Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 二十世紀とともに  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

前後
2  池田 そのことはよく存じあげております。亡くなられた奥さまは、偉大な平和活動家でした。同時にすばらしい家庭の主婦であられたとうかがっております。博士と最初にごあいさつを交わしたとき、亡き奥さまに私の心からの敬意を表させていただいたのも、そのためです。
 ポーリング お心づかいに感謝します。
 今後の世界情勢の動向を思うと、私の胸はおどります。勇気がわきます。ソ連が動きだしました。ゴルバチョフ大統領のリードで、現実に世界軍縮への潮流が流れ始めました。これまで、どれだけの人間が、資源が、「死」と「破壊」のために浪費されてきたことか。
 その膨大な″富″を、すべて人類の幸福のために使っていく。人類が、初めて「理性」と「道理」にかなった道を歩む。そうした世界への転回が、いよいよ始まったのです。
 むろん、アメリカの反応が、それほど活発でないのは事実です。しかし、世界の潮流は、もはや逆流はしないでしょう、近い将来、アメリカも徐々に、軍縮へと動かざるをえないと思います。
 そうした未来を思うと、私の胸は喜びで大きく高鳴るのです。
 池田 博士のお話に心からの共鳴をおぼえます。博士の喜びは、私の喜びです。とともに深い感慨を禁じえません。
 この数十年、博士は、険しい平和への道を力強く歩んでこられた。米ソ対立が頂点を極めたころも、勇気ある発言を繰り返された。絶対に行動を止められなかった。さまざまな迫害は、博士のみならず、ご家族にまでおよんだとうかがっております。
 しかし、世界はまさに、博士が著書『ノー・モア・ウォー』やノーベル平和賞の記念講演などで主張されてきたとおりの方向へ進んできました。こうした変化を、人類は強く自覚すべきです。核兵器を削減し、軍縮を推進するうねりは、かつてないほど高まっているといえましょう。
 先駆者の長年の苦闘の果てに、今、人類に曙光がさしはじめた――博士の感慨はいかばかりかと、深い感動をおぼえてなりません。
 ポーリング だれよりも池田会長に、私の心を知っていただき、これ以上の喜びはありません。この見解の一致は重要なことであり、ぜひとも記録として後世に残したいと思います。
 池田 もちろん大賛成です。
 この対談集も、博士の寛大なお心があって初めて実現したものです。あらためて、お礼申し上げます。
3  少年のころの思い出
 池田 ポーリング博士は、私から見ますと、二十世紀という時代をそのまま生きぬいてこられた人生の大先輩です。世界を舞台に広範に活躍されたことはよく知られておりますし、ビタミンCの研究でもたいへんに有名です。その豊かな人生経歴は、これからの時代を生きる青年にとって、きわめて示唆に富んだものであると思います。
 この対談をとおして、博士の人生哲学や、さまざまな体験をうかがいながら、現代の平和、科学、医学等の諸問題について語りあえれば、と考えております。
 最初に、本当は自分のほうから先にお話ししなければならないのですが、少年時代の思い出、またご家族について、かんたんにご紹介をお願いできますか。
 ポーリング 私は一九〇一年二月二十八日にオレゴン州のポートランドで生まれました。その後、数年間は同じオレゴン州のセーレム、ポートランド、オスウイーゴで両親のもとに生活しました。
 これらの土地における生活については、ほとんど記憶に残っておりません。私の少年時代の思い出で最も強く心に刻まれたことは、最初は四歳ぐらいのころ、私たち一家が数年間、オレゴン州のコンドンに住んでいたときの思い出です。
 私の髪は長い金髪の巻き毛でした。その私の髪を父が短く切ることに決めたのを覚えています。
 私が家に帰ると、母が私の姿を見て泣きだしたことも記憶しております。たぶん母は「ああ、もう赤ちゃんはいなくなった。大きい男の子になってしまった」(笑い)という気持ちだったのでしょう。
