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日蓮大聖人・池田大作

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青年に望むもの  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 私たちはまた、物質的環境にも恵まれていたとは言えない青春時代を送ってきたと思います。が、それゆえにこそ、活字に飢え、教養に渇き、知識の摂取に貪欲であったと思います。私も、戦後の物資窮乏の時代、名著が復刊されると聞けば、店頭で売り出しを待つ若者の行列に加わり、また友と読書サークルを作るなど、むさぼるように知識の吸収に努めた思い出があります。
 今思えば、情報が制約されていた分だけ、そうした取り組みには真剣であれたし、当時学んだことが現在にいたるまで鮮明であるのかもしれません。「われわれはドイツの占領下にあったときほど、自由であったことはなかった」(「沈黙の共和国」白井健三郎訳、『シチュアシオンⅢ サルトル全集 第十巻』所収、人文書院)とのサルトルの逆説は、環境と自己との緊張関係のむずかしさを、よく言い当てていると思います。
 我々の青年時代に比べて現代は、経済的な繁栄に比例して、若者を取り巻く情報は肥大化する一方です。若者はありあまる「モノ社会」の中で、かえって普遍的な価値への関心を失い、かつ「精神の空洞化」におちいり、生き方の上で放縦な傾向にあると言えるのではないでしょうか。
 そこで、みずからの体験に即したかたちで、あなたの青春観についてうかがいたいと思うのです。また、現代の青年に「生きがい」として何を訴え、何を望まれますか。
2  アイトマートフ この問題提起に関しては、私にはあなたの言葉があたかも私自身が発した言葉であるように思えてくるほど、言わんとされているところが深く理解できます。
 現代の青年像をいかにとらえ、彼らに何を期待するか――それは、一見ありきたりの設問にも思えますが、じつはその背後に人類永遠の問いかけ、生きがいへの問いかけを内包している問題ですね。その意味で、これ以上切実かつ心休まらない問題はないのではないでしょうか。
 ゆえに、いつの世もそしてだれもが、新しい世代を眺めては「自分たちは、こんな子どもたちに育てるために苦労して働いてきたのか?」「もしも、歴史は進歩するものだと考える場合、はたして今の若者たちのどこが自分たちの世代より進歩し、刷新され、向上しているのだろうか?」との執拗な自問に何とか答えを出したいと試みるのです。
 ですから、青年について談を進めつつ、あなたが私の生きがいを問われるのも決して偶然ではないはずです。
 思いますのに、いずれ先立っていくであろう親たちが地球上に残す最も偉大な、同時に自己矛盾をはらんだ遺産――それは子どもたちであります。だからこそ、先に行く者たちは、後につづく者たちの行く末を言葉に表せない複雑な心境で気遣い、不安に思うのではないでしょうか。
 そのようなわけで、今は話を始めるのにさえ、困惑を感じます。自分が月並みなお説教屋になってしまいそうだからです。というのも、私の不安や懸念はこの問題についての世間一般の考えの枠を出ていないからです。しかしどうにもなりません。自分からは逃げられないのですから……。
 以前にはほとんど気づかなかった年齢差をこのごろますます強く感ずるようになっています。たぶん、そのためか、私には、生活における良識と不道徳、社会が選んだ発展の方向性の正当性あるいは不正当性といった問題に対する、世代間の理解の違いが、ますます大きくなり、ますます先鋭化しているように思えます。
3  もちろん、ここでだれがどれほど正しいかを断言することは非常にむずかしいことです。たとえば、ソ連の現在の先輩の世代は、かならずしも自分の責任でというわけではありませんが、歴史の誤った「荒野」に迷い込んでしまい、そのことによって八〇~九〇年代の若者を袋小路に立たせてしまったことで罪の意識をもっていますが、その罪の意識をどう説明したらいいのでしょう?
 私たち、父親の世代はペレストロイカに取り組み、若者たちがそのペレストロイカの事業を継続してくれることに期待をかけていました。しかし、彼らは私たちの期待に応えてくれているでしょうか?
