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青年期の読書  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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5  池田 先ほどあなたは、ゲーテに論及されましたが、私の記憶に誤りがなければ、あの言葉はたしか、エッカーマンの『ゲーテとの対話』にあると思います。そこで私も、同書から一つ。ゲーテは、当時の「似非美学的中傷を事とする悪質のジャーナリズム」(前掲、神保光太郎訳)を激しく攻撃しています。「それにより民衆の中一種半可通の文化が現われているがこれは萌え出ようとする才能には性悪な霧となり、襲いかかる毒素となる。そして、創作力を貯えた樹木の美しい緑葉はもとより、髄の奥、繊維の果までうち枯らしてしまう」(同前)と。
 広く、現代のジャーナリズム一般の堕落ぶりは、とうていゲーテの時代の比ではないでしょう。セックスや暴力、スキャンダルをもって大衆の劣情におもねろうとするあからさまな売文主義、センセーショナリズムは、今やジャーナリズム界の大勢となっているかの感さえあります。
 それは日本でも、グラスノスチの急速に進むソ連でも、基本的に変わりはないでしょう。一番の問題点はそこにあります。そこで、ジャーナリズムの自主規制になってきますが、まあ、徹頭徹尾“売文”なのですから、望みうべくもないでしょうね。
 ならば、対抗策として、精神の中に“抗体”を作ってしまうことです。その意味から言えば、残酷なようですが、若者はこの、世紀の病気を経験しなければならないようです。そう思いませんか。
 アイトマートフ 詩人が言ったように、「生きることに気がせいて、感ずることも急がるる」というわけですか。
 池田 うまい言葉です。まさにそのとおりで、若者たちはせっかちです。そして、そこに私はある種の悲劇的な現実認識を感じます。つまり若者たちは、時間が足りなくなることを恐れて、人生から取れるものはすべて取ろうと急いでいます。
 刹那的な享楽を追いつづける彼らの心の奥深いところには、ある種のニヒリズムがひそんでいます。ソ連にあっては、終末観、つまりこの世の終わりに対する恐怖があるのかもしれません。
 アイトマートフ まるでわざと間違ったことをしようとしているようにも見えるけれども、私たちが間違っていたらどんなに良いでしょう。しかし、残念ながら、そのとおりです。
 しかし、それにもかかわらず、希望がなきにしもあらずで、少し慰められるのは、若い人々の中にも、大衆文化の破壊作用に屈服せず、善と悪を区別することができ、愛の中で純潔さを、つまり、一般的に名誉、気高さ、自己犠牲等の「古い」観念を最も大事にして、周囲の仲間に「時代遅れ」と思われ、「感覚がずれている」と言われることを恐れない者が少なからずいることです。
 娯楽読み物が多くの人に好まれるのは、心を緊張させたり、考えたりしなくてもすむからです。その面で私が心配するのは何だと思いますか。何も考えずに暮らしていて、自分をまともだと感じていられるということです。これは危険です、社会的に。
 読書の範囲、図書の選択はそのことによって、すなわち、どのような理想が社会に存在するかということによって、決定的に規定されます。無学者が、一般に教養のない人が、何不足なく暮らすことができて、「学のある人間」が変人扱いされるとしたら、知識は何のためにあるのでしょうか。何のために読むことを学ぶ必要があるのでしょうか。
 池田 おっしゃるとおり「学は光、無学は闇」です。ロシア語の「フセチェロヴェーチェストボ」(全人性)という言葉が私は好きですが、現在、社会意識の中にはっきりと熟しつつある人間の理想は、調和のとれた人格だと思います。現代の若い人たちはそのことを感じないといけません。若い人たちは未来へと足を踏み入れるにあたって、複雑で魅力ある世界で人間の名にふさわしく生きる覚悟をもたないといけません。
 そのためにも、読書を欠かすことはできません。良書を読むということは、たんに知識が増えるだけでなく、それによって“新しい自分”になることでもあるわけですから。
 西田幾多郎
 一八七〇年―一九四五年。
 P・ヴァレリー
 一八七一年―一九四五年。フランスの詩人、思想家、評論家。
 詩人
 ヴャーゼムスキイ。一七九二年―一八七八年。ロシア。

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