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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 世界不戦を目指して  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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1  核時代と人類
 池田 一九四五年(昭和二十年)八月、広島と長崎に原爆が投下されて″核時代″が始まりました。核兵器の誕生は、これまでの戦争に対する見方を一変させたといってよいと思います。
 核戦争が文明を根こそぎ破壊し、人類を滅亡の危機に追い込むことがはっきりした以上、もはや戦争をクラウゼヴィッツ流に政治や外交の延長線上に位置づけることはできなくなりました。
 博士は広島、長崎への原爆投下と、その悲惨な状況を知ったとき、どんな思いをもたれましたか。
 ポーリング 広島、長崎上空で、核兵器が炸裂し、おびただしい人命が失われ、恐るべき苦しみがひきおこされたのを知ったとき、私は、核兵器が存在するゆえに、国家間の紛争解決の手段としての戦争は放棄されなければならないという見解を、かなり短期間のうちにもつにいたりました。それ以前は、戦争の廃絶という目標が実現できるという希望はいだいていませんでした。
 池田 戦後、長く核軍拡競争がつづきましたが、米ソ両首脳とも、核戦争に勝利はありえないとの認識から″核不戦の誓い″をするにいたりました。
 一九八九年十二月のマルタ沖における米ソ首脳会談で冷戦に終止符が打たれ、新たな世界秩序が模索されております。二十一世紀を視野にいれた場合、新たな世界秩序は「不戦共同体制」でなければなりません。
 ポーリング 一九四五年までは、私は、世界から戦争をなくすことはできないのではないかと、考えていました。
 私の考えは、第二次世界大戦のあとに、ソ連とアメリカ、共産主義者と資本主義者のあいだで、第三次世界大戦が起こるだろうということでした。
 四五年に、アインシュタイン博士と同様、私は、核兵器が存在するために、ついに大国間の紛争解決の手段としての戦争は放棄せざるをえない、核兵器がある以上、共存と協調の思想を受け入れざるをえないと考えたのです。
 これは、私にはまったく論理的に思われました。
 池田 最近やっと、対立から対話と協調の時代への流れが見え始めました。″人々が重大な難問に立ち向かう決意を固めると、最大の歴史形成力が始動する″とはトインビー博士の指摘ですが、まさに今、歴史をつくりだす民衆の力が問われていると思えてなりません。
 ところで、第二次世界大戦の最中、原爆開発にたくさんの科学者が動員されていきましたが、当時、博士はどのようなことをされていましたか。
 ポーリング 第二次世界大戦の当時、私はカリフォルニア州のパサデナに住んでおり、カリフォルニア工科大学で教授としての仕事をつづけておりました。
 三九年から四五年まで、国防研究委員会で研究をおこないました。同委員会の第八部(爆発物の部門)のメンバーとして、爆発物の分野の種々の研究者との契約を承認する仕事をしていたのです。
 また私は、国防研究委員会の医学研究部会西部委員会のメンバーでもありました。国防研究委員会で十四の部会に関し責任をもつ主任研究者として、おもに軍隊の要請に応じて諸問題に取り組みました。
 終戦のとき、トルーマン大統領から、この期間の私の尽力に対して、功労章を授与されました。
 池田 当時、原爆開発のマンハッタン計画をどの程度、ご存じでしたか。
 ポーリング 私はマンハッタン計画について、ある程度は知っておりました。ロバート・オッベンハイマー博士がパサデナに来て、私にロスアラモスに行き、化学部門の責任者になるよう要請しました。
 そのとき、彼が私に与えた情報は限られたものでした。私は、彼の要請に応じませんでした。それからも折にふれてマンハッタン計画について断片的な情報を得ましたが、十分な情報は与えられませんでした。
 終戦時に、ヒトラーとその仲間による世界を支配しようとする闘争が、みごとに阻止されたことに満足をおぼえました。
 池田 一九四五年というと、私は十七歳でした。戦争は私の家をめちゃめちゃにしました。私自身、戦時中、軍需工場で働いたむりな労働がたたり、体をこわしていました。
 私に残ったのは無残な原体験でした。戦後、私が戦争を徹底して憎み、平和のために一身をささげようと決意したのは、この原体験が大きな根っこになっております。
2  権力に抗して
 ポーリング 戦争が終わって間もなく、私たちは二度とこうした戦争を繰り返してはならない、と声を高くして叫び始めました。私は、一九四五年八月の原爆投下後、一、二カ月もたたないうちに、核兵器の問題について講演を始めたのです。
 その理由は、私が核兵器の何たるかを理解していたからです。私は原爆開発計画に関与していなかったので、整理しなければならない問題は何もありませんでした。私は自由に発言できると考えましたし、私が科学の問題を素人にわかりやすく説明するのに適した能力をもっていることも、みんなに知られていました。
 ですから、原爆投下の直後から、ロータリー・クラブなどのグループに、核兵器に関する話をしてほしいと、たびたび頼まれたのです。最初は物理学、つまり核分裂の性質についてしか話しませんでした。しかしその後、数ヵ月のうちに、核兵器の破壊力が巨大すぎるので、核戦争を起こしてはならない、核戦争の考えを放棄しなければならない、という論点もいれるようにしました。
