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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 「生命の世紀」への選択  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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1  人口問題と不戦への道
 池田 最近の発表によれば、今世紀末には地球の人口が六十億になるといわれています。人口問題ほどさまざまに論議され、そして結論の出しにくい問題はありませんが、博士は、地球の人口はどれくらいが理想と思われますか。また、どのようなことを基準にして人口問題を考えられますか。
 ポーリング 拙著のなかで、世界の人口増加の問題について詳述した本が一冊あります。
 私の考えでは、すべての人間が人並みの衣食住を得て人並みの生活をし、さらに世の中に貢献する機会をもつことを可能にするような規模の人ロ──これが私たちのめざすべき目標です。またすべての人間が、必要と能力に応じた教育を受けることができなければなりません。さらに、人々が旅行をして、世界のめずらしい事物を楽しむための余暇と機会をもつことができなければなりません。
 前述の本を書いた当時、インドの人口は五億に達していました。私は、その人口の目標を一億において努力するよう勧告しました。インド国内の資源をもって国民全部に人並みの生活を保障するためには、それだけ人口を減らすことが必要だと思ったからです。また私は、アメリカがその人口を一億五千万まで減らすこと、その他の諸国も同様に理想的な人口をめざして努力することを勧告しました。
 池田 ある国の人口問題を考えるにあたって、すべての人間が、人間としての理性ある平均的な生活水準をたもつようにという考え方に、私も同感です。
 そのためには、食糧、住宅、教育、福祉、健康、安全等の項目が、地球的規模と同時に、国家や民族の単位でも慎重に検討されるべきでしょう。
 また今後、国際化がますます進み、食糧をはじめとする必需物資の交流、人的交流がいちだんと盛んになっていくことを考えれば、人口問題の解決には、地域的自立とともに地球的連帯の必要性が高まっていくと思われます。地球上の各民族、各国家がたがいにいちだんと緊密にかかわりあい、あらゆる面で相互に助けあいながら、この地球全体の人々が、博士の言われたような生活水準、人生を享受できる水準に達することをめざすことが大事だと思われます。
 さらに、人間生活の基盤としての大自然との共存の姿勢も大切になっていますね。とくに高度文明社会のなかで生活する人たちほど自然を忘れ、自然のなかで憩う心のゆとりをなくしてきております。自然を拒否した人間の心は、すさび、荒れはて、潤いをなくしていくものです。一方では、自然の脅威と闘い、これを改良するとともに、他方では自然と共存していくことが必要だと思います。
 このことを地球的規模で考えれば、問題はきわめて深刻です。地球的規模での生態系の破壊が進んでおり、貴重な森林が失われ、砂漠化が進み、また大気中には炭酸ガスが大量に放出され、気候にさえ影響をおよぼしています。ここにはエネルギー、資源の問題もからんできますが、地球的規模で、どのように生態系と共存していくのか、また、どれくらいの人口が地球生態系と共存できる限界なのか、つまり、生態系のもつ復元力のなかで生きられる基本的な人口はどれくらいかを、生態学的側面からもつねに検討することが必要でしょう。
 ポーリング 私の見解では、二十一世紀に解決しなければならない深刻な問題が二つあります。一つは、私が今、指摘したように世界の人口を制限するという問題で、もう一つは、世界から戦争をなくすという問題です。核兵器の存在が、核を保有する大国同士を交戦できなくさせています。しかし、主として小国の内部あるいは小国同士のあいだでは、いまだに多くの戦争がつづいております。現在、さまざまな問題があり、それが原因となって戦争が起こり、人々が塗炭の苦しみをなめているのです。今こそ大国はその力を用いて、そうした問題が解決されるよう助力すべきだと思います。
 池田 精力的な平和行動家であるポーリング博士らしい、グローバルな観点からの指摘であると思います。
 十数年前になりますが、英国の「オブザーバー」紙に「第七の敵」という興味深い論文がのっていたのを記憶しております。そこでは、人類は今、六つの大きな脅威に直面しているといいます。第一に人口爆発、第二に食糧不足、第三に資源枯渇、第四に環境破壊、第五に核の誤用、第六に野放しにされた技術――の六つです。いずれもグローバルな問題であり、国家の枠を超えた人類的視野からの取り組みが要請されているにもかかわらず、なかなか解決もおぼつきません。
 その原因として「第七の敵」が立ちふさがっている、とするのです。それには二つの側面があって、一つは人類の道徳的迷妄であり、もう一つは国内的政治機構の通弊があげられておりました。
 私は、仏法者として、なかでも人類の道徳的迷妄を注視せざるをえないのです。東洋の諺に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」とありますが、じつは、この「心中の賊」という見えざる存在こそ、目に見えないがゆえに、最も手強い敵といえるかもしれません。戦争や環境破壊や人口爆発などの″外″なる脅威と同時に、こうした″内″なる脅威に対しても、果敢な戦いをつづけていきたいと思っております。
2  二十一世紀のイメージ
 池田 いよいよ二十一世紀まであと十一年。私はつねづね二十一世紀は「生命の世紀」と位置づけてまいりました。博士は科学者として、二十一世紀についてどんなイメージをいだいておられますか。
 ポーリング 二十一世紀を「生命の世紀」に、との池田会長のご発言について申し上げれば、その意味されるものは、人間生命そのものに今まで以上に焦点が合わされ、人間の幸福と健康が大事にされる時代だと思います。
 私の思う二十一世紀とは、分子生物学の興隆する時代で、現在における以上に、生命の実体に関する詳細な理解が得られる時代です。二十一世紀を「生命の世紀」に、ということはすばらしい考えです。
