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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 人間にとって科学とは  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

前後
2  ポーリング 私の考えでは、量子力学は本質的に実用的な研究科目です。ニュートンの運動の法則によって、天体の軌道ばかりでなく、宇宙船の航路をも計算できるようになりました。それと同様に、量子力学のおかげで電子や原子に関して信頼しうる計算ができるようになったのです。量子力学はまだ相対性理論やその他の物理学理論に組み入れられていませんが、やがて統合化されていくものと私は考えています。
 池田 遠大な予見です。私も、注目していきたいと思います。ドイツの量子力学界の泰斗たいとといわれたウェルナー・ハイゼンベルクの回想録『部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話』(山崎和夫訳、みすず書房)を読んだときの鮮烈な印象を、私は忘れられません。この回想録は「量子力学とカント哲学」「素粒子とプラトン哲学」などの章節をふくんでいる点に明らかなように、たいへん哲学的な内容があることは、ノーベル賞学者の湯川秀樹博士が、この日本語版訳書に寄せた「序文」で指摘されているとおりです。
 一例をあげますと、ハイゼンベルクは「部分と全体」という表題と関連するくだりで、次のように述べております。少し長くなりますが‥‥。
 「客観化し得る領域は、われわれの真実の単なる小さな一部分に過ぎない。しかし主観的な領域が問題にされる場合でも、中心的秩序は作用しており、それは、この領域の姿を偶然のいたずらとか、あるいは勝手なものとみなすわれわれの権利を拒否するものだ。もちろん主観的な領域では、個人として、また民族として、多くの混乱が存在するかもしれない。そこでは、いわば悪魔が支配していて、それが乱暴狼藉を働くかもしれない。あるいはもっと自然科学的に表現すれば、中心的な秩序と適合しないような、それから分離した部分的な秩序が作用しているかもしれない。しかし結局は常に中心的な秩序、すなわち宗教の言葉にかかわりのある古くからある言葉″一者″が、そこを貫いている。だから価値を問題にするときには、分離した部分的秩序によって生ずるような混乱をさけるために、われわれはこの中心的秩序の意を体して行動することを要求されるように思われる」(同前)
 主観と客観、人間と自然と宇宙とが、一つの秩序感覚のなかで融けあってハーモニーをかもしだす、味わいある文章といえましょう。ハイゼンベルクは「この全体の関連は、量子力学を理解して以来ずっと考えやすくなった」(同前)と述懐しています。
 このわれわれの世界の事象を把握する科学の発達はめざましいものがあります。たとえば素粒子論の世界においても、かつては原子中に存在する陽子、中性子、電子を素粒子と呼び、物質世界の最終要素であると考えられたことがありました。しかし、その後、これら以外の素粒子が次々と発見され、それらを探究するところからクォーク理論が提出されました。
 そして、クォークとレプトンからなる「物質の究極像」が形成されてきましたが、今日では、サブクォークの段階のこともよく聞かれます。このように考えると、物質の究極を求める科学の進歩には限りがないのか、つまり、どこかで、これが「究極」であるといえる次元にいたることができるのか、それともこのような「階層」概念そのものが、他の新しい概念に変わっていくのか、といった問題につきあたります。
 ポーリング 過去一世紀、一世紀半のあいだに、科学者は物質界および生物界を支配するさまざまな自然法則について、驚くほど多くのことを発見してきました。今でも毎年、私たちの身のまわりの世界について何か新しい発見がなされます。こうした際限のない発見が、いつまでつづくのかと論議する科学者もいます。
 もし人類が千年、また一万年と生き延びたとして、文明人は科学を発達させつづけることができるでしょうか。そのとき、自然界のすべての法則は完全に解明されているのでしょうか。私にはその答えはわかりません。素粒子の発見には終着点がないと言っている物理学者たちもいます。電子と原子核の時代から、電子と陽子、さらに中性子の時代へと進み、今やメソン(中間子など)およびさまざまな素粒子が知られている時代になりました。こうした科学の発達の終着点については、現状ではなんとも申し上げられません。
3  宇宙と生命の起源
 池田 天文学者として著名なコーネル大学教授のカール・セーガン博士とお会いしたさい(一九八三年五月)、「地球外知性探査」が話題になりました。この大宇宙に″知性″の存在する可能性については、天文学の立場から、地球のような文明をもった惑星、あるいはもっと高度な文明に達した惑星が銀河系だけでも一千万個に達するのではないかと推定する学者もいるようです。世界的ベストセラーとなったセーガン博士の『コスモス』(木村繁訳、朝日新聞社)のなかでも、同じコーネル大学にいた天文学者のフランク・ドレイク博士の考案した方程式を用いて、知的生物ならびに文明の可能性を推測しております。
