Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 わが人生の譜  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

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1  教育と探究心
 池田 じつは青年たちに紹介し、また大事な点であると、みずから胸に刻んでいるトインビー博士の思い出があります。私が生活信条をお聞きしたさい、博士はラテン語で「ラボレムス」と言われたのです。
 この意味は「さあ、仕事をつづけよう」ということです。ローマ皇帝セウェルスの臨終の言葉だそうです。トインビー博士が、この言葉をモットーに、あの歴史に残る膨大な研究をつづけてこられたことを知り、私は強い感銘を受けました。
 ポーリング 私が青年時代に主に興味をもったのは、世界についてできるかぎり学ぶことでした。学校へ行くのも好きでしたし、読書も好きでした。この若き日の興味が宇宙の性質についての旺盛な好奇心へと発展し、これが現在も私の推進力となっているのです。
 池田 プラトンは、哲学の駆動力を「驚き」に求めましたが、旺盛な好奇心、探究心こそすべての学問の出発点といえましょう。
 トインビー博士もそうでしたが、ポーリング博士も若々しい心で人類のために働いておられます。お二人にあい通じる真理への謙虚さを私は感じます。
 二十一世紀の世界を考えるうえで教育問題が一つの焦点になっております。日本の場合をいえば、知識を与えることに比重がおかれすぎて、人間性を育むことがおろそかにされているとか、受験中心の制度になっている等々の問題があります。
 ポーリング 私はアメリカにおける教育に、もはやそれほど通じておりません。人口が少ない小さな州であるオレゴン州の小学校で、私が七十五年ほど前に受けた教育は、本当にすばらしいものだったと思います。現在の小学校教育は、本来のあるべき教育ほど望ましいものではないかもしれません。
 今日のように技術が進歩しオートメーション化した世界においては、五十年もしくは六十年間も、生涯にわたってなんら満足を得られない仕事に従事する必要性はなくなってくるでしょう。人々が教育を受けたいと願うならば、その機会はすべてに与えられるべきなのです。
 池田 そういう時代です。民衆が主役の社会に大きく変化している。その速さに教育がついていけなくなっています。
 ポーリング 日本では、大学に行きたいと望む若者すべてが入学できるだけの大学の数がありません。アメリカでは、大学教育にたいへんな費用がかかるために、多くの若者は、大学へ行く余裕がありません。大学教育を受ければ大いに役立ち、得をするであろう学生たちでさえ例外ではありません。
 そこで私が思うには、大学教育を受けたいと願うならば、だれでも受けられるようにするべき時が来ていることを、私たちは認識する必要があると思います。
 池田 新しい大学を創立した体験をもつ者として、まったく同感です。今のご意見のなかに、未来に対する責任感と青年たちへの深い愛情を感じます。博士の場合、世界平和の実践にも、人々の健康を守り維持させようとする戦いにも、それが通底している気がしてなりません。人々の苦しみ、痛みをわが苦しみ、痛みと感じて、その苦しみを除こうと努力するのが仏法者の生き方です。その点で、私は、博士のヒューマニスティックな生き方に強い共感をいだいてきました。
 博士ご自身、小学校、中学校、高校をとおして、深く心に残っている教師はおられますか。
 ポーリング 小学校、中学校、高校時代には、私が非常に感銘を受けた教師が大勢おりました。主に数学、物理学、化学の先生方でした。
 なかでも私はウィリアム・グリーン先生をあざやかに覚えています。オレゴン州ポートランドのワシントン・ハイスクールの化学の教諭でした。ある日、授業が終わるころ、先生から私は放課後一時間、学校に残って手伝ってもらいたいことがあると頼まれました。それは、市の教育委員会が購入した石炭と石油の熱量測定を手伝うことでした。
 また、グリーン先生の高校化学の課程を修了したあと一年間、私が一人で化学実験室で研究することを許可してくれました。そのうえ、高校化学のもう一年分の履修単位をくださり私を驚かせました。
