかしい問題が、ペレストロイカの行く手に立ちはだかっています。
これを中央集権的な強力支配によって統制していくことは、ペレストロイカがめざす民主化の方向性と矛盾するし、かといって、そのままにして手をこまねいていては、“共和国連邦”としてのソ連国家の一体性とその存立を保持することはむずかしくなります。これは日本のような国からは想像もつかない、やっかいな問題と言えましょう。かつて「失うものは鉄鎖のみ」と言われ、また「祖国をもたない」と言われたプロレタリアートなるものは、今や壮大なる虚構となりつつあります。
たしかに、プロレタリア国際主義という理念が、青年たちから熱狂的に迎えられた時期もありました。
しかし、たとえばベルジャーエフなどは、その虚構性――第三インターナショナルといっても、その実、“第三のローマ、モスクワ”というロシア固有のメシア的理念の異名にすぎないとして、こう述べております。「若い人たちのソヴェト体制に対する情熱のうちには、ロシア民族の宗教的エネルギーが入りこんでいる。もしこの宗教的エネルギーが枯渇すれば、体制への熱情もまた枯渇し、共産主義の社会でもけっしてありえなくはない私利私欲が頭をもたげてくるだろう」(『ロシア共産主義の歴史と意味』田中西二郎・新谷敬三郎訳、『ベルジャーエフ著作集7』白水社)と。残念ながら、このベルジャーエフの指摘は、驚くべき精度で的中してしまったと言わざるをえないでしょう。
それぞれの民族には、それぞれ固有の歴史と文化があり、ソ連は、それらを内にかかえていることで多様性に富む国家となっているのです。しかし、そこに矛盾と対立が生じ、あまつさえそれが激化すると、あたかもガン細胞が身体の健康をむしばんでいくように、国家としての健全さは失われていかざるをえません。
スイスの思想家ヴェルナー・ケーギは、「けだし一つの世界、甲の形にせよ乙の形にせよおそらく我々の未来を成すであろう一つの世界、この一つの世界も、故里という細胞群――精神生活が、東でも西でもその都度その都度栄えた細胞群――が健康を維持する限りにおいてのみ生きうる」(『小国家の理念 歴史的省察』日本版「まえがき」坂井直芳訳、中央公論社)と語っています。
ここに、ケーギの言う「故里という細胞群」とは、まさに、それぞれの民族に固有の文化を意味しています。そして、それが「健康を維持している」ということは、民族の文化がそれぞれ生き生きと継承され、発展し、他の文化と調和し、交流していることにほかなりません。
民族という土着性と、連邦国家としての普遍性を、どのようにつなぎ、調和させていくか、あるいは諸民族の多様性を重んじつつ、どのように統合していくか――ペレストロイカの前に立ちはだかる最大の難関と言えましょう。
私は民族による民族の抑圧には反対であるし、また閉鎖的な民族主義にも反対です。あなたは、ソ連のような多民族国家において、多様性の統一をもたらしていくには、何が必要であると思われますか。
2
アイトマートフ
ときどき考えることですが、もしも人類全体が追放されて、皆が一度に月に投げ出されたとしたら、おそらくその時は、私たちは、熱狂的な民族主義に屈して、心と意識をむしばまれ、「群集心理」のとりこになった自分たちの中に巣くう悪業がどんなものであるかを、理解し、悔い改めることでしょう。
こんな乱暴な考えをどうか許していただきたいと思います。ただ、民族問題を考えだすと、ふと救いがたい気分に襲われ、目の前がまっ暗になってしまうのです……。
池田
中国の孟子の言葉に「敵国外患無き者は、国恒に亡ぶ」とありますが、たしかにあなたのおっしゃるケースか、火星人でも攻撃してくれば、民族主義などに執着してはいられないでしょうが、それでは悪循環を断ち切ることはできませんね。そうした外的条件がなくなれば、またぞろ、偏狭な民族意識が噴出してくるに決まっているのですから。
バルト三国
バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアの三共和国は、一九九一年に独立。
ベルジャーエフ
一八七四年―一九四八年。ロシアの神秘主義的宗教学者。
インターナショナル
社会主義運動の国際組織。第一、第二、第三とあり、第三インターナショナルはレーニンらの指導で一九一九年に創設された。