 また、過日、イギリスの天文学者として知られるチヤンドラ・ウィックラマシンゲ博士とも対談しました。
 そのさい、博士は、広大な宇宙には人間型の知的生物が存在することは十分考えられる、地球が原始生物のみの天体であった時代にも、他の天体にはすでに人類と同様の知的生物が発生していた可能性がある、と語っておられました。
 私は宇宙科学については門外漢ですが、仏教者の一人として宇宙観、生命観については日ごろからたいへん関心をもっております。多くの仏典には、仏教の宇宙観が説かれていて、この大宇宙には、知的能力をもった生命的存在が活動しており、多くの文明の華が咲きほこっている様相が示されております。とくに、仏典のなかでも最高峰に位置づけられる法華経では、冒頭の「序品」において、すでに、仏教の壮大な宇宙観を開示し、他の星雲における惑星上に、知的生物が多彩な文明を創出している様相が照らしだされております。
 仏教の宇宙観が、現代天文学が解明していく宇宙の様相と、その軌を一にしていることはきわめて興味深いことです。
 博士は、他の惑星にも人間と同じような知的生物が存在するとお考えですか。
 ポーリング 既知の宇宙には膨大な数の恒星が存在します。ですから、そのなかでかなり多くのものが太陽に類似しており、その周囲を地球に似た惑星が運行していることはたしかです。私の推測では、そうした惑星の多くに生物が発生しております。それらの生物はその多数が、もしかしたらそのすべてが、地球上の生物と同様に炭素を基本としているように思われます。
 しかし、「人間」と呼べるほど私たち人間に酷似した生物が現出しているということは、考えられないと思います。知的生物の発生はありうることだと思います。ただ、私たち人間が現出し、進化したのと同じ歴史的時間帯で、人間と同じような知的生物が現出し、存在しつづけた惑星は、おそらく少ないだろうと思います。
4  池田 ドレイク博士の方程式のなかにも、一つの惑星の寿命のなかで、技術的文明人の存在する期間の割合を示す因子がふくまれております。ある惑星上に、少なくとも一度は科学技術を発達させた知的生物は数多くあっても、ポーリング博士が指摘されたように、それと「人間が現出し、進化したのと同じ歴史的時間帯」に知的生物の創出した文明が栄えている可能性とは違うものだと思います。
 たとえば、地球という惑星においても、三十五億年前に生物学的生命が誕生しましたが、知的生物としての人間の出現は、長く見積もっても数百万年しかさかのぼれません。さらに、電波天文学を特徴とする宇宙技術文明の段階に入ってからは、わずか数十年しかたっておりません。他の惑星においても、ほぼ同じようなプロセスをたどるとすれば、博士が言われるように″現在″において、文明の栄えている惑星の数は、それほど多くないと推測できましょう。
 私は、他の惑星上の知的生物と共存できる″時間帯″を可能なかぎり延長させるためにも、地球上の文明の平和な永続に、努力をかたむけるべきだと考えております。
 現代科学文明のかかえる最大の危機は、核兵器の脅威であり、また地球環境破壊、すなわち自然生態系の破壊ですから、地球人類の文明を永続させるためには、このような危機を克服することこそが肝要です。私は、そのためにも、核廃絶へと向かわしめ、地球生態系と共存していく民衆運動の基盤となる思想、哲学が宇宙論の視点からも要請されていると考えております。
 もう一点、ウィックラマシング博士との対談で興味深かったのは、博士が仏教の「転生」の思想のように、人間が死後、他の天体でふたたび知的ないとなみを始める可能性を否定することはできないと述べられた点です。
 ところで、生命がどのようにしてこの地球上に発生したか――「生命の起源」という問題については、今後さらに解明が進むと思いますが‥‥。
 ポーリング 生命の誕生には、自身と同一のものをみずから複製する化学反応が必要ですが、ある種の分子に、そうした反応の触媒として働く能力があった――その必然的結果として生命がこの地球上に発生したと私は考えます。ダーウインの進化論が分子レベルから解釈されていますが、これは生命の起源についての容認できる理論だと思います。
 池田 ノーベル生理学・医学賞を受賞した世界的な生物学者のジャック・モノー博士は、かつて著書『偶然と必然』(渡辺格・村上光彦訳、みすず書一房)のなかで、地球上における、確率的にはほとんどゼロに近い最初の生命の発生は偶然に支配されている、と書いています。地球上の生命の発生はきわめて偶然的な、いわゆる唯一無二ともいうべき出来事だというわけです。その一方で、偶然に発した生命はその同一性を何億年ものあいだ、首尾一貫して不変のままに維持し、必然的に合目的的に生存をつづけていこうとする、とも述べていますね。
 モノー
 (一九一〇年〜七六年)パリ大学教授、パスツール研究所所長等を歴任。微生物による酵素合成の遺伝的制御に関する研究等でノーベル生理学。医学賞受賞。
