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青年期の読書  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  アイトマートフ 青少年の読書の範囲は社会や家庭がおそらく最も頭を痛めていることがらです。幼いうちから本は人間を精神的に日一日と、いってみれば、一文字ずつ形づくります。重要なことは、家庭教育と本とが一致すること、相互に作用し合うことです。
 しかし、その調和はしばしば破られています。ここでは「青年たちが何を読んでいるかがわかれば、その国の未来がわかる」というよく知られた警句がぴったりです。非常に幼稚な考えの持ち主だと言われるのを覚悟の上で、私はこの問題について、保守的かもしれない自分の考えをあえて主張しようと思います。
 青少年の読書は、何よりもまず悪を排除するような若い魂を育てるものでなければなりません。未来はつねに悪との戦いです。そしてそれが主要なことです。そのことを一日たりとも忘れてはなりません。青少年を育てるということは、彼らを悪との戦いに備えさせるということです。あらゆる時代においてそうでしたし、今後もそのことは変わりありません。
 しかも悪はつねに前途にひそんでいます。悪は昔からつねに青少年一人一人をねらっています。一方、善は創造を、魂の不断の努力を要求します。
 しかし、本は、たとえどんなに良い意図をもって書かれたものであっても、面白くも楽しくもないもの、簡単に言って、つまらないものがあります。人は、本の中で「何が良くて何が悪いか」を見分けることを学び取るために、長い時間を、ときには長い年月を費やさなければなりません。
 最初の一節の単語の構成、語句の構造を見て、さらに重要なことはその語句に盛られている思想から、その先に何が書かれているか、そもそも、その本は読むに値するか否かを判断することは、簡単なことのように見えて、そのじつは、多くの努力と時間を要することです。
 たくさんのつまらない、月並みな、紋切り型の出版物のジャングルの中をどれだけ長くさまよい歩かねばならないでしょう。若い人たちにはその密林の中でいつまでも道に迷ってほしくないし、空虚な教訓や、美辞麗句や、剥き出しの宣伝文句の泥沼に足を取られないようにしてほしいと思います。
 しかし、そのためにはどうしたらいいのでしょう? 私のおめでたい牧歌調の考えがいささか現実離れしたものであることはよくわかっています。私が、気になっているのは、青少年を良い読者にするにはどうしたらいいか、ということです。
 道は一つしかないように思います。それは、意識的にそのことをめざすということです。ゲーテの言葉を思い出します。彼は生涯ずっと読むことを学んでいる、と、すでに高齢になっているにもかかわらず、恐れずに告白したのです。かのゲーテにしていまだに学んでいる、と!
 そこで私は考えます――読むことを学ぶということはどういうことか、と。
 一般的に、読書は、情緒的、道徳的生活の特殊な形態であり、その人のもつ追体験の能力が大きく深ければ深いほど、それは輝かしいものになります。
3  池田 あなたのおっしゃる「追体験の能力」を「想像力」と置き換えてみれば、ゲーテの「読むことを学ぶ」ということは、生涯、想像力を鍛え上げていくことに通ずるでしょう。
 これは、考える以上にむずかしいことであって、むしろ、若いころの活発な想像力が、年とともに衰え、摩滅していく例のほうが多いのです。P・ヴァレリーは「ゲーテにあって何よりも先ず私の一驚することは、あの非常な長命であります」(「ゲエテ頌」佐藤正彰訳、『ヴァレリー全集8』所収、筑摩書房)と述べていますが、その長命とは、馬齢を加えることでは決してなく、年齢を積むほどに成熟し、円熟しゆく想像力の鍛えを意味しています。
 それには、生涯にわたり、若々しい青春のエネルギーを持続していかなければなりません。その点においては、作者であろうと読者であろうと同じことであり、良き読者であることは、良き作者であることと同じく、その人の人間的成長の異名でもあります。
 私は、青年時代、恩師の戸田先生から「書を読め、書に読まれるな」と繰り返し繰り返し教えられましたが、志向していたところは、良き読者としての人間的成長でした。
 とはいえ、その「想像力」「追体験の能力」は、かならずしも生まれながらにして人間に備わっている能力ではなく、努力して発掘され、鍛えられなければならないと思います。
 たしかに、それが多い人もあれば、少ない人もあり、また三番目には……、私が心配しているのはまさにこの三番目の人たちです。彼らが本に求めているのは精神的な喜びではありません。本当の喜びをもたらすのは精神的な喜びだけなのですが、その人たちが選ぶのは、あからさまな性描写か、でなければ暴力や残酷を売り物にする娯楽読み物であり、彼らが模倣の手本にしているのは、目的――それは高尚な装いをしていますが、本質的には低級なものです──達成のために、あらゆる障害を粉砕する「強い」英雄、つまりスーパーマンなのです。
4  アイトマートフ 私もそのことが気がかりです。当然のことですが、現在、昨日までの、内容の乏しい、イデオロギーまるだしの書物は若者たちには受け入れられていません。それらは、いうなれば、色褪せてしまいました。若者たちは、お説教も、大げさな宣言も、偽りの楽天主義も受け付けません。それは結構なことです。
 しかし……それに劣らず悲しいことは、誇張を恐れずに言えば、あなたがおっしゃったように、ポルノグラフィー、暴力の賛美、オカルト等の低級な読み物への大衆的な熱中が見られることです。
 このような反動は理解できます。禁じられた果実はおいしいのです。しかし、残念ながら、あくどい人々がそれを利用して、出版の市場をその種の出版物であふれさせ、若い人々のまだ固まっていない、外部の影響を受けやすい意識に、野性の原始の本能を目覚めさせる下品な文書を雪崩のように浴びせかけています。これこそが永遠の、多数の顔をもつ悪なのです。当然ながら、現在においては、それは「言論の自由」「グラスノスチ」などの「革命的」スローガンのもとに行われています。
 禁止はそこでは役に立ちません。逆効果です。しかしどうしたらいいでしょう? 何かはしないといけません!