 池田 当時にすれば、すぐれて先駆的な論点であり、ポイントをおさえた重要な講演をなさっていたと思います。
 ポーリング それから、アインシュタイン博士が議長をつとめている委員会のメンバーになるように要請されました。妻も私も、世界平和を最終目標とする多くの団体を支援していました。
 やがて他にも、多くの科学者が同じ活動をするようになりました。しかし″マッカーシー旋風″がやってきて、ソ連との協力の必要性を訴えてきた科学者は、ソ連のシンパであると批判されました。科学者の多くはおおやけの場に出ることをやめましたが、私はおそらく頑固だったからでしょうが、マッカーシーやアメリカの反共主義者にやりこめられて沈黙することを拒絶しました。
 池田 一九五〇年、トルーマン政権内に共産主義者がいると攻撃し、思想・言論・政治活動を抑圧した″マッカーシー旋風″は暴風のように吹き荒れました。そうした″時代の空気″に押し流されて沈黙した人も数多いなかで、博士の不屈の信念はまことに尊いものです。私自身、立場は違いますが、理不尽な弾圧、圧迫を体験してきた者として、博士の心情がよく理解できます。
 そばにいて奥さまも、ずいぶん心配されたのではないでしょうか。
 ポーリング 妻は、私のことをとてもよくわかっておりましたので、私の行動については何であれ、その背景にどんな理由があるか、つねに知っておりました。私は核兵器反対の立場をとりましたが、その決断を促す決め手となったのは、妻から変わらぬ尊敬を受けたいという私の願いでした。
 むろん、私自身にも自尊心がありました。マッカーシー上院議員におどかされ、沈黙させられることはいやでした。
 当局から旅券を没収された事件以外に、数回にわたって取り調べを受けました。カリフォルニア工科大学も私に圧力をくわえようとしました。
 この大学の理事会は、理事の大半が実業家ですから、当然保守的になりがちです。理事たちは総長に、なぜ私を解雇させられないのかと迫りました。彼らは、私が世界平和と、ソ連との協調を説くスポークスマンであること、私が『ノー・モア・ウォー』に書いたこと、私の世界平和に関する論文――これはおそらく百を超えているでしょう――など、すべて気にいらなかったのです。
 ついに総長は、その圧力に屈し、私を化学・化学工学科の長から解任することはできると言いました。私はすでに二十二年もその職をつとめており、この学科を世界的に有名にしました。ここは、現在でも最もすぐれた化学研究組織の一つであることが認められています。
 そこで、私は「けっこうです。この管理職を十分長期にわたって務めましたので、辞職しましょう」と申しました。しかし総長も、私の教授の任を解くことはできませんでした。教授職というのは在職期間が決まっていて、正当な理由なくして解雇することはできないのです。しかも世界平和のために働いているというだけでは、正当な理由になりえません。
 それでも、私に圧力をかける方法はありました。他の教授が昇給しても、私は昇給しませんでした。実際、学科の長をやめたときには減俸になりました。また、他の人が必要としているからということで、研究室のスペースを明けわたすように言われました。
 その後、一九六三年にノーベル平和賞を受賞した折に、総長は、一人の人間が二つのノーベル賞を受賞することは驚くべきことであるが、あなたのおこなっている仕事の価値については大きく意見が分かれるところだ、と言いました。そこで、私は退職しようと決心し、カリフォルニアエ科大学を去りました。
 私は合計四十二年間、この大学におりました。まだ大学が小さく、さほど評価されなかった時代から、世界でも有数の理工科系大学になったときまでです。私はカリフォルニアエ科大学に恩義を感じていましたが、同時に去るべき時が来たとの思いもありました。
 池田 博士の先駆的な戦いに、励まされる人も多いでしょう。狂気のような″マッカーシー旋風″の犠牲になった人に、カナダの外交官であり歴史学者でもあったハーバート・ノーマンがいますね。
 彼は欧米における日本研究の第一人者であり、日本研究の著書も何冊かあります。戦後の民主日本の再建への貢献も大きかったのですが、″マッカーシ―旋風″のあおりを受け、心に大きな傷を負い、ついに、駐エジプト大使として赴任中、カイロで自殺してしまいました。彼が優れた教養人であり、生活面でも陽気で活発な社交家で、およそ″死の影″などとは無縁のタイプと伝えられているだけに、当時の狂気の風圧は、部外者の想像を超えていたのでしょう。
 博士の正義の論陣、右顧左眄しない不屈の信念、いずれも私たち仏法者の生き方とあい通ずるものがあります。たとえ他人がどう見ようとも、どう批判しようとも、ひとたび決めた道をまっすぐに進もうとするいさぎよさがさわやかです。
3  反核の運動
 ポーリング これまで私ども夫婦は、世界平和をめざして活動している種々の団体に対して、どんどん前進しなさいと励ますことにつとめてきました。
 実行したさまざまなことが、かなりの成功をおさめてきたのは事実です。私はバリー・コモナー、エドワード・コンドンと共同で、核実験停止の請願を書き、回覧して署名を集めました。そして一九五八年一月十五日、ハマーショルド国連事務総長に世界各国の科学者が署名した請願を手渡しました。この請願書は「核実験の即時停止を要請する国連への請願書」と題したものです。
 核実験反対の請願書に署名した科学者の数は、最終的に一万三千人に達しました。これは、一つの声明文に署名した科学者の数としてはおそらく最大のものでしょう。