5  ポーリング ジヤツク・モノー博士の考えに同感です。これは厳密に検討していかなければならないことですが、化学反応、すなわち化学の一つの側面に、たとえば、偶然が重大な結果をもたらしたり、もたらさなかったりするということがあります。自身と同一のものをみずから複製する反応において自触媒作用(みずから反応速度を選択し増大させる)が働き、みずからを急速度に複製することによって、この地球上に生物が発生し進化するぐらいまで、化学成分が増える場合もあるのです。
 すなわち、偶然が、生物の発生、進化をひきおこすような方向に働いていく場合もあるのです。私はモノー博士の本を読みました。本質的に彼の意見には賛成ですが、その主張に対して、少しつけくわえさせていただきました。でも、モノー博士と意見を異にしてはいないと思います。
6  科学者の社会的責任
 池田 地球上に発生した生物はDNAによって情報が担われていますが、分子生物学は、この遺伝情報に手をくわえ、これを組み換える段階にまで発達してきました。遺伝子の組み換え技術や細胞融合等による遺伝子工学の発展は、人類にとってさまざまな課題を解決するうえで寄与するところが大きいといわれる一方、危険な方向へ結びつく可能性ももっています。
 そこで研究者の間で、自主的なガイドライン(実験指針)が設定されるなどの動きが出たこともありましたね。
 DNA
 デオキシリポ核酸。遺伝情報の本体をなしている物質。
7  ポーリング 十年ほど前に、遺伝子工学が人類にたいへんな危険をもたらす恐れがどれほど大きいかを推定するために、遺伝学者たちが非常な努力をしました。彼らが到達した結論は、ある程度の抑制措置をとるだけでその危険を除くことができるだろうというものでした。
 しかし、これはすべての科学的な進歩について言えることですが、科学上の発見は人類の利益のために用いなければならない。たとえば、戦争のような人類を害する目的のために利用してはならない。社会全体として、そのように意思決定することが大事です。
 池田 まったく同感です。その点については、慎重なうえにも慎重を期してほしい。科学的な興味だけをもって暴走しては絶対にならない。石橋をたたいて渡るぐらいの慎重さがあってもよいと思います。
 私はアメリカでおこなわれた遺伝子工学に対する「ガイドライン」の設定の特徴の一つは、科学者自身が、科学実験に対する指針を決めたことにあると考えております。
 のちには、これほど厳しい規制をする必要はないという意見が多数になってきていますが、それでも科学者が人類の安全や生態系の立場から実験のあり方を再検討しようとしたことの意義は大きいのではないでしょうか。
 遺伝子組み換え実験のおよぼす悪影響として、環境との関係においては、第一に有害微生物の危険性がありました。しかし、この点については、ガイドラインを守らないで実験をした科学者が、わずかですが報道されていることも事実です。現在のところ、あまり問題は生じていないようです。これは科学者の良心の問題です。
 第二に、これは一部の人たちかもしれませんが、たとえ有害ではなくても、現在までの地球進化によって生みだされてきた生物と違う生物体を人工的につくった場合、もしそれが環境に出ていって――この点については、第一で述べたように、これまでは問題が生じていませんが――地球全体の生態系ヘなんらかの悪影響を与えるのではないかという意見です。
 第三に、この技術を生物学から医学へ適用するときには、倫理上の問題が生じてきます。安全性とともに、人間の遺伝子をどこまで操作してよいかという問題です。
 今後も、このような科学者自身から提出されてきた問題点については、つねに注意をはらっていくベきでしょう。
 また、ご指摘のように、科学を人類の利益のために用いるには、科学者だけにまかせておくのではなく、社会全体がかかわることも大切ではないかと思います。
 とくに、第三点としてあげた遺伝子組み換え技術の人間への適用ともなれば、科学者のみならず哲学者、人類学者、倫理学者、宗教者、また、一般市民の方々も入って意思決定できるようなシステムをつくる必要があると考えております。
 若千、話は前後しますが、科学の進歩が大きな社会問題となり、その点への科学者の対応として見逃すことのできないのが、一九五五年の有名な「ラッセル=アインシュタイン宣言」です。
 核兵器をつくりだした科学者こそ、平和と核軍縮の運動の先頭に立つべきだというアインシュタイン博士らの願いがこめられた宣言だと思います。
 この宣言をうけて二年後、世界の科学者からなる平和会議のパグウォッシュ会議が開催されましたね。博士はこの会議の有カメンバーでしたが、科学者の社会的責任について、基本的にどのようにお考えになりますか。
 ポーリング 世界の大きな問題は、そのほとんどすべてが重要な科学的内容をもっております。私は半世紀にわたって、科学者が特別な義務を負っていることを主張してきました。その義務とは、そうした問題の科学的側面について民間人の教育に手助けをし、かつみずからの意見を表明することによって彼らが正しい決断をくだす手助けをすることです。