 私は先生に、世界で最も偉大な化学者はだれかと質問したことを覚えています。先生は、ヴィルヘルム・オストヴァルトだと思うと答えられました。
 彼は近代物理化学の創始者として認められています。一九二六年に妻と私がドイツに行ったとき、オストヴァルト氏はまだ生きておられたと思いますが、お会いしてみようということは思いつきませんでした。
 オストヴァルト
 (一八五三年〜一九三二年)ドイツの化学者、哲学者。ライプチヒ大学の初の物理化学教授を歴任。ノーベル化学賞受賞。溶液化学、色彩科学の分野で優れた研究を残す。
2  池田 やはり、いい先生がいらしたんですね。
 ポーリング 池田会長はいかがですか。
 池田 そうですね、私がとくに忘れられないのは、小学校五年、六年の時の担任の先生です。授業は名講義でしたし、一人一人の生徒の特質をよくつかんで成長させようという情熱が伝わってきました。
 育ちざかりの少年の、活発で純粋な心を大切にしてくださり、自然のうちに生徒が納得するように教えていかれる姿が、印象深く残っています。その先生とは、今でもお手紙をいただいたりしております。また他にも数人、忘れえぬ先生がいます。
 私は戦後、恩師の戸田先生の会社で「冒険少年」「少年日本」という少年雑誌の編集長をしました。敗戦でたいへんな時でした。
 戦争中の自分の体験からも、少年たちには伸び伸びと大きな夢をもってもらいたい、という願いが強くありました。現代の教育にあたたかいぬくもりが失われがちなことを、私はたいへん残念に思っています。
3  家庭を語る
 池田 ところで、お母さまが亡くなられたのは、二十代の時だったとうかがいましたが‥‥。
 ポーリング 私の妹から母が死去したことを知らせる手紙が届いたとき、妻と私はドイツのミュンヘンにおりました。私たちの部屋には客が何人かいました。手紙を開封し、文面を読むと、いきなり涙があふれ出てきました。母の死の意味をよく知っていたからです。その何年も前に父が亡くなったときには、私はまだ幼すぎて、その意味を理解できませんでしたが‥‥。
 私が悲しかったのは、母が私に失望していたことを知っていたからです。つまり、私は十分な生計を立てることはせず、学校にかよい奨学金をもらっていたのです。私の願いは、私が世の中でなしとげようとしていたものを母に理解し感謝してもらえる日が来ることでした。
 でも、母が亡くなってしまっては、その願いがかなえられるはずがありません。
 それから五年後、三十歳の時に、私はアメリカで最も有望な青年化学者ということで、多くの化学者のなかから選ばれて、ラングミューア賞を受賞しました。
 そのとき、私は母の生きていなかったことが残念でしかたがなかったことを今でも覚えています。
 池田 初めてうかがいました。あと五年、母上がご長寿でその晴れ姿をごらんになったら、どんなにか喜ばれたことでしょう。とともに博士はある意味で、ご両親のぶんも長生きされておられるのではないでしょうか。
 二十世紀を生きぬき、すばらしい人類への貢献をなされた人生には、亡くなられたお母さまもきっと最大の称賛を贈られていると思います。
 ポーリング ありがとうございます。
 池田 それからお子さん方は皆、優秀な方ばかりですね。
 お子さんが小さかったころには、できるだけ時間をさいていっしょにゲーム等、遊びの相手をされたと聞きました。
 家庭教育について、博士のモットーのようなものがあったら、お聞かせください。この面では母としての奥さまの献身的な努力が大きかったと思いますが。
 ポーリング 私ができるかぎり時間をさいて子どもたちとゲームをしようとした日もあったとのお話ですが、私の記憶は定かではありません(笑い)。育児の仕事は大部分、妻にまかせていたと思います。たまに子どもたちと野球か何かをすることはあったと思いますが‥‥。この点でとくに良い父親ではありませんでした。
 池田 その点は私もまったく同じです(大笑い)。他に何か心がけられた点は‥‥。
 ポーリング
 私は一時、長男に初歩の代数を教えてもっと早く進級させようと考えましたが、これは成功しませんでした。息子は小学校の先生から教わるほかに、私から習うことに興味を示しませんでした。私はすぐにあきらめました(笑い)。私は、自分が子どもに学業を教えることは良い考えでないと結論したのです。