 池田 博士が言われるように、私は「生命の世紀」という言葉に、人間生命の尊厳性がますます重視され、幸福な人生と生活を享受できる世紀の到来を託してまいりました。そのためには「生命とは何か」という根本命題がいちだんと探求され、そこに開示されゆく生命の実相に即しての新しい世界観の創出が不可欠であると思うのです。
 生命の実相を解明するには、多様な側面があり、また種々の方法が用いられるべきでしょうが、生命体の物質的側面からの解明にとって、分子生物学の貢献ほど驚異的なものはありません。二十一世紀にかけて、分子生物学によって生命体はさらに詳細に解明され、その成果が、遺伝子工学や医学等の分野に大きな影響を与えることは、想像に難くありません。
 同時に、私は仏法者として、人間生命の精神的側面からの解明に大いなる期待を寄せたいと考えております。
 近年、西洋においても、フロイト、アドラー等から発した深層心理学が発達し、今日では、心の奥深い内面の様相が浮かびあがってきております。
 仏教では、四~五世紀ごろに出現した世親らによって唯識派という大乗仏教の一派が成立し、この唯識哲学において、人間精神の内奥が体系化されてきました。心の内面に無意識という広大な領域を発見したのは、西洋ではフロイトですが、世親らは、心の内面に広がる、いわば「心理的宇宙」の内実を理論化しております。トインビー博士も、この広大な無意識世界を「心理的宇宙」と表現しました。
 世親らは、人間精神の基底に広がる無意識領域を意識の表面から探究していくことによって、意識的自我の基底には、無意識的自我(仏教的には末那識)が働いていることを発見しました。
 さらに、これらをつくりだす源泉として阿頼耶識という根源的な生命の流れを見いだしております。ここには、心身のあらゆる働きを生みだす潜在的エネルギーが″種子″としてはらまれているというのです。
 そして、唯識仏教では、阿頼耶識という生命根源流から、末那識や意識の働きがいかにして顕在化するかといった問題を″阿頼耶識縁起″という法理として解明いたしました。
 このような一端をみても私は、仏教の悠遠なる歴史のなかで明示されつづけてきた心の内面の世界を、現代人が再発見し、この知見に謙虚に学びながら、現代の知性の光をあてることによって、生命の実相の解明に偉大な貢献をなしうると考えています。
 一方では、分子生物学などによる物質的側面からの探究、他方には、人間精神に光をあてた深い内面の探究が、ともどもに協調しあい、相互の知見に学びあうとき、「生命の世紀」を開きゆくための″生命学″が輝ける雄姿を見せるのではないでしょうか。
3  分子矯正医学のこと
 池田 博士が分子矯正医学に取り組まれる動機になったのは、どんなことであったのか。また、この医学の特長をどのようにお考えかはたいへん興味深いところです。
 ポーリング 私は今でもそうですが、身の周りの世界そのものを、よりよく理解したいと思ってきました。ある時、あることについて、わからないことがあり、なおかつ、そのことをわかりたいと思ったのが分子矯正医学の道に入るきっかけとなりました。
 それは、カナダのアブラム・ホッファー博士とハンフリー・オズモンド博士のビタミンに関する研究報告で、精神分裂症の患者にビタミンを投与しているという研究報告でした。これにはびっくりしました。普通、痛みを抑制するアスピリンのような薬品は、量が多ければそれだけ効果も高いのですが、かといって、大量に飲むとなると問題です。一日に十五錠や二十錠ぐらいなら安全ですが、その三、四倍も飲めば、死ぬ危険があります。医師が患者に処方する薬品は、その毒性を考えて、安全な範囲内での最大量を与えるものです。
 ビタミンCはとても強力な物質です。ほんのひとつまみの量で壊血病にかからなくなり、壊血病による死から人間を守ってくれるのです。壊血病で死にたくなければ、毎日これを少しずつとらなければいけません。ただし、ひとつまみという分量が最大許容量というわけではありません。
 ホッファーとオズモンドの論文を読んで知りましたが、ビタミンCは、ひとつまみの一千倍、五千倍、さらには一万倍という量をとっても、人間を危険にさらすことはありません。これは驚きでした。なぜもっと早く気がつかなかったのだろう、と思いました。
 普通の薬なら致死量になる分量をとって、もしそれが病気を治すことになれば、幸運としか言いようがありません。しかしビタミンの場合、そのいくつかの種類にはまったく毒性がないことが知られています。ビタミンCが致死量になるには、どのくらいの量が必要なのか知っている人はだれもいません。
 私は毎日、百二十五グラムのビタミンCを十三年間とりつづけた人を知っています。彼はそうやってガンをおさえこんでいたのです。そんなことがあって、私はビタミンCやその他のビタミンをどの程度とることが人間を病気から守るか、というより最高の健康状態にいたらせることになるのかということについて、非常に興味をもちました。
 そこで、医学や栄養学の文献を読みあさりましたが、どこにも答えを見つけることはできませんでした。そのようにして私はこの新しい問題に情熱をかたむけ、二十年間以上もやってきたわけです。ですが、この問題にはまだ答えが出ていないのです。人間を最高の健康状態にたもつためには、どれだけの量のビタミンが必要なのか。私はこの研究の過程で、正常な人体にあるビタミンその他の、きわめて毒性の低い物質を説明する「分子矯正」という言葉さえつくりだしました。
 最高の健康状態をもたらすのに、どれだけこのような物質が必要なのかを研究することが、私にとっての世界に対する戦いなのです。人類全体のためになることができるということはとてもうれしいことです。世界平和のために運動するということとちょうど同じように、地球上のすべての人の健康改善に私の研究が貢献できるかもしれないのです。
 池田「医師の祖」といわれる古代ギリシャのヒポクラテスは有名な「誓い」を書き残しています。そのなかに「患者の福祉のため」(『古い医術についこ小川政恭訳、岩波文庫)との一節があります。患者への思いやりと慈しみが、彼の医師としての誓いの原点となっております。ポーリング博士が分子矯正医学を志された動機は、すぐれて「慈しみ」の精神にのっとっておられるものと感銘を深くしました。
 それはまた、大乗仏教の実践精神である菩薩道の精髄たる慈悲にも通じております。慈悲とは「抜苦与楽」――人々から苦しみを取り除き、楽しみを与えることを意味します。このような人間本来の思いやりや慈しみの心は、今後ますます要請されるようになると思います。