8  思い出のアインシュタイン
 池田 私の恩師の戸田先生は、若いころにアインシュタイン博士の講演を聴くことができた体験を、よく懐かしそうに話していました。
 当時、恩師は二十二歳で、数学や物理学、化学などを真剣に学んでいました。アインシュタイン来日の報を聞き、胸おどらせたそうです。来日した博士の「特殊および一般相対性理論について」と題する五時間にわたる講演を、芸術的でさえあった、と感嘆しておりました。ちょうどノーベル物理学賞の受賞が決まった直後で、科学者としての博士に対する敬意は当然のこととして、それ以上に、博士の言動をとおしてにじみでる人格に、深い感銘をおぼえたようです。
 あるときはその体験を「一生の幸せ」とまで言っていました。
 ポーリング 私は、一九二七年にアインシュタイン博士に初めてお会いしました。のちに、三二年だったと思いますが、博士がカリフオルニア工科大学におられたときに、大学でよく知りあうようになりました。
 その後、博士がプリンストンに住んでおられたとき、原子科学者緊急委員会に参画するように依頼されました。博士自身は委員会の会合に出席しないで、副議長に運営をまかせておられました。
 しかし、いつも妻と私に懇談にきてほしいという伝言を送ってきました。委員会の他のメンバーは招待されませんでした。
 私たち夫婦がプリンストンにいたときは、毎晩、博士と一時間ぐらい世界情勢について話しあいました。科学のことはあまり話題にのぼらず、主に世界情勢について語りあったのです。ですから、博士ととてもよく知りあうことができました。博士は私の妻をとくに気にいっておられたように思います。妻にはたいへんユーモアのセンスがありましたし、博士もそうでしたから。さまざまな国の指導者のふるまいなどについて、おもしろい話が出たり、なんでもユーモアのある話になると、博士は大笑いされていました。
 池田 一九二二年(大正十一年)十一月、初めてアインシュタイン博士を迎えた日本の歓迎ぶりは、文字どおり官民をあげての盛大なものであり、一科学者を遇するものとしては、空前絶後であったようです。″相対性理論″という言葉は、その難解さにもかかわらず、一種の新語とさえなって、市井の人々の口の端にまでのぼる、流行語とさえなっていました。
 くわえて、日本のある新聞が「アインシュタイン博士来る――温容春のような懐かしさ」と評したように、博士の飾らぬ風貌からにじみでてくる人格のあたたかさ、大きさに、日本人は深く魅了されたようです。
 歌人でもあった日本の優れた物理学者の石原純氏は、博士を迎えることのできた喜びを、
  アインシュタイン、
  彼によりて私たち人間の思想が
  どんなに険しい階段を
  よじ登り得たことでしょう。
  私たちのアインシュタイン、
  彼によりて、ひろびろとした宇宙が
  私たちの展望の可能な領域に
  どれほどおおく持ち来たされたことでしょう。
  (「黒く究まる光」、『アインシュタイン講演録』所収、東京図書)
 とうたっていました。英知の輝きもさることながら、アインシュタイン博士は、その天衣無縫のユーモアで人々をつつみながら、存在すること自体で平和を語っていたように感じられてなりません。
 世界平和についてアインシュタイン博士が述べられたことを、何か覚えていらっしゃいますか。
 ポーリング たくさんあります。なかでも私が明らかにしたエピソードが一つあります。博士と話をしていたとき、博士は生涯で過ちを一つおかしたかもしれない、と言いました。それは、原子爆弾の製造を進めるルーズベルト大統領あての手紙に署名をしたことでした。
 博士は「しかし、これは許されてもよいのではないでしょうか。当時、われわれすべてはナチスが原爆の計画を進めており、原爆を最初につくりだせば世界の支配者になるだろうと考えていたのですから」と語りました。
 博士と別れた後、私はその場ですぐにメモを取り出して、博士の発言どおりに記しました。博士は原爆開発に果たした自分の役割についていくらか心配していました。
 原爆の基礎には、いうまでもなく、エネルギーと質量に関するアインシュタインの関係式 E=mc2 があったからです。
 これは科学者に、核反応の起こし方さえわかれば原爆をつくることが可能であることを教えているのです。
 E=mc2
 相対性理論にもとづいてアインシュタインが発表したもので、質量(m)とエネルギー(E)は等しく、E=mc2 (cは光速度)が成立する。
9  池田 たしかにアインシュタイン博士にとって、つらい選択であったにちがいありません。日本でも戦後、博士の知友のなかから、その点に疑問を呈する人がありました。
 それに対するアインシュタイン博士の返書には、良心のジレンマというか、苦渋がにじみでております。これは一九五三年当時の「東京朝日新聞」(七月八日付)で報道されたものです。
