Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

賢者の勲章、それは希望・友情――  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
2  さて、今回のクーデターの直前、長年にわたり行方のわからなかったご尊父の遺体が確認された。しかも、衣服や身につけるものがすべて朽ち果ててしまったなか、死刑判決を告げる一枚の紙が残っていたことによるとの報告を知り、まことに痛ましくも運命的なつながりのようなものを感じます。
 かつて、あなたの著書の献辞に“いずこの地に葬られているかしれぬ、わが父トレクル・アイトマートフに捧ぐ”とあるのを見いだした時の胸を突かれるような思い、また、あなたが九歳の時、ご尊父が妻子に別れを告げるモスクワのカザン駅での──そうです。おそらく終の別れになるのではないかと予感され、プラットホームの端まで列車を追いかけてこられた時の様子をうかがった時の言いようのない衝撃が、走馬灯のように脳裏を駆けめぐりました。とても、おめでとう、などという言葉は口にできませんが、愛する妻子のもとに帰れたということは、亡きご尊父の霊にとって、せめてものなぐさめであり、喜びであろうと、陰ながら推察するものであります。そして、三十歳から三十五歳という有為の青壮年の命をあたら奪っていった凶暴なイデオロギーに、あらためて怒りを新たにせざるをえません。ご尊父の御霊に、深く哀悼の祈りを捧げさせていただきます。
3  私は、今回初めてボストンの地を訪れ――ハーバード大学での講演のため――、ボストン大学の教授であるエリー・ヴィーゼル氏と、短時間ではありますが、きわめて有意義な語らいのひとときをもつことができました。周知のようにヴィーゼル氏は、アメリカ国籍をもつユダヤ人の作家で、平和・人権のための活動が認められて、五年前にノーベル平和賞を受賞されております。氏は、じつに凄惨かつ数奇な運命をたどられており、トランシルヴァニア地方の小都市シゲトに住んでいた少年のころ、父母、妹との一家四人で、ナチの手によってアウシュヴィッツ収容所に送られ、母と妹はその日のうちに焼き殺され、父もまもなく餓死してしまう。自分だけはかろうじて九死に一生をえて連合軍によって救出されるという、十五歳の少年には耐えられないような悲劇を経験しておられます。
 会談では、当然、そうした体験も語られましたが、もう一つ大きな話題になったのが、ゴルバチョフ大統領のことです。ご存じでしょうか。ヴィーゼル氏は、クーデター後、クリミア半島での軟禁から解放され、モスクワに帰った直後のゴルバチョフ大統領と会っているのです。クーデター中はパリにおられたのですが、クーデター挫折後すぐ、ミッテラン大統領からノーベル平和賞の受賞者として、同じ受賞者のゴルバチョフ大統領を激励してほしいと依頼されてモスクワヘ飛んでおり、会見が八月二十二日ですから、クーデター後、ゴルバチョフ大統領が最初に会った対外要人ではなかったでしょうか。ヴィーゼル氏は、その時の模様を、日本の雑誌にこう記されております。
 「私の前に、ひとりの孤独な男の姿がありました。あれほど孤独な人間に、めったに会ったことはありません。私は作家ですから、彼の内でいったい何が起こったのか、推測してみました。なぜ、これほど孤独なのか……。
 まず明らかなのは、彼が、友人たち、そして友情への信頼を失ったということです。これは、計り知れない喪失です。最悪の場合、愛がなくても人間は何とかやってゆけるかもしれませんが、友情なしで生きることはできません。それを彼は失ったのです」「ゴルバチョフの姿に、私は心を打たれました。彼は、大勢の警護の人々に囲まれていました。あれほど大掛かりな警護態勢は、アメリカでも見たことがありません。しかし、そのまん中で、恐ろしいほどの孤独でした」(『朝日ジャーナル』一九九一年九月十三日号)