 もちろん、一方では妻や子どもたちと、世界の出来事や行儀などについて話しあいました。たぶん子どもたちは良き道徳原理を身につけて成長してくれたと思います。
 池田 これは家庭の健康論ですね。(笑い)
 子どもは親の背を見て育つといいますが、やかましいしつけはしなくとも、親が真剣に自分の仕事に取り組み、懸命に人生を生きている姿は、自然のうちに子どもに影響を与えるものではないでしょうか。
 私の恩師はある時、ロシアの作家ゴーゴリの小説『隊長ブーリバ』を例に引いて「母親は、ガミガミ、年中叱ってよい。父親は黙っていてもこわいのであるから、友だちのようになってやることだ。決して叱ってはいけない。そして、国家・社会に貢献させることを目標において、わが子を愛していきなさい」(『続 若き日の読書』、本全集第23巻所収)と語っていました。
 恩師の現実に即した教育、人生の機微をとらえた会話は天才的でした。恩師は類まれな教育者でした。
4  結婚と女性の役割
 池田 それでは、もう一人の家庭の名医であった奥さまは、博士にとってどのような存在だったのでしょうか。
 ポーリング 妻の思い出は多すぎて、ご質問にお答えするのがむずかしいくらいです。
 妻との最初の出会いははっきり覚えています。当時、私は大学一年の化学を勉強している二十五人の女子学生のクラスの講師を依頼されており、その二十五人の名前を記入した出欠簿をもっておりました。教室に入ると、二十五人の女子学生が三列に並んで座っていました。私が講師をつとめることになったことを話してから、出欠簿のなかからエヴア・ヘレン・ミラーという名前を選んで、質問に答えてください、と言いました。どの子がエヴァであるかは知りませんでした。(笑い)
 私がそのときの彼女のことで記憶しているのは、世界事情もふくめてですが、多くの科目にはば広い知識と興味をもっていることに感銘を受けたことです。エヴアは家政学を専攻しており、当時、彼女が自身の目標として設定したのは、すべての面でうまくいく家庭をつくることでした。妻は長年にわたって私や子どもの世話を献身的にしてくれました。
 池田 奥さまの話を聞いて、主婦がきちっとした目的観をもって家庭を守ることの大切さをあらためて感じます。私の妻も、私があまりに忙しすぎるため、私の葬式をすでにすませたつもりで(笑い)、家庭のことはすべて取りしきってくれました。
 それはともかく、妻として、また母として、そして一個の人間としての使命と責任をみごとに果たし、それぞれの立場をこなしていかれた聡明なエヴァ夫人のお姿がしのばれます。
 ポーリング 妻は長年、私や子どもの面倒をみることで幸せを感じていたと思います。それから、人権や世界平和など、さまざまな運動で活躍しておりましたので、公人であることにも大きな幸せを見いだしていた、と私は確信しております。妻は、私が幸せな人生を送ってきたように、これらの活動に従事して幸福な生涯を送ったと思っています。
 池田 人生の、いわば総仕上げの年代に、そのように確信をもって言えることは幸せだと思います。また奥さまがそうであったように、平和を担う婦人の使命はますます大きくなっています。
 そこで、いちがいには言えませんが、結婚はどのくらいの年齢がよいと思いますか。これは体験のうえからでもけっこうです。(笑い)
 ポーリング 男性も女性も良い相手を見つけて、ぴったり合う人と若いうちに結婚するよう努力すべきである、と私は信じております。妻と私が結婚したのは、私が二十二、妻が十九の時でした。私たちはその前年に結婚したかったのですが、実際面で問題があってできませんでした。私は幸せにも、私にびったりの女性にめぐまれました。
 私たちには子どもが四人できました。今日の社会では、夫婦は三人ないし二人の子どもをもつのがよいのではないかと思います。世界には、一家に子どもが一人しかいないほうがよい地域もありますが。
