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日蓮大聖人・池田大作

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最も難しい勝利、それは自分に勝つこと!…  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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2  親愛なる池田先生、八月十九日、クーデターの初日に、あなたから心配してくださっている旨の言葉と、「はかりがたい悲しみ」と書かれた電報を頂戴いたしました。私は本来あまりセンチメンタルな人間ではないと自分では思っていますが、あなたからファクシミリでいただいた真心のメッセージは、私の心を救うために、世界的空間に発せられた「SOS」として、私の机の上に置かれていました。それは私の心を揺さぶらずにはおきませんでした。
 そして突然思いいたったのは、同時代人であり、共著を編んだ者同士のあなたと私は、時代への心の告白ということで結びついており、歴史の解説者であるのみならず、生きた歴史の客体である、ということです。あなたから二つ目のメッセージをファクシミリでいただいたのは八月二十三日、民主主義が武器を持たずに暴徒たちの戦車に対して決定的な勝利を収めた時でした。この時あなたのお言葉は、正義と歴史の進歩の世界的な勝利を祝う声に唱和されるものでした。
 以上が事実としての側面です。しかし、この一つの人生のエピソードにどれほど、奥行きがあり、どれほどの個人的、社会的な現象が含まれていることでしょう。
3  今この文章を書きながら、今年の夏のことを思い出しています。すでに木の葉が落ち始め夏の終わりを告げていますが、ヨーロッパでの私たちの再会を思い出しているのです。あなたのルクセンブルク近隣諸国訪問は、私たち家族、ソビエト大使館にとって記念すべき出来事でした。ルクセンブルクの後、お会いしたのはパリ郊外であなたの発案によるヴィクトル・ユゴー文学記念館が開館された時でした。私たち夫婦は、この新たな統合段階における現代の東西文化の融合を物語る希有な行事に参加する機会に恵まれました。そして、その素晴らしい由緒ある屋敷でオープニングセレモニーが終わった後、長い懇談をいたしました。そこでの会話は、私たちの経験に照らして「日常」というものを、あらためて考える機会となりました。
 こんなことを思い起こしているのは、その後にペレストロイカの国で突発したことが、いかに私たちの会話、感覚から懸け離れていたかということを強調するためなのです。
 ソ連がとりあえずクーデターの危機から脱した今、何がネオスターリニストたちのあからさまな行動の原因となったのかを、ここで考えてみる必要があります。この事件を表面的に追ってみるのはたやすいことです。どの新聞も大々的に取り上げ、どこのテレビでも解説者が話をしています。本質的には、百年の年月をさかのぼってマルクス・レーニン主義が階級イデオロギーとして生まれた時点に発する原因と結果の絡まりがここにはあります。これは歴史家と政治学者の範疇になりますが、私は個人的な観点から八月のクーデターに対する自分の生の反応を書いてみたいと思います。
4  クーデターの直前、夏真っ盛りのころ、ソ連の新聞、ラジオ等で、一九三七年スターリン粛清の犠牲者が埋められた秘密の埋葬地がまた一カ所発見された、と報道されたことからまず始めたいと思います。今回、共同墓地が発見されたのは私の故郷、キルギスでした。私の父、トレクル・アイトマートフも弾圧を受けて、スターリン粛清時代に殺されていたのです。そして、共産党陰謀団によるクーデターの機が日一日と熟していたとき、このテーマをさらに継続、進展させていくかのような運命の転回となったのです。事件の直前、親戚縁者とキルギス共和国政府はチョン=タシュ共同墓地に眠っているスターリンの犠牲者を改葬してはどうか、との提案をルクセンブルクにいる私に送ってきました。発見された中には私の父の遺骨もあったのです。そのあとすぐにソ連人民代議員臨時大会がひかえていました。運命的というのは、まさに二十世紀の歴史の重荷となってしまったソビエト国家の存続の成否が問われたこの大会のことと言えるでしょう。