 池田 そうした、良心の発露としての声を集める労作業に強い共感をおぼえます。創価学会の青年たちが中心になって集めた一千万人の戦争絶滅・核廃絶を訴える署名を、一九七五年(昭和五十年)一月に私自身の手でワルトハイム国連事務総長に手渡しました。草の根の民衆の声を全世界に届けたいという私どもの願いからです。
 さらに世界の反核の世論を結集したいとの思いは、やがて国連と協力しつつ「核兵器――現代世界の脅威」展の開催へと結実しました。この展示は創価学会インタナショナル(SGI)の手で世界十六ヵ国二十五都市で開催され、多大の反響を呼びました。現在は、さらに「戦争と平和」展を、ニューヨーク、ボストン、ジュネーブなどでおこなっております。
 ポーリング それは、すばらしいことですね。六一年に、私ども夫婦は核兵器拡散反対の請願書をおおやけにしましたが、これには科学者もそうでない人も署名しました。そのうち科学者が何人いたかということはわかりませんが、全部で約二十万人が署名してくれました。
 池田 科学者の良心の訴えとしては、五七年四月に、ノーベル賞受賞者のハイゼンベルクやオットー・ハーンらドイツの科学者が、「ゲッティングン宣言」を発表したことが想起されます。これに署名した十八人の科学者たちは、「純粋科学とその応用を業とし、そしてわれわれの領域において多くの若い人々を指導するというわれわれの職務は、この職務から起こりうる帰結に対する責任をもわれわれに負わせている。そのゆえにわれわれはすべての政治的問題に対して黙っているわけにはゆかない」(『オットー・ハーン自伝』山崎和夫訳、みすず書房)と訴えております。宣言の署名者は、いかなるかたちにおいても核兵器の製造・実験・使用に絶対に参加しないと表明しております。
 科学者の発言は、核兵器の脅威を細部にわたって知悉しているだけに重みがあり、政治家にとっても
 耳が痛いものであったにちがいありません。
 ポーリング ですから、政治家の反応もたいへん厳しいものがありました。私の平和活動に対する当局のすばやい反応は、米国上院国家安全保障小委員会に出頭せよ、という召喚状でした。しかし聴聞会は数年間、延期されました。米国上院侮辱罪で禁固と罰金を科すとおどかされましたが、これらのおどかしは実行されませんでした。
 ジョン・F・ケネディ大統領が部分的核実験禁止条約締結を決断したときから、当局の私に対する態度に変化があらわれました。私に対する大統領の話から判断すると、私の活動が大統領の決断にある程度の影響を与えたと思います。
 池田 ケネディ大統領といえば、私にも一つの思い出があります。当時、ケネディ大統領から招待状をいただいてお会いする予定でした。折悪しく私のほうの都合でお会いすることができず、今もって残念な思いが残っております。その後、弟さんのエドワード・ケネディ上院議員には親しくお会いし、懇談する機会をもちました。
 ケネディ大統領とはどのような交流があったのですか。
 ポーリング 私は大気圏核実験再開について、ケネディ大統領に手紙を書き、そのなかで次のように述べました。「あなたが核実験を再開したのは邪悪なことです。なぜなら、核実験は奇形児――つまり遺伝子の損傷による欠陥をもった子ども――が生まれる原因となるからです。また人々がガンにおかされる原因となるからです」
 大統領からは返信がありませんでした。私が彼と唯一の会話をかわしたのは、ホワイトハウスに行ったときのことです。レセプションがあり、私はその晩餐に招かれていました。
 大統領夫人が、私を大統領に紹介してくださいました。大統領は私に会えてうれしいと話した後、「ポーリング博士、これから先もあなたの信念を堂々と発表してください」と言いました。それが、大統領と私がかわした唯一の会話でした。私はうれしく思いました。当時、政府は当然のことながら私を攻撃しておりました。しかし、ケネディ大統領が、アメリカは部分的核実験禁止条約を締結すべきであるとの見解を表明したとき、私の立場が正当化されたのです。それはレセプション直後ではなく、二年ほどたってからのことでした。ホワイトハウスで晩餐会があったのは、一九六一年のことでした。
4  パグウォッシュ会議の意義
 池田 核戦争に反対する科学者の運動のなかで、その代表的なものがパグウォッシュ会議です。これは東西の科学者がイデオロギーを超えて集まり、核戦争の危機を訴えるものとして始まりました。
 そのきっかけとなったのが、五五年に発表された「ラッセル=アインシュタイン宣言」です。博士も
 関係しておられますね。
 ポーリング 私は五五年七月の「ラッセル=アインシュタイン宣言」の起草には参加しておりませんが、十一名の署名者の一人でした。この署名者のなかで生存しているのは二人だけで、現在パグウォッシュ会議会長をつとめるロンドン大学のジョセフ・ロートブラット名誉教授と私です。
 池田 ロートブラット会長には八九年十月、私もお会いしました。パグウォッシュ会議のこともふくめて、有意義な意見交換ができたと思っております。
 ポーリング ご指摘のように、この宣言がパグウォッシュ会議へと発展しましたが、この会議も最初は、アメリカの実業家サイラス・イートン氏から財政的援助を受けていました。
 私は、何度もパグウオッシュ会議に参加しました。しかし数年後、パグウオッシュ会議は、核戦争防止のための論議と努力という、その本来の性格が変化しはじめました。
 パグウォッシュ会議は、アメリカとソ連、あるいは他の強国間の核戦争をなんとしても食いとめなければならないという、現在の思潮を築くうえで大きな影響を与えたと、私は思っております。