 池田 お母さまが博士に寄せられていた心情が、とてもよくにじみでていますね。
 ポーリング ほかにも記憶していることは、新しい長靴をもらって、コンドンの大通りにある泥の水たまりのなかを歩きまわったこと(笑い)、私の叔父が経営していた雑貨店の前をぶらぶら歩いていたカウボーイたちと話をしたことなどです。
 池田 そういう思い出は不思議と心に残っているものですね(笑い)。英国の歴史家アーノルド・トインビー博士と対談したとき、博士は二歳の夏の思い出を鮮明に覚えていました。博士は「子どもは、七歳までに自分にとって大事なことを数多く学びます。これは、その後の人生で学ぶことのできるすべてのことよりも多い」(『二十一世紀への対話』、本全集第3巻所収)とも語っていました。たしかにこれは、私も正しいと思います。
 私が生まれたのは一九二八年(昭和三年)一月二日、東京の大田区にある入新井というところです。
 四季折々の花が咲く野原や砂浜があって、そこはかっこうの遊び場でもありました。幼い時、私が住んでいた一帯は、どちらかというと漁村のおもむきがあり、空も海も青く澄んで都会の田舎のようなところでした。といっても、今の東京からは想像できないかもしれませんが。(笑い)
 ポーリング 私の家族を紹介しますと、父ハーマン・ヘンリー・ウイリアム・ポーリングは薬剤師でした。母ルーシー・イサベル・ダーリングはライナス・ウィルソン・ダーリングの娘でした。この人は学校教師、農場主、商店主、保安官、測量技師、それからのちに弁護士をつとめるなど、多彩な人生を送った人です。
 妹が二人いて、一人は私の一年八カ月後、一人は二年十力月後に生まれました。
 父は、私が九歳の時に亡くなりました。父のことは今でも懐かしく思い出します。
 母は、父の死後、経済的な問題をかかえていたにもかかわらず、とてもよく私と妹二人の面倒をみてくれました。母は家の部屋をいくつか人に貸して収入を得ていましたが、生涯、その家を離れることはありませんでした。
 池田 お父さまのことはお聞きしております。地域の人々から頼りにされた立派な方だったそうですね。お母さまの偉さもしのばれます。
 ポーリング 池田会長のご両親は‥‥。
 池田 父は、私が二十八歳のとき亡くなりました。父は海苔の製造業に従事していましたが、病気でうまくいかず、戦争で家も焼かれるなど多事多難でした。
 母もずいぶん苦労したようですが、そういうとき、つとめて朗らかに「うちは貧乏の横綱だ」と笑って話していました。母の明るさに一家がどれほど救われたかわかりません。世に言う平凡な母でしたが、八人の子どもと、よそから二人の子も引き取って育てあげ、八十歳まで長生きしました。
 博士は、ご両親からはどんなしつけを受けられましたか。しつけは厳しかったのでしょうか。(笑い)
 ポーリング 家庭でのしつけはあまり受けなかったと思います。父母は妹たちと私に行儀よくするように教育しました。私はあまり問題を起こす性質ではありませんでした。家庭のしつけは厳しくなく、ゆるやかであったということでしょうね。
 池田 やはりそうですか。このことはぜひ、日本の若い世代のお母さんたちにも、何かの機会に紹介させていただきたいと思います。とくに父親は、包容力をもって理解してあげることが大切ですね。
4  青春時代の労苦
 池田 子どものころ、何かスポーツはなさいましたか。体は丈夫なほうでしたか。
 ポーリング 学生時代、私は丈夫でした。足も速かったんですよ(笑い)。大学に入ると、ハードル競走の選手になろうとしましたが、陸上競技の選手になるほどじょうずではありませんでした。アルバイトをしていたので、練習の時間も不足していました。
 池田 日本では、そういう人を″文武両道″といいます(笑い)。また博士が青春時代に苦学されたというのも有名です。
 ポーリング 少年のころ、忘れえぬ人が何人かおります。一人はウイリアム・ジーグラーという人で、この方は薬剤師で父の生前の友だちでした。私に化学薬品と実験器具をくれたり、いろいろ力になってくださいました。