 ポーリング 私は現代においても、いまだ戦争がいかに人々を苦しめているか知っています。人間の苦しみのうえに世界中で戦争がおこなわれています。アメリカ政府がこうした戦争を助長しているのは残念なことです。ニカラグア政府と戦わせるためにコントラを支援してきましたし、アフガニスタンでは政府軍や駐留するソビエト軍に対する戦争を継続させるために、反政府ゲリラに膨大なお金を与えました。
 アメリカのみならずその他の大国も、戦争に加担しています。アメリカやソ連だけでなく、これらの大国は発展途上国に武器を売ったり、さらには供与したりしています。このような世界ですから、私は自分の研究をとおして、人間の苦痛を減らすための何か、世界平和のための何かをずっとやっていきたいと思うのです。しかし、私にとってそうした活動はやはり科学の分野においてであり、また、問題に対して答えを見つけようとする旺盛な好奇心と表裏一体となっているともいえるかもしれません。
 池田 それは「真理」と「価値」の融合ともいえますね。先に科学者の社会的責任の問題にふれましたが、じつは「真理」と「価値」とのいわゆるアンチノミー(二律背反)の問題は、とくに今世紀に入って、核兵器に象徴されるような巨大技術の弊害があらわになってくるにつれて、良心的な科学者を、つねに悩ましつづけています。
 前述のハイゼンベルクの回想録に、一九四五年八月六日の午後、抑留中のドイツの科学者たちが、広島への原爆投下を知ったときのショックが、なまなましく記されています。
 「最もひどいショックを受けたのは、当然のことながらオットー・ハーンであつた。ウランの核分裂は彼の最も重大な発見であったし、それは原子技術への決定的で、かつ誰にも予想さえつかなかった第一歩であった。そしてこの一歩が、今や一つの大都市とその市民に、しかもその大部分の者は戦争について責任はないはずの武器を持たない人々に、恐るべき結末をひき起こしたのであった。ハーンのショックはひどく、取り乱して彼の部屋にもどって行った。われわれは彼が自殺するのではないかと真剣に心配した」(前掲『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房)
 まさに、カタストロフィー(破局)ともいうべき「真理」と「価値」との背反です。
 それとは逆に、ポーリング博士の選択は、「真理」の追究がそのまま「価値」の増進につながっていくわけですから、正しく、また幸せな道であったと思われます。
4  なぜ、ビタミンCなのか
 池田 前にもビタミンの話題が出ましたが、博士はビタミンCの研究者として著名です。なぜ、ビタミンCに注目されたのか、その動機をお聞かせください。
 ポーリング 私が生物学や医学に興味をもちはじめたのは、二十八歳のときです。それはその年に、カリフォルニアエ科大学に生物科学科が新設されたからです。トーマス・ハント・モーガンがその長となり、多くの有能な生物学者がメンバーとなっていました。
 私は長年にわたって、自分がその解決に寄与できるような生物学上、医学上の問題をさがし求めました。私はまずヘモグロビンの構造を研究し、ついでタンパク質の構造全般を研究しました。同僚や学生たちとともに、免疫学の分野で数多くの研究をおこないました。これらの研究によって鎌状赤血球貧血が分子病であること、そして多数の疾病が分子病として分類できることが確認されたのです。
 ビタミンCが他のビタミンと異なる点が二つあります。一つは、健康のために必要なビタミンCの量は、他のビタミンとくらべてはるかに多い――場合によっては百万倍も多いということです。もう一つは、動物の種のなかで食物の成分としてアスコルビン酸(ビタミンC)を必要とするものは、ほんの数種しかいないということです。
 一九六五年ごろのことです。当時すでに、通常すすめられている数量よりも、はるかに多量のビタミンCの摂取が重要であるということが判明していました。それを裏づける科学的、医学的証拠が数多くあがっていたのです。ところが、医師たちはそうした根拠を無視しつづけていました。
 この実情に気づいた私は、この問題について本を書くことにしました。それが『ビタミンCとかぜ』です。一九七〇年に出版されました。その二年前には「分子矯正論にもとづく精神医学」という論文を書きました。「サイエンス」誌に掲載されたこの論文は、本質的には精神の健康における栄養素の重要性について述べたものです。
 池田 博士にお会いする前に、いろいろな人たちと、ビタミンCについて話しあいました。いったい、色があるのかないのか。匂いがあるのかないのか。素人はわかっているようでわかっていない(笑い)。そこで、ビタミンCとは何かを、博士にうかがおうということになったわけです。
 ポーリング 物質は、いろいろな元素から構成されています。たとえば砂糖は炭素、水素、酸素でつくられている。ビタミンCも、この砂糖と、構成元素は同じですが、酸をもっている。そのため、すっぱい味があり、「砂糖の酸」ともいわれます。
 人間の場合、ビタミンCが欠乏すれば、壊血病にかかり、ひどければ死にいたります。
 人間にとって絶対に必要なものでありながら、植物や多くの動物は体内でつくることができるのに、人間は、つくることができない。
 したがって、それを食物や錠剤などで体外から摂取しなければならないわけです。
 現在、各国では一日に摂取すべき量を決めていますが、私は自分の研究の結果から、その決定量よりはるかに多くの量をとるべきだと考えています。
 池田 専門外ですので、少々むずかしい気がします。仏法のことでしたら、よくわかるのですが。(笑い)
 ポーリング ここでビタミンCの摂取について、強調しておきたいことがあります。それは、栄養学者などの人たちは、ビタミンCの摂取に、もっと理性的な対応をしてほしいということです。
 たとえば、サンフランシスコの私の住んでいる所から、ここ創価大学ロス分校までは八百キロほどあります。百五十年前では、ここに来るのに、幌馬車か、馬を使っても数日はかかりました。しかし、きょうは飛行機と車で三~四時間で到着することができました。つまり、世界は新しいものがどんどん発見され、大きく変わっている、ということを認識すべきだと思うのです。
 ビタミンCが人間に必要であることは、八十年前から知られていました。しかし、ビタミンCは食物をとおして、食事のかたちで摂取すべきであり、錠剤などの補助食品としてとるべきではないと、今なお考えている人が多いのです。