5  尊敬する池田先生! いかに重大な事件とその結果が、私自身を含め私たちにふりかかっていたか想像していただけるかと思います。クーデター、陰謀グループの失敗、スターリンの犠牲者埋葬地で発見された遺骨の改葬、そして最後に、全体主義体制の象徴となってしまっていたソ連邦の生死が問われた臨時代議員大会……。
 これについて私は一九九一年九月十一日付「文学新聞」に思うことを述べました。この後は、その記事をあなたへの手紙のつづきとして引用させていただきたいと思います。
 父について、つまり国の思索する人々を駆逐した恐ろしい時代における父の死についてです。これはじつに不思議な話で、やはりこの世界には最高の正義が、我々の日常生活を超えたものかもしれぬ最高の正義が永遠に厳然と存在することをじつは確信したのです。五十四年間、つまり半世紀もたって、銃殺された人々の秘密埋葬地が、“もう一つのカティン”が発見されたのです。発見されたものの中には弾丸が貫通した起訴状もありました。それはポケットに入っていたもののようで、これが父の遺骨であることの証明となりました。
 悲運の人々の遺体も、靴も衣服もすべてが消えて、朽ちてしまったのに、一枚の紙――トレクル・アイトマートフの名前が入った当時の書類は無事に残っていました。しかもタイプ打ちされた三ページの文字ははっきりとしていて、ちゃんと読めるのです。私は真実をよみがえらせるために運命が残していったこの紙を読みました。今ならこんな驚くべき断定的な調子で書かれた判決文は不条理なものと言われるでしょう。まったくばかげたことです。しかし当時はそれが死刑判決でした。最近のソ連の新聞でKGBの文書保管所から没収されたある電報が公表されました。それは一九三七年、モスクワから発信された極秘電報で、共和国内で一万人の敵を撲滅せよ、という目を疑うようなものでした。そして、当時スターリンの粛清の手下だったエジョフの署名が入っているのです。よくぞ私たちは生き残ってきたものだ、人間の顔を失わず、人間でありつづけたものだと驚いています。
6  二十年前に母が亡くなった時、墓を建てて、これは母と父の墓であると刻みました。望みのない中で、父もここで母とともにいるのだと自分に言い聞かせることにしたのです……。そこへ突然、父の遺骨が発見されました。私が深い感激をおぼえたのは当然です。とくに半世紀もの間、土の中で眠っていたあの恐ろしい紙は、私もこの目で見ました。稀なる文書があの世から帰ってきたのです。とても多くのことが思い出されました……。
 何という底知れぬ残忍さなのでしょう! 他に表現のしようがありません。私は、あの日、制服を着た――内務人民委員部の制服だったのですが――光ったつばのついた帽子をかぶった男が、ピカピカに磨き上げたブーツをはいて、馬に乗ってやって来た時のことをよく覚えています。あの時のことはすべて、子ども心に深く刻まれました。当時、私は九歳、数えで十歳でした。馬のひずめの音が聞こえたので、母と長男の私を含めた四人の子どもたちは、急いで玄関に出てみました。その使者は、鼻息をたてている馬をぐいと止め、カバンの中から封筒を取り出して、母に手渡すと、また馬に乗って去っていきました。母はそれを読みだしましたが、どうも母の様子がおかしい、何か動揺していると感じました。その手紙は、父がどこでどうしているのか教えてほしいと母が依頼したことに対する返事でした。そこには、父が懲役十年を宣告され、文通は禁止されているとだけ記されていました。しかし、実際には、その時すでに父は射殺されていたのです。事実を隠し、だましていたのです。すべてが陰でひそかに行われていました。あの百三十八人も同じように十一月七日の前夜、ひそかに人気のない山麓に連れていかれ、一夜にして、全員皆殺しにされ、穴の中に葬られたのです。そんな恐ろしい殺人を犯しておきながら、その翌日は吹奏楽団の演奏のもと、通りや広場を勝ち誇ったように行進し、極悪を賛嘆し、祝いの宴を催していたのです。当時のキルギスの一流の知識人が殺されました。国民の知性を抹消したのです。しかも、三十~三十五歳という青年ばかりでした。父はその時、ちょうど三十五歳でした。
7  先日、ある一人の婦人が、あの恐ろしい夜のことを語ってくれました。彼女のお父さんがピオネール・キャンプの守衛をしていたため、すべてが幼い彼女の目の前で起きました。お父さんは、彼女に対し、決してだれにも何も言ってはいけない、さもないと自分たちの命もない、と厳しく命じました。
