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日蓮大聖人・池田大作

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対話の重要性について  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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3  池田 あなたのおっしゃるように、西洋では、世界を支配している隠された神の意思を忖度することから発して、自然法則の発見、自然の仕組みの探求という成果をもたらし、それが科学の発達へと道を開いてきました。発見を意味する英語の「discover」が「dis」(取り去る)と「cover」(覆い)の合わさった言葉であるのは、そのことを物語っていま
 しょう。また自分たちの住む世界とは異質な世界として、東洋を認識してきました。
 そして東洋では、人間の内的世界と外なる宇宙をともに貫き、支配している根源として「法(ダルマ)」あるいは「道(タオ)」なるものを見いだしています。
 つまり西洋では世界を対象化することによって認識しようとしたのに対して、東洋では世界と合一することによって真理を体得しようとしたのです。世界を対象化する武器は言葉です。言葉によって世界の部分を切り取って一つの概念に組み立て、それらをふたたびつなぎ合わせて世界を再構成するのです。しかし東洋では世界と合一しようとする行為の中に世界の全体を直観しようとします。
 この両洋の文化は、互いに排斥し合うよりも、弁証法的に統一されるのが望ましいのです。東西の対話によってこそ“地球的文明”構築への地平が望まれるからです。
 現代は“地球的文明”がユートピアや空想的スローガンではなく、現実の問題として我々の視野に入ってきた時代です。私も一九八九年六月、フランス学士院での「東西における芸術と精神性」と題する講演を「地球文明の/はるかなる地平へ――」という一節で結びました。
 こうした地球文明の萌芽とも言うべきものを濃厚に体現していたスケールの人として、ゲーテが挙げられますね。『ファウスト』(大山定一訳、『筑摩世界文学大系24 ゲーテⅠ』所収、筑摩書房)の中で、聖書の「太初に言葉ありき」をそのまま翻訳したのでは、どうしてもしっくりいかず「こころありき」「力ありき」と試みたあげく「はじめに行いありき」としてようやく納得するというくだりがあります。こうした大操作は、西洋文明の言葉(ロゴス)中心主義的性格を、もう一歩超えようとするゲーテの志向性をはっきり示しております。
4  アイトマートフ ところで、時が過ぎ、ペレストロイカは思想的デマゴギーの覆いを剥ぎ取りました。そしてふたたび明らかになったことは、モノローグ主義の支配をめざし、対話文化をブルジョア的妥協として否定したことが、少なからざる精神的、学問的損失を招いたということです。
 モノローグはハードパワーであると言ってよいでしょう。だからこそ冷戦時代にはモノローグ主義がかくも顕著だったのです。良きにつけ悪しきにつけ、大衆――群衆――を何らかの激しい行動に向かわせるためには、たしかにモノローグが有効であることは間違いありません。
 しかし、たとえそうだとしても、またいかなる場合においても、人間の最も高度な英知は、「妥協」という行為の中に現れるものです。なぜなら、対話において双方の立場、利益が考慮されるとき初めて、人は妥協できるものだからです。これを個人にあてはめて言えば、他者の立場に立ち、自分のことのように思いやり、その人のために自分はこのように行動せざるをえないと感じ、それが結局、他者にとっても自分にとっても良いのだと納得することだと言えます。
 はからずも釈尊の教えが脳裏に浮かんできます。「敗者というものは勝者をねたみ、対等でありたいと欲する。ゆえに勝者はそのような敗者の心情に賢明に配慮してあげなさい。敗者に復讐の念をいだかせないような関係と雰囲気を作っていきなさい」という主旨の教えだったと記憶しているのですが、これはまさに対話の基本と言ってよいでしょう。
 世界は今、新たな歴史的対話を経験しています。私はこの時代に遭遇し、この時代を生きていることに感謝しています。これは私たち皆にとって共通の幸福ですね。対話とは無縁だった野蛮な時代は、まだ私たちの記憶に新しいところです。