4  おそらく、当時のゴルバチョフ大統領の心中を、最も的確に言い当てた文言ではなかったかと思います。私も、テレビの画像に見入りながら、あの快活で、魅力的なゴルビー・スマイルをわずかに残しながらも、いかにも憔悴の色を隠しがたい大統領の姿に、私も二度お会いしているだけに、ことのほか心痛む思いでした。それだけにヴィーゼル氏の印象記には、大統領の心痛のほどがしのばれて、深く心を動かされましたし、その感動はボストンでお会いした時に、あらためて確認することができました。
 私が、なぜ、このようなことを申し上げるかというと、当時も今も、ゴルバチョフ大統領やぺレストロイカに対して、あまりにも浅薄な意見が多すぎるからです。ペレストロイカは終わったとか、左右のバランスに乗ったゴルバチョフ流保身術の破綻とか、ひどいものになると、クーデターの背後に大統領がいたというゴルバチョフ黒幕説まで、じつにさまざまでした。少々、あきれるほかなかったのですが、私には、それらの意見は、自分がそのような次元、そのような貧しい発想でしか行動したことがないからこそ生まれる──日本の諺で言えば「カニはみずからの甲羅に似せて穴を掘る」たぐいのものにしか見えなかったのです。ソ連最高会議員のF・ブルラツキー氏も東京でお会いした時、言っておりました。ゴルバチョフはあえて、ペレストロイカという“火中の栗”を拾わなくても、ソ連共産党書記長という絶大な権力の座に居座りつづけようと思えばできたのです──と。そのゴルバチョフ大統領に“経綸の人”ならぬ“保身の人”を見るのは、ひとかどの人物に対して失礼というものです。そうした次元や発想からは、ヴィーゼル氏のように、友情や信頼を裏切られたものの苦悩、孤独など推察できようはずはありません。
5  彼らが、最も見失いがちなのは、ペレストロイカにかけるゴルバチョフ大統領の、不退転ともいうべき、こう言ってよければ無私の信念です。あなたも同席された昨年七月の私との会見の席上、大統領は言われておりました。「ペレストロイカは、民衆に自由を与えた。しかし、民衆はその自由の使い方を知らない」「長い間、牢の暗闇にいた人間は、太陽の眩しさに耐えられない」「我々は、生きている間にペレストロイカの果実を手にすることはできないかもしれない。しかし、種だけは蒔いておかねばならない」等々と。
 まぎれもない、信念の表白です。はたせるかな、クーデターの内幕が徐々に明らかになってくるにつけ、クリミア半島の別荘に軟禁されたゴルバチョフ大統領が、あらゆる恫喝に一歩もひかず──側近のチェルニャーエフ氏によると、大統領は首謀者たちを「ふざけるな!」とどなりつけたそうです──、信念を守りとおしたことは、日を追って明らかになってきました。クーデターの首謀者たちも、同じように「カニはみずからの甲羅に似せて穴を掘る」通弊におちいっていたのです。政府、軍、KGB等、あらゆる権力基盤のトップが反旗をひるがえせば、大統領といえども屈服しないはずはない、と。“八人組”をはじめとする彼らの眼中には、旧態依然たる権力機構しか入っておらず、その権力も民衆の合意と支持なくしては、究極にはありえないという、ペレストロイカが形成した新しい潮流はまったく視野の外にありました。保身と既得権益の保護に汲々たる彼らは、ペレストロイカが、ソ連の民衆を質的に変えつつあることを見ようとしませんでした。
