Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

文学と政治のかかわり  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
5  池田 ここにいたってあなたの問題意識の所在がはっきりしてまいりました。
 あなたは、ひとことで言えば、芸術を必要としないような理想社会を心に描いているようです。それは、文学が、あらためて人生や、社会や世界の在り方といった普遍的な問題を論じなくともすむような社会――芸術家が芸術家の名前において社会にかかわっていく必要のないような一つのユートピアということになるのでしょう。
 そこで思い出されるのは、プラトンの『国家篇』における詩人追放論です。プラトンは、芸術を、理想の国から追放しました。その理由としては、ご承知のとおり、芸術が理想の影の模写(ミーメーシス)にすぎず、魂の低劣な部分の作用を引き起こして理知的な部分を阻害し、さらに感情をたかぶらせて感情に左右されやすくすることといったことが挙げられております。
 いうまでもなく、プラトンは、芸術そのものを否定してはおりませんし、むしろ、彼自身が偉大な詩人であったと言えます。そのプラトンが、なぜこのように厳しい詩人追放論を展開したのでしょう。それは彼が、まさにあなたの志向するような理想社会を追求したからなのです。
 文学は、哲学が出現するよりもずっと古くから、戦争の叙述や英雄譚などをとおして、理想的な生き方や人間像などの規範であり、さらに宇宙や神々、政治、軍事といった百般にわたる問題の手本でありました。しかし、プラトンは、そうした役割を、文学から哲学へと移そうとしたのです。そして、文学がそうした現実問題に手を染めなくてもいいような理想国家の建設を志向したのです。
 そのプラトンの理想とは、人間の内なる国制、つまり魂における「正義」を基として、国家における「正義」を描き出しました。こうした内なる魂と外なる国制とが一致するところに人間と社会の幸福や理想があるのだと説き、さらに追求すべき最高の価値として、善のイデアを説いております。
 このような理想的な国家と、指し示された最高価値の全体が、一つの巨大な詩篇をなしていると言えるのではないでしょうか。そのような、「理想」と「政治」とが一致しているような美しく高貴な社会では、政治における詩や文学の役割があらためて問われる必要も少ないことと想像されます。
 ところが、今日の世界を振り返ってみますと、まさに“どこにもない所”というユートピアの本来の語義どおり、このような詩の世界とはほど遠く、「理想」と「現実」が政治や生活においてはるかに隔たった、まことに散文的な相貌を呈していると言わざるをえません。このような時代では、文学者として、否、それ以上に人間として、どうしても現実の諸問題にかかわらざるをえなくなります。
 現段階では「詩の未来は広大である。なぜなら、詩において、その高い運命にふさわしいものの場合には、われらの種族は、時のたつにつれて、いよいよ確実になっていく拠りどころを見いだすはずであるからである」(『マシュー・アーノルド 詩の研究』〈『英米文芸論双書7』〉成田成寿訳注、研究社)というマシュー・アーノルドの主張が説得力をもつことでしょう。
 ブローク
 一八八〇年―一九二一年。ロシア、旧ソ連の詩人、創作家。
 カトゥルス
 前八四年ころ―前五四年ころ。ローマの詩人。
 オウィディウス
 前四三年―後一七年ころ。ローマの詩人。
 イデア
 プラトン哲学の中心概念で、感覚的世界の本質・形となるもの。理性によって認識されうる真の完全な存在。
 マシュー・アーノルド
 一八二二年―八八年。イギリスの詩人、評論家。

1
5