 「私ははっきりした平和主義者でありますけれども、無条件の平和主義者ではないのです」と述べたあと、「私は始めから終りまで、日本に対する原爆の使用を正しいものと認めませんでした。しかしながら私は(日本に対して原爆を使用するという)宿命的な決意をやめさせることは、できえなかったのです。(中略)私が(二月二十二日付の私の手紙で)申しあげたのは、ドイツに対する原爆の使用に私が同意したという意味ではなかったのです。ただ私としては、ヒトラーのドイツだけが一方的にこの兵器(原爆)を所有するという状態は絶対に避けなければならない、と考えていました」と。
 広島への原爆投下を知らされた博士は、ただひとこと「Oh, weh!」(ああ、悲しい)と悲嘆の言葉をもらして絶句してしまったと伝えられますが、そこにも深い苦悩が凝縮しているようです。
 戦後、アインシュタイン博士が、平和運動の旗手として活躍されるようになった原点が、そこにあると思います。
 ポーリング すでにふれたように原子科学者緊急委員会というのがあって、アインシュタイン博士が議長をしておりました。私はその評議員会のメンバーとして招聘されたのですが、もしそうしたことがなかったならば、おそらく私の世界平和への運動はあまり効果をあげなかったことでしょう。
 私が評議員として招かれたのは、たぶんアインシュタイン博士が推薦してくれたからではないかと思います。
 私はそれ以前から、核兵器や核戦争について公然と発言をしておりました。しかし私たち夫婦が平和運動に多くの精力と努力をそそごうと決意したのは、アインシュタイン博士という鑑があったからだと思います。
10  アインシュタインの世界観
 池田 アインシュタイン博士の世界観は、まことに興味深い論点をいろいろ提示しています。そのなかに、真剣に科学というものを探求した人は皆、人間の精神にはるかに優越した一つの精神を宇宙の法則の内に見いだす、その一つの精神に向かいあえば、わずかな力しか有しない人間はみずからを卑小に感じてしかたがなくなるだろう、という趣旨の発言があります。
 現今、さまざまな分野において科学の暴走が指摘されていますが、とくに人間社会と自然環境の調和という意味で、このアインシュタイン博士の言う″一つの精神″への謙虚さということは重みを増していると思います。
 ポーリング 妻と私は何度もアインシュタイン博士と話したことがありますが、私の考えでは、彼の世界観は当時の、そして現在の私の世界観とほぼ同じものでした。
 引用された発言は、アインシュタイン博士がなんらかの至高の存在を信じていたことを示すものだと誤解される恐れがあると思います。彼が私たち夫婦に語ったこと、また公表されたその他の発言からみて、彼が言及していたのは自然界というか宇宙のことだったと考えられます。ますます多くの驚くべき発見がなされ、自然界ないし宇宙はあい変わらず科学者を驚愕させている――そのことを彼は言いたかったのだと思います。
 池田 おっしゃる意味は、よくわかります。
 若いころのアインシュタイン博士に、「私はスピノザの神を信じています。それは、存在するものの合法則的な調和の中に自己を顕現する神であり、人間の運命や行為にかかずらう神は信じません」B・ホフマン、H・ドゥカス『アインシュタイン』鎮目恭夫・林一共訳、河出書房新社)との言葉があるように、博士が、人間の運命を支配し、裁く人格神のような「至高の存在」を信じていなかったことは、明らかだからです。
 とともに、博士は『晩年に想う』(中村誠太郎らほか共訳、講談社文庫)におさめられた一つの文章で、こう述べています。
 「思惟だけでは、究極的で根本的な目的感覚を我々に与えることはできません。この根本的な目的と価値判断とを明かにし、それを個人の感情的生活にしっかと根を下させることこそ、人間の社会生活にあって、まさに宗教が果すべきもっとも重要な機能だと私には思えます」
 スイスの文明批評家マックス・ピカートが、アインシュタイン博士の風貌を「多くの物理学者の顔とはまったく異っている。アインシュタインがわざと典型的な顔をしないように努めているとすれば、それはこっけいであろうが、そうではない。典型のぼんやりとしたものから、単純で美しい職人の顔付きのきっぱりとした明るさが浮かびあがってくる」と評していることが、ゼーリッヒ著の『アインシュタインの生涯』(広重徹訳、商工出版社)に紹介されています。
 このように、「平準化」されず「型」にはまらぬその風貌は、そのままアインシュタイン博士の宗教的ともいえる感情の大きさと人格を物語っているように思えてならないのです。
 ポーリング アインシュタイン、アイザツク・ニュートン、チャールズ・ダーウインの三人は、これまでに出現したなかで最も偉大な科学者だと思います。アインシュタインは科学の分野でまことに偉大な二つの貢献をしました。
 それはまず特殊相対性理論を発表し、次いで一般相対性理論を完成したことです。彼はそのほかにも多くの重要な貢献をしました。たとえば陽子の存在を認知したことや、光電効果を説明したことなどです。また世界平和の推進という面では、彼の世代における最も偉大な運動家の一人でした。ノーベル平和賞を受賞してしかるべき人だったと私は思います。
 池田 アインシュタイン博士やポーリング博士のような平和主義者が、もっともっと出てもらいたいものです。戦後、アインシュタイン博士は、戦争をなくすためには、無制限の国家主権に制限をくわえ、世界連邦、世界政府的な秩序をつくりあげていく以外にないことを、熱心に唱導しました。