 しかし、彼女は死ぬ前にすべてを語ろうと決意したのです。そうなるとKGBもどうすることもできません。改葬は大々的な国民葬になりました。山の中で開かれた追悼集会には、何千人もの人が集まりました。そして、私は、だれにも、とくに青年たちには当時の社会の曲がった考え方を説明することはできませんでした。あの歴然たる全体主義の力、スターリン一人で何百万人もの国民を滅ぼすことができたという事実を……。
 今こうして、人民代議員大会に参加しながら、辛い思いにかられています。だれかがこの大会のことを「アバリーヌィ・スエズド」だと言いました。今でも覚えていますが、ビシュケクとアルマアタ間の道が工事されていたとき、険しい坂から非常用の迂回路が何本か敷かれ、そこには「アバリーヌィ・スエズド」とくっきりと書いた標識が立てられました。ロシア語の「スエズド」という言葉には、周知のとおり、「下り坂」と「大会」という二つの意味があります。そして、私が初めてその修復された道路を車で通った時、この標識があって良かったと思いました。しかし、しばらくしてこの標識はなくなりました。ソ連人にとって「スエズド(大会)」というのは、輝かしい勝利の報告をする場、とのイメージが焼き付き、たとえ本当は非常事態が起きていたとしても、そんなことはおくびにも出してはなりませんでした。本当に「アバリーヌィ(非常事態の)」大会でした。私たちは、何とかブレーキをかけて踏みとどまり、慎重にこの非常地点から先へ進まなければなりません。
8  二十世紀、わが国ほど、多くのことを経験した国はないと思います。すべてが私たちの所を通っていきました。革命、戦争、飢餓、独裁、拷問、環境汚染……などすべてが。そして、新たな試練がまた私たちの所から始まろうとしています。私たちは、二つの歴史の流れの分かれ目に身を置くことになったのです。一つの時代が、自分の恨みを果たしながら過ぎ去ろうとしています。約一世紀の間完全支配してきた世界を道連れにして。そして、別の時代が、声高に新しい生を宣言しながら生まれようとしています。たいていの人が、今起こっていることの否定的な面だけをとらえて、崩壊であるとか破壊であると言っています。そうでない人は、総体的改革に酔っています。おそらく、どちらも現実だと思います。しかし、私たち、この移り変わる時代に生きる者は、闘争と矛盾の中にあって、この出来事がいったい何なのかを客観的に言えないのです。きっと将来の歴史家たちが、今、私たちが何を経験し、二十世紀末の私たちがやったことは何だったのかを教えてくれるでしょう。ふと考えてみると、暦の上での一つの世紀が終わろうとしている……。そこへもってこのような、まさに歴史的な出来事です……。
 だからといって私たちが楽になるわけではありません。そこが問題なのです。いろいろ解釈して理由を並べることはできても、この厳しい現実と我々生きた人間が存在することに変わりありません。今起きていることはどんなことであれ、私たちの現実の運命に影響をおよぼすのです。
 少し前――いちばん短い期間を取って半年前に――今のような状況になると考えていた人がいたでしょうか? おそらく、この出来事を予見できた人はほとんどいなかったでしょう。大統領自身はなおさらです。大統領にとっても、クーデターは私たちと同じようにショックだったのです。
9  この八月の三日間の事件は、まるで、水の表面も奥底もかき乱したかのように、私たちを一つの渦の中に飲み込んでしまいました。繰り返して申し上げますが、だからといって私たちが楽になるわけではないのです。おそらく、未来の歴史家や哲学者や作家にとっては、たいへん興味深い出来事だとは思いますが、今はまだ……。
 私は、一国が存在しなくなるという可能性があることに強い衝撃を受けました。もちろん、そうしたことが起こりうるかもしれないとは予想していましたが、こんな極端なプロセスにはならないことを期待していました。私の新聞――十年以上編集部に勤め、愛読している「文学新聞」のことをそう呼んでいますが――に、私たちの連邦の維持、正確に言えば、変革に関する私の胸の内を伝えたいと思います。こんなことはもう今ではあまりはやらないことは承知していますが、それでもあえて申し上げたいと思います。
 もちろん、民族の自決権や独立、主権は支持しています。おそらく、自分の民族が、多数であれ、少数であれ、確固たる一個の主体として、他の主体とともに国際的に平等な立場でありたいと願わない人はいないでしょう。私にはこのように発言する権利があります。というのも、わが共和国で最初にそのことを訴え、極端な民族の同化は危険であると声を上げたのは私だったからです。