 彼らは、彼らに対するわれわれ年長者の要求をどのように理解しているのでしょうか? 社会の民主的改革に対する私たちの意欲と行動を彼らは評価しているのでしょうか? 幼い時から大人社会に軽んじられた若者たちは、今、父親たちの苦悩を、あるいは嘲笑し、あるいは逆に軽んじてやろうと考えているのでは? いや、単純な断定はやめておきます。
 手短に言います。現代の生活はあまりに複雑になっているために、家庭風のありふれたお説教が効果をもつとは思えません。とはいっても、もちろん、たとえば、セックスのさまざまな真似事にだれもかれも熱中しているようなことに対しては、苦言を呈したくもなります。それは自由の履き違えであり、事実は自堕落であり、ポルノグラフィーであり、あえて言えば、人間がきわめて内密な財産として自然界から授かったものに対する、哀れな、常軌を逸した介入です。
 世界中どこでもそのような現代の映像文化、ショー、演劇、絵画、その他の視覚メディアは決まって非難の的に挙げられてはいるのです。しかしいっこうに効を奏さないのは、やはりそういったものに対する需要が絶えないからなのでしょう。
 しかしこれについてはもう十分でしょう。ついでに言ったまでです。
4  池田 いやいや、“ついで”というには、重要すぎるほどの問題が提起されています。とくに“世代の断絶”ということに関して、私も、種々考えていることもありますので、そのポイントと思われる点を述べてみたいと思います。
 P・F・ドラッカーの『断絶の時代』が世に出てから、かれこれ四半世紀以上もたちましょうか、たしかに“世代の断絶”が今日ほど際立ち、深刻な社会問題化している時もないでしょう。「今時の若い者は……」という言葉がギリシャの昔から伝えられているように、“世代の断絶”は、いつの時代にもありました。
 しかし、社会の急速な変化、とくに世代間の重要な橋渡し役をしてきた家庭の教育機能のいちじるしい低下によって、新旧両世代の間のギャップも、容易に越えがたい深さをのぞかせています。
 しかも、変化のスピードたるや、今日の新世代が、数年後には旧世代になりかねないという急テンポぶりです。その上、社会全体から“歴史の進歩”といった感触が薄れつつあり、それにつれて「理想」「目標」「希望」などの、従来、青春とともにあった美しい言葉の数々も、見る影もなく色褪せてしまっているかのようです。
 「今は話を始めるのにさえ、困惑を感じます」というあなたの正直な嘆きは、とりわけ先進国の大人たちに共通のものなのです。日本でも、中学や高校の教師が、よく嘆いています。生徒たちを前に道徳教育をするのがいちばんやりにくい、大切な徳目と思われるものも、話せば話すほど空々しく、その場の空気から浮き上がってしまうのだ――と。
5  さて、こうした事態にどう対処すべきでしょうか。あなたの言う「月並みなお説教屋」にならないためには、どうするのが最善でしょうか。
 私が訴えたいことは、第一に、一方的に相手の非を鳴らすことはやめよう、第二に、まず若者を信ずることから始めよう、以上の二点です。良くも悪くも、現代のような社会を作り上げたのは大人たちです。“子どもは社会の鏡”と言われるように、青少年の心に歪みや劣化が見られるとすれば、それは例外なく社会の矛盾の反映であるからです。
 若者を信ずる――現代に生きる大人たちは、自信をもって、そう言いきることができるでしょうか。信ずる力というものは、相手しだいで決まるのではなく、無条件の力である。現代の若者が信ずるに値するかなどという繰り言とは次元を異にし、人間であるかぎりだれしもが信ずるに値する存在である、という不抜の信念であり自信であります。
 日本の作家・夏目漱石は「他人本位」の生き方ではなく「自分本位」のそれを推奨しましたが、信ずることにかぎらず、愛すること、思いやることなどの徳目で、いちばん大切なことは、言葉の優れた意味での「自分本位」ということです。これは、今日の大人たちが最も忘れがちなことなのです。
 私は、口先だけで申し上げているのではありません。過去、数十万、数百万という青年群の中に飛び込み、彼らとともに語り、ともに行動してきた体験から生みだされた信念なのです。若者たちは、信をもって遇すれば、かならず信をもって応えてきます。所詮は、若者たちの“心の容量”が貧弱化したと嘆く大人たち自身の“心の容量”の問題に帰着してくるのではないでしょうか。
 サルトル
 一九〇五年―八〇年。フランスの実存主義的哲学者、文学者。
 P・F・ドラッカー
 一九〇九年―。アメリカの経済学者。
 夏目漱石