 だが、健康をベストにたもつには、相当量のビタミンCをとることが必要であることもわかってきました。もし、相当量のビタミンCを食物でとろうとすれば、多くの食物を食べなければならないし、経済的にもたいへんな負担となります。錠剤のかたちであれば、安価に、しかも容易にとることができます。
 そういう状況になっているのに、食事のかたちでとるべきであって、錠剤などの補助食品としてとるべきではない、との従来の考えを固持することは、理性的でないと、私は思っています。
 池田 一つの考えに固執してしまうと、変化に対応できないものです。病気に対して、その治療は医師にまかせるべきだとの考えも強く、一面、それも大事だと思いますが、私は、自分自身が″患者であり、医師である″との考えで、対応するようにしています。
 博士は、現代の医学の最大の問題点、欠陥はどこにあるとお考えですか。
 ポーリング 健康を維持し、病気の治療を促進するには、ビタミンやその他の分子矯正物質を正しく使用することが必要です。ところが今日の医師たちは、その使用に対して偏見をいだいています。これが、現代の医学の最大の欠陥だと思います。
 池田 それでは、博士が究極的にめざす医学の理想像について、わかりやすく説明してください。
 ポーリング 危機的な状況が発生してから病気を治療するのではなくて、ふだんから病気の予防を心がけることが大切です。それを認めること――これが医学を理想的な方向に転換する一つの道です。
 池田 現代の医学は、治療のための医学から、大きく予防の医学へと転回をしているように思います。そのような方向転換には、多くの理由があるでしょうが、その一つは、やはり病気そのものの内容が変化してきているからではないでしょうか。現代の病気の主要なものは、ガンや脳出血、心臓病、糖尿病等の成人病となっておりますが、これらの種類の病気はある程度、進行すれば、容易にその進行をストップさせ、また改善へとみちびくことが困難な性質のものだといわれております。とすれば、できうるかぎり、これらの病気にかからなくてすみ、また、かかっても、初期の間に治療してしまうことが、病気を克服するポイントになっているようです。
 また私自身、小さいころから病気がちだったものですから、健康な人をうらやましく思ったものです。いつも病気との闘いで、おかげでその種の本も読みまして病気の一般的な知識も得ました。
 それと、病気がちな人や病人の気持ちは人一倍わかるようになりました。そうした私の体験からしても、博士のご意見はもっともであると、身にしみて感じます。
 とともに、予防医学の原理は、戦争と平和の問題にもあてはまりますね。戦争は発生してから、それをどう終わらせるかを考えるのでは遅きに失します。どのようにして紛争の芽をつみとって、戦争を起こさないようにするか、それが平和を確保するための正道ではないでしょうか。
 ポーリング そのとおりだと思います。
5  健康法について
 池田 ご自身の健康法、その活力の秘訣についてお聞かせください。
 ポーリング 現在八十九歳ですが、健康状態は良好だと思います。その主な理由は、いまだかつて紙巻きたばこを吸ったことはないし、その他のたばこや、これに類似するいかなる物質もいっさい用いたことがないからです。また栄養摂取を改善したからです。
 その方法は拙著、『爽快に長生きする秘訣』に述べてあります。
 池田 なるほど。私も以前はたばこを吸いましたが、今はやめております(笑い)。食べ物では何がお好きですか。
 ポーリング いろいろな食べ物が好きです。とくに好きだったのは、妻がデザート用に作ってくれたサワークリームのケーキでした。最近では普通の砂糖、つまり蔗糖を多量に摂取することが健康をそこなうことに気づいたので、甘味の強いデザートはあまり食べないようにしています。
 池田 いや、それも同じです(笑い)。私もアルコールを受けつけず、甘いものが好きでした。一時、体調を崩して入院して以来、医師や妻から、カロリー制限をうるさく言われ、少々閉口しているところです。(笑い)
 さて、人間は、健康のために、何時間ぐらい寝たらよいのでしょうか。
 ポーリング その点については、七~九時間が理想であることが、さまざまな科学的研究により実証されています。その研究によれば、七時間以下でも、また九時間以上でも、健康にはよくありません。その意味では、よくいわれる″八時間睡眠健康法″は正しいのです。
 池田 納得できます。自分もふくめ、多くの人々を見てきて、私も同様の考えをいだいております。
 健康は、すべての価値創造の礎です。肉体的にも精神的にも健康であってこそ、最高に価値ある人生を送っていける。日本でも健康法としていろいろ提唱されています。栄養、運動、ならびに適当な睡眠と休養、リズム正しい生活等があげられ、おこなわれています。
 にもかかわらず、現代人には″半健康人″が多いといわれます。なぜそうなのか、博士はどう思われますか。
 ポーリング 普通程度の健康状態ということはよくいわれることですが、私から言わせれば、そうした状態は正しく栄養をとっていません。さらには、分子矯正論的な量のビタミンその他の物質をとっていないという理由で、本来、可能なはずの最高の健康状態からみて、みんな不健康なのです。
 私が『爽快に長生きする秘訣』のなかでアドバイスしている栄養上の注意を守れば、人は今よりも病気に対して強くなり、健康も増進し、二十五年や三十五年は長生きをすることができると自負しています。ほとんどの人がより健康になれるにもかかわらず、そうなっていないという点で、今、指摘された″半健康人″が多いということに同感です。
 池田 現代人は、もっと健康に生きられるということですね。ところで、日本人は世界で最も長寿の国の一つに入りました。これには、経済発展によって物質的に豊かになり、飢餓状態から脱出し、栄養のパランスを考えられる状態になったこと、また医学の長足の進歩の成果を吸収し、医療体制のなかに反映させたこと等が考えられます。とくに、乳幼児死亡率の低下が、統計上は大きく平均寿命を延ばしております。
 しかし、一方では、成人病と心身症、またノイローゼや精神病が増加しており、長寿ではあるが、決して健康ではない人々を多くつくりだしてきました。
 これらの病気は、医学の治療を受ければ、あまり悪化はしないが、治るわけでもない状態がつづきます。心身症などは、治ったり、また再発したりを繰り返しています。また、ノイローゼやうつ病等も軽症化し、健康な人とのさかいがあまりわからなくなっているとさえ指摘されております。