 しかし、当時こうした問題を提起することは、決して簡単なことではありませんでした。あの時、口を閉ざし、陰に隠れ、私一人を共和国や中央の党幹部、そして「プラウダ」や「コムソモールカ」「ソツインドゥストリヤ」といったマスコミに立ち向かわせ、また自分もそれに加担し、私を民族主義者としてイメージづけていた人たちが、今や新民族主義者となって、この問題を利用し、さっそうと馬に乗って名声を博そうとしています。民族のことを考えているのではなく、自分の名声のことを考えているのです。そこには大きな違いがあります。民族愛国主義的な衝動にかられた民族主義は盲目的になり、反動的な勢力になってしまいます。知識人たちは、学問や文化の創造ではなく、極端な民族主義の流れの中で自己のイメージ作りに必死になっています。今や紛争は民族間にとどまらず、民族内でも種族や地域別の分断が生じてきています。その結果、個人と民族の間に歪んだ認識が生まれました。つまり、大切なのは個人ではなく、またおのおのの才能や知性、職業、性格、そして民族全体の利益に仕えることでもなく、家柄や出身地なのです。
10  こうした考え方は、それぞれの主権共和国、とくにトルキスタン地域の国事に影響を与えないわけがありません。というのも、実際、私が見るかぎり、民主主義体制と言われる国家組織の中で人事に優先されるものは、個人ではなく、その出身地だからです。そして、民主主義が氏族や同郷人の利益に仕える道具になってしまっているとの感がいなめません。そこに、私たちの後進性があるのです。おそらく、この因習にとらわれた考え方を克服するためには、まだしばらく時間がかかるでしょう。それぞれの民族にとって大事なことは、今とくに若い人たちが夢中になっているような門地に関する論争ではなく、みずからを向上させていく能力、そして確固たる一つの歴史の構成分子として、また文明的な民族共同体として、人類のグローバルな発展の中で周りの世界と協調していく能力なのです。もし、民族が自分たちの狭い了見にこだわっていると、この世界的な流れから取り残されてしまいます。
 しかし、これは私たちの内部的な民族的問題の一局面にすぎません。ここで、私たち全員に共通の課題に戻りましょう。たとえいやな国であったとしても、一つの国家組織の中で生きてきた私たちは今後、どうやって生きていったらいいのでしょうか。ソ連という国で生まれ、そこで自分という人間を作ってきたわけですから、その国と別れるということは、ある意味では自分自身と別れなければならないということなのです。そして、それは避けて通れないことなのです。しかしながら、家の敷居をまたいでしまう前に、今一度腰掛けようではありませんか。
11  私が最初に感じたことは、おそらくそれに異議を唱える人もいるかもしれませんが、次のようなことでした。私たち、つまりそれぞれの共和国が独立すればするほど、非常にパラドックス的ではありますが、新しい共存の形、まったく新しい基盤に打ち立てられた新しい全ソ連的な統合がますます必要になってきているということです。古い中央政府はもうすたれてしまい――ああ、天国に安らぎ給え――新しい共同体は、中央集権制度を弊害として完璧に否定したところから生じています。人類史上、こんなジレンマは初めてであり、それが私たちの運命として定められているように思われます。運命は、ご存じのとおり、避けられないものであります。
 こうして、物事を新たな目で見るための前提条件がそろいました。それは、今では民主主義の邪魔者となってしまったソ連共産党の崩壊であり、衰退、解散であります。ソ連共産党の解体は、社会勢力の大いなる解放でありました。しかも、民衆のためだけではなく、党自身のため、党に関係していた何百万もの人々のための行為でありました。旧ソ連という国家の運命について論ずるならば、ソ連共産党の消滅とともに、全体主義的中央集権体制の軸も消えてしまいました。そして、そのことが今度は、新しい連邦を新しい基盤で、ユーラシア独立国家共和国の自主的共同体として統合していく可能性を開いたのです。
12  もちろん、そこには希望する共和国が入ればいいわけです。と言ってもまだまだ我々には、果てしなく遠いことのように感じられますが、二十世紀後半における世界の民主主義と文明の偉大な成果である欧州共同体がそのお手本になるのではないかと思います。