5  池田 先ほどあなたは、ゲーテに論及されましたが、私の記憶に誤りがなければ、あの言葉はたしか、エッカーマンの『ゲーテとの対話』にあると思います。そこで私も、同書から一つ。ゲーテは、当時の「似非美学的中傷を事とする悪質のジャーナリズム」(前掲、神保光太郎訳)を激しく攻撃しています。「それにより民衆の中一種半可通の文化が現われているがこれは萌え出ようとする才能には性悪な霧となり、襲いかかる毒素となる。そして、創作力を貯えた樹木の美しい緑葉はもとより、髄の奥、繊維の果までうち枯らしてしまう」(同前)と。
 広く、現代のジャーナリズム一般の堕落ぶりは、とうていゲーテの時代の比ではないでしょう。セックスや暴力、スキャンダルをもって大衆の劣情におもねろうとするあからさまな売文主義、センセーショナリズムは、今やジャーナリズム界の大勢となっているかの感さえあります。
 それは日本でも、グラスノスチの急速に進むソ連でも、基本的に変わりはないでしょう。一番の問題点はそこにあります。そこで、ジャーナリズムの自主規制になってきますが、まあ、徹頭徹尾“売文”なのですから、望みうべくもないでしょうね。
 ならば、対抗策として、精神の中に“抗体”を作ってしまうことです。その意味から言えば、残酷なようですが、若者はこの、世紀の病気を経験しなければならないようです。そう思いませんか。
 アイトマートフ 詩人が言ったように、「生きることに気がせいて、感ずることも急がるる」というわけですか。
 池田 うまい言葉です。まさにそのとおりで、若者たちはせっかちです。そして、そこに私はある種の悲劇的な現実認識を感じます。つまり若者たちは、時間が足りなくなることを恐れて、人生から取れるものはすべて取ろうと急いでいます。
 刹那的な享楽を追いつづける彼らの心の奥深いところには、ある種のニヒリズムがひそんでいます。ソ連にあっては、終末観、つまりこの世の終わりに対する恐怖があるのかもしれません。
 アイトマートフ まるでわざと間違ったことをしようとしているようにも見えるけれども、私たちが間違っていたらどんなに良いでしょう。しかし、残念ながら、そのとおりです。
 しかし、それにもかかわらず、希望がなきにしもあらずで、少し慰められるのは、若い人々の中にも、大衆文化の破壊作用に屈服せず、善と悪を区別することができ、愛の中で純潔さを、つまり、一般的に名誉、気高さ、自己犠牲等の「古い」観念を最も大事にして、周囲の仲間に「時代遅れ」と思われ、「感覚がずれている」と言われることを恐れない者が少なからずいることです。
 娯楽読み物が多くの人に好まれるのは、心を緊張させたり、考えたりしなくてもすむからです。その面で私が心配するのは何だと思いますか。何も考えずに暮らしていて、自分をまともだと感じていられるということです。これは危険です、社会的に。
 読書の範囲、図書の選択はそのことによって、すなわち、どのような理想が社会に存在するかということによって、決定的に規定されます。無学者が、一般に教養のない人が、何不足なく暮らすことができて、「学のある人間」が変人扱いされるとしたら、知識は何のためにあるのでしょうか。何のために読むことを学ぶ必要があるのでしょうか。
 池田 おっしゃるとおり「学は光、無学は闇」です。ロシア語の「フセチェロヴェーチェストボ」(全人性)という言葉が私は好きですが、現在、社会意識の中にはっきりと熟しつつある人間の理想は、調和のとれた人格だと思います。現代の若い人たちはそのことを感じないといけません。若い人たちは未来へと足を踏み入れるにあたって、複雑で魅力ある世界で人間の名にふさわしく生きる覚悟をもたないといけません。
 そのためにも、読書を欠かすことはできません。良書を読むということは、たんに知識が増えるだけでなく、それによって“新しい自分”になることでもあるわけですから。
 西田幾多郎
 一八七〇年―一九四五年。
 P・ヴァレリー
 一八七一年―一九四五年。フランスの詩人、思想家、評論家。
 詩人
 ヴャーゼムスキイ。一七九二年―一八七八年。ロシア。

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