“第三のローマ、モスクワ”……
古代ローマの分裂によって正教教会国家ビザンチン帝国が生まれたが(第二のローマ)、その崩壊後、ロシアのモスクワ国家が第三のローマとなって、すなわちロシア民族が正統信仰を護持する神に選ばれた唯一の民族として、メシア(救世主キリスト)的役割を遂行するという理念。
ヴェルナー・ケーギ
一九〇一年―七九年。文化史家。
孟子
前三七二年―前二八九年。中国・戦国時代の思想家。孔子の思想を受け継ぎ、性善説にもとづいて王道主義の対話を説いた。
3
アイトマートフ
民族問題に専門家はおそらくいないでしょう。あらゆる人にかかわることだからです。恐ろしいことながら、たどりつく結論は、哲学的討論も、政治上の学説も、尊敬すべき人々の説諭も、民族主義者にあおられて狂暴化した、たけり立つ群衆に対してはまったく無力だということです。私はそのことを何度も自分の目で見ました。
時として私は思うのですが、民族問題についての包括的な国際的プログラムをもつことが絶対に必要です。いたるところで、ことに多民族社会で、無条件に守られねばならない聖なる戒律として、絶対的な決まりとして、個人と民族の世界的地位の確立が必要です。
圧政を敷きたい為政者は、きまって民族主義的動きを厳重に封じてきています。それは理由のないことではないでしょう。だとすれば、圧政にいたる前に、民族主義的熱狂をあおりたてる人々を容赦なく罰してしまったほうが良いのでは……。
さまざまな想念が浮かんできます。……いや、放っておけば、そのうち強権が発動し、彼ら民族主義者は残らず消されてしまう……。では、その場合に民衆がこうむる悲劇は……。現在騒ぎたてている民族主義者たちは、それが強権の到来を招きかねないということを、考えたことがあるのでしょうか。……おそらく考えていないのでしょう。
しかし、危機の到来を待ち、それが何らかの形で問題を解決することを当てにして、病気の経過を眺めているのは罰当たりでしょう。血が流され、人々が死んでいます。今や憎しみの中で生まれる者たちが悪の産着の中で成長することになります。急いで手を打たねばなりません。しかし、どんな手を打つべきでしょう?
そうなると「ぜひとも大統領令を出して、……を禁止し、……を義務化し、……を厳罰に処してもらいたい!」という類の声があちこちに聞こえ始めました。そういうことを要求している人たちは、それなりにまじめに物事を考えているのでしょう。それを疑うつもりはありません。
しかし、そこでは「鉄の手」によってもたらされる「秩序」が最優先されているように思います。それは恐ろしいことです。何よりもまず、それは問題の本質的解決ではありません。それのみか「病気」を奥深い内部へ追いやるだけです。
病を治すのは医者ではなく、自分自身だと言われているように、民衆も権力の強い手を頼むのではなく、民衆自身の中に治癒の力を発見していくべきです。ただ、そのためにも、病の原因を知らねばなりません。そこかしこに爆発し、大地を揺るがす、この民族主義という地殻変動の震源は何なのか、いったいどこにあるのかを、つきとめる必要があると思うのです。
この地殻変動は、人類史を通じて止まったためしがないのです。どうしてでしょう? 社会的体制や、言語と文化の相違のみによって説明したのでは、明らかに袋小路に入ってしまいます。これらすべて、および「生活空間」獲得の闘いという考えすらも、結果の結果にすぎません。
4
池田
私の記憶に間違いがなければ、かつて「民族」に比べれば「階級」などものの数ではないと言ったのは、ナショナリスト、ド・ゴールでした。たしかに、“諸民族の牢獄”と言われた帝政ロシアの圧政から解放され、すでに長らく、民族問題は解決済みとされてきたソ連における民族紛争の頻発は、残念ながらド・ゴールの言葉の正しさを裏付けているかのようです。
それにしても、民族意識という人間の当然の権利であり、人間の尊厳を形成する重要な柱ともいうべきものが、今世紀におけるような暴力性、狂信性、凶暴性を帯びてきたのは、近代化にともなう民族国家の発展と深く関係しているようです。
ここでは、深く立ち入りませんが、たとえば、先に挙げたマルセルは、隣人を匿名化してしまう近代人の「抽象化の精神」の裏面には、かならず「情念的側面」が存在している、としています。