 池田 第一回のパグウォッシュ会議が開かれた一九五七年(昭和三十二年)、奇しくもこの同じ年、創価学会の戸田第二代会長が「原水爆禁止宣言」を発表しました。この宣言で戸田会長は、人間の生存の権利を守るという視点から、人類の生存を危うくする核兵器の悪魔性を鋭く糾弾しました。
 同時に核兵器を生みだし、これを使用しようとする人間の生命に巣くう魔性を問題にしたのです。核廃絶というのは口で言うほどかんたんではなく、こうした人間の内面深くにまで問題のメスを入れなければならないと思います。
 ポーリング 「ラッセル=アインシュタイン宣言」は、そのことを予見しています。私がこの宣言で今、思い出すのは、宣言を読んだときに、これは重要な声明だと感じたことです。とくに「人間性を忘れるな」との最終の一節は忘れられません。
 池田「われわれは、人間として人間に訴える――諸君の人間性を記憶せよ そして他のことを忘れよ」(B・ラッセル『人類に未来はあるか』日高一輝訳、理想社)という有名な一節ですね。その一節のもつ重みは現在ますます増大していると思います。
 ポーリング おつしやるとおりです。私の著書『ノー・モア・ウォー』は同宣言から三年後に出版されたものですが、そのなかで私は倫理・道義の重要性を強調しました。これは、その一節に刺激された結果といっていいでしょう。
 池田 とくに″軍事力や核兵器という悪の力より、さらに偉大な力──それは善の力、人の心の力であり、人間性の力である。私は人間の精神の力を信ずる″との一言には、私もたいへんに共感をおぼえました。
 戦争と平和の問題を、たんに軍備や政治システムの問題としてとらえるだけでは十分ではありません。軍備を増強し、政治を動かす「人間」そのものを根源的にとらえる視点が必要です。例をあげれば、現代の核戦略にふくまれている非人間的な性向などは、その最たるものといえましょう。
 私は、それを″プロクルステスのベッド″にたとえたことがあります。このギリシャの伝説的強盗は、旅人を自分のベッドにおびき寄せ、ベッドにしばりつけて、ベッドの大きさに合わせ、背丈の短いときは引き伸ばし、長いときは足や頭を切り落として殺すという残忍な方法を使っていました。
 核抑止論や先制攻撃、限定核戦争などを想定する人間の精神構造は、プロクルステスのように、人類数十億の生命を、″核″というベッドに横たえさせ、物でもあつかうように引き伸ばしたり、裁断しようとするに等しく、人間と人類の名のもとに糾弾されなければならないと思います。
 ポーリング 基本的な人間の問題がカギだ、との見方に賛成です。この問題について私は、ベンジャミン・フランクリンの「ああ、人間の道徳心さえもっと向上していたら」という言葉を引用したことがあります。それとともに、バートランド・ラッセルの次の言葉を紹介したいと思います。
 「もし現在、他人を不幸にするためにしているのと同じ努力を自分たちの幸福のためにしさえすれば、世界はどれほどかすばらしい所になるだろう」
 池田 そのとおりです。
 ポーリング ご承知のように現在、アメリカがこの状況にあります。もしアメリカが軍事予算を一千億ドル削減できれば、すべての人がもっと幸福になります。一千億ドルもの富を節約することができれば、すべてのアメリカ人が恩恵を受けられるでしょう。しかしそれを、ロシア人を不幸にするために費やしています。
 それが、ロナルド・レーガン氏が大統領の時代に主張したところによれば、アメリカとくらべればソ連のほうが軍事費の負担ははるかに重くなっているというのです。
 「ソ連にはもうあとがない。彼らには軍事費増強の余裕はないが、われわれにはある。これから先はこっちが勝ちだ」と、大統領は発言しました。
 ですから、バートランド・ラッセルの言ったことは正しいのです。たとえロシア人の幸福を倍増することになっても、アメリカ人はアメリカ人の幸福のために努力すべきです。たとえロシア人の幸福がアメリカ人の幸福にくらべて倍加するとしても、もしアメリカの軍事予算を削減できれば、アメリカ人は結局、今より幸福になれるといえましょう。
 池田 まったく正当な論理です。またポーリング博士のヒューマンな発想に、私も同感です。
 資源を限りなく食いつぶしていく″消費文明″や″使い捨て文明″が問題になっていますが、それ以前に、軍事費こそ最大の浪費であるということは、私どもが一貫して訴えつづけてきた論点です。
 また、ビジネスの観点からみても、米ソの軍拡競争ほどまずい選択は、およそ考えられません。企業なら、とうに倒産しているという意見を述べる経済人もおります。ゴルバチョフ大統領は、それに早くから気づいていたのでしょう。
 要は、発想の転換が必要なのです。政治の決断いかんによって、やろうと思えば、すぐにでも実行が可能なことは、小さな″一歩″とはいえ、INF(中距離核戦力)全廃条約が示しているとおりです。その政治転換への思いをこめて、私は、ケネディ大統領の忘れえぬ演説を引いておきたいと思います。
 「現在われわれが抱え込んでいる問題も、人間がつくりだしたものである以上、人間がそれを解決できないはずがない。そして人間の偉大さは、彼が望めばどんなにでも偉大になれることだ。人間に運命づけられたいかなる問題も、人間存在を超えたものではありえない」(「平和の戦略」、一九六五年六月十日、アメリカン大学卒業式)
5  世界市民への道
 池田 ナショナリズムの問題は、新たな世界秩序を形成していくうえで、おそらく最大の課題としてクローズアップされてくるでしょう。国民の愛国心というものが、その国を進歩向上させてきた面も認めなければなりませんが、また一方で、その愛国心がわざわいして、国家間の対立や戦争をひきおこしている側面もあります。真の愛国心というものは、何に立脚すべきだとお考えになりますか。