 また、オレゴン北部のスキー場として知られたフード山のガイドをしていた近所の方で、ヨーカムさんといいますが、当時ノース・パシフィック歯科大学の図書館長をつとめていました。ヨーカムさんも私に化学の実験器具や古くなった自転車をくださったり、ギリシャ語の本を何冊か貸してくれました。
 これらの古典でギリシャ語を勉強するようにすすめてくれたのです。
 池田 博士は、そういう恩人を今もって心に大切にいだいておられる。味わい深いお話です。
 また青少年は未来の希望です。その青少年たちを人生の先輩たちがあたたかく見守り、応援していくことがどれだけ価値あることか。
 ポーリング それから私は十二歳から十五歳までは、ポートランドのワシントン・ハイスクールでラテン語を学びました。
 最も仲のよかった友だち――二人の仲は彼が亡くなるまで変わらなかったのですが――その友人はロイド・アレグザンダー・ジェフレスでした。彼はテキサス州オースティンにあるテキサス大学の心理学の教授になりました。私が十六歳の時、ロイドと彼のおじさん、おばさんは、私がオレゴン農科大学(現在のオレゴン州立大学)に進学して化学工学を勉強するように、と強くすすめてくれました。母は、私が仕事をしていた機械工場でそのまま仕事をつづけることをすすめていたのですが‥‥。
 池田 懐かしい青春の思い出ですね。
 私の青年時代は終戦(第二次世界大戦)の前後で、家庭の事情もあって進学もままなりませんでした。
 そのぶん、夜学にかよい、また教育者でもあった創価学会の戸田城聖第二代会長から個人的に学問全般の手ほどきを受けました。それはほぼ十年間つづきましたが、今ふり返ればどんなに感謝してもしきれません。じつは恩師の戸田先生は一九〇〇年生まれで、ちょうど博士と同年代でした。
 ポーリング そうなんですか。私も大学に入学してからは、臨時の仕事をあれこれやりながら通学しました。母にいくらか生活費を渡すこともできました。
 母は病気になる前からあまりお金を持っていませんでした。生活もたいへんでした。私が大学へ行く費用を母がはらえないことは目にみえていました。
 しかし私は大学へ進学したいと思っていたし、友だちも、学校の成績が良いのだからぜひ進学すべきだとすすめてくれました。
 大学二年と三年の間の一年間、母がお金を必要としていたので、大学は休学して、フルタイムで働きました。最初は高速道路で道路舗装の検査技師として、次にオレゴン農科大学の化学工学科の助手として専任で教えました。それで母に仕送りができました。
 池田 博士の話は、苦労しながら学ぶ学生たちに、勇気を与えるにちがいありません。
 私は小学校六年の時から三年間、新聞配達をした経験もあります。生活が困窮する一方のときでしたが、たくさんの人に日本の動向や世界のニュースを知らせている喜びを感じながら、朝早く一生懸命に働いた思い出があります。
 今、体が丈夫になったのも、小さい時に海で海苔づくりの手伝いをしたり、新聞配達をして鍛えたことが影響していると思います。一時、病気がちだった青年時代も乗り越えることができました。自分の息子たちにも、いつまでも親に依存しているのではなく、アルバイトをするように奨励してきました。もちろん、一律には言えないことですが。
 ポーリング 当時、私が経験した苦労をどのように評価するかはむずかしいですね。私が毎日の仕事に費やしたぶんだけ、本来の勉強の時間を犠牲にしたわけで、その意味からいえば、たぶん損をしたでしょう。(笑い)
 のちに大学でパートタイムの仕事をもらいました。私は大学にかよいながら一カ月百時間、働きました。一カ月百時間ということは、一日三時間、私は勉強しないで、薪割りなど何か仕事をしなければならなかったことになります。
 一方、どうしても一生懸命に長時間、働く必要があったので、懸命に長時間働く習慣が身についたことはプラスだと思います。
 池田 私はよく、私が創立した創価大学の学生たちに「青年は苦労は買ってでもせよ」という言葉を贈って励まします。労苦のない人生には真の人格の光がない。苦労して、自己を磨いた人が真に偉い人だといえるからです。