 池田 私は二十四歳の時、結婚しました。妻も二十歳になったばかりで、若い結婚でした。アンドレ・モロアの結婚訓に「結婚に成功する最も肝要な条件は、婚約の時代に永久的な関係を結ぼうとする意志が真剣であることである」(『結婚・友情・幸福』河盛好蔵訳、新潮社)とありましたが、最近は結婚に対する考え方も変わってきているようです。かんたんにいっしょになり、かんたんに別れてしまう場合もある。とくにアメリカなどの先進諸国では、家庭の崩壊ということが大きな社会問題になっていますね。
 ポーリング 家庭は重要であるし、若い男女にとっては現在、多くの若い人々やもっと年配の人々までが送っているような独り身の生活をするよりも、結婚するほうがはるかによいと私は確信しております。
5  日常の一端から
 池田 日本には何度来られましたか。また日本滞在で最も印象に残っていることは、なんですか。
 ポーリング 日本は八回訪問しました。日本国民には強い共感をおぼえます。私は訪日したことでたいへん感銘を受けました。どれが最も深い印象を受けたことか特定するのはむずかしいですね。
 ちょっとしたエピソードですが、一九五五年(昭和三十年)、日本での国際会議に出席した折の思い出があります。私の教え子で、のちに共同研究者ともなった人に、日系人のイタノ教授がいます。英米人は往々にして″ITANO″を″アイタノ″と読む傾向があります。その会議に彼と出席したさいも″アイタノ″か″イタノ″か、呼び方をめぐっておもしろい出来事がありました。
 池田 私も″IKEDA″ですから、時々″アイケダ″となることがあるのです。(笑い)
 ポーリング ″IKAWA″(井川)にせよ″IKEDA″(池田)にせよ、日本語の発音、アクセントは、私たちにはじつにわかりにくい(笑い)。しかし、日本人の頭脳は優秀です。イタノ教授も、カリフォルニア大学バークレー校を二千人のうちのトップで卒業し、今はサンデイエゴ校で、血液学の権威となっています。
 池田 できればもう一度、日本においでいただきたいと思います。他に行ってみたい国はありませんか。
 ポーリング 私はこれまで四十二カ国を訪問しました。今はもう旅行には興味がありません。
 池田 そうですか。私も四十三カ国を訪問しました。それでは日常の一端をお聞かせください。
 ポーリング 妻と私がカリフオルニアのビッグ・サーにある一ヘクタールほどの土地を購入したのは三十四年ほど前、一九五五年か五六年のことでした。
 当時は小さな小屋がありましたが、今はもうありません。二十五年前、ここに現在の家を建てましたが、隠居の場所として考えていました。もちろん、隠居はしませんでしたが(笑い)。私はどこよりもここで過ごす時間が多いのです。
 ここにいる時間の半分以上は私一人でいます。科学の研究の大部分はここでおこないます。パロ・アルトのライナス・ポーリング科学・医学研究所へ行くときは、研究所の所員と彼らの仕事について話しあったり、手紙の返事を書いたり、少しばかり監督者としての仕事をしたりしています。
 池田 今も新しい研究に取り組まれているとうかがっていますが。
 ポーリング ええ、科学的研究はここでおこないますが、もちろん、理論的研究が主体です。研究所では実験的研究にもいくらか関与しますが、私自身が実験をおこなうということはありません。実験的研究を監督することはできますが。この近辺には、劇場もありませんし(笑い)、友人もおりませんので、夕方なにか特別のことをするということはありません。夕方仕事をして遅く休むこともあるし、早く休むこともあります。
 ここにいるときには、平均して八時ごろに体む習慣になってますから、かなり早いですね。そして朝は四時ごろ、三時から五時の間に目がさめます。起床して朝食をとり、早い時間に仕事を始めます。
 ここでのスケジュールは早起きすることになっていますが、その理由は、一つには、カリフォルニアでは夜は寒く、昼は暖かいからです。たいていは天気がよく、日がさしこみます。もし夜、仕事をしているとすれば寒くなりますから、おそらく火をたきたくなることでしょう。それが、面倒なのです。
 池田 私は人類の進歩のために一日一日をていねいに生き、淡々と仕事をつづけておられる姿に知性の光源を見る思いがいたします。
6  ノーベル賞をめぐって
 池田 博士はノーベル賞を三度受賞されていますが、最初の化学賞受賞のとき、二度目の平和賞のとき、それぞれどんな感慨をもたれましたか。