6  私に、あなたが書面に記された血を吐くような言葉──「ペレストロイカが私たちを救った──私は、ペレストロイカに向かっていくつもの石が投げつけられていることを十分承知した上で、あえてこう申し上げたい」という意見に満腔の賛意を表します。未知にして未経験の分野だけに、ペレストロイカは、ジグザグのコースをたどってきましたし、これからも、さまざまな試行錯誤を繰り返していくでしょう。しかし、それは、逆戻りの不可能な巨大な世界史的潮流と分かちがたく結びついて、人類の運命を決定づけると言っても過言ではないほどの重要性を帯びつつあります。たしかに、あなたのおっしゃるとおり、ソ連帝国の漸進的解体は「至上の運命の神」の恵みかもしれず、その解体が急激に進み、内乱を引き起こすような事態にいたれば、その深刻さは、とうていユーゴの比ではないでしょう。まして、それに核兵器が絡むようなことがあれば、文字どおり、人類の運命を左右しかねません。
 その意味からも、ゴルバチョフ大統領の志操貫徹は、十分にたたえられてよいでしょう。たしかに、ロシア共和国最高会議のある“ホワイトハウス”に立てこもり、クーデター勢力に対抗したエリツィン大統領の勇気は、これまた、十分な称賛に値します。と同時に、ほとんどの側近に裏切られ、ほとんどの情報から遮断された密室の中で、不屈の信念を曲げようとしなかったゴルバチョフ大統領の勇気がなければ、もし彼が、辞任要求に署名したとすれば、おそらく、ソ連は、内戦状態に突入したであろうからです。その功は、クーデター首謀者たちを登用したのは他ならぬ大統領であるというマイナス面を考慮しても、なお光っております。
7  ヴィーゼル氏も「エリツィンとゴルバチョフは二人でいっしょにやってゆくべきだと思います。二人でなら、国の運命の舵取りをしてゆけるでしょう。そうしないと、激しい乱流に飲み込まれかねません」(同前)と言っております。私も、ゴルバチョフ、エリツィン両大統領の関係を、権力争いなどに矮小化するような考えは、きっぱりと捨てるべきだと思います。むしろ、ペレストロイカという一世紀に一度あるかないかのような人類史的実験を、どう成功させるのかという大局的な観点から、両者の協調関係を見守り、時に応じ、応援の手を差し伸べていくべきでしょう。それが、苦悩するペレストロイカに対する、最大の敬意であるからです。
 話は変わりますが、さる九月二十六日、私がハーバード大学のケネディ政治大学院で行った講演──じつは、過去二度ほど招請を受けていたのですが、都合により訪問できず、今回初めて実現の運びとなったものです──は「ソフト・パワーの時代と哲学」と題するものでした。世界史的に見て、時流は、武力や暴力、富などのハード・パワーの支配する時代から、ゆるやかに、知識や情報、システム、世論などのソフト・パワーが支配力をふるう時代へと移行しつつあること、それゆえに、ソフト・パワーを真にソフト・パワーたらしめるものとしての哲学が要請されること、その哲学とは、ソクラテスにあってそうであったように、人々の内発的なパワーやエネルギーを引き出し、合意と納得を形成するものでなければならないこと──等々が、私の訴えた要旨でありました。
8  たまたま、私の講演直後に、ブッシュ大統領による一方的かつ大幅な核軍縮の提案がなされたように、──ケネディ政治大学院の科学・国際問題センター所長であるカーター教授は、ブッシュ大統領とチェイニー国防長官のブレーンで多忙を極め、その日の朝、ワシントンへ発ち、夕刻には、ワシントンから飛行機で私の講演に駆けつけ、コメントをしてくださり、すぐさま、その足でワシントンへとって返すというあわただしさでした。そういう方が、私の講演をとりもってくださったということも一つの因縁でしょう──、アメリカ自体も、ポスト冷戦時代へ向けて、軍事力に偏重しない新しい世界秩序を模索しなければならない時代を迎えているからでしょうか、幸い、講演は、多くの人々からの賛辞を頂戴しました。
 ところで、ゴルバチョフ大統領のリーダーシップによって進められたペレストロイカとは、まさに、このハード・パワーからソフト・パワーへの、ドラスティック(劇的)な転換を志向するものではないでしょうか。