 ポーリング 愛国心については、米国憲法と権利章典、なかでも、権利章典が重要な指導理念であると思います。愛国心には進歩をもたらすという良い面と、悪い面の両面があります。
 私の著書『ノー・モア・ウォー』の出版二十五周年の記念版に、私ども夫婦が一九六一年にオスロで開催した「核兵器の増大に反対する国際会議」に関する報告がのっております。そのなかに、道徳的責任についての声明があります。
 それは「忠誠心を国境の内側に限定するのは時代遅れであり、人類全体に対する忠誠心こそ今や必要不可欠である。市民は人類の利益に反する行動に対しては個人的に責任を取らなければならない」というものです。
 池田 人類全体に対する忠誠心――それを私はかねてから「世界市民」としての自覚というかたちで主張してまいりました。これは「国益」から「人類益」へ、という発想にも合致します。
 ポーリング この声明にはソ連から参加した三名の人が署名をしましたし、他にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーからの参加者も署名しました。会議の全参加者が、この開かれた普遍的な忠誠心に立脚した声明を承認したのです。
 あるアメリカの作家は「愛国心は政治家が最後に頼る手段ではなく、最初に頼る手段である」と述べています。
 政治家のなかには一般大衆の心に訴える方法として、強力に軍備支持の姿勢を打ち出した人もいます。また、ある人は、B1爆撃機等の一定の兵器ヘの支出をなくして軍事予算を削減すべきだと主張していますが、一方では、そのぶんだけ通常兵器による対ソ防衛力を増強すべきだと言っています。
 池田 学者にかぎらず、民衆というものが、想像以上にコスモポリタン(国際人)であるということは、世界の国々をまわっての私の実感です。
 しかし、何かあったとき、その平常心を失って、恐怖や憎悪のとりこになった苦い歴史が過去にあります。
 要は、民衆が賢明になって、恐怖や憎悪の情念に流されることなく、冷静に、だれが真に平和を志向しているのかを、鋭く見極めていかなければならないということでしょう。そして、目先の利害や感情に振りまわされることなく、良識ある声を結集しなければなりません。その世論の力を培っていくことが、迂遠な道のようであっても、平和への王道であると思います。
 ポーリング 月並みな表現になってしまいますが、現在、私たちは一つの世界に生きているのだということを、たえず指摘する必要があります。宇宙船「地球号」の乗客は全員、運命共同体です。
 とにかく私たちは一つの世界に住んでいるわけですから、その世界全体の福利や環境問題に取り組まなければなりません。
 カナダの酸性雨問題を、アメリカが無視してよいということにはなりません。この酸性雨の発生源はアメリカの企業であり、その被害がカナダの森林に出ているということに心を痛める必要があります。
 同様に、英国で発生した大気汚染が風に運ばれてスウェーデン、ノルウェー、デンマークの森林に酸性雨としての被害を与えているのを見のがすわけにはいきません。
 池田 良い意味でも悪い意味でも、現代はボーダーレス(国境がない)の時代に入っています。国境を越えて、さまざまなものが行きかう時代です。核兵器の問題にしても、今あげられた酸性雨に象徴されるような環境問題にしても、人間は、それらの″マイナス要因″によって″地球は一つ″ということの認識を、いやおうなく迫られています。経済などにしても、国際化が非常にいちじるしいですし、その意味では古来、人間のいちばんに誇るべき営為とされてきた政治が、残念ながらいちばん遅れているようです。いまだに「国益」や「国家主義」を第一義とする迷妄の呪縛から脱することができないからです。
 大切なことは″マイナス要因″を、どう″プラス要因″に転換させ「人間主義」「生命主義」に立脚した世界市民意識をさらに広げていくかです。私が二十一世紀へ向けて「世界市民教育の十年」の設定を、国連に提唱しているのも、そのためです。
 ポーリング すべての人が第一義的に考えるべきは全世界の幸福であって、自国の幸福は第二義にすべきです。愛国心をいだくことはけっこうですし、愛国心に燃える人を非難する気はありません。自国愛、自州愛、郷土愛も同じです。たとえば、カリフォルニアでは南北間でさまざまな論戦がおこなわれていますが、これも皆、武器を使用しないかぎりかまいません。
 アメリカが偉大なのは、南北戦争(一八六一年~六五年)以来、国内での軍事紛争が皆無だということです。もちろん、カナダとも一八一二年以来、武力紛争がないというのはすばらしいことです。アメリカはカナダとうまくやっています。米加国境に軍隊をおく必要性を説く人は、だれもいません。
 メキショについては、一八四六年の米墨戦争のときにアメリカ軍が軍隊を派遣しましたが、これは、富者優遇の政府を打倒し、貧者の味方となる政府の樹立をめざすための戦いでした。しかしそのとき以来、メキショとは軍事的紛争はいっさいありません。
 もちろん、他のラテン・アメリカの国とは若干の紛争がありました。たとえば、ニカラグアではアメリカ軍が数十年間、占領しましたし、キューバでも紛争がありました。
 したがって、アメリカの政策はスウェーデンとは違います。スウェーデンは一八一五年以来、百七十五年も戦争にかかわっていません。
6  人種問題の展望