 つまり″半健康人″は、心身に多くの障害をかかえ、悩みつつ生きているような人々のことです。博士の提唱されている″正しい栄養″が、このような″半健康人″の改善に貢献することを期待しております。
 同時に、私はとくに、心の側面からひきおこされる病気が増加していることを考えれば、現代人のライフスタイル(生活文化)を再検討すべき段階にきていると思っております。たとえば、最近では、ガンや心臓病でさえも、心の中の不安、絶望、悲しみ、生きる意味の喪失等と深く関係してきていることが報告されております。また、ノイローゼやうつ病等に不安や悲しみ、苦しみが関連することは言うまでもありません。
 私は、高度に管理化され、また情報化された社会で、人間関係の希薄化、価値観の多様化、家庭の崩壊等が進むなかにあって、各人が生きがいを見いだし、人間関係を調整しつつ、不安や悲しみ、悩みを乗り越えて生きぬくための源泉として、宗教が位置づけられるように思います。
 とくに仏教は、生老病死の四苦という人間の根源的苦悩との対決から出発した宗教ですから、″半健康人″を数多く生みだす現代社会という状況下にあっても、それぞれが人生の苦を超克し、自己実現、人間完成への心身ともに健全な人生道を歩むうえにおいて、貴重な貢献をなしうると考えております。
6  ストレスの解消法
 池田 そこで″半健康人″を生みだす原因を考えると、多くの種類のストレス刺激(ストレッサー)がありますが、その解消法について、博士のご意見をお聞かせください。
 ポーリング 私たちは、個々の人間が受けるストレスの量を減らすような経済・政治のシステムをつくる努力をすべきだと思います。それを実現させる良い方法の一つは、この世界から戦争をなくすことです。
 またビタミンCを大量に摂取することは、ストレスの影響を抑制する助けとなりますので、非常に有益です。この分野の研究の第一人者であるトロント大学医学部のアンダーソン博士は、ビタミンCを抗ストレス・ビタミンと呼んでもいいのではないかと言っております。
 池田 ストレス刺激をその性質から分類すると、暑さ、寒さ、騒音等のような物理・化学的ストレスと飢餓、過労、感染症といった生理的ストレス、ならびに不安、恐怖、怒り、葛藤等の心理的、精神的ストレスに分けられますね。博士が指摘されたように、戦争は、あらゆる種類のストレスを噴出させるものです。直接的に生命を傷つけ、家屋や生活環境を破壊するという物理的次元のストレス源であるのみならず、飢餓や貧困、また伝染病を流行させ生理的ストレス源ともなります。
 戦争に対する不安、恐怖そのものが、計り知れない心理的、精神的ストレスを生むという過去の調査もあります。このような意味からも、現代において、戦争をなくす努力こそが、最大のストレス対策であるという博士の見解に賛成です。
 また、抗ストレス・ビタミンとしてのビタミンCを摂取することは、暑さ、寒さ等の環境変化への抵抗力をつけ、感染症の予防、ならびに治療にも効力を発揮するという点などについて、私もよく勉強したいと思います。生理的側面での抵抗力の増強が、心理的、精神的ストレスの克服にも好影響をおよぼすことは、当然のことといえます。
 さらに私は、今度は逆に、心理的、精神的側面からのストレス対策も重要だと考えております。とくに高度に文明化された社会では、管理体制のなかでの不満、対人関係での葛藤、価値観の多様化、情報の洪水、家庭の崩壊等のなかで生じる社会的、心理的次元のストレスが充満しております。
 これには、社会、政治の側面からのストレスをなくす努力を積みかさねなければなりませんが、同時に、ストレスヘの抵抗力を高め、ストレスをかえって栄養分として、いちだんと心身を鍛えることも必要ではないかと考えております。
 たとえば、生きがいを喪失した状態のときには、だれでもストレスヘの抵抗力が低下してくるものです。また、アメリカのスタンフオード大学の心理学者バンデューラは″自分はこの仕事をうまくやれる″という信念をもっている人は、自信を喪失した人よりもストレスに強いと述べております。この人生を意味あるものとして、生きがいに燃え、自信をもって生きることこそ、ストレスに強い生き方ではないでしょうか。先ほど述べたあらゆる領域にわたるストレスを考えますと、ストレス刺激のない状況というのは考えられません。
 アメリカの細菌学の権威であったルネ・デュボス博士とは、生前に日本でお会いして健康談議にも花を咲かせましたが、著書『健康という幻想』(田多井吉之助訳、紀伊国屋書店)のなかで、博士はストレスに関して次のように述べています。
 「人間生活は動的プロセスなのに、楽園は静的概念だから、地球上に別の楽園を見いだそうとしても、むだである」「人間は、必ずしも自分のためではなく、永遠に進んでいく情緒的、知能的、倫理的発展のために、戦うように選ばれているのだ」
 私も、デュボス博士と同じように、自己実現の戦い、人格完成へ向けての戦いを通じて、生きがいが生じ、その人自身の使命感がわきあがってくるのであり、このような人生の尊貴な戦いのなかでは、ストレス刺激が逆に、生命発展の栄養分になると考えております。また、ここに、宗教が人間にかかわる役割の一つの側面も見いだせるのではないかと思っております。
 人類への脅威といえば、戦争とともにガンがあります。ビタミンC研究の権威である博士は、このガン対策についても、精力的な研究を進めておられます。
 はたして、ガンは人類の英知で克服できるものなのでしょうか。
 ポーリング 結論から言えば、ガンを完全に克服することはむずかしいかもしれません。ガンには、百以上の種類があり、そのすべてについて完璧な予防、治療をおこなうことは、容易ではないからです。
 しかし、ビタミンCなどの特定の物質が、ガンや他の難病に対して、大きな役割を果たすことは明らかな事実です。これらの物質は本来、人間の体にそなわる自然治癒力を高め、身体の回復のメカニズムを活性化させるのです。
 この働きをうまく生かしていけば、死をいちじるしく先に延ばすことができます。また、人々がガンを患う年齢も、現在よりはるかに高くなり、総体的に、大きく寿命を延ばすことができるのです。
 心臓病についても、同じことがいえると思います。私の考えでは、こうしたことの普及により、人間の平均寿命は、現在の七十五歳から百十歳ぐらいまで、三十五年間ほど延ばせるものと考えています。
 池田 仏典には「百二十歳まで長生きできたとしても」という言葉があります。その言葉どおりになってきたことに、私は驚いています。