 ポーリング 私には、のちにノーベル化学賞を受賞したハロルド・ユリーという友だちがいました。一九四〇年のことだと記憶していますが、いっしょにいたときに、われわれ二人が高度な学力を必要としない大学に入ったことは、二人ともクラスのなかで抜きんでることができたので幸運であった、とハロルドは語りました(笑い)。彼は最優秀の学生で、私も優等生でした。
 このために、われわれは成功できるだろうという気持ちをもつことができました。もし私がカリフォルニア工科大学に進学していたとすれば、優秀な学生がたくさんいるので、悪い心理的影響を受けたでしょうから、後年、日立つ存在になることもなかったでしょう。しかし、現実は、ハロルド・ユリーが指摘したように、われわれ二人は勉学において優秀さを競うことができると思ったのです。
 ユリー
 (一人九二年〜一九八一年)カリフォルニア大学教授等を歴任。第二次大戦中の原爆製造計画であるマンハッタン計画に参加。のちに地球物理学の研究に転進。
5  池田 それは貴重なお話をうかがいました。もちろん他の大学へ行っても優秀な成績は変わらなかったと思いますが、なにしろ大化学者の若き日の体験談だけに説得力がありますね。
 東洋におもしろい諺があります。「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉で「鶏口」とは鶏の口、「牛後」とは牛のしっぽで(笑い)、大きな団体でうしろにつき従うような存在であるよりは、小さな団体でもトップになるべきだ、という意味です。いずれにせよ、意欲と自信が大切であるということだと思います。
 ポーリング 大学はもう一つの効果も与えてくれました。オレゴン農科大学では四年間、数学を学ぶことができませんでした。基本的なコースと微分積分学以外の講座がなかったからです。
 のちにカリフォルニア工科大学に入学したときに、この欠点を埋めあわせるために、高等数学の教科を熱心に勉強しました。
 その結果、私の博士号の学位免状には化学だけでなく、化学と数理物理学の両方の博士号が記されていました。私は数学と物理学を学び、数理物理学の研究もしましたので、学部は私に、化学と数理物理学の博士号を授与してくれたのです。
6  読書のこと、師のこと
 池田 他の学生の何倍もの努力をされたわけですね。
 私は体も弱かったし、ひたすら書を友とし、心の糧としてきた懐かしい思い出があります。ささやかですが読書ノートのようなものも作りました。戦争中、大切にしていた本が空襲でほとんど焼失してしまい、呆然としたときのことは今も忘れられません。あのころは、ともかく何かを勉強しなくてはいられない心境でした。
 私の恩師も「青年は読書と思索の時間をつねにもて。それも読むならば二流、三流のものではなく、一流のものを読んで学べ」と、よく言っておりました。
 博士は少年時代からたいへんな読書家だったそうですが、とくに心に残った本にはどういうものがありますか。
 ポーリング 私は少年時代に非常に多くの本を読みましたので、どの本から最も影響を受けたかをお話しするのはむずかしいですね。
 私が九歳になったばかりのころ、父はポートランドの朝刊紙「オレゴニアン」(オレゴン州の人という意味)に手紙を出しましたが、そのなかで、私がすでに聖書とダーウインの『種の起原』を読んだと書いておりました。
 十二歳前後の時、私は時折、叔父の家へ行きました。叔父はジェームズ・ユリシズ・キャンベル判事で、奥さんと娘さんが一人おりました。叔父の家にいるあいだ、私は『エンサイクロペデイア・ブリタニカ』(大英百科事典)の第十一版を読んで時間を過ごしました。古代史の本や『鏡の国のアリス』『不思議の国のアリス』も読みました。
 ダンテの『地獄編』をドレーの挿絵入りの本で読んだのが、十歳ころのことでした。この本から私は影響を受けたと思います。なぜなら、啓示宗教について懐疑的になりましたから。
 ダーウイン