 ポーリング 一九五四年度ノーベル化学賞受賞の通知を受けたときはうれしく思いましたが、そんなにびっくりはしませんでした。
 というのは、しばらく以前から、その年の化学賞は私になるだろうといううわさが流れていたからです。
 化学結合の性質や複雑な物質の構造に関しておこなった私の多くの研究が重要なものであること、そして、それらの研究が過去三十五年間に化学の性格を変えてしまったことを私は知っていました。ノーベル化学賞――それは、結晶や気体分子やその他の物質の性質に関する私自身の好奇心を満足させつつ、みずからが好きなためにおこなってきた仕事に対して与えられたものでした。
 池田 ある科学誌は、博士をアルキメデス、ダーウイン、ガリレイ、ニュートン、アインシュタイン等と並ぶ史上最高の科学者の一人にランクしていましたね。
 ポーリング 私は、一九六二年度ノーベル平和賞のほうをずっと重くみております。賞を受けたのは一九六三年十二月十日でした。この受賞にはびっくりしました。
 ノーベル平和賞を受けるなどとは予想もしていなかったのです。
 私はただちに声明を発表し、私がノーベル平和賞を受賞したことによって、人々は世界平和のために働くことが立派な仕事だと考えるようになるだろうと述べました。
 それ以前、私は世界平和をめざし、核兵器に反対する運動をしていたために、かなり迫害され、妻や子どもたちまで苦しめられていたのです。
 池田 「科学と平和」と題する博士のノーベル平和賞受賞講演を一読し、まことに感銘を深くしました。
 「今やわれわれは世界の歴史において新しい時代に入ることを余儀なくされた。それは世界の諸問題が力や戦争によって解決されるのではなく、正義に基づき民衆に利益を与える『世界法』によって解決される時代である」「われわれは世界不戦と『世界法』の確立という目標の実現に貢献する機会をもつにいたった。この偉大な仕事にわれわれは成功すると確信する」
 こう強調されています。
 高い人道的な次元に立って、繰り返し世界から戦争を廃絶する必要性を訴えられ、また結論的に「世界不戦」はかならずできるとの確信にあふれたスピ―チは、平和運動を進めるすべての人々への大きな励ましとなっております。
7  信仰と理性
 ポーリング 私は、「アメリカン・ヒューマニスト」誌から、その年を代表する″人道主義者″に選出されたことがあります。人道主義者として年に一人が選ばれるのです。そのとき、その雑誌に論文を発表しました。人道主義者とは、人類のために働き、そして、動物たちをも苦痛から守るために働くべきであると信ずる者を意味します。
 論文のなかで、科学的論議をとおして、一つの基本的倫理の原理を引き出すことが可能であると述べました。実際に私は、科学的方法において基本的倫理の原理をえましたが、その原理は、人間の苦悩をできるだけ少なくすることです。この原理が帰結するところは、私たちに対して他の人々にふるまってもらいたいように、私たちも他の人々に対してふるまうべきであるということです。もちろんこれこそ、ほとんどの宗教がもつ基本的な倫理原理なのです。
 池田 私はカントの人格哲学を思い起こします。これはあまりにも有名ですが、カントは、それ自体が目的であって、手段化されることのない自由な人格の自律的な働きを、最大限に重視し、尊重しました。彼の『人倫の形而上学の基礎づけ』には、こうあります。
 「汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ」(野田又夫訳、『世界の名著』32所収、中央公論社)
 人間性の尊厳ということが、それ自体、目的とされず、何ものかの手段におとしめられ、権威や権力、また偏見と独断によつて蹂躙されてきた歴史――考えてみれば、人類史とは、一面そのおびただしい痕跡の歴史といえるかもしれません――をかえりみれば、カントの人格哲学なども、まだまだ、再読されなければならないでしょう。
 また、東洋の哲人・孔子は「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」と言っていますが、これなどポーリング博士の言われることとまったく同じ意味であり、東洋的ヒューマニズムの一つの表出といえます。仏法の精髄も「人間としての生き方」にこそあります。「人生のあらゆる面に知恵を発揮していけるのが人間であり、愚かなのが動物である」と説いております。