 ポーリング むろん、人間であるかぎり、死をまぬかれることはできません。また、たとえ寿命を延ばせたとしても、痛みや苦しみばかりの人生であっては意味がありません。
 私が主張しているビタミンCなどの活用は、長生きを可能にするだけでなく、病気そのものを抑え、病苦を軽減していきます。人間はさらに、長く、快適に、そして幸せに暮らしていけるのです。人生を満喫していけるのです。
7  科学とインスピレーション
 池田 博士は、これまで膨大な数の化学、物理学、分子生物学、医学関係の論文を発表されております。今でも理論化学の論文を出しつづけておられると聞きました。
 今までにどのくらいの数の論文を発表されましたか。そのなかで、いちばん記念すべき忘れられない論文は何ですか。
 ポーリング ここにあるのが、私の論文集の一部です。これまで発表した論文は、科学関係のものが約六百、世界情勢に関するものが約二百あります。本も二十冊ほど出版しています。ただし翻訳出版は、この数にふくまれていません。
 私の著書のなかには数ヵ国語に翻訳されたものもあります。大部分は科学関係の本です。約五冊が医学関係で、分子矯正論に関するものです。平和問題の二冊――一つはもちろんご存じの『ノー・モア・ウォー』、もう一つは『科学と平和』――はちょっと毛色が変わっており、それぞれインドと東ドイツで出版されました。
 池田 インドですか。私もインドで対談集を二冊出しました。西ドイツでも対談集など何冊か出ています。博士のような存在こそ、人類の良心にちがいありません。博士のような方を私は大切にしたい気持ちでおります。
 ポーリング 世間では、私はおそらく「ビタミンCの男」として名を残すであろうと言っています。まあ、私の働きによって多くの人々が多量のビタミンCを摂取するようになったのは、本当に喜ばしいことです。
 ビタミンCはガン抑怖の手助けもしますが、医師たちがそれをまだ認めようとしないのは残念なことです。でも近い将来、これを治療に役立ててほしいというのが私の希望です。
 これは私がときどき言っていることですが、私としては「混成軌道関数」の発見者として名を残したいと思っています。それが一九二一年の論文のテーマでした。一九二八年には、それについて短い所説を発表しています。現代化学結合論を発展させた私の働きが、私の科学への最大の貢献だと思っております。
 私はある意味では、自分の世界平和のための活動を最も誇りに思っています。その活動によって世界中の人々のために大きく貢献できた――すなわち、核兵器の実験による被害を減少させたり、戦争のない世界への潮流をつくるうえで役立つことができた――と思っています。
 池田 今あげられた仕事は、博士が二十代から三十代にかけての青春時代になしとげられたものですが、これからの若い研究者たちにもすばらしい発見をどんどんしてもらいたい、人類に偉大な貢献をしてもらいたいものです。
 そこでよく、科学に飛躍的発展をもたらした一つの要因は、人間の天才的な″直観″″ひらめき″だったという話を聞きます。″現代化学の父″である博士は、この点をどのように考えられていますか。
 ポーリング「インスピレーション(ひらめき)という言葉をどういう意味に使うかによりますが――。まえにこういう人を知っていました。物理化学者で五十歳で亡くなりましたが、この人がいわゆる″hunches″(直感)に興味をもっていたのです。直感というのはインスピレーション、つまり念頭に突然、浮かびあがる新しい考えのことです。
 それで彼は一九二八年の、あれはたしか米国科学アカデミーの会合だったと思いますが、そこで研究発表をしたのです。それによると、彼は百人の科学者に「直感がわくことがあるか」と質問しました。四、五人は「質問の意味がわからない」と言いました。
 しかし全体としては、これらの科学者の多数が「直感がわくことがある」「インスピレーションが得られることがある」と答えたそうです。
 池田 なるほど、よくわかります。
 ポーリング かくいう私も、考えを生みだす源泉について講演をしたこともあり、論文を書いたこともあります。これは私の持論ですが、ある問題について何年も考えつづけているときに、そうした直感というか、インスピレーションがわいてくることが多いようです。私の無意識が長いことその問題に取り組んできたからこそ、ある日突然、解答が得られるのです。
 ですから、もし私が自分の無意識を訓練し、その問題について考えるように仕向ければ、新しい考えが念頭に浮かぶたびに「それはこの問題に関係があるのかないのか」と無意識が私にたずねるでしょう。そしてもし関係があるならば、無意識はそのことを私の意識に知らせるでしょう。これはなにも、私だけにかぎったことではないと思います。他の人々も同じことを指摘しています。
 池田 「自分の無意識を訓練」するとは、おもしろい表現ですね(笑い)。科学史におけるさまざまな真理の発見も、科学者のそれまでの思考の長い長い蓄積が、無意識の次元で″発酵″し、満を持していた場合が多いのではないでしょうか。
 ポーリング またこの分野の研究者たちは「いくつかの部門にわたって知識をもっている人が、一つの部門でよく知られている考えを別の部門に持ちこんだとすれば、その″持ちこんだ″ということ自体が一種のインスピレーションとなりうる」と示唆しています。これは真実だと私は思います。
 私も数多くの考えをもっています。私は科学に数々の貢献をし、それを公表してきました。なかには正しくないということが判明した考えもあります。
 でも私は、数多くの科学上の発見をし、それを公表してきました。そうした発見をすることができた理由の一つは、私がさまざまな問題について、他の大多数の科学者たちよりもじっくりと考えるからだと思います。私はいつも科学上の問題について考えています。
 またもう一つの理由は、私が広範な知識をもっているために、一つの分野の考えを別の分野に持ちこむことができるということです。
 私の化学上の発見の多くは、自分の知っている物理学上の事実を、それがいまだかつて適用されたことのなかった化学の分野に持ちこんだ結果として生まれたものです。
 物理学の知識を化学の問題に適用するだけなら、かんたんといえばかんたんなことでしょう。しかし、それ以外の私の考えは、もう少しインスピレーション的なものだったと思います。ただし「インスピレーション」の原義は「スピリツト(霊)を吹きこむ」という意味ですが、そうした意味でのインスピレーションを受けたとは思っていません。私に多くのインスピレーション的な考えが浮かんだのは、私が広範にわたる知識をもっているからだと思います。