 (一八〇九年〜八二年)イギリスの博物学者。生物進化説を提唱し、一般の社会思想にも影響を与えた。著書は『ビーグル号航海記』他。
 ダンテ
 (一二六五五年〜一三二一年)イタリアの詩人。宗教的叙事詩『神曲』をあらわす。
 啓示宗教
 キリスト教やユダヤ教などのように超自然(神)の恩恵によって示されたものに基礎をもつ宗教。
7  池田 ダンテの『神曲』、ダーウィンの『種の起原』等は私もよく読みました。とくにダンテは″どうしてもわかりたい″との一心で、何回も読み返した懐かしい思い出があります。一九八一年六月には、フィレンツェにあるダンテの「記念の館」を訪問しました。彼の作品から私も多くのことを学びました。啓示宗教に対する博士の考え方はよくわかります。
 ポーリング また数人の偉大な師が、私の科学者としての生涯に決定的な影響をおよばしました。たとえば、カリフォルニア工科大学のロスコー・ギルキー・ディッキンソンやリチャード・ケーイス・トルマンがそうです。人生のより広範な面においては、私の最大の師は妻であったと考えています。
 科学的な面で私に最も強い印象を与えたと思う人物は、ディッキンソンでしょう。当時、彼は私より十歳年上で、カリフォルニア工科大学で博士号を最初に取得した人でした。
 彼は、結晶によるエックス線回折の研究をしていました。私は一九二二年九月にカリフォルニア工科大学に移りましたが、まもなく、彼とともに研究を始めるようになりました。
 ディッキンソンは思慮深く、きちょうめんな人でした。彼は私に、実験とその結果についての考え方、さらにそこでどのような仮説が出されたかを知るために、そして、引き出された結論がいかに信頼性のあるものかを知るために、実験をどう分析したらよいかについて話してくれました。そのうえ、もちろん、実験上の方法についてもいろいろ教えてくれたのです。
 トルマン教授は化学ばかりでなく、物理学や数学にもかなりの知識をもつすぐれた人物でした。私は、科学的発見や研究、そして、科学自体の本質について彼から多くのことを学びました。
 そして、年月がたち、国外にも行きました。ミュンヘンでは、ミュンヘン大学のアーノルド・サマーフェルド教授と一九二六年から一九二七年の一年余りいっしょに研究をし、さらに一九二〇年にふたたびミュンヘンに戻り、三、四カ月、ともに研究をしました。
 彼の学生への教え方に、非常に深い感銘を受けました。すべてに徹した、有能な人物でしたので、彼からも多くのことを学びました。
 池田 私は、博士が四人の師のなかに、平和に尽力された奥さまをあげられたことに感銘いたしました。
 三人の科学者の方も、自分が指導した人のなかにポーリング博士のような傑出した方がいらして誇りだったのではないでしょうか。
 私の場合、仏法者としてこの平和運動に挺身することを決定づけた点で、戸田第二代会長の存在がすべてでした。私にとって人生の師はそれほど大きな存在でした。
 太平洋戦争中、私の家では四人の兄が出征し、長兄はビルマ戦線で戦死しました。兄の死を知ったときの母の悲しみの姿は生涯、忘れることはできません。当時、結核で苦しんでいた私は、国家主義と戦争に対する、なんともいえない怒りと憎しみが心に焼きつきました。
 その後、十九歳で戸田第二代会長と邂逅かいこうし、創価学会が平和思想である仏法を根幹としていること、また戦時中、横暴な軍部権力と戦い、牧口常三郎初代会長が獄死し、さらに戸田会長も入獄したことを知りました。仏法を基調とする平和への道こそ、恒久平和へのまちがいない道であると確信し、この道を歩むことになりました。
8  忘れえぬ人々
 池田 ところで平和問題については、アルバート・シュヴァイツアー博士とも語りあわれたそうですが。
 ポーリング シュヴァイツアー博士は晩年(一九五九年六月)、ガボンのランバレーネにある診療所に、私と妻を招待してくれましたが、博士に対しても強い印象が残っております。約二週間をともに過ごしました。
 到着後、二、三日して、博士が夕食のあとに私を招いてくれたのが始まりで、私は毎晩、博士と約一時間にわたって話ができるようになりました。
