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日蓮大聖人・池田大作

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後記  

「21世紀への人間と哲学」デルボラフ(池田大作全集第13巻)

前後
1  西洋をはじめ各国には、その国や文化の“魂”や“良心”を代表するような人物がいる。そうした世界の人々とのほんとうの意味での深い対話を、質量ともに池田SGI会長ほどのスケールでおこなった日本人は、日本の歴史のなかでもそう見当たらないのではないだろうか。「地球文明」の理念から、世界的な文化交流を積極的にすすめたフランスの作家、文化大臣アンドレ・マルローのつぎの言葉は、世界的なスケールでの対話や交流の大切さを端的に述べている。やや長くなるが、紹介しておきたい。
 「重大なことはこの世界がその上に生きのび得るような諸価値が、存在するか否かである。古い歴史をもつ諸文明が互いに接触しあい、認識しあわねばならない理由が、そこにある。過去を再発見することが、目的ではない。未来をいっしょに創造するためである。(中略)すでにはじまろうとしている新しい文明は、自由意志と社会の正義とを、いかにして両立させ得るのか。古い諸文明は、理解しあわなければならない」(村松剛『評伝アンドレ・マルロオ』新潮選書)
 ここで言う「自由」とは主として西側社会の、そして「正義」とは社会主義社会の価値理念を指している。マルローの生きた世界では、東西世界がはげしく対立していた。この左右の思想が対立に終わらずに、むしろ両立していくには、おたがいの交流や触発が必要であると同時に、第三の価値理念との対話も必要であり、そこから新しい光も見いだされるのではないか。マルローが「古い諸文明は、理解しあわなければならない」と言うのは、そういう意味であろう。
2  池田SGI会長がこれまでにくりひろげてきた世界的な行動は、まさにこうした「古い諸文明」同士の対話交流として位置づけられる。それぞれの文明・文化の底流をなす思想や価値観に対して、仏教思想という東洋文明の光をもって照射する。それは、マルローの言うように、たんなる過去の発掘でなく、未来のために人類的な価値を見いだそうという作業である。
 もとよりそれが、仏教思想をもって世界を教化しようという独善的な試みでないことは、言うまでもない。マルローも「アジアはわれわれに、何らかの教えをもたらすことができるだろうか。私は信じない。それはむしろ、ヨオロッパの存在を、発見させてくれるのである」(同前)と述べているように、西欧と仏教思想との対話は、西欧の価値の再発見であり、同じように東洋の思想も、西欧の光をあびて、人類的な思想としての位置を確認することができる。そのための文明と文明の触発なのである。
3  今回発刊の『池田大作全集 第十三巻』は、ボン大学名誉教授であったヨーゼフ・デルボラフ博士との対談『二十一世紀への人間と哲学』を収録している。対談編としては九冊目の刊行となるが、本全集への収録にあたって、翻訳、および表現上の正確さを期して単行本に若干、修正がくわえられ、さらに注を付しておぎなった個所があることを、ご了承ねがいたい。
 デルボラフ博士は、一九一二年、ウィーンに生まれた。ウィーン大学に学び、一九五五年にボン大学の哲学、教育学の正教授に就任。ドイツ教育学界における教育哲学の中心的な存在であった。SGI会長との対談は、一九八一年(ドイツ)、八二年(東京)、八三年(ドイツ)と回をかさね、往復書簡にも引き継がれての展開となった。ニュフェンブルガー社からドイツ語版が発刊されたのは一九八八年三月、日本語版は翌八九年に出版された。
 このドイツ語版のタイトルは『新しい人間像を求めて』となっている(英語版も同じタイトルで九二年に発刊。さらにこの年、中国語版、翌九三年にタイ語版が刊行された)。新たな人間像を求めることは、すなわち新たな世界像の探求にほかならない。それはおのずと、思想原理の探求へとすすむ。対談は、日独双方の歴史や国民性の比較を手はじめに、教育や環境・公害問題にいたるまで、広範な問題について語りあわれているが、なかでもヒューマニズムの問題について掘りさげた議論が展開されている点が注目される。
4  ヨーロッパのヒューマニズムは、古代ギリシャ・ローマに源をもち、イタリア・ルネサンスを契機に息を吹きかえし、近代ヨーロッパにおいて制度として確立され、二十世紀の世界では、自由主義と社会主義のヒューマニズムへと展開した。しかし、この現代の西洋型のヒューマニズムはいずれもが行き詰まり、または完全に崩壊している。いまや、人間性の回復が新しい時代的要請であることは疑いないところであり、世界は新たなルネサンスをとげなければならない時を迎えている。では、その核となるヒューマニズムはどのようなものであるべきか。
 対談では、西洋的ヒューマニズムと仏教的ヒューマニズムとの比較検討をとおして、西洋のヒューマニズムの限界を明らかにしつつ、仏教思想が新しいヒューマニズムを拓く可能性についてふれていく。仏教のヒューマニズム的な側面は、西洋思想と比較してこそ、その優れた特質がより鮮明になっていくのであり、この点でも、東西思想の語らいの意義は深いといえよう。デルボラフ博士が「あなた方は、けっして近代性の全体系を疑問視しているわけではなく、むしろ、その人間的な運用を訴えておられるのだと思います」と述べているのも、ここでの対談の性質をより的確に認識した発言といえる。そのうえで博士は「そこで、そのための確かなる指針が、仏法の教えにあるというのがあなたのご意見ですが、私としても、その確信に異議をとなえるつもりはありません」と述べている。そして人間はつねに自己の弱さと対決しているのであり、それに負けないための信仰であること、またヒューマニズムは所与のものではなく、自己変革とともにあるのであり、それは人間教育の問題でもあることも指摘する。