往昔の民族紛争を素朴な――というと語弊がありますが――暴力性というならば、凶暴性というしかない昨今の民族エネルギーの噴出は、やはり、近代というもののもつ病理と、深く通じているのです。私は、一見、「階級」と「民族」のせめぎ合いのように見えるソ連における民族問題を、よりこじらせてしまっている原因に、この「抽象化の精神」があると思っております。
ド・ゴール
一八九〇年―一九七〇年。フランスの軍人、政治家。ナチスへの抵抗で国民を鼓舞。
民族国家
ネーション・ステイツ。民族を構成要素とした国家。
5
アイトマートフ
ファシズムを積極的に育んだものに「人種的優位」の理論があります。これはナチス・ドイツの理論家、ローゼンベルク男爵のユニークな発明ではありません。この理論はずっと昔から存在し、容易に駆逐しえない根強さをもっています。人類はその理論を無きものとするためにあらゆる手段をとって、いったんはそれを追放するのですが、その理論はふたたび発生して、ふたたび人類に挑戦状をつきつけます。
ソビエトの時代に、人種的優位論のライバルとして登場したのが「階級的優位」のドグマでした。この理論のルーツについてはあまり明らかにされていないようです。それというのも、私たち自身、長い間、そのルーツは? と問うようなことをしなかったからなのですが。
いずれにしても、この「階級的優位論」はなみなみではない危険をはらんだものでした。その危険性については、「プロレタリアート独裁」がもたらすであろう種々の結末をシミュレートした学者たちが、かなり以前から指摘していたところでもあります。無政府主義者として知られるA・A・バクーニンもその一人です。
残念なことに、彼の書いたものが解禁されて私たちが読めるようになったのは、つい最近のことです。このバクーニンは、国家社会主義者のありうべき行動を予想して、次のように書いています。
「彼等は……農民に共産主義を押しつけようとするだろう。彼等は全農民大衆を自分等に反して立ち上がらせ、武装するだろう。そして農民の暴動を鎮圧するために、よく訓練され、よく組織された巨大な軍事力に頼らざるをえなくなるだろう。彼等は軍隊を反動勢力に渡し、自らの環境の中に反動的軍人、野心家の将軍を生み出すだろう。彼等はその強固な国家機構の助けによって、まもなく国家の機関士、つまり独裁者、皇帝を実現するだろう」
私は決してテーマを避けているわけではありません。ただ問題を別の側面から眺めてみたいだけです。つまり、「新しい世界」「新しい祖国」を創り出そうという試みは、それらのスローガンがみずからの完全な不道徳性を明らかにしたことは別にして、それらは、それにもかかわらず、狂気の盲目的な力としての役割を演じて、生活の構造を破壊し、例えて言えば、民衆の昔からの文化を包み込んでいる基本的な精神層を拭い去ってしまいました。
そこには数千年の生活建設の過程で作り出されたあらゆる種類の芸術も入っています。「古い」世界のあった場所に闇とカオス(混沌)が支配し始めました。
しかし、それも予見されていました。同じバクーニンによって『プルードン流のアナーキー』に未来の集団化の光景が次のように描写されています。共産主義国家は自由な農業協同組合の場所にみずからをおいて、農業労働の中央集権的管理に乗りだすであろう。この国家は「みずからの官僚に土地耕作の運営と農民への賃金の支払いをゆだねるであろう。そのことは恐るべき混乱と、悲惨な横領と、忌まわしい圧制をもたらすであろう」と。それはすべて私たちのもとに存在するものです。だれ彼かまわずに「敵」に加えられてしまった人々の予言が的中していることには、驚くべきものがあります。
「自由がないところには、パンもない」という言葉もあります。ここからどんな結論が出てくるのでしょうか? 人間が自由でありたいと望むのは、満腹したいからである、というのは、いずれにしろ、人間に対する乱暴な嘘であり、でたらめです。なぜならば、よく知られているように、人間はパンのみによるにあらず、だからです。