 池田 博士のご指摘は私に、「知識の個別性」と「知恵の全体性」との調和という、現代人のかかえた大課題を想起させます。情報化社会の急進展とあいまって、知識の量は膨大にふくれあがりました。しかし、それらの多くは孤立していたり、あるいは、知識を求めることが目的と化したり、何のための知識なのかという収敏しゆく一点を見失っているようです。それは、あたかも、おさまるべき位置がわからずに、バラバラに放置されているジグソー・パズル(切り抜きのはめ絵)のようだといっても過言ではないかもしれません。
 しかし、それでは、知識は人間の幸福に生かされないばかりか、かえって害をなす場合さえ少なくありません。個々の知識を「知恵」という「全体性」のなかに位置づけ、関連をもたせる意味からも、新しい知性と感覚をもつ人たちが、たとえば、デカルトが志した普遍学のようなものを、ぜひ手がけてほしいと、私は念願しております。
8  死ぬ権利をめぐって
 池田 安楽死については、ギリシャの昔から賛否両論がたたかわされてきましたが、現代における安楽死論争は、新たな装いのもとに展開されております。アメリカでは十数年前に、医師を中心に、安楽死を是とする運動が起こり、話題になりました。今日では、安楽死の問題は、苦痛のために死を選ぶという積極的安楽死から、尊厳なる死を選ぶという尊厳死へと、その焦点が移りかわってきました。
 それには、延命治療の発達が大いに関係していると思われますが、博士は「人間は尊厳に死ぬ権利がある」とする「死ぬ権利」を、主張する考え方をどう思われますか。
 ポーリング 安楽死という言葉が、誤解を招きやすいと思います。私が関心をもっているのは、人間は尊厳に死ぬ権利をもっているということです。実質的に死んだも同然の人間の意識を回復させようと、できるだけ長く患者を生かしておこうとする集中治療病院の行為を抑制しようという努力を、私は支持しているのです。
 たとえそうした患者の意識を一時的に回復できるような場合があるとしても、一日後、一週間後にはまた死んだようになり、結局のところ回復する可能性はないのです。こうしたやりかたを、何度も繰り返すのは間違っていると、私は思います。死にゆく患者に、不必要な苦痛を強いているだけです。生きられる望みのない患者は尊厳に死ぬ権利があるという意見に、私は賛成します。脳死にいたった患者を、人工呼吸器や点滴などの延命装置等とか、なんらかの方法で生存させておくということに、正当な理由を私は認めません。回復不能な患者を何度も何度も生き返らせるようなことに、現代医学の方法を用いることには反対です。
 私は、人間には、尊厳に死ぬ権利があると思います。もし自分が回復の見込みのない怪我や病気になったときには、不必要な苦痛を課せられることなく、尊厳に死なせてくださいという趣旨の書面を用意しておくようにと言う人がいますが、私もそのようにしておくつもりです。他の面と同じく、ここにも人間の苦痛を最小限にしようという私の主義、信条を適用したいのです。
 私たちは、死ぬ人間に不必要な苦しみを与えるベきではありません。もちろん医師たちも、患者のために努力はしなければなりません。たとえば、ガンで苦しんでいる患者には、苦痛を抑えるためにモルヒネが与えられます。もし生き延びてモルヒネ中毒になってしまうとしても、医師としての分別は、患者が不必要に苦しまないように、十分な量のモルヒネを与えるのです。
 しかしいずれにしても、回復の見込みのない患者には、人工呼吸器や点滴その他の方法による延命治療の終局する時期がやってきます。患者を医師の手から守らなければならないという議論もあります。
 なんらかの理由で、助かるかも知れない患者に対して医師が治療をやめ、患者を死ぬにまかせるということもありえます。
 ですから、安楽死の問題については、正しい基準が整備され、実行されるよう慎重に対処しなければなりません。
 池田 かつての安楽死論争は、肉体的苦痛の有無が最大の焦点だったと思います。ガン末期に襲いかかってくるような極度の苦痛にさいなまれての生がよいのかどうか、といった性質のものでした。
 今日では博士も指摘されましたように、ガン末期等には、その苦痛を除去する医学的方法が進歩しております。いわゆるベインクリニック(治りにくい苦痛を除去する診療科)の発達によって、苦痛を焦点とする安楽死は少なくなってきたように思います。
 私も、死へのプロセスにおいて生じてくる苦痛を最小限にする努力をすべきだと思います。そのためには、ベインクリニックのさらなる進歩を期待しております。
 ところが、一方で、延命のための医療が発達してきたことによって生じた問題があり、そこから尊厳死論争が生じてきていると思います。たとえば、博士が例としてあげられた脳死患者への対応があげられます。脳死状態におちいって、医学的な脳死判定のための検査を繰り返しても、蘇生の可能性がまったく認められないと判断された状況において、さらに延命の治療をつづけるのかどうかという問題です。
 日本でも、脳死患者の心臓を種々の薬剤を与えて百日間も動かしつづけることに成功しております。しかし、脳死患者は、特殊な治療をしなければ、ほぼ三日か一週間以内には心臓が停止してしまうといわれております。
 このような状態の患者においては、延命治療を抑制することを考慮にいれることには、私も賛成です。この場合、いちばん重要なことは、やはり本人の意思、つまり自己決定権を最大限に尊重するということです。
 しかし、本人が前もって自分の意思を明らかにしておくためには、明確な死生観をもつことが必要でしょう。
 あわせて強調しておきたいのは、死にゆく生命をみとる家族や親しい人たちの心情と行為です。患者への愛情が根本的に大事になってきますし、患者が、尊厳な臨終を迎えられるよう努力すべきでしょう。
 当然、そこには医師の側が家族と協力しつつ、患者をそうした方向へ向かわせる最大限の配慮と援助がほしいと思います。
 そうしたことを前提としつつ、医療の現場では、家族の意思、心情をも十分尊重して治療のレベルを選択することが賢明な方法だと考えております。私が、このような主張をするのは、とくに、現在の日本において、家族の意向がきわめて大きな比重を占めているからです。