 池田 世界市民ということに関連して、人種の問題がありますが、世界各地からの移住者によって構成されたアメリカは″人類の縮図″ともいわれております。アメリカとの″実験″は、地球社会の未来にとって大きな示唆に富んでいると思います。
 ポーリング 適切な方法で移住者の問題を解決してきた点で、アメリカはすばらしい国だと思います。国内紛争はほとんどありません。もちろん全人口の一割を占める黒人の問題をかかえておりますし、メキシヨから流入する少数民族の問題でもある程度、手を焼いてはいますが。
 また、言うまでもなく第二次大戦中の日系アメリカ人の強制収容の問題もありました。これは、軍当局を信頼したルーズベルト大統領の完全な間違いです。ご承知のように、軍人は規律に忠実なばかりで、よく考えもせずやってしまったのです。大統領は事態をきちんと収拾して、日系アメリカ人の強制収容所送りを回避すべきでした。しかし、いずれにしても、アメリカがすばらしい国であり、問題解決に取り組み、驚くべき成果をあげていることに疑問の余地はありません。
 池田 戦後四十年以上もたって、強制収容の問題を取り上げ、その責任を明らかにし謝罪している点に、感銘を受けましたし、アメリカの良心の健在に教えられる思いでした。アメリカ民主主義の復元力の一つの表れといえるのではないでしょうか。
 私には多くの日系アメリカ人の友人がいますが、多くの方々が立派なアメリカ国民として活躍されています。
 ポーリング 一つのエピソードをお話ししましょう。
 戦前、私どものもとに、妻が雇った庭師がおりました。年配の日系人でした。しかし、日系人はカリフォルニアから連れ去られ、収容所に入れられました。その結果、庭師がいなくなってしまいました。
 その後、だれかが妻に電話をしてきて、アメリカ陸軍に徴兵された日系二世の青年が、家族の問題を処理するために許可をもらって二週間カリフォルニアニ戻ってきているが、庭師の仕事を与えてくれないか、と言ったのです。だから妻はその青年を雇い、彼は一日だけ家に来て仕事をしました。
 その晩、家のそばにある私たちのガレージにベンキで、日章旗と「アメリカ人が死んでいるのに、ポーリングは日本人を大切にしている」という文句が書きなぐられていました。家の郵便受けにも、同じものが書かれていました。
 この事件が新聞に報道され、実際、脅迫の手紙を何通か受け取りました。その結果、私が首都ワシントンヘ行っているあいだ――私がしていた軍の仕事で行かなければならなかったのですが――郡保安官が家の周囲に警備員を一人つけてくれました。これがエピソードです。これでかなり有名になりましたが、なかには悪評もありました。
 私ども夫婦は、カリフォルニアで日系人のあつかいに抗議していたグループに所属しておりました。
 妻に電話をしてあの青年を雇わないかとたずねたのは、おそらくこのグループのメンバーだったのでしょう。
 池田 博士は、その日系青年を保護しつづけたわけですね。
 ポーリング 青年はカリフォルニア州サクラメントの近郊で生まれたので、生まれながらのアメリカ人でしたが、たまたま日系人であったにすぎなかったのです。妻がアメリカ市民でない人を雇ったとしても、当然だったと思います。
 というのは、妻も私も、個人に力点をおいていた、つまり私たちは一人の人間について考えていたからです。
 妻は「アメリカ公民自由同盟」のロサンゼルス支部の役員でした。妻も私も個々の人間の権利にはずっと関心をいだいておりました。
 池田 万事に一難した博士ご夫妻の姿勢に、私は感銘します。
 ポーリング博士につづいてノーベル平和賞を受賞したマーチン・ルーサー・キング師に代表される人種差別撤廃運動を、私も高く評価しております。少数民族の人権尊重に関しては、米国黒人議員連盟議長のマービン・ダイマリー下院議員と八八年にお会いしたときにも、種々意見を交換しました。
 それらの民族の権利は、たとえばアジア・アフリカ諸国の良心の結晶ともいうべき″バンドン精神″″平和五原則″にのっとって、徹底して擁護していかなければならないものです。
 ポーリング 人種差別の問題に関しては、事態は好転していると思います。一九六五年、キング師がアラバマ州セルマで人種差別撤廃のデモの先頭に立った「セルマの行進」のとき、私の息子も参加者としてそのなかにおりました。
 息子はこの行進に参加するため、ハワイのホノルルから空路セルマ入りした八人のうちの一人です。
 彼らは「ハワイは人種差別廃止がうまくいくのを知っている」と書いたプラカードを掲げて行進しました。
 池田 ハワイは私もしばしば行きますが、人種の融和という点では一つの模範になる地域ではないかと考えております。
 ポーリング 私の息子には、ハワイで日系人の両親のもとに生まれた妻がおります。彼女は息子の三度目の妻ですが、そのデモに参加した当時はまだ彼女と結婚しておらず、ほんの数年前に結婚しました。
 ともかく、ハワイは人種差別撤廃がうまくいっているところです。多くの日系人、中国系、原住民、混血の原住民や白人等、多彩な民族が、ともに働き、非常にうまくいっております。これは世界の人々にとって励みになることだと思います。もちろん、ハワイだけでなく、人種差別がないところは他にもありますが。
7  米ソ関係の新展開
 池田 私はここ二十年来、さまざまな国を訪れ、政治指導者や文化人等の方々と、世界平和について意見を交換してまいりました。そのなかで一貫して首脳会談の必要性、なかんずく米ソ最高首脳の会談の必要性を訴えつづけてきました。
 一九八一年五月には、ソ連でチーホノフ首相と会見の折、「モスクフを離れて、スイスなどよき地を選んで、首脳同士、徹底して話しあってほしい」と要望しました。