 池田 シュヴァイツアー博士も、核実験に強く反対しましたね。
 ポーリング もつぱら話題は政治とか核実験、そして核実験から発生する放射能などについてのものでした。私が記憶しているかぎりでは、博士と私はすべての点で意見が一致しました。
 シュヴァイツアー博士は、大気圏核実験禁止の請願書に署名してくれました。たしか全部で三回署名してくれたと思います。請願書を目にするたびに、それに署名し、私に郵送してくれたのです。
 池田 シュヴァイツアー博士について、先ごろ(一九八七年二月、私がお会いしたカリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部のノーマン・カズンズ教授は、「博士の仕事に取り組む姿勢には、自分の精神と肉体を生かして使おうという奔流のような内部の要求があった。そして博士のユーモアは重労働の病院の部下たちを励まし、自分もその雰囲気のなかで新しい活力をつくりだしていった」と紹介されていました。
 博士の足跡についての評価は分かれるにしても、五十年以上にわたってアフリカで医療にあたり、九十歳まで長寿をまっとうしたその人生からは、仕事をとおして自分の可能性を生かしきっていった強靭な精神力がうかがえます。
 ポーリング シュヴァイツアー博士は私の妻とも話をしましたが、それは夕食の席だけでした。私との毎晩の語らいには妻を呼びませんでした。
 アインシュタイン博士の場合はいつも妻を招きましたから、この点ではシュヴァイツァー博士のほうが古風な考え方をもっていたといえるかもしれません。しかし、そんな古風なおもむきを私はむしろ好ましく思ったものです。
 シュヴァイツアー博士は、私に数日間、スクラップブックを貸してくれました。そこには世界情勢に関する新聞の切り抜きがはってあり、博士自身のコメントが書きこまれてありました。
 こうして個人的にシュヴァイツァー博士と接することができ、私が大半の人々と同様にいだいていた博士に対する高い評価が実際に確認された思いがしました。博士は黒人の健康増進のために献身しておられました。
 また、博士は黒人が自分と対等でないと思っていたことも明らかです。博士は、黒人の教育向上や生活様式を変えるための努力はほとんどしませんでした。
 池田 その他、個人的に交流した方で、とくに印象に残っている人物、忘れられない人はいますか。
 ポーリング もちろん、バートランド・ラッセルもたいへんに尊敬しておりました。
 科学について、あまり多くは彼と論じることはできませんでしたが‥‥。ラッセルは化学については知らず、彼の科学における知識は、物理学や化学より、むしろ数学や哲学に関するものが主であり、彼のこの姿勢を私は好ましく思いました。
 他にも多くの知人がおります。ソ連、ドイツ、フランスなどの国々の科学者たちですが、私が尊敬する人々、私になんらかの影響を与えてくれた人々の数は、あまりにも多すぎるために、その人々の名前をすべてあげることはできないほどです。
 池田 博士の人生の豊かさを物語っていますね。偉大な友人をもつことは偉大な歴史となり、偉大な思い出となる。それは人間としての偉大な幸福であるにちがいありません。
9  創造と活動の源泉
 ポーリング 研究活動については、かなり早い時期から、自分は化学の分野では良い仕事をしていると自認しておりました。私が三十六歳でカリフオルニア工科大学のゲイツ・アンド・クレリン化学研究所の所長と化学・化学工学科の主任教授に就任することは、私自身、妥当であると思いました。私が化学に重要な貢献をしていることは、私自身にも、また他の人々にも、明らかでした。
 私がつねに心がけていたことは、学生たちや同僚といっしょに、宇宙の性質をより多く知るうえで最大の効果をあげるように、研究をつづけなければならないということであったと思います。
 また化学・化学工学科で決定すべき事柄を自分一人で決定しようとせずに、同僚の教授の参画を求めるべきであると考えておりました。私がつらぬいた方針は、権限を同僚の教授に委任することと、教授たちが委任された権限を行使することにいっさい口をはさまないということでした。私のほうからこうした決定をしたために、私は自由に自分の時間とエネルギーを、科学上の諸問題の解決にそそぐことができたと思います。
 池田 さすがです。人間関係へのすばらしい配慮と寛容さが感じとれます。
 次に、二十一世紀へのメッセージを。そして、青年に対する期待が何かあれば‥‥。
 ポーリング 現在、人類はかつてない画期的な歴史を開こうとしています。戦火のない世界――大戦争はもちろん、小さな争いにいたるまで、ありとあらゆる戦乱と、その脅威を根絶する可能性を、現代はもとうとしています。その時代を生きることが、いかにすばらしく、幸せなことであるか。そのことを、私は人類に訴えたい。
 また、民衆を苦しめる戦争を防止するのは、私たち一人一人の課題です。ほかのだれの責任でもない。ですから、とりわけ青年に対して、″地上から戦争を追放することを自身の責務とせよ″と呼びかけたい。
 池田 感銘深い言葉です。人類の将来に対する大いなる提言と思います。
 さて、博士がビタミンCという新たな分野の研究を始められたのは、六十歳を過ぎてからだとうかがっております。今日にいたるまでいわば超人的な活躍をされている、その創造と活動の意欲の源泉はなんでしょうか。
 ポーリング 私の興味と科学的研究の方向性について、約十年ごとに重要な変化がありました。一九三〇年ごろ、私は鉱物や他の無機化合物の研究から有機分子の研究へと切りかえました。
 三五年ごろ、私は人体に存在するタンパク質やその他の高分子の構造に興味をもち始めました。そして三六年には、抗体と血清反応の性質に関する問題の研究を開始しました。
 四五年、私は分子病があるのではないかとの発想から、鎌状赤血球貧血を分子病とみなす理論を構築しました。
 六五年、原子核の性質の問題について十年ほど研究した結果、原子核に関する新しい理論をつくりだしました。
 同じく六五年ごろにはビタミンに好奇心をそそられ、六八年には今日、分子矯正医学(orthomolecular emdicine)と呼ばれている学問の基本原理を樹立したのです。
 ここ十年以上にわたって、私は宇宙の性質について、少なくとも、いわゆる物理的宇宙のあらゆる面についての膨大な知識体系を構築してきました。たくさんの雑誌や本を読み、そのなかでなにかの理由で私を驚かせたり、私の興味を引く説明に出あうと、それが私の描いている宇宙像におさまるかどうかを追究します。
 収まれば、私は満足です。もしあてはまらない場合は、まずその説明が間違っているのかどうか、もし正しければ、その説明が宇宙の構造についてなにか新しい情報を得る基盤となりうるのかどうかを検討します。こうした方法で思索してきた結果、私はいくつかの新しい概念を生みだすことができたのです。
 宇宙の性質という総合的な問題に関連する個々の問題を解決しようと研究をつづけているのは、私の好奇心のせいであると思います。
 池田 今、「十年ごとに変化があった」と言われましたが、私も大組織の責任ある長として、十年を単位に何らかの目標をもって生きてきました。
 それはそれとして好奇心とは、ある意味で心の若さの異名といえます。優れた仕事をなしとげた人は、深い年輪とともに青年のような旺盛な好奇心と豊かな感受性をもちつづけているものです。
 お話をうかがっていて、私はかつて対談した世界的な医学者ルネ・デュボス博士が、「大人にみずみずしい感受性をとりもどす適切な技術が開発されるなら、青春の泉という古い昔の夢は新しく豊かな意味をもつ」(『人間であるために』野島徳吉・遠藤三喜子訳、紀伊国屋書店)と論じていたことを思い起こしました。二十一世紀とは、なによりも人間精神の創造性が求められる時代ではないでしょうか。
 そこで、博士が言われた宇宙像ということですが、これについては二十世紀の大化学者である博士に、ぜひあとでうかがいたいと思っております。

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