9  共産党の一党独裁のもとでの官僚支配──いわゆる兵営型社会主義と呼ばれるものは、徹底した民衆への不信感の上に成り立ってきたと言えましょう。性悪説というか、人間は放っておくと悪い方向しか志向しないから、徹底したシステムによる管理下、監視下に置かれなければならないとする観点から生まれた、かの巨大な官僚支配のネットワークは、さらに“密告”などという忌まわしい制度を取り入れることによって、民衆相互の間にも、不信感を加速度的に助長させました。あなたも指摘していらしたように、父親を密告することによって死罪に追い込んだ子どもの行為が、英雄的なものとして長く顕彰されるなどということは、たとえ、いかなる理由があっても尋常ではありませんね。しかも、父親が、たんなる富農に属するというだけのことであったとすれば、親子の情もモラルも何もあったものではありません。そうした冷酷なイデオロギーを支えていたのが、権力や武力というハード・パワーのもたらす恐怖でした。
 グラスノスチ(情報公開)を徹底することによって、そうした不信感を信頼感に変えようとしたところに、ゴルバチョフ大統領のペレストロイカの本領があったと私は信じております。グラスノスチとは、無味乾燥な公式見解ばかりの壁をたたき破って、言葉に対する信頼感を回復させることであり、それは、とりもなおさず、人間同士の信頼回復へとつながるものでした。わが国のある識者は、歴代の主なソ連共産党書記長に、こうネーミングしました。スターリン・恐怖王、フルシチョフ・猪突王、ブレジネフ・停滞王、そしてゴルバチョフ・善良王と。
 言葉を信じ、人間を信じ、それを基盤にしたソフト・パワーをもって社会変革のエネルギーにしようとしたゴルバチョフ大統領をして「善良王」とは、言い得て妙だと思います。その「善良」さは「おそらく、私はペレストロイカを神から定められたもののように信じすぎていたのでしょう。もう時代の後戻りなどないと信じ、我々の苦渋に満ちた歴史に対して暴力のナタを振り上げようとする者がいるなどと考えもおよびませんでした」と告白しておられるあなたの心中にも通底しているものでしょう。
10  「善良」たらんとし、また、相手の「善良」さをもかならず引き出しうるとの信念は、驚くべきことに、ソ連共産党を内部から変革することが可能であるとの信念にまで達していました。東欧諸国の例が示しているところでは、一党独裁、民主集中制という組織原則にのっとった共産党の内部変革は、およそ不可能であり、何らかの外的な力による以外に脱皮や変革はありえないにもかかわらず──です。
 残念ながら、その野心的な試みは、あえなく潰え去らざるをえませんでした。“八人組”に主導されたクーデターに、ゴルバチョフ書記長をトップにいただく共産党組織は積極、消極の支持を与えていたからであり、少なくとも、イワシコ副書記長以下、ほとんどが、積極的な書記長擁護の声を上げることができなかったからです。改革派から、書記長を辞任し、共産党を見捨てるようにと、あのように強く迫られながら、なおかつ、党の自浄能力にかけてその地位にとどまっていた書記長を擁護し、救出しようとする声は、寂としてありませんでした。ゴルバチョフ書記長が、失意のうちに書記長辞任と、共産党の事実上の解体を宣言せざるをえなくなったのも、当然といえば当然の帰結でしょう。
 ゴルバチョフ大統領にとっても、アイトマートフ大兄! あなたにとっても、クーデター騒ぎは、さぞかしショックであったでありましょう。友情や信頼に対する裏切り、背信──それはたしかに忌むべきことです。嫌悪すべきことであり、恥ずべきことです。
 しかし、私は思うのです。たとえ、裏切られたとしても、信頼や友情という言葉が、クレムリンの人間関係をめぐって取り沙汰されるということ自体、たいへんな変化ではなかったのか──と。