 この私の願いは、八五年十一月、スイスのジュネーブでの米ソ首脳会談の実現によって、かなえられました。こうした米ノ首脳会談で中距離核戦力(INF)の全廃条約が調印されたことを私はうれしく思っております。
 ともかく人類の命運を握っているともいえる最高首脳同士が、一人の人間として、今後も腹を割って話しあい、世界の平和のために勇気をもって決断してほしいというのが、私の変わらぬ願いです。
 ポーリング 世界の恒久平和達成のうえで、米ソの最高首脳が直接、ひざ詰めで話しあうことが重要であるということには、私も同感です。
 池田 博士はソ連を何度も訪問されているそうですし、レーニン平和賞も受賞されておりますね。
 ゴルバチョフ大統領の進めているペレストロイカ(改革)が世界的な注目を集めておりますが、ソ連の最近の動向をどうご覧になっていますか。
 ポーリング おっしゃるとおり、七〇年にレーニン平和賞、七八年にロモノーソフ金賞を受賞しました。
 また、それよりずっとさかのばりますが、一九五八年にはソ連科学アカデミーの正会員にしていただきました。でも、ソ連の科学者については、私よりもあなたのほうがずっとくわしいのではありませんか。(笑い)
 池田 いえ、それはご謙遜です(笑い)。ソ連にはこの七月(一九九〇年)、三年ぶりに行きました。五回目の訪問でしたが、私も大きな変化を実感しています。今回の訪問では、ゴルバチョフ大統領と会見し、また、多くの古い友人の方々とも語りあうことができました。
 私が創立した創価大学とモスクフ大学のあいだでは、交流を始めてから十六年がたちました。若い世代の教員、学生の交流が年々盛んになり、相互研修が実り多いものになっております。
 アナトーリ・ログノフ総長との対談をまとめた『第三の虹の橋――人間と平和の探究』も出版されました。これには国境や体制を超え、世界の平和を願う両国の民衆の心と心を結ぶ、二十一世紀への懸け橋になれば、との希望をこめております。
 それだけにゴルバチョフ大統領の「新しい思考」という大胆な発想の転換をベースにした平和と改革を志向する路線に、私はひとかたならぬ関心を寄せております。その成否は、世界平和の動向に、きわめて大きな影響を与えるでしょう。
 ポーリング 現在、ソ連国内でゴルバチョフ大統領がおこなっている改革は、大きな前進であると思います。
 ソ連の情勢が良い方向へ変わりつつあるのは、きわめて明らかです。これまで、ソ連は、いわゆる「自由」な意見をもつ人々を圧迫してきました。しかし、これまでと違って圧迫しないほうが国際的にソ連のイメージアップになるのではないか、という考え方が根をおろしたように思われます。
 前回訪ソしたのは一九八四年のことです。そのときソ連政府の招待で、十二月二十二、二十三日におこなわれたソ連建国六十周年の記念祝賀式に参加しました。参加者総数は三千人でした。それは、祝典のおこなわれたクレムリンの大広間の座席数が三千だったからです。
 そして、その場でパーティーがおこなわれ、ソ連の一流の芸術家たち――舞踊家や歌手や音楽家――の演技や演奏がありました。参加者はもちろん全十七ソビエト社会主義共和国から集まった政治家その他の人々で、みんな大物でした。ソ連科学アカデミーのメンバーも、たぶん全員、来ていたと思います。私が招待されたのは、おそらくレーニン平和賞の受賞者だったからでしょう。私のほかにもレーニン平和賞を受けた外国人が参加していました。
 私はその席で、ソ連科学アカデミーの会長に一生懸命、話をし、ゴーリキー市に流罪みたいになっていたソ連の科学者アンドレ・サハロフ氏に会いたい、という希望を述べました。しかし、許可は得られませんでした。科学アカデミー会長はこう言いました。
 「サハロフは重要な秘密情報などいっさいもっていません。それは私も知っていますし、あなたもご存じです。しかしクレムリンでは彼がそうした情報をもっていると思っています。彼らがそういうふうに考えているかぎり、サハロフをそこから出すことはないでしょう」
 最終的にはサハロフ氏はカムバックが許され、旅行もできるようになりました。これはソ連の政策がかなり前進したことを示すものです。ソ連はこのほかにも、多くの面で正しい方向に進んでいると思います。たとえば、以前よりも多くのソ連市民にイスラエル行きを許可していることなどがそうです。ソ連自体、さまざまな問題をかかえていますが、それはそれとして、ゴルバチョフ大統領は申し分のない仕事をしていると思います。
 池田 サハロフ博士といえば、ソ連の″水爆の父″といわれております。何かの本で読んだのですが、ポーリング博士はかつてエドワード・テラー博士とのテレビ討論で、テラー博士が言う水爆の″きれいさ″を科学的に批判し、その誤りを指摘されたことがありますね。これがサハロフ博士にも大きな影響を与えたと聞いております。
 ポーリング あのとき以来、私はテラー博士とふたたび討論することを拒否してきました。なぜなら、あのとき彼はけしからぬ手を使ったからです。彼は私にはこう言いました。
 「ほかにも述べたい点が多々ありますけれども、残念ながらそれはできません。機密情報だから、そのことについて話せないのです。しかしその情報をみると、私が正しく、ポーリング博士が間違っていることがはっきりしております」
 彼は他の人々との討論でも同じ手を使っています。
 彼と、スタンフオード大学の卓越した物理学者であるシドニー・ドレル博士との討論がスタンフォード大学でおこなわれたことがあります。そのとき、テラー博士は私に使ったと同じ手を使ったのです。