 私も国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から「人道賞」をSGI(創価学会インタナショナル)を代表して受けましたが、「人道」という問題は「人権」とあいまって世界の大きな焦点となってきています。
8  ポーリング 先ほどの論文で、偏見と独断を、私は拒否すると述べましたが、子どものときからそうしてきました。そして、実際、私が無神論者になったのは、かなり若い時だったと思います。神の存在を私は信じません。神の信仰に関連する問題――すべてをなすことができる万能の神とはいかなるものか。たとえば、宇宙創造についてなど――ですが、私はこの神の信仰にはいかなる利点も見いだすことができませんでした。しかし、私は闘争的無神論者ではありません。
 最近読んだ本のなかに、量子力学の考案者の一人であり、じつにすぐれた思想家であるイギリスの偉大な物理学者のポール・ディラックは、闘争的無神論者であったということが指摘されていました。さらに、ある物理学者は、ディラックのことを「彼は一つの宗教をもっている。それは無神論である」と言ったというのです。その物理学者は、神は存在せず、ディラックはその予言者であると言っております。
 私は無神論を広めるつもりはありません。たぶんディラックは、神が存在するか否かについての議論に興味があったのだと思います。その議論に、私は興味がありません。
 私は、人道主義者であるばかりでなく、ロサンゼルスのユニテリアン派教会の会員になっております。ユニテリアン派教会自身、キリスト教会だと称していません。実際、ユニテリアン説の信奉者たちは、二十年もしくは三十年前に万人救済派の信者といっしょになったのです。
 ユニテリアン派の信奉者は「ザ・クリスチャン・マンスリー」と呼ばれる雑誌を刊行していましたが、ユニテリアン派はキリスト教組織ではないという決定を二十五年か三十年前にくだしたのです。それであらゆる宗派の人々を受け入れており、雑誌の名前を「ユニテリアン・ユニバーサリスト・マンスリー」と変更しました。ユニテリアン派の教会は、もはやキリスト教会とは自称しておりませんが、教会とは称しております。
 そして、喜んで無神論者を会員として、受け入れているのです。世界をよりよくするために人は努力すべきだと信ずる人々は、ロサンゼルスのユニテリアン教会の会員になることができるのです。それで、妻と私は、会員になったのです。
 池田 思想史において、「偏見と独断」を拒否することは長い闘争でありました。これは、エピステーメ(英知)とドクサ(臆断)を対立させたギリシャ哲学以来の課題ともいえますが、とりわけ宗教は「偏見と独断」をさけるようつとめなければならないと思います。
 そうでなければ、ヒューマニズムを基礎づけ、補強することなどできませんし、かえって人間性を歪めてしまいます。二十一世紀は、もはや、そのような宗教を必要としないでしょう。
 宗教と科学的思考・知性との対立、また融合についてはトインビー博士とも何度も語りあいました。歴史的にみて、信仰と理性の問題が、先鋭な対立という様相を示してきたのは、教父哲学の創始者の一人テルトゥリアヌスの言葉として伝えられる「不合理なるがゆえに、われ信ず」に象徴されるように、ほぼヨーロッパのキリスト教文化圏にかぎられました。
 しかも、対立とはいっても、多くの場合、カトリシズムでいう「反対の一致」的な調和とバランスをたもっていました。それが宗教と科学というかたちをとって対決、闘争の様相を示すのは、ここ数百年のことでした。
 他の文明圏においては、イスラム、インド、中国等々、いずれも宗教と科学、信仰と理性との関係は、対立や闘争というよりも、原理的に融和と相補を志向していました。宗教とは哲学的思考をふくむ広い意味をもち、宗教も科学も、本来、人間生活のより良いいとなみのために必要な二つの要因です。両者の融和や相補は当然の帰結といえます。