 もし、ひと昔前、クレムリンの権力を織り成す人脈図に、友情や信頼などという言葉をもち込もうとすれば、それ自体パロディー以外のなにものでもなかったでしょう。そのことだけでも、つまり、人間離れしたモンスターじみたクレムリンのイメージを、明るく人間化したという一事だけでも、私は、ペレストロイカを評価したいと思います。
11  さらに言えば、人間を信じないことから生じた失敗は、人生に何ものももたらしませんが、人間を信ずることによって生じた失敗や挫折は、かならず、何かを生むはずです。こう言うと、書生論のように聞こえるかもしれませんが、何回となく対話を交わしたあなたなら、きっと理解してくださるでしょう。これは、私の四十余年間の人生体験、信仰体験の結論なのです。
 なぜなら、たとえ、信ずることによって失敗しても、彼は、決して本質的には敗れてはいないからです。ほかならぬ、あなたのテーマにもあるように「最も難しい勝利、それは自分に勝つこと!!」の勝負において、決して敗れてはいないのです。自分に負けていないかぎり、どんな難関であっても、かならず突破口が見いだせないはずはありません。心という無限の広がりには、決して行き詰まりも挫折もありえないはずだからです。だからこそ、私は、あなたに呼応して自分のテーマに銘打ったのです。「賢者の勲章、それは希望・友情──」と。
 民族主義については、当然の要求であり権利である側面と、局地的な紛争から世界的紛争へと広がりかねないエゴイズム的側面があるというのは、おっしゃるとおりです。この点については、本論でさまざまに論じていますので割愛しますが、「ソ連という国で生まれ、そこで自分という人間を作ってきたわけですから、その国と別れるということは、ある意味では自分自身と別れなければならない」との告白には、民族紛争の当事者の言だけに、まことに心が痛みます。
12  私は、オーストリアの作家S・ツヴァイク――ナチによって祖国オーストリアを追われ、ブラジルへの亡命を余儀なくされた――、彼の言葉を思い出します。「あらゆる形の亡命というものは、それ自体すでに不可避的に一種の平衡の乱れの原因となるものである。人は――このことも、理解されるためにはどうしても経験されなくてはならないが――自分自身の大地を足下に踏まえていないと、直截な態度を失うし、いっそう不安定となり、自信がなくなり、自分自身に対して不信を抱くようになるのだ」(『昨日の世界Ⅱ』原田義人訳、『ツヴァイク全集18』みすず書房)と。
 しかし、私は、ツヴァイクのような感受性が、すべてであるとは言えないと思うのです。たとえば、天性のコスモポリタンともいうべきアインシュタインがおります。アインシュタインも、ナチのユダヤ人迫害の波をかぶり、祖国を追われたわけですが、そのことは、彼の精神世界に、さしたる悪影響も傷痕も残していないように思われます。むしろ、流浪の旅をつづければつづけるほどに、彼のコスモポリタンとしての骨格は逞しさを増していきました。そのような大きな人格にして初めて、晩年の世界政府運動の強力な推進なども可能となったのでしょう。アイデンティティーのルーツ(根)をたどることは当然重要ですが、その民族的なアイデンティティーをもう一歩突き抜けた、コスモポリタニズム(世界同胞主義)こそ、今、要請されているのではないでしょうか。
13  ソ連において、分離・独立を求める民族運動の高まりは、「民族問題は解決済み」との驚くべきイデオロギー的ドグマによって、長年の間抑圧されてきたエネルギーの反発でしょうが、EC的な形であれ何であれ、それが何らかの調和へと向かうためには、アインシュタインに見られるような開かれた精神性が急務となってくることは必定です。このたびの訪米で、ハーバード大学のあるケンブリッジ市の赤レンガ造りの建物に囲まれた静かな通りを歩きながら、おそらく、アインシュタインも、戦時下、ここを歩きながら心なごむやすらぎのひとときをもったのではないかと、かの大科学者の面影をしのんだものです。