 彼はドレル博士にも同様に、次のように言いました。
 「私がもっている機密情報によれば、私が正しく、ドレル博士が間違っていることがはっきりしております」
 ドレル博士が、あとでこう述懐しておりました。
 「テラー博士が知っていてポーリング博士がご存じないことなど一つもありはしません。あんな論法を使うなんて彼は間違っています」
 テラー博士と私との討論について、くわしく述べる必要はないでしょう。討論のあったのが一九五八年二月二十二日。その詳細はすべて、米国文化・科学アカデミー発行の「ジャーナルムアグラス」に掲載されています。
 討論は厳格なかたちでおこなわれ、ストップウオッチを持った審判員がついていました。私が三分間話して、テラー博士が五分間話す。その後は五分間、三分間、三分間、というように進行しました。その模様はテレビで何回も放映されました。
8  不信と相互理解
 池田 今でこそ米ソ関係が劇的に変化して、事情が変わりつつあるとはいえ、アメリカには相当根強いソ連への不信感がありますね。博士自身は基本的にソ連という国について、どんな印象をおもちですか。私自身は何度かの訪ソ体験のなかで、第二次大戦で最も多数の死者を出して苦しんだソ連民衆は、心から平和を望んでいると感じておりますが、この点についてはいかがでしょうか。
 ポーリング 池田会長は、ソ連国民全体が第二次大戦でたいへんな苦しみを経験したとおっしゃいましたが、まったくそのとおりです。彼らは第一次大戦とナポレオン戦争でも、同様の苦しみをなめております。
 アメリカが最も苦しい思いをしたのは、南北戦争のときです。これは、本当にすさまじい戦争でした。しかし、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争ではそんなに被害を受けませんでした。それぞれ五万人の戦死者を出しましたが。
 ですから、第二次大戦で多くの人命を失ったソ連国民が、世界平和を望んでいるのは疑いの余地がありません。私の初期の訪ソのころは、おおやけの行事における議題といえば世界平和にかぎられていました。
 池田 私との対談でログノフ総長が語っておりましたが、ソ連の人々は何度も何度も過去の戦争のテーマを取り上げ、訴えつづけているそうです。ソ連の作家の本や映画、テレビは、戦争の時代に大きなスペースをさいています。戦争が人々に、どんな苦しみをもたらすかをつねに想起させるためだと聞きました。
 ポーリング アメリカにはソ連への不信感があると言われましたが、それは主に資本主義者(権力のある人々)について言えることです。彼らは、社会主義を恐れています。彼らは、共産主義者は社会主義を唱道していると考えています。アメリカは社会主義政権と共産主義政権との区別がなかなかできない。
 たとえば、ニカラグア政府のことをいつも共産主義政権と称していますが、私としては社会主義政権と呼ぶのが正しいと思います。アメリカは、ニカラグアの社会主義政権の存在そのものに反対しているわけではありません。アメリカが主として恐れているのは、他のラテン・アメリカというか、南米の諸国に同様の政権が増えていくことなのです。
 池田 私が親しくしているオキシデンタル石油会長のアーマンド・ハマー博士は、米ソ首脳会談の実現のために尽力してきた人物として知られていますが、一つのエピソードを話してくださいました。
 一九八五年、ハマー博士が当時のゴルバチョフ書記長を訪ねたさい、書記長は「私はレーガン大統領に会いたくありません。彼は戦争を望んでおり‥‥私たちを『悪の帝国』と呼んでいます」と言って、レーガン大統領に対する強い不信感を示したそうです。レーガン大統領に直接会って判断するようすすめるハマー博士の助言もあって、最終的にその年、ジュネーブの米ソ首脳会談が実現します。
 結局、不信感を取り除くには、心を開いた交流で相互理解をどう進めるかがカギだと思います。米ソ間で冷戦終結が確認されて以来、多くの分野で交流が盛んになりつつあるのは大事なことです。相互理解が進めば、軍縮の進展にも好影響を与えることは間違いありません。
 ポーリング 冷戦時代には「ソ連に条約を守ることを期待するのは無理な話だ」という発言がよくなされました。しかし、事実は違います。この問題を研究した歴史家たちが一様に述べていることは、ソ連政府はアメリカやその他の諸国と同じくらい、締結された条約を条文どおり厳密に守ってきているということです。
 池田 固定観念というものの恐ろしさですね。それは、悪酔いをひきおこすかのように、人々の頭のなかを不信と憎悪の酩酊状態へと誘いこんでいきました。日本でも一時″ソ連脅威論″なるものが、盛んに喧伝されました。
 こうした固定観念を取り除くには、さまざまなレベルでねばり強く交流と対話を繰り返していく以外にないようです。モスクフを訪問したレーガン大統領が、″ソ連・悪の帝国論″を放棄せざるをえなかったように‥‥。
 ポーリング ソ連とくらべて、その点、アメリカはどうでしょうか。アメリカ政府が、アメリカインデイアンと結んだ条約にかぎって言えば、その成果はかんばしくありません。アメリカ政府は、アメリカインデイアンと締結した条約の多くを破棄してきました。その他の条約について言えば、アメリカはソ連とほぼ同程度の良い成果をあげております。オハイオ州立大学の、ある歴史学者がそうした分析をおこない、その結果、ソ連はよく条約を堅持すると報告しています。

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