 本人の自己決定権が中心ではありますが、日本では、家族との意見の調整も重要な課題の一つとなっております。この家族の意向の尊重は、日本のみならず、中国や韓国等をふくめた東洋の諸国にもあてはまることだと思います。
 ところで、私は仏法者の立場から、人間における尊厳なる死を迎えうるために必要な条件を、次のように考えております。
 つまり、尊厳死論争とは、とりもなおさず、「死」論にほかならないと考えているのです。博士も言われるように、死にゆく生命の苦を取り除くことが、医学関係者や他の人々の最大の目標となりましょう。
 死にさいしての人間の苦についてですが、仏法では、三種の苦に分別して考慮しております。すなわち、苦苦、壊苦、行苦の三苦です。苦苦とは肉体的、生理的苦痛です。壊苦とは、精神的、心理的苦しみであり、これには家族、社会がかかわってきます。行苦とは、実存的、宗教的苦しみです。
 ベインクリニックをはじめとする現代の医学は、苦苦を除くことには成功をおさめつつあるように思われます。また壊苦に関しても、ホスピス等の発達によって重大な考慮がはらわれるようになりました。またここでは、家族との関係も大きな問題になる場合が多いでしょう。
 最後の行苦に関するものとして、私は、その人が生涯にわたって培ってきた生死観、人生観があり、また、哲学や宗教が重大な貢献をなすことができると考えております。
 仏教では、人間の尊厳なる死は、この三苦を除き、心身ともに安らぎに満ち、また歓びさえ感受しつつ人生の最終章を開じることであると示しております。延命のための医学も、人間に、このような死を迎えさせるために使われるべきであり、逆に、苦しみを増加させるようなことがあってはならない。
 ここに、尊厳死に関するさまざまな規制の根本原則があると考えております。
9  「脳死」へのアプローチ
 池田 欧米においては、すでに方向性が定まっていると思いますが、日本においては、今、脳死論争が盛んにおこなわれております。博士もよくご存じのように、日本の脳死判定や臓器移植に関する医学水準そのものは、欧米諸国とほぼ肩を並べるところにまで達していると思われます。
 ところが、技術的には可能であっても、なお、脳死に関する論議がおこなわれているところに、日本の風土の特殊性、そして死生観等が、色濃く反映しているように思います。
 ポーリング 脳死の状態から回復した人はいません。脳波が止まれば、すなわち、電極でとらえられる脳からの電気的波形が平らになった状態から蘇生した人はいないのです。蘇生する確率はないのです。ですから、脳死の患者をむりやり生かしておくことをしない了解さえ得られれば、脳死患者の臓器を移植のために使用するということは、正しいことだと思います。そこに、肉体的な苦痛の要素はないのです。脳死の状態の患者が苦痛を感じることはありませんし、そうした患者をたんに生かしておくということに、なんらの理由も私は見いだしません。
 池田 厳密に判定された脳死状態から蘇生した人はいないという認識は、日本でも現在ではいきわたってきております。
 ところで、私は脳死問題を考えるには、三つの段階があると思います。第一には、脳死は医学的に死であり、蘇生することはありえないかどうかという問題です。第二に、脳死状態であるということを確認するための判定基準ならびに、それにもとづいておこなわれる判定が確実であるかどうかという問題です。第三に、脳死であることを確認できたとして、それを、本人の意思や家族の意向等もふくめて一人一人が死と認め、人工呼吸器を取りはずすことに賛意を表したり、ある場合には臓器提供をなしうるかどうかという問題です。
 第一の点については、博士も言われるように疑問はありません。第二の点についてですが、日本で今、一般に使用されている判定基準は、欧米諸国にくらべても、厳密であるといわれております。それでも、現在、医師のなかから、その基準を満たした患者のなかで、さらに精密な他の検査をしたところ反応があった等の疑問が提示されております。しかし、これもやがて医学界で意見が調整されることと思われます。
 私も仏法者の立場から、医学界が責任をもって提示する判定基準にのっとって、脳死であることを厳密に確認するならば、その時点では、すでに人間生命は蘇生する可能性のある限界線を超えていると考えております。
 しかし最も大きな問題は、第三点です。ここに、日本民族や東洋人の死生観が深くかかわってくるのです。
 東洋人の死生観を培ってきた仏法の死生観について、ここでくわしく述べることはできませんが、かんたんに言えば、人間生命は死によって無に帰するとは考えません。臨終を過ぎた生命は、宇宙そのもののなかに融合していきます。
 つまり、死によって生命は断絶しないのですから、死にさいしていだいていた種々の感情、苦しみ、楽しみ等を潜在的エネルギーとしてたもちつつ、宇宙生命にとけこんでいくと考えるのです。
 たしかに、死にさいしては、意識のレベルが低下し、無意識の状態になります。しかし、仏法では、無意識の広大な領域を洞察し、そこに意識的自我をささえる根源的自我を見いだしております。無意識的、根源的自我は、意識のレベルが低下して昏睡状態に入っても働きつづけているというのです。
 むろん、博士の言われるように身体的苦痛、すなわち苦苦はありません。しかし、壊苦、行苦という心理的、実存的苦しみをいだいている可能性を否定することはできないと考えます。同時に、その根源的自我は、安らぎや楽しみをも感受するものです。
 このような死生観からすれば、私は死にゆく生命主体の意思を尊重しつつ、また家族の意向をも考慮すれば、臓器移植をおこなうことも可能だと考えております。
 また、なぜ日本で臓器移植が進まないのかといえば、日本民族の心の中には、仏法の死生観のほかに、日本人古来の死生観、日本の神道の死生観、儒教の身体観等があって、民族深層の心を形成しているからであると思われます。このような死生観、身体観のなかには、屍体と霊魂を一体とみなし、屍体に霊魂がやどっているという考え方をするものもあります。
 屍体と霊魂を一体と考えれば、脳死体であるからといって、その臓器を取り出すことには抵抗をおぼえるものです。日本や東洋では、臓器移植という西洋医学の方法論をどう受容していくかというコンセンサス(合意)づくりを急ぐことが必要であると、私は考えております。
 なお最近、私は「脳死問題に関する一考察」という論文で、この問題を掘りさげて論じました。

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