 一八六七年―一九一六年。高い倫理観と理想をもとに個と現実を乗り越えようとした作品は、時代を超えて広く愛されつづけている。
6  アイトマートフ その言葉に励まされて、私が自分の人生経験にもとづいて、青年たちに何を言いたいと思っているか、ということについてお答えしましょう。
 単純な事柄です。第一に、青春は、この世の美しいものの例にもれず、すばやく過ぎ去るものだということを自覚すべきです。きょうは若くても、あすにはもう中年になります。それゆえにこの世を幼時的特権の立場から、年齢的甘えにもとづいて眺めてはいけません。善と悪に年齢の違いはありません。若さのエゴイズムにいつまでも甘えていてはいけません。早いうちから自分が大人の人間としての責任をもっていることを自覚しなさい。成熟した考えをすることのできる頭脳をもっていても、若者が若者であることの妨げにはなりません。
 第二に、これは父親としての助言です。若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。私たちはそれを十分すぎるほど知っています。
 民族主義改革の道を、無血の進化の道を、社会を道理に照らして改革する道を探し求めてください。漸進的発展は、より多くの時間を、より多くの忍耐と妥協を要求し、それによって幸福を育み、ひたひたと満たしていきますが、幸福を暴力で達成しようとはしません。
 私は神に祈ります――若い世代が私たちの過ちに学んでくれますように、と。
7  さて、人生の意義についてですが、これは、人間が地球上に存在するかぎり存在しつづける永遠の問題です。この問題ばかりは戦争や革命によっても、あらゆる理論や教義をもってしても解決されないのです。それらの手段は、解決どころか、むしろ人生の意義を、複雑かつ難題にしてしまうばかりです。
 また、ソ連では批判力をもった民衆が桧舞台に登場し、一方中国においては民主主義が人々の目の前で悲劇的運命をたどっていくといった、社会的状況の深刻な変動も、覚醒も、つまりいかなる事態も、この永遠の問いかけの灯を消すものではありません。
 かくして人間は「生きがいとは」「何のために生きるのか」を思索しつづけ、この終わりのない問いかけに対する答えを、時代の英知が到達可能なかぎりにおいて見いだそうと努力するのが、おのおのの世代に課せられた義務なのだと思います。
 したがって青年は、みずからの人生の目的を何に見いだせばよいのかを、自分の力でよくよく思索しなければなりません。ですから、これからここで私が述べることは、あくまでこの問いについての私個人の理解にすぎません。
 人間はつねに、今現在のとりあえずの欲求を何とか満たそうとして生きていますが、じつは、より本質的次元から見れば、人間の労働、生活、創意、社会規範等、全般にわたって人間存在を意義づけてきた主要な、いな最大の成果は精神文化の形成にありました。
 ドストエフスキーは、もしもこの世の中ですべてが満たされ、皆が食べ物にも衣類にも履物にも不自由しなくなり、どの家のかまどにも火が燃え、だれもが屋根の下で暮らすようになったらどうだろう、その先はいったいどうなるだろう、という問題を考えて、思い悩みました。同じように私たちも想像してみましょう。
 今、地球の広大な地域を覆っている経済的後進性や貧困の苦しみや不幸が、技術文明の援けによって、脱工業化時代の諸発見によって克服され、人間が宇宙の創造者になり、経済的豊かさがあらゆる地域で完全に保障されたとしたら、私たちは、より正確に言えば、私たちの遠い子孫は、物質的欲求を満たすことが生きる目的ではないことを――現在それが心ならずも最終目的のように思われているのは、当面私たちにとってそれ以外のものは言葉の遊びにすぎないからです――発見するでしょう。
 営々と物質的充足をめざして進んでいる私たちが、いつの日か、やはり最終的に求めていたものは物質的満足ではなかった、じつは最高の目的は別にあったと気づく時が来るように思われてなりません。
 人生の最高の目的は、限りなく自己を完成させていくことです。外なる世界を認識する努力、内なる世界を表現する努力、そのような労作業を通じて得られる道徳的、倫理的、精神的自己完成。それが世々代々継がれていくことにより、深遠な神意に、換言すれば自己自身の内にある神聖にして人間的なるものに目覚めていくことが、人生の真の目的だった、と……。
 ドストエフスキー
 一八二一年―八一年。ロシアの小説家。トルストイとともに現代の文学、思想に大きな影響を与える。

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