 これに関連して、最近考えていることを少々述べてみたいと思います。ソ連邦のような帝国の崩壊が大局的に見て穏やかに進んでいることに、私は何か「至上の運命の神」の恵みを見る思いがします。というのも、すべてが、まったく異なったシナリオで展開されることもありえたからであります。なぜなら、これまでいかなる帝国も、歴史からその姿を消そうとするとき、大変動の「核分裂」のはざまで血が流され、無数の人命が犠牲とされてきたからです。ここで思い出されるのは、大英帝国が崩壊する過程で、インド、パキスタン、バングラデシュ、そしてスリランカに何が起こったかであります。これらの国々は、亜大陸にかつて単一の民族圏を形成して暮らしていたにもかかわらず、以来半世紀を過ぎた今日でもなお、世界の深刻な問題として残ってしまいました。
 それに比べ、わが国の改革はどうでしょうか。現在、ペレストロイカは、左右両陣営が、そしてホームレスからまじめな勤労者までが一様に激しく罵っていますが、このペレストロイカこそが、全体主義と共産主義の考え方の虜になってしまっていた私たちを、目覚めさせ救ったと言わざるをえません。もしそれがなかったとすれば、かならずや内戦が始まり、世界的規模で破壊の炎が噴き出していたでしょう。それは、現在ユーゴスラビアで起こっていることなど、ただの「子どものたわむれ」と思えてしまうほどのものだったにちがいありません。無論、流血の惨事の中で失われていく命がたった一つだとしても、それは計り知れない大きな損失であることはいうまでもないことですが。
13  ペレストロイカが私たちを救った――私は、ペレストロイカに向かっていくつもの石が投げつけられていることを十分承知した上で、あえてこう申し上げたい。あたかもキリストがそうであったように、ペレストロイカは、その最後の息が絶えるまで、みずからが光と自由を与えたその人々によって罵られ、踏みつけられながらも、みずからの使命を貫いていると思うからです。
 それゆえに、私は、内戦の悲劇から私たちを救ってくれたペレストロイカに頭をたれて、次のことを申し上げたいと思います。
 ここかしこで、地球上でも、地球の外でも、人間の不幸という不吉な鐘が鳴り響いている。その原因は、狂った我々自身の内にあって、外にはない。命を命たらしめる血が流されていく。それが「自分」の血か「他人」の血かは問題ではない。問題は、一度はこの世に生を享けるという幸福に浴し、その尊い人生を生ききることを普遍的使命とし、至高の権利ともする「人間」の血が流されていることにある。もしも私たちが、何らかの情熱によって狂信的になり、この生命の尊さを十分に評価しきれなかったり、さらにはそれを蹂躙するようなことがあったとしても、それによって生命の尊厳、人生の意義が減るものでは決してない。
 人生の意義は生命なくしては語れない。なぜなら、死にゆく人にとって、たとえ、彼は偶然犠牲となったのではなく、ある信念をもって行動した結果、なきがらとなって地に倒れたとしても、それまで彼がめざしたもの、そのために死という結果を招き、そのために暴力を行使し、そのために暴力によって倒れたそれらすべてのものが、彼の死の瞬間に、一切無に帰すのだから。屍と化し、空虚と化す。なぜなら、生命が絶えた瞬間から、彼は人生の意義を語る理由をも失うからだ。そこには、はたしてこの矛盾を克服しえる別の道があったであろうかとの苦い疑問だけが残される。せめて、狂暴に我を忘れ、野蛮で、テロリストとなりさがった、過激で血なまぐさい道ではなく、同じ目的を追求するとしても、より文明的手段による忍耐強いアプローチは考えられないものか? と。
14  さらに申し上げれば、世界が飛躍的成長を遂げたとも言えるペレストロイカを経験した私たちは、すでに人の首を「束ねて」どのくらい「消費」したかとか、どれくらいの人がどれくらい苦しんだかという尺度を捨てて、別の尺度で熾烈な闘争の「対価」を判断しなければならない時代を迎えているのではないか? 闘争という一見詩的な名で呼ばれる流血の行為がなぜ階級の間で、そして民族の間で絶え間なく繰り返されなければならないのか? 無血の道で正義を勝ち取ることはできないのか? 人類は殺人と不幸の最高峰をすでに幾度も踏破してしまったのではなかったのか? これ以上何を踏破しなければならないのか? 宇宙の不幸の最高峰までもと言うのであろうか?