 ヴィーゼル氏も、同じようなことを述べております。「世紀末が近づきます。すべては失敗でした。夢が悪夢になって、共産党は崩壊しました。問題は、何が共産主義にとって代わるのか、ということです。ナショナリズムだという人もいます。私は、むしろ宗教だと思います。組織化された宗教のことでなく、宗教性ということです。私たちに欠けているのは精神性です。だからこそ私は、より高度で、より説得力があり、かつ慎ましやかな『ヒューマニズム』こそが、あらゆるイデオロギーや狂信的な動きにとって代わると思います」(前掲『朝日ジャーナル』)と。
14  氏の言う「宗教性」「精神性」「ヒューマニズム」とは、まさに、私の訴えたソフト・パワーということにほかなりません。いずれも、目に見えない世界のことですが、現代人は、この見えざる世界の価値というものを、あまりにも軽んじすぎました。その結果、物質的な豊かさとは裏腹に、精神世界はまことに貧しく、薄っぺらで、寒々としたものになり果ててしまいました。とはいえ、“自然は真空を嫌う”と言われるように、人間がそのような状態で満足できるはずはなく、その心の空白に悪魔が奸計をしかけ、疑似宗教的なイデオロギーの蹂躙するところとなってしまったわけです。
 「わが国に生きる私たち一人一人は、過去から受け継いだものを自身の中で克服することができるでしょうか」とのあなたの問いかけは、グロースマンの『万物は流転する……』の、あの陰鬱な“ロシア的なるもの”の描写に接したことのある私にとって、重く響いてきます。しかし、ペレストロイカの六年間の歩みが教えているものは、歴史の急テンポな展開は、いかなる論者の予測をもはるかに超えていた、という事実ではないでしょうか。「ベルリンの壁」の今世紀中の崩壊を、十年前に予測した人は、はたしていたでしょうか。ソ連共産党の、あのような大崩壊を、だれが予測しえたでしょうか。先入観念や既知の言葉にとらわれず、時代の動向に、静かに謙虚に耳をそばだててみるべきです。
15  時流の深層は、そして民衆の心は、いかなる鼓動を伝えているでしょうか。私と対談したトインビー博士は、歴史を学ぼうとするとき、水面のあわただしい動きにばかり目をとられるのではなく「水底の深くゆるやかな流れ」に注目するよう、うながしておられました。私は、その点に着眼すれば、「宗教性」や「精神性」「人間性」といった見えざる世界に価値をおいたソフト・パワーの時代は、確実に近づきつつあると信じております。そして、たとえば十九世紀のあの優れた大文学の数々を生んだロシアの精神性が、そのような時流の形成とどうして無関係でいられるでしょうか。
 「私は今、文学の生命力が感じられないことで苦しんでいます」とのあなたの言葉は、優れた文学者の発言だけに、また私の親しい友人の表白であるだけに、他人事とは思えません。日本においても言えることですが、グラスノスチによる言葉や情報の洪水は、それに反比例するかのように、言葉の内実の希薄化をもたらすことは否めません。厳しい言論統制下にあっては、限定されたものであっても、真実の言葉を求める渇きにも似た希求がありましたが、ちょうど、その反対の現象が現れるようです。
 しかし、それも一時のことでしょう。私は、歴史の淘汰作用を信じております。もちろん、“外野席”からの発言ではなく、みずからその流れの中で、流れを作る作業にたずさわりながら、そう申し上げたい。本年(一九九一年)六月、あのヨーロッパの“緑の心臓”と呼ばれる美しいルクセンブルクで語り合ったさい、あなたはおっしゃったではありませんか。――ヴィクトル・ユゴーを領袖とするロマン主義を古いと言う人がいるが、私は、そうは思わない。現代にロマン主義をよみがえらせる作業は、とても大切なこと、と。