 仏教においていえば、信仰と理性は対立するのではなく、知の働きをつくしぬいたところに、おのずとその限界が自覚され、言ってみれば、知性の自己批判というかたちで、信仰の世界が展開されています。人間は知性的に人間であるだけではなく、精神的にも、人間としての大きな跳躍をとげなければなりません。両者があいまって、さらに確固たるヒューマニズムが開花していくにちがいないからです。
 このような信仰のあり方からみれば、「宇宙的宗教性なるものは科学的研究の最強かつ最高の駆動力である」(『アインシュタイン選集』3、井上健。中村誠太郎編訳、共立出版)と述べたアインシュタインの世界の輪郭は、より鮮明になると私は考えております。
9  人間の幸福の条件
 池田 人間の幸福というのは、一般的に、健康であること、経済的に恵まれていること、社会的地位が安定している等、人によってさまざまな解釈があります。
 そして現代にあっては「心」の問題が大きな比重を占めております。自分の生きがいをどう充足させるかが人間の強い関心事となり、人間の幸福の条件を考えるうえで、″モノから心へ″というのは時代の流れといえましょう。
 ポーリング 真の幸福は、生きていること自体に満足感をもつことにあると思います。真の幸福を得るために何が必要なのか。あらゆる人が、幸せになりうる世界を私たちはつくるべきなのです。幸福が意味するものは、その人にとっての十分な食物、衣類、住居、そして教育をもつことであり、また、これは最も重要なことですが、自分が好んですることができる仕事につくことなのです。
 そして、大切なことは、男女を問わず、生き方がその人にとって、満足すべきものでなければなりません。
 池田 たしかにそれはありますね。
 ポーリング 私はどちらかといえば、妻が家事をいとなむという考えが好きですし、家事は大事な労働だと思います。女性が幸せになるために、銀行の副頭取になったり、そのような仕事につく必要はないと思います。
 とくに、多くの婦人たちは家事をいとなみ、夫や子どもたちの世話をするほうが、机に座ってタイプライターで手紙を打ったり、報告書を作成したり、また他人所有のコンピューターに何かを打ち込んだりすることより、幸せであるように私には見えます。社会の型にはまった生活よりは、婦人にとって、世帯の中心として家庭のなかで役割を果たしていくほうが、より満足を感ずるものになるだろうと思います。この点において、私の考えは保守的です。だれもが幸せになりうる世界を見たいものです。
 もちろん、幸福は、世界の不思議を楽しんだり、旅行のための十分な余暇とお金をもったり、その他、自分が楽しく過ごせる機会をもつこともその一つです。若者にとってたいへん重要なことは、良きパートナーを見つけ、人生の早い時期に結婚し、人口過剰の問題があるので、子どもはそんなに多くなく、一人か二人もち、人生をともに楽しみ、生涯をともに暮らすことだ、と私は信じます。
 池田 「だれもが幸せになりうる世界を見たい」とのお言葉に、人類の平和と進歩を願い、行動されてきた博士の心情を知る思いがします。
 仏典には、この現実の世界を「人々が人生を楽しみながら自在に生きていくところである」と説き、人が生まれてきた目的は「楽しみにきたのであって苦しむためではない」と教えています。
 私の恩師は悲惨と不幸をこの社会からなくそうとして、仏法を庶民の真っただ中で弘め、庶民の幸福のために一生をささげた人でした。いわゆる過去の宗教の指導者とはまったくスケールの違う人でした。しかも、よく博士と同じ信条を語っていました。もし恩師と博士の邂逅かいこうがあったならば、人類ヘ偉大な光を与える「科学」と「宗教」の対話となったのでないかと私は思います。
 博士の言われる「真の幸福は、生きていること自体に満足感をもつことにある」とは、仏法の幸福観に通じていくものです。
 女性の幸福についても、盲点になりがちな点を指摘されていると思います。かつて日本のある哲学者が、倫理学の本に、なぜ「幸福」の問題があつかわれていないのか、との疑問を呈したことがありました。
 いくら恵まれた環境であっても真剣に人生を考え、自分を磨くことを忘れては、何を追いかけてもたしかな幸福感は得られない。そして真実の幸福を願うならば、みずからの幸福だけでなく、他の人の幸福のために働くことを忘れてはならないと思います。

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