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もちろん、人間を飢餓に追い込んではなりません。そういう政治を正当化するような「高度な」利益はないし、またありえません。そういう政治は犯罪と呼ばれます。何らかの思想の「支持者」を食べ物で募るということは、その思想の本質が残忍で、非人間的なものであることの証です。それは、バクーニンの考えによれば、社会主義国家の市民の道徳的、知的堕落を引き起こすものです。バクーニンは書いています。「そのような社会は人間の社会ではなくて、家畜の社会となろう。それは、長い間自分たちをジェスイット教団に統治させた不幸なパラグアイ共和国の二の舞いとなろう。そのような社会は間もなく白痴の最低階級へ落ちることが避けられないであろう」。
あらゆるものを測る尺度は人間です。人間の尺度とは自由への抑えがたい憧れです。ところがその偉大な運動が途中で民族間戦争に変わってしまうとしたら、私たちは身の置きどころがありません。
私は未来の統一社会の組織構造がどのようなものになるかは知りませんが、その組織構造が正しいものであるためには、その社会のすべての人々が、民族にかかわりなく、自分の自由と他人の自由を何よりも高く尊敬しているような状態でなければならない、ということだけははっきりわかっています。
それは可能でしょうか? 理想でしょうか? いずれ現実が証明しますが……。
ローゼンベルク
一八九三年―一九四六年。ドイツの政治家。
A・A・バクーニン
一八一四年―七六年。ロシアの革命家、社会思想家。
ジェスイット教団
イエズス会。一五三四年、宗教改革に対抗して結成されたローマ・カトリック教会の教団。
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池田
私は、偏狭でファナティック(狂信的)な民族意識を変革していく上で、いちばんカギを握っているのは、おそらく教育であると思っています。私どもは、世界の教科書展や、小中学生の交流、子どもたちの絵画展、ユニセフ展など、子どもたちの世界を広げるためのさまざまな企画を催してきておりますが、それらをとおして痛感することは、子どもたちが生来のコスモポリタンであるということです。彼ら彼女らの笑顔はじつに屈託なく、心広々と、すべてにわたって開放的です。
そうした子どもたちが、長ずるにしたがって、偏狭なナショナリストへと変貌を遂げていくのは、じつに悲しいことであり、教育それも学校教育にかぎらず、社会や家庭をも含む教育環境に、重大な欠陥があったからなのです。私はそう確信しています。
N・カズンズ氏も、このことを繰り返し強調していました。「単にアメリカだけでなく、世界の大部分における教育の大きな失敗は、教育が人々に人類意識ではなくて、部族意識を持たせてしまったことである」(前掲『人間の選択 自伝的覚え書き』)と。
今後の世界では“国家主義”よりも“人類主義”、“国益”よりも“人類益”を志向するグローバリズムが不可欠ですが、それにはカズンズ氏の言う「人類意識」をどう育てていくかが最大の課題となってきます。今まで教育者は、事の重大性にもかかわらず、あまりにこのことに無関心すぎたのです。
部族意識や民族意識ということは、今年(一九九一年)の六月、哲人政治家として知られるドイツのヴァイツゼッカー大統領とお会いしたときも、重要なテーマとなりました。ドイツも日本も、さして遠くない過去に、思い上がった狂信的なナショナリズムに引きずられ、破滅の道を転がり落ちた悲劇的な体験をもっているだけに、相互に「開かれた」社会でなければならないという点で、深く同意しました。
大統領は「世界的に平和に寄与されているSGI(=創価学会インタナショナル)の皆さんが、その活動を通じ、地球的規模でそれぞれの地域を『開かれた』ものにしていくべく貢献されんことを、心から期待してやみません」(「聖教新聞」一九九一年六月十四日付)と述べておられましたが、それはまた、私の深く期しているところでもあります。
真実の宗教つまり世界宗教とは、そうした教育運動と連動し、それを支えるものでなければならないでしょう。
ユニセフ
国連児童基金。発展途上国の児童の援助を行う。
ヴァイツゼッカー
一九二〇年―。元西ドイツ大統領、九〇年~九四年に統一ドイツの初代大統領。ナチス・ドイツの蛮行に対する深い反省を表明する演説は世界に感銘を与えた。
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