 換言すれば、対話は野蛮な思考にとって禁忌であるということ、野蛮な思考はただ一つの支配形態のみを前提としているものであり、それは力を通じての、モノローグを通じての世界の完全な支配であり、命令と懲罰の恐怖による服従というレベルでの一人による多数の支配である、ということを忘れてはならないでしょう。
 仏陀も、キリストも、みずからの説教においてしばしば対話を利用しました。偶然ではないと思います。対話は思考と現実認識の柔軟性の証です。
 老子は、生まれたばかりの赤ん坊は柔らかくて優しく、老人は死ぬ時、固くて動きが少ない、つまり赤ん坊は周囲の世界との対話に入ろうとしており、死につつある老人が対話の能力を失っているのは多分偶然ではなかろう、と言っています。
 昔の賢人は対話に関して多くの教訓を残しています。「おまえが私に見えるように、一言でいいから言ってくれ」という言葉は、ソクラテスが若い哲学者のカリクレスに言ったことになっています。どういう意味にとるべきでしょうか? 人間は黙っているかぎり、見えない存在だ、ということでしょう。
 しかし、政治において言葉が、往々にして真の意図を隠す手段になっているのは周知のことです。
 そうだとすると、政治家同士の会談、あるいは政治家と「庶民」との話し合いを、対話と呼ぶことはできるのでしょうか。
5  池田 信頼を相互理解の必須条件として強調していらっしゃることは正しいと思います。それにはまず第一に政治において信頼が必要です。それにしても、政治の世界における言葉が、今日のように堕落してしまったのは、いつからでしょうね。それは、政治そのものの堕落とまったく軌を一にしております。
 古来、政治は最も人間に本質的なもの、人間が人間であることの最大の要件でありました。
 それは、たとえばアリストテレスが、人間を定義するのに、第一に「政治的動物」とし、第二に「言葉を発する動物」とした点に、はっきり見てとれます。すなわち、人間は、家庭という自然発生的な場で生活しているかぎり、動物と本質的な差はない。そこを離れて、ポリスという共同体を形成し、そこで言論活動を行うことによって、人間になることができるわけです。
 古代ギリシャのポリスにあっては、政治の主役は権力や暴力による支配ではなく、言論による説得と合意にありました。政治活動は即言論活動であり、政治の世界における言葉は人間であることの最も尊い証でした。プラトンが、政治にたずさわり、政治を宰領する資格を、独り哲人に与えたのも、ゆえなきことではなかったのです。
 ポリスという小規模な場と、現代の大衆社会とは、たんに規模だけでなく質的にもたいへん異なっており、単純な類推は許されませんが、あたかも支配欲、名誉欲、金銭欲の奴隷となってしまったかのような現代の政治の世界にあって、言論や対話というものの昔日の栄光はまったく色褪せてしまったかのようです。
 あなたのおっしゃるダイアローグ(対話、対話劇)ならぬモノローグは、かつてのソ連のようなハードな形ばかりでなく、自由主義社会にあっても「孤独な群衆」(D・リースマン)といったソフトな形で、浸透しております。
 そこにおいて、対話を復活させるのは至難の業ですが、手をこまねいていれば、事態は悪化するばかりです。ともあれ、今日、政治は今までとはまったく別の、いわば、正反対の役割を果たさなければなりません。諸民族を引き離すのではなくて、単一の人類に結合させねばならないのです。
 アイトマートフ 政治が背徳的な芸術あるいはゲームから、真に気高い人道的な原則にのっとりつつ、心を開いて全人類的な問題を話し合う賢人たちの対話に変わってほしいと思います。
 池田 こうして私たちが好きなことを話し合って、お互いによく理解し合っていることも政治ではないでしょうか。
 アイトマートフ それはどうでしょう。ただ私はあなたと意思の疎通ができて幸福です。
 池田 私も同様です。あなたのおかげで、私はあなたが代表なさっている国民がよりよく理解できるようになり、前よりももっと好きになりました。
 孔子
 前五五一年―前四七九年。中国・春秋時代の思想家。儒家の祖。『論語』はその言行録。
 百十五カ国
 一九九六年五月の時点で百二十八カ国・地域。
 ノーマン・カズンズ
 一九一五年―九〇年。アメリカのジャーナリスト、小説家。平和運動で知られる。
 老子
 中国・周代の思想家。宇宙の根本原理を「道」「無」として無為自然を説いた。
 アリストテレス
 前三八四年―前三二二年。古代ギリシャの哲学者。多方面にわたる学的体系を立てた。プラトンの弟子。
 D・リースマン
 一九〇九年―。アメリカの社会学者。

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