 今こそ、決してあせらずに、その共同作業を始めましょう。この対談集も、もちろん、その一環です。ユゴーのごとく、善を語り、正義を語り、友情や愛を語るに、なんの臆することがありましょうか。マルクスの評判は、今や地に堕ちたかの感さえありますが、少なくとも、私は、彼が、大著『資本論』の冒頭に、次のダンテの言葉を引いた心意気は、壮とするものです。「汝の道を行け、そして人びとの語るにまかせよ!」(向坂逸郎訳、岩波文庫)と。
 十月革命
 一九一七年、レーニンらの指導によってソビエト政府が成立した革命。
 八月革命
 一九九一年八月十九日に起こった保守派によるクーデターの失敗による、ペレストロイカの本格的な進展をさす。
 『世界を揺るがした十日間』
 アメリカのジャーナリストのジョン・リード(一八八七年―一九二〇年)がロシアの十月革命を伝えたルポルタージュ。
 アウシュヴィッツ収容所
 ポーランド南部のアウシュヴィッツに、第二次大戦中、ナチス・ドイツは収容所を造り、多数のユダヤ人などを虐殺した。
 ミッテラン
 一九一六年―九六年。フランス。
 ソクラテス
 前四七〇年―前三九九年。古代ギリシャの哲人。対話によって無知を自覚させた。プラトンの師。
 ポスト冷戦時代
 第二次世界大戦後、アメリカを核とする資本主義陣営と旧ソ連を核とする社会主義陣営は、武力行使の可能性を互いにもって対立した。これを冷戦時代というが、ソ連が一九九一年に崩壊して終結。「それ以後(ポスト)」という意味でポスト冷戦時代という。
 兵営型社会主義
 スターリン体制としての旧ソ連の社会主義をいう。軍事的な党組織による国家一党独裁、命令主義、暴力的な治安維持などを特徴とする。
 フルシチョフ
 一八九四年―一九七一年。旧ソ連の首相を務め、平和共存外交と党内の民主化を進めた。
 ブレジネフ
 一九〇六年―八二年。フルシチョフ失脚の後、党第一書記となる。一九七七年には最高幹部会議議長(国家元首)を兼任。
 クレムリン
 モスクワにある古い城砦で、帝政時代に宮殿や寺院が設けられ、旧ソ連、ロシア連邦政府の諸機関が設置。旧ソ連政府をさす場合も。
 S・ツヴァイク
 一八八一年―一九四二年。
 コスモポリタン
 世界の人々を同胞とみなす人。世界主義者、世界市民。
 アインシュタイン
 一八七九年―一九五五年。ドイツ生まれの理論物理学者。特殊および一般相対性理論など、現代科学の発展に革命的役割を果たす。ナチスの迫害を逃れアメリカに亡命。ノーベル物理学賞受賞。
 EC
 欧州共同体。一九六七年に加盟六カ国で発足、その後、加盟国は増え、経済統合から政治統合への目的はEU(欧州連合)として実現されつつある。
 グロースマン
 一九〇五年―六四年。旧ソ連の小説家。
 ベルリンの壁
 一九六一年八月、東ドイツが西ベルリンへの亡命を阻止するために築いた壁。一九八九年に撤去。
 トインビー
 一八八九年―一九七五年。イギリスの歴史学者、文明批評家。人類史を文明の興亡盛衰の観点からとらえた。
 ヴィクトル・ユゴー
 一八〇二年―八五年。フランスの詩人、小説家、劇作家。ロマン派文学の指導者。ナポレオン三世のクーデターに抗して亡命生活も送り、その生涯は不屈のヒューマニズムに貫かれた。
 ロマン主義
 十八世紀末から十九世紀にかけてヨーロッパで盛んになった文学、芸術、哲学、政治などの思潮。感性、感情や形式の自由を近代的自我の主体のもとに重視し、表現する。
 マルクス
 一八一八年―八三年。ドイツの経済学者、哲学者。エンゲルスとともに、科学的社会主義を創始。弁証法的唯物論をもとに資本主義から社会主義への移行は歴史的必然であるとした。
 ダンテ
 一二六五年―一三二一年。イタリアの詩人。『神曲』など。

1
2