 しかし、そうした構想は、米ソ両国の支配する″パックス・ルッソ・アメリカーナ″と呼ばれる二極構造のなかで、無残なほど、逼塞させられてしまいました。今、ヤルタ以来のそうした世界秩序が崩れ、大きな再編の時代を迎えて、平和の巨人アインシュタインのような、グローバルな発想、構想に、新たなスポットライトがあてられなければならないといえましょう。
 アインシュタイン博士との交流で、いちばん思い出深いのはどんなことでしょうか。
 ポーリング 私たち夫婦とアインシュタイン博士とのつきあいで最も印象的だったのは、彼の合理的なものの考え方とそのすばらしいユーモアのセンスでした。
 池田 それは、ポーリング博士もまったく同じです。(笑い)
11  科学者が留意すべきこと
 池田 一九六一年一月十七日、アメリカのアイゼンハワー大統領は、大統領職を去る離任演説のなかで国民に一つの警告を発しました。すなわち、巨大な常備兵力と大きな兵器産業との結合の脅威です。
 こうした状況はさらに大学、研究所等をくわえ″産軍学複合体″とも呼ばれ、戦後の軍拡競争をささえる体制を形成してきました。この過程で多くの科学者が新しい兵器の研究・開発にたずさわってきたことは、周知の事実です。
 ポーリング その問題は、私も過去四十年、また四十五年のあいだに発表した論文や講演で論じてきました。
 科学者は兵器の開発・製造に従事することを拒否すべきであろうし、軍事力強化に関する仕事、たとえば、新型兵器の開発などは拒否するのが望ましいと機会あるごとに提案してきました。科学者もふくめて、ともかく単一のグループが世界をコントロールすべきではないと思うし、私は民主主義を信じております。
 そして、私たちは、公衆のほんの一部にすぎない科学者に、世界を支配させるべきではないという考えを、これまでも述べてきました。
 科学者たちには、自国の人々が、何が今、問題なのかを理解する手助けをする義務があると思います。しかし、決定は人々全体によってなされるべきです。
 私は、みずからの科学的訓練と能力を応用しうる職をさがし、原子エネルギー委員会での職や爆発物の開発といった軍事関係の仕事につく科学者たちを非難はしません。第二次大戦中、私は多くの時間を爆薬の研究に費やしました。私自身、爆薬や他の軍事問題に関する研究をしましたが、医学の問題に関する、たとえば負傷兵に対する治療方法などの研究もやりました。それでも、爆発物製造の仕事をしたのは事実です。
 これまでも述べてきましたが、私たちは世界から戦争を一掃することに成功はしないであろう、と私はその当時、考えておりました。原子爆弾が投下されて初めて、その考えを変えたのでした。これが私の答えです。
 みずからの訓練、能力を生かすことができる仕事にたずさわっているなら、たとえそれが軍事開発に関するものであっても、科学者各個人を責めることはできません。しかし、兵器に関する仕事をするつもりはないと言う科学者を、私は称賛します。「社会的責任を求める科学者の会」の会員は、自分は兵器に関する仕事にたずさわるつもりはないと言うであろうし、会員の多く、またほとんどは、実際にそうしました。
 それは、各科学者個人にとって立派なことだと思います。科学者たちの支配による寡頭政治をおこなわせるべきではありません。
 寡頭政治とは、ほんの一部の人々による独裁政治のことです。
 池田 常識と見識とをかねそなえた″人間の目″で物事を判断していくこと――これが平凡なようですが、現在、平和を考えるうえで最も要請されていることではないでしょうか。
 アメリカのすぐれた平和運動家であるハロルド・ウイレンズ氏は、言っております。
 「核兵器のジレンマの解決は専門家にまかせておくべきだという主張はナンセンスである。現在の危機的状況にわれわれを導いてきた政策を作り出したのは、結局のところ、その専門家たちにほかならないのだから。専門家の意見なら大丈夫だという神話は、まさに神話でしかない。水爆をこしらえるためには科学的知識が必要だが、水爆の数が多くなりすぎたと気づくためには、常識がありさえすればよいのである」(『核をやめさせる力』向笠広次監訳、創元社)
 ポーリング博士が寄せておられる民主主義への信頼も、こうした健全なる「常識」の土壌に根ざしておられるのだと思います。
12  科学の発達と精神の開発
 池田 この問題に付随して、科学の発達と人間精神の開発との関連性について申し上げれば、科学の発達は私たちに物質的な豊かさをもたらしましたが、反面、科学至上主義に走って、人間の精神世界とのバランスを崩したために、多くの問題を生みだしました。物質的な豊かさにだけ目を向けるのではなく、精神の世界を豊かに開発することが、重要な時代を迎えていると思うのです。
 ポーリング 科学の発達と人間精神の開発との関連性について、私はむしろ、それを科学の発達と倫理および道徳原理の開発との関係として解釈しなおしたいと思います。科学はその根底に、一つの基本的倫理の原理をもっていると思います。その原理とは、真理の追究であり、何が真理かを決定するための努力が可能であるということの認識にほかなりません。科学者たちにとって、この基本原理を受け入れることが肝要であり、実際、この原理は、若い科学者たちに教えられているのです。
 政治家の場合は、そうではありません。米国議会が議案の通過や法律の制定にあたっては、道徳的見地にしたがって決議し、具体策をとってもらいたい、と私は折にふれ述べてきました。
 しかし、むしろ論議はいつも、この具体策がアメリカのためになるのだろうか、世界のためでなく、アメリカのためにのみ役立つものか、というものです。自国の経済状況を向上させ、商品を売るという目的だけで、私たちは、他の諸国の飢えで苦しむ人々に援助を与えるべきでしょうか。そこで、もしわれわれが真理の探究という基本的科学原理と人間の苦悩を最小限におさえるという基本的倫理の原理にもとづいて行動するならば、それは偉大な一歩前進となるでしょう。
 池田 おっしゃるように、科学的真理の普遍的性格が、政治にかぎらず「理想」や「当為」の世界に受け入れられるとすれば、すばらしいことだと思います。そこに生まれるものは、人間的ヒューマニズムともいうべき、グローバリズム(世界主義)であり、ユニバーサリズム(普遍主義)であって、それこそ平和へのカギであることは、私も、つねに訴えてやまないところです。
 私は『ノー・モア・ウォー』をはじめ博士の著作に深い感銘を受けました。人間の精神の力を信ずる生き方は、仏教の思想ともあい通ずるものです。
 たとえば社会形態、政治形態は、時代とともに人類の欲する方向に行くべきであると思います。これまで、キリスト教やイスラム教、またマルクス主義や自由主義等が、その指導原理とされてきました。
 しかし、現状は、いずれの国でも深刻な行き詰まりをみせています。その意味で、それらの思想の指導性には一つの結論が出されたといってよいと思います。今や、これからの世界の指標・羅針盤となる確かな思想、哲理が模索されているといえるのではないでしょうか。
 その意味において、独善的な言い方になるかもしれませんが、多くの宗教や思想が限界を示しているなかで、東洋の高等宗教である仏教は、豊かな可能性をはらんでおり、将来、その卓越性が検証されていくにちがいないと思います。また現実に、平和の哲理として、仏教への期待が高まっているし、今後も一段と高まりゆくことを、私は確信しています。
 ポーリング 自由主義も決して完全なる思想ではありません。池田会長の言葉を真摯に受けとめたいと思います。
 思想、哲学や政治体制の異なる国家間の協調こそ、人類社会の発展に寄与していくのです。アメリカとソ連が友好と協力を進めていけば、両国のどちらも改善され、たがいの欠点をおぎないあう体制を引き出すことができるのです。
 池田 異なる体制を超えた国々の協力は、かならずや、良い方向へと弁証法的な発展をもたらし、平和社会の創造の源泉となると思います。ご意見に心から賛同します。
 ところで今日、科学、技術の急速な進歩とともに、科学者、技術者が特定の領域の専門家になってしまい、他の領域について正しく理解したり、みずからの専門領域の確かな位置づけをすることがむずかしくなってきているともいわれております。私は、科学者や技術者にとって、専門的な研究を深め、真理を探究し、また、その真理を技術として活用していくことは、人類の幸福にとって不可欠な要因であると考えております。
 と同時に、自己の研究分野以外の領域にも広く目を向け、人類総体としての科学、技術の進歩にも深い配慮をおこたらないでほしいと願っております。
 科学、技術を真に人類のために正しく発展させるために、科学者、技術者が感じるかもしれないジレンマ(板ばさみ)に対して、どのような解決の方法を見いだすべきだとお考えでしょうか。
 ポーリング この問題は、科学的知識の範囲にかかわる問題です。専門家といわれる人たちが、全体的な知識を必要とされているのは確かですが、これを得るには通常、たいへんな努力を必要とします。たとえば、化学の分野では今までに一千万種類以上の化合物がつくられ、化学者によって研究されてきました。一人の人間では一生かかっても把握できるものではありません。しかし運のよいことには、私の時代のうちに化学理論が発達し、これらの膨大な化合物の一つ一つについてくわしく知る必要がなくなったのです。すなわち、無機物や有機物の組成や属性を決定づけるいくつかの理論さえ学べば、化学全体に対するかなりの理解が得られるようになってきたのです。
 物理の分野はなおさらに基礎理論がものをいう分野です。現象世界に対する理解には物理学を学ばなければなりません。物理学をかなり理解したいと思うなら、電磁波や磁場の一般論について、また物性や質量とエネルギーについて知るための十分な全体的知識をもたなければなりません。そうすれば、物理学についてかなりの程度の理解力をそなえることができるのです。たとえば、超伝導性の測り方などといった技術的にこまかなことまで知らずとも物理全般に対する理解を得ることが可能なのです。具体的な計測方法は知らなくても、超伝導性とは何かとか、その他多くの物理現象への理解は得られるのです。