 こう自問するゆえに、私は、いかなる革命もいかなる内戦も意義づけは不可能であると申し上げたいと思います。ゆえに、人々が、「勝利」の祭壇に数百万の犠牲を捧げたと熱狂的に叫んでも、私の中には、感動も誇りも満ちてはこないのです。いや、それどころか、私は天を呪い、こう言うでありましょう。神よ、このような勝利を二度ともたらすことなかれ、と。残念ながら、私たちには臨終のことを習うすべもなく、私たちの意識の底の深遠に思いを凝らして到達するための、天啓の閃光も与えられていないのです。したがって、危険な理想を作り上げた本人たちも含めて私たちは、だれ一人として、逆戻りのきかない死の一線を超えるという経験をもちえないのです。そうなっては、もう取り返しがつかないわけですから。
 死の「彼岸」から、みずからの命を賭した闘争が、命を落とすに値するものであったと満足して確認できた人は一人もいないのです。そして生き残った者たちだけが「一方的」に起こった出来事に対して勝手な解釈をつけていくのです。彼らは正義の憤怒にかられて復讐を誓い、そしてそれを実行する。復讐はまたさらに新しい復讐の誓いを呼び起こしていく……。その時、魔王は狂喜し、宴を催して人々の心に悪意をかきたて、良識の心を自分以外の何ものをも受け付けない不寛容と差し替えてしまうのです。心の歪みはカビのようにはびこり、高潔なる美徳を殺していくでしょう。しかし、最も嘆くべきは、これほどの辛酸にもかかわらず、流血の道は何ももたらさず、そして、人類は、そこから次の世代に残すべき何ものをも学びえないことであります。それどころか、人類の退化と残忍と破壊をもたらすだけなのです。
15  歴史的改革の途上にあって私たちが気づき、そして今求めてやまない民主主義、個人の尊厳、民族と国家の主権は、まさに運命に導かれて歩みだしたペレストロイカのこの道によって到達可能となると思うのです。ペレストロイカ――それは、第二の一千年の締めくくりにおける人道主義の顔であり、それは、私たちが人類に贈る高貴なる貢献なのです……。
 ここ数年間は、私にとって、たんにペレストロイカの日々であっただけではなく、何かまったく新しい角度からみずからの作品を含めて、すべての文学的なるものを見つめ直した日々でもありました。それは、あたかも、私の読者が別世界に、異次元に移り住んでいってしまったとでも言えばよいのでしょうか。私が今まで親しみふれてきた人々が変わってしまい、価値の基準も変わってしまったのです。以前は、中編、長編小説はもちろん、ただの小論文であってもすぐに反応があるのを感じることができ、発した言葉をたしかに受けとめてくれているという手応えがあったのです。今はそうではありません。だれも文学どころではない、みな政治病に取りつかれてしまっているのだということは私にもわかっています。
 さて、これからどうすべきか? 正直に申し上げましょう。私は今、文学の生命力が感じられないことで苦しんでいます。文学が本来もっている意義、そしてエネルギーが感じられないのです。それがあったゆえにみずからの作品を生みだす意味を認めていたはずだったのですが。いかにすれば文学を回復せしめることができるのでしょうか。いかにすれば、ふたたび立ち上がらせることができるのでしょうか? 私は片時もペンを捨てることなく仕事をつづけています。今まで思索し書きためてきたものをすべて根本的に見直してみました。そして、わが道を振り返ってたどりつつ、ふたたびそこに自己自身を発見する作業は、私にとって大きな努力と恐ろしい苦痛をともなうものでありました。
16  そして最後に、私の手紙は「最も難しい勝利、それは自分に勝つこと!!」と題しました。このような題をつけたのは、人間は、自己自身と向かい合ったとき、歴史の前にみずからの責務を問うときが最終審判の下るときであると考えたからなのです。社会といっても突き詰めていくならば個の集合体であるがゆえに、自身への問いかけは根本的意味をもっているのではないでしょうか。ここで言う個とは、社会的意識の当体として重要なのです。したがって、個という原点の善し悪しによって、社会の顔立ちも決まってしまうと言えましょう。わが国にかくも長期にわたって君臨した全体主義の悪は、とりもなおさず、人間の自由と権利を否定して、人間の人格を完全に踏みにじり、人間を党、国家、そしてイデオロギーとユートピア思想に服従させたことにあります。