5  ついで「倫理と宗教の役割」については、SGI会長が、キリスト教の倫理観は神中心で他律的であるが、仏教では自己の内面を重視していて自律的であると、まず両者のちがいを明らかにしたのに対して、デルボラフ博士は「私の理解が正しいとすれば、仏教は、キリスト教とは正反対に、人間解放の穏健な宗教だと思います」「イエスがあらわれたのは『旧約聖書』の律法を解消するためではなく、それを実現するためでした」と応じている。そのうえで、自身の幸福をめざすだけでなく、他者の幸福をもめざすべきであり、利己のために他を犠牲にしてはならないということ、すなわち、自己完成とは、自分自身に集中することだけでは成しえず、かならず他者に向かうことを要するのであり、これは東西いずれの思想にもあい通じている倫理規範であることを、たがいに確認しあっている。SGI会長は、こうした倫理観の肉化のためには仏教の実践が要請されることを語る。
 二人の対話は、ヒューマニズムや倫理観の根本にある、キリスト教と仏教そのものの差異の検討へとすすんでいく。SGI会長は、両宗教の共通点として「人間を物質的・社会的欲望を超えた精神的欲求へみちびいた」点にあるとし、博士も「愛とか慈悲とか、その内面的推進力をどう名づけようと、キリスト教徒も仏教徒も、その心はとくに貧しい人、弱い人に向けられています。両宗教はともに人間の実存的苦悩と脆弱さを――仏教はさらに人間以外の自然のそれをも――考慮に入れ、救いだそうとしたのです」と述べて、ここでも「自己の精神的完成」と「他者への慈悲(愛)」の両面の必要性を、おたがいに強調している。
 「法か人格神か」の問題は、両宗教の一番のちがいとして取り上げられている。法と仏陀の関係について、SGI会長は明快な議論を展開する。博士が、キリスト教の教義の変遷にふれつつ、法の概念に近いものが教義の一部にも見られることを指摘し、逆に、神の意志と人間の自由意思とのあいだに存在するジレンマに言及した際、SGI会長は、自分という存在が神の賜物であるとすることと、自身の仏性を自身で自覚する点とに、大きな相違点があることをかさねて主張している。
 仏教の愛とキリスト教の慈悲との対比や、歴史に見るキリスト教思想への仏教の影響といったテーマに関しては、まずSGI会長が、仏教の基本理念や歴史をわかりやすく解説する。それに対し、これは本書の全編を通じていえる特徴だが、博士の仏教へのアプローチはじつに真摯であり、その該博な仏教理解が、対話全体をいっそう味わい深いものにしている。その意味では、この二人の知性の対話は、キリスト教との相違点や共通点を追求するなかで、仏教思想のアウトラインを知り得る、“良き仏教入門書”として読むこともできるだろう。
6  両者は最後に、二大宗教の対話の重要性について確認していく。SGI会長は、アーノルド・トインビー博士が「今から一千年後の歴史家が、この二十世紀について書く時がくれば、自由主義者と共産主義者の論争などにはほとんど興味をもたず、歴史家が本当に心を奪われるのは、人類史上初めてキリスト教と仏教とが相互に深く心を通わせた時、何が起こったか、という問題であろう」と語ったことを紹介している。デルボラフ博士も、両宗教体系が、たがいに対話することに寛容であるべきこと、そして、おたがいに「自己批判」するところまで比較と批判を深めていくことで、対話を実りあるものとすることができる――と語る。
 本対談では、「自己批判」は、博士の発言にそってキリスト教の側に多くみられる。現代世界をおおう物質文明は西洋のものであり、現代世界における近代化とはそのまま西洋化を意味している。その西洋化と近代化が行きづまっているとすれば、これに豊かな生命を吹きこむものは、西洋文明に批判的な思想や文化伝統をもつ側から送りだされなければならない。その意味から、西洋文明の基底をなすキリスト教と、東洋の仏教とのこの対話は、実り豊かな果実へと熟成させる第一歩となったといえるだろう。
 二人の認識は、両宗教が、自己完成をめざしている点では共通しており、自己の悟りの追求のみに終始することなく、そこに説かれる「最高の境地」が現実から逃避したものであってはならない点をしっかりとらえている。悟りや最高の境地が、現実を超えた「彼岸」だけにあるのでは、それは逃避の思想におちいってしまう。「彼岸」への極端な思想は、「死」へと向かいかねない。現実の「此岸」へともどれる思想であり、「生」へと向かう思想でなければ、人間が現実のなかで豊かに人間性を発揮することはできない。まして、世界が直面している諸問題を解決する力となることも不可能であろう。現実から逃走することのない絶えざる挑戦・現実のための思想であるべきことを、両者は確認している。
7  日本も世界も、新しい世紀を目前にして、激動と混迷のなかにある。闇は深いと言わなければならない。この闇は思想の混迷と、精神の荒廃によってもたらされているといえるだろう。故に、思想を手がかりに前進する以外にない。人間の歴史も、激動の時、釈尊のように、キリストのように、精神の泉を大地深く掘りさげる人の力業によって回転してきた。個人にとっても、この乱世においてこそ、自己の内面に眼を向け、自身の内なる精神の泉を発見し、揺るぎない自己を確立していく作業が大切である。そのために、仏法の視点からキリスト教の文明や思想に光をあてて考察する本書は、読む人に豊かな示唆をもたらすにちがいない。
    一九九五年九月十二日

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