 生物学の分野においても同じです。一千万種類以上もの植物や動物のすべてについて、精通できる人などというのはおりません。甲虫の分類学に興味のある人なら、カブト虫についてはくわしく知っているでしょうが、蝶についてはそれほど知らないはずです。でも、生物全般の生態に関する理解はもっているものです。
 分子生物学は今、急速に発展している分野です。その基礎的な理論についてはよく知られるようになりましたが、学問そのものがまだ十分に統合化されていないので、生物の分野におけると同じように、分子生物学全般について知っていると言える人はいません。近い将来には、そういう人も出てくるだろうと思います。
 物理学、数学、化学、生物学、その他多くの分野にわたって詳細な経験を積むことのできる″ルネサンス人間″とでも言うべき人がいる可能性はつねにありますが、すべてのことをすみからすみまで完璧に知ることは不可能です。ですが、すべてのことを理解することはできます。
 しかし、それをするには膨大な労力が必要になり、そこまでしたくないという人もつねにいるのです。それでも、たとえば金属や合金の超伝導測定における専門家にはなれるのです。科学者などの感じるジレンマという問題については、私はそれほど心配しておりません。
 科学全般について私ほどはば広い知識をもっている学者はいないといわれますが、他にもいることはいるんです。
 ただ、そうした人の数は多くはないと思います。ほとんどの科学者の知識というのは限られているものです。にもかかわらず、科学者は多くのことを知ろうと努力しています。
 日本の科学者は、日本以外での科学の進展を知るために日本版の「サイエンテイフイック・アメリカン」を読んでいます。これは私も同じです。私も「サイエンテイフイック・アメリカン」やその他の自然や科学に関する雑誌を読んで宇宙論、天文学、物理学、化学、生物学等、科学全般の分野でどういったことが発見されつつあるのかを知るようにしています。
 超伝導性
 ある種の金属、合金等で、特定の温度以下に下げていくと電気抵抗がなくなってしまう性質がみられる。
13  道徳科学をめぐって
 池田 科学技術文明の現状には、ちょうど糸の切れた凧のように、人間の手から離れたというよりも、人間の手にあまるものになってしまうのではないかという危惧を、いつもぬぐいさることができません。
 博士が著書『一般化学』のなかで、世界が良くなるには技術的な進歩と道徳科学(Moral Science)の進歩が必要である、と述べておられるのはたいへん示唆的です。化学の専門書で「道徳科学」のことにふれられているのは異例のことだと思います。
 ポーリング 私の著書についてですが、『一般化学』は大学の教科書用に一九四七年に書いた本です。
 その冒頭に「科学は急速に進歩しており、この百年、さらには一千年の間に得られる科学的知識は膨大なものになるであろうから、少しでも長生きしたいものだ」という三百年前のベンジャミン・フランクリンの言葉をのせました。フランクリンはさらに、道徳科学の発達により人間はたがいに狼であることをやめ、人間性と呼ばれているものの真の意味を学ぶときがついにくるだろう、と述べています。
 この本を書いた当時、私は科学の分野における基礎倫理とでもいうべきものをまとめあげていました。
 科学者はどのように行動し、ふるまうべきであるかという道徳規範です。私のその化学の本の冒頭部分以外で道徳についてふれているところはないのですが、とにかくそのことについてふれておいたことは、いいことだったと思います。
 池田 大切な、そして先駆的な着眼点であると思います。ベンジャミン・フランクリンの言う「人間がたがいに狼である」状態が、三百年前にくらべて、さして是正されたように思えないのは、残念なことだからです。
 それに関連して、晩年の湯川秀樹博士が、医師の集会で、味わい深い講演をしていました。――物理学をやり、外的世界ばかり研究していても、年をとるにしたがい、自分とは何かに関心が深まってくる。外の世界を知ること自体が、自分を知ろうとすることと別ではなかった、と。
 そして、湯川博士は言います。
 「われわれが生きていくということは、自分一人が生きているんではなくて、ほかの人と一緒に生きている。しかもほかの人と自分とは別のものではなく、その間にはいろいろなつながりがあります」「やっぱり一番大事なつながりは愛情であろうと、ますます強く感じるようになってまいりました。(中略)せめて人に接していやな感じを与えない、人を楽しい気持にすることができたらと思います」(『外的世界と内的世界』岩波書店)
 平凡のようにみえて、まことに滋味と温情にあふれ、″いぶし銀″の年輪を伝えてあまりあります。
 こうした感情は、宗教で説く「愛」や「慈悲」にも深く通じており、このような共通感情がポーリング博士の提唱きれる「道徳科学」の土台にもなっていくのではないでしようか。

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