 しかし、ネオスターリニストに対する民主勢力の八月勝利は新しき世紀の扉を開き、社会と国家が、そして何よりも一人一人の人間が、ひいては民族全体が、今までとは質的に異なる状態に踏みだしたのだと思います。
 時は到来し、歴史の審判は下ったと言ってよいでしょう。民主主義が生活形態の主流となり、ますます現代生活の根幹を成していくようになるでありましょう。民主主義がにわかに現実となったのです。しかしはたして、わが国に生きる私たち一人一人は、過去から受け継いだものを自身の中で克服することができるでしょうか。それは、つまり、幾世紀にもわたってはびこった私たちのエゴイズムであり、そのエゴイズムは社会主義によって偽善と偽りに変貌してあたりまえのように遍満し、さらに希望を閉ざされた暗澹たる他力本願と仕事に対する無気力となって人々を蝕んだのです。それらに打ち勝つことができるでしょうか? 文化と社会の堕落と退廃をもたらしたすべての悪しきものを、自己自身の中において克服することができるでしょうか……。
 はたして、労働と学術の成果を人間自身の豊かさに供し、みずからの心の捕虜となっている自身を解放し、そしてついには、世界制覇というナンセンスな理想を投げ捨て、軍産独占支配を抜け出すことができるのでしょうか……。
 私は、自己自身に打ち勝つことができるか、廃墟から立ち上がることは可能か、との危惧をいだくゆえに、この苦い言葉を口にしております……。
 地政学
 国家の政治的変化・発展を地理的条件との関係からとらえる学問。
 モスクワ
 ロシア連邦、旧ソ連邦の首都。
 八月クーデター
 一九九一年八月十九日、ペレストロイカに反対して保守派が起こしたクーデター。ゴルバチョフ大統領を監禁したが、市民が反クーデターに立ち上がり、クーデターは失敗、共産党が解散した。
 ネオスターリニスト
 スターリンは一八七九年―一九五三年。旧ソ連の政治家。一九四一年に人民委員会議長(首相)。死後、その粛清を伴う専制的政治はスターリン主義として批判された。その後の反民主的なスターリン主義的な動きをする者をネオ(新)スターリニストという。
 マルクス・レーニン主義
 マルクス主義はマルクスとエンゲルスによって作られた、資本主義が必然的に社会主義に移行し、プロレタリアートが解放されるという思想体系。帝国主義やプロレタリア独裁について考察したレーニンの学説がマルクス主義を継承するものであるという立場をマルクス・レーニン主義という。
 ソ連
 ソビエト社会主義共和国連邦。一九一七年に革命によって成立したが、九一年に解体。
 カティン
 ソ連軍の捕虜となったポーランド軍将校約八千人の大部分が、一九四三年四月、スモレンスク郊外のカティンの森で殺害された。
 KGB
 旧ソ連の国家保安委員会。
 エジョフ
 一八九五年―一九四〇年。
 アバリーヌィ・スエズド
 非常道路。急な坂道を下るさい、ブレーキをかけきれなかったときに、脇にそれて車を止めるための道路。
 亜大陸
 大陸の一部、あるいは大陸よりは小さいが、ほぼ大陸としての諸条件をもっている地。インド亜大陸、グリーンランドなど。
 現在ユーゴスラビアで……
 第二次大戦後、多種の民族によって構成されたユーゴスラビア連邦は、冷戦構造の崩壊とともに民族独立が活発となる内戦状態におちいった。
 第二の一千年の締めくくり
 キリスト教では、再来したキリストのもと、地上に一千年間にわたる平和の王国が建設され、その最後に裁判が下るとされる。それになぞらえて、二十世紀の終りは、第二の一千年